童門冬二著書
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         小説北畠親房

■天皇の後継は神器より天照大神の子孫

<本文から>
 親房は膝をすすめてきいた。思いつめた表情だ。
「大切なことと思われますので、敢えて伺います。おそれながら、そうなりますと、いま、お手許に安置されております神器と、恒良親王さまにお渡しになる神器とのかかわりは、一体いかがあいなりましょうか?」
 これをきくと天皇は急に、
 「はははは」
 と笑い出した。親房は笑わない。天皇は笑い続けた。笑みを失わずにこういった。
「親房、そなたは恒良には偽器を渡すのではないか、と疑っているのだろう?」
「さようでございます。あるいは、こちらに安置されている神器が偽器かと……」
「普通に考えればそうなる。神器が二組あるはずがない。いや、光明にも渡さねばならぬから、神器は三組あることになる」
「何と仰せられます?」
 親房はびっくりした。
「それでは光明帝と和談なされても、帝も依然として神器をお持ちになると?」
「そのとおりである」
 天皇は領いた。
「…!?」
 親房は理解に苦しんだ。天皇の話が全くわからなかった。一体、何を仰せられているのだろう、と不審に思った。天皇は真顔になった。
「親房、たとえ偽器であろうと、正統の天子がこれを保持すれば、それは真器になる」
「は?」
「私は正統の天子だ。したがって、私の持つ神器は、全て真器である。私以外の者が持つ神器は全て偽器だ」
見返すと、すさまじい光を目から放っている。親房は気圧された。そして、胸の中で、
(そうか!)
と思い当った。
(これが帝のご真意なのだ)
と気がついた。
北畠親房は、そう考えてはいない。彼はずっと器にこだわっている。彼の考えは、
「真の神器の保持者が真の天子なのだ。そして、その保持者は必ず天照大神の子孫でなければならない」
 というものだ。これは、いってみれば孟子のいう禅譲と放伐の思想と、親房がいま傾倒している伊勢神道を混合した考えである。親房の考えによれば、日本の天子の位は、必ずしも大覚寺統だけで占めなければならないということはない。つまり、血統の嫡流ということを問題にしない。親房が問題にするのは、
 「その天子に果して君徳があるかないか」
だ。もし、天子に君徳がない場合は、降位も考える。そして、有徳の皇族を捜し出して皇につけることもあり得る、と考えていた。つまり、孟子の、
「王は君徳を持たなければならない。王に徳がなくなった時は、徳のある後継者に位を譲るべきだ。しかし、徳がなくなったにもかかわらず、その王があくまでも位にしがみつく時は、実力を行使してその位から去らせることができる」
という考えだ。孟子は平和裡に位の移転が行なわれることを禅譲といい、実力を行使して位の移行を行なうことを放伐といった。北畠親房の考えには、この禅諌と放伐の論が据えられていた。が、しかしだからといって、後継者を誰でもいいというふうには考えなかった。
 あくまでも、
 「天照大神の子孫でなければならない」
 と厳しい枠をはめる。この辺が親房独特の考えだった。前々から、こういう議論を繰り返してきたので、天皇も親房の考えをよく知っていた.
 (親房は大覚寺統にこだわる私の皇位継承の考えを必ずしも支持していない)
 と思っている。そして、親房の考えは親房だけにとどまっているわけではなく、廷臣や武士の一部にも影響を与えた。

■後醍醐帝の吉野入りをかわす尊氏

<本文から>
「日本は再び大戦になる」
 と、しきりにいわれた。が、こういう状況をみごとに収めたのが足利尊氏である。尊氏は平然としてこういった。
「後醍醐帝が、京の花山院邸においでになると、われわれとしてもいろいろ気を使う。本当のところをいえば、われわれにとっては迷惑しごくなことであって、決して歓迎すべきことではなかった。しかし、だからといって光明天皇に譲位なさった帝を、昔の北条氏のように島や遠い国にお流し申すわけにはいかない。そんなことをすれば、われわれは不忠の臣になってしまう。そういう状況の中で帝はご自身で吉野山におでかけになった。そうなれば、天下はこのまま落ち着く。先帝はよいことをなさってくださったのだ。この後、国がどう治まるかは天の意思による。騒ぎ立てるほどのことはない」
 これを聞いて直義は、
 「先帝という言葉を使っては困ります。廃帝です」
と文句をいったが、尊氏は笑っていた。そして、この尊氏の言葉によって京都の騒ぎはピタリと収まってしまった。
 「さすが尊氏殿の器量は大きい。対応がみごとである」
と誉められた。足利尊氏の評判はいよいよ高まった。それには少し前に、近江や北国を征服して、大量の米を京都に運び込んだこともあずかって力があった。

■子息の北畠顕家の死

<本文から>
北畠顕家が、死を前にしての諌奏文は、吉野山の後醍醐天皇のところに届けられた。天皇は黙って読んだ。そして、黙って読み終った。何もいわなかった。ただ、たたんで自分の手箱の中にしまった。
 延元三年五月二十二日、顕家の軍は南から攻め上った。師直の軍は北から攻め下ってきた。両軍とも避けることなく正面から激突した。はじめのうちは顛家軍の方が優勢だった。が、揉み合っているうちに、また長い軍務の疲れが出た。逆に高師直軍は京都で十分充電してきている。合戦が長びくにつれてその差がどんどん現れた。これを見て足利軍の総大将高師直は笑った。
「戦いをもっともっと長びかせろ。それだけ奴らは疲れが出てくる」
 この作戦は当った。この日の戦いは、堺浜合戦、堺浦合戦、堺宿合戦、堺野合戦、高背浜合戦などと呼ばれている。海戦も行なわれた。喪家は海に船を動員して足利軍を攻めた。ところが足利軍の方も船で応戦した。水上でも激戦が行なわれた。
 顕家軍は各所で破られはじめた。彼は、一瞬、
 (吉野に退いて、再起しようか)
 と考えた。まわりを見回した。手勢はわずかしかいない。
 「吉野山へ戻る」
 そう告げて、顕家は足利軍を突破しようとした。しかし、武蔵国の越生四郎左衛門尉と、丹後国の住人武藤右京進たちに飛びかかられた。激闘の末、ついに首を討たれた。この時、脇についていた名和義孝、同義重、南部師行たち諸将と、その部下百八人が顕家に殉死した。北畠顕家はこの日、二十一歳であった。

■後醍醐天皇は崩御に際して遺勅を受けなかった

<本文から>
吉野山の廷臣の中ではもっとも位が高い。しかし、彼は昔から北畠親房と対立していた。親房のことをよく、
「卿は有職故実が、そのまま衣冠束帯を召されているようなものだ」
 とからかった。つまり、宮中のやかましい掟や行事のしきたりについて厳しすぎるというのである。融通性のある政略家でないということだ。しかし、そういわれることをむしろ誇りに思っていたから親房は笑っていた。それがいまは、
「親房卿は梟卿だ」
といっているという。ほめ言葉ではない。東国に漂着以来、一体何をしているのかわからない親房のじっと待っている姿を椰輸しているのだ。昔の日和見とみていることは明らかだ。
 報によれば、後醍醐天皇は崩御される前日に、近衛経忠の屋敷で義良親王に三種の神器をお渡しになったという。践詐の式を経忠の屋敷で行なったのだ。そうなると、おそらくご遺勅は経忠が主として聞き取り、四条や洞院にいろいろな指示を出したに違いない。
 (が、たとえそうだとしても、帝は私に対するご遺勅をお忘れになるはずがない)
 親房はそう思っていた。もちろん、ご生前にいろいろ賜ったお言葉や、ご指示がそのまま生きているのだから、それがご遺勅だといえばいえないことはないが、しかし崩御の際は別である。やはり何か特別のお言葉がほしい。まして、帝と親房の間柄だ。何もお残しにならなかったはずはない。親房はそう思っていた。
 しかし、それはむなしい期待だった。いつまで待ち続けてもご遺勅はこない。親房は次第に諦めはじめた。限りない淋しさをおぼえた。いまいる小田城が、海中の孤島のように思えはじめた。吉野丸という船に乗っていた先帝や、新帝や、近衛・四条・洞院たちの廷臣もみんなどこか遠くの沖合へ行ってしまった。親房だけが取り残された。いくら声をあげても、船は振り返ってもくれない。
 (ご遺勅は、ついに私にこないのか)
 親房は泣きたい思いを噛みしめた。
 そういう思いが日々つのりはじめた。たまらない孤独感がつのった。そんな時、気をしずめるために笠を吹いてはみたが、心はうつろだった。したがって、その音はまわりの人々には異様に響いた。小田城内の将兵たちは、時折、親房が吹き鳴らす笠の音で慰められた。励まされた。その意味では、かつて後醍醐天皇がいった、
 「そなたの笠の音は、人々を魅きつけ、力を湧かせる。そなたが笠を吹く時は、そなたが吹くではなく朕が吹くのだという気持で、多くの勤皇方の将兵の意気を高めてほしい・・・」
 という言葉が生きていた。それがここのところ曇った。原因は親房の心のうつろさにあった。彼の日増しにつのる絶望感が、笠の音を曇らせていたのである。

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