童門冬二著書
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           決断 蒙古襲来と北条時宗

■一所懸命の思想、土地への執着

<本文から>
「それに対し、一朝事ある時は鎌倉に駆けつけて、御奉公する」
 ということだ。顎足自分持ちで軍役に服すということだ。これがすなわち、”いざ鎌倉"である。そしてこの
”いざ鎌倉″を支えたのが、
「一所懸命」
の思想だ。一所というのはもともと土地のことだ。
「一坪でも所有地を増やしたい。自分の土地を奪おうとする奴とは命懸けで争う」
 というのがこの考え方だ。鎌倉時代の武士たちが、
「至上の財産」
と考えたのは、あくまでも土地である。もちろん土地だけ貰っても仕方がない。土地を与えるということは、そこに住む農民をも一緒に与えるということだ。つまり、
「土地と農民の支配権」
が知行だ。この知行の拡大を求めて、鎌倉時代の武士たちは必死になった0したがって、欲望のすべてが土地にあり、争いというのは、
「土地保有の争い」
である。もちろんこの当時の武士たちには、学問とか教養とかはそれほどなかったから、ただひたむきに、
「土地への愛着・執着」
だけが、かれらの生き甲斐だったのである0そうなると、これらを束ねる立場にあるものは、当然、
「全国武士の土地への執着心を、いかに満たして行くか」
 ということが、いわば、
「日本の武士管理の基礎的要件」
になる。

■南宋の僧が亡命者の煽動で元憎しの情報がもたらされた

<本文から>
 早くいえば、南宋から日本に渡って来た僧たちは、時期の早い遅いはあっても、すべてが、
「亡命者」
 といっていい。故国に住めなくなり、また住みたくなくなったので、日本にやって釆たのだ。そうなると、かれらのもたらす情報にはどうしても色が付く。色というのは、
「モンゴル (元)憎し」
 ということだ。場合によっては、
「日本の武力を借りて、元を滅ぼし、故国を再興したい」
 という愛国心に発展する。したがって時宗の”果断さ”も、無学祖元を代表とする南宋の僧たちの、悪くいえば”煽動”によっていたといっても言い過ぎではない。そして日本に亡命した南実の僧たちが、なぜそこまでモンゴル完)を憎んだかといえば、やはりそれは中国に古代から伝わって釆た、
「中華思想」
 に原因がある。
 中華思想というのは、
「自分の団と民族が、世界文化の中心(中華)である」
 という考え方だ。

■鎌倉幕府滅亡の原因はモンゴルの来襲であった

<本文から>
その後、文永の襲来から六十年後、弘安の襲来から五十三年後に、鎌倉幕府は滅亡する。この滅亡の原因は、実をいえば二回にわたる、
「モンゴル(元)の日本来襲」
にあった。それは時宗が遭遇した二大課題の、
「内憂外患」
の 「外患」であり、幸運にも吹いた大風によって、モンゴル兵(元。文永襲来の時は高麗軍と、弘安襲来の時は、高麗軍・旧南宋軍との連合軍)の乗船していた船がほとんど沈んで、モンゴル(元)軍は敗退した。しかし禍根を残した。それは、
「戦後処理」
 のまずさによる、「内憂」の拡大である。はっきりいえば、
「褒賞の不手際」
による。というよりも、時宗がいくら、
「勇敢に戦った日本の武士に対し、きちんとした論功行賞を行いたい」
と考えたところで、日本にはすでに新しく武士に与えるべき寸土もなかった。したがって、例外はあったが、大部分の日本武士には恩賞が与えられなかった。前述したが当時は、
「一所懸命」
 だけが、日本の武士の価値観だ。日本の武士にとって、土地が至上の財産であった。かれらが命を懸けて、モンゴル(元)軍と戦ったのも、結局は、
「ここで懸命に働けば、必ず鎌倉幕府は褒美をくだきるにちがいない」
 と信じたからである。これがほとんど与えられない。武士の不平不満は次第にふくれあがりやがて沸聴点に達する。これが、鎌倉幕府を倒してしまう。六十年後に建武の新政が実現するのも、この、
「モンゴル襲来時の善戦に対する褒貰の不徹底」
 が最大の原因だ。これが尾を引き、次第に育ち、
「鎌倉幕府は、われわれに御恩をくださらない」
という考えを生む。それが高じると、
「それなら、こっちもご奉公する義務はない」
と幕府を見限ってしまうのだ。

■モンゴル襲来では僧が理論的指導者に。幕末は学者が主導。

<本文から>
 国が危機に陥った、いわゆる国難の時期には、必ず理論的指導者が出現する。モンゴル襲来の時は、僧が主としてこれに当たった。幕末では、僧の活躍はほとんど見られず、学者が主導した。攘夷・開国両派に分かれて、それぞれ際立った論を唱えた。中でユニークな論を唱えたのが肥後熊本の学者である横井小楠である。横井小楠は、越前福井藩主松平春嶽が幕府の政事総裁職になった時に、そのプレーンを務めた。

■フビライは南宋軍を日本で屯田兵にしようとした

<本文から>
モンゴルが元となって、弘安四年に日本に襲来した時、前(文永の役)とは違って、連合軍は元・高麗・旧南宋の三軍で成り立っていた。この中で、最も多かったのが南宋軍である。約十万人いた。しかし、この十万人の旧南宋軍は、一人ひとりがすべて鋤とか鍬などの農工具を持たされていた。また種籾を大量に与えられていた。フビライの考えでは、
「旧南宋軍を食べさせられるだけの力は元にはない。日本に渡らせて、屯田兵にしよう」
と考えたのである。十万人を日本に渡らせようとしたが、実際には中国本土にはまだ他に三十万を越える旧南宋軍人がいたという。フビライが直接指揮する元軍は、数万単位だったろう。かれは征服地の軍をそのまま自軍に取り込んだから、膨大な軍事力になった。それだけに、モンゴルプロパーの軍勢はそれほど多くはない。しかしだからといってそんなことは時宗の気休めには全くならない。それよりも時宗が最も関心を持ったのが、
「日本国では、一体元を迎え撃つためにどれだけの軍勢を動員できるか」
 ということである。これは時宗にはわからない。したがって、かれの側にいて、
「幕府最大の実力者」
 といわれている評定衆の一人安達泰盛の意見を開かざるを得ない。


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