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<本文から> 明治十九年(一八八六)二月、貞奴は、ひそかに若崎桃介の渡米を見送った。押さえても押さえても出る涙をハンカチで拭った。
(どうぞご立派になって、日本にお戻りになって下さい)
心の中でそう言った。我ながら健気な見送り方であったが、その日から貞奴は、荒れはじめた。しかし、彼女の荒れ方は変わっていた。よくある自分の身体をメナャメナャに扱って、男達と浮き名を流すというような荒れ方ではなかった。彼女は、スポーツや趣味の世界に没入していった。乗馬、水泳、柔道、玉突き、花札などに夢中になった。そして、 その合間合間に、冷や酒をコップで飲んだ。わけの分からない理不尽な目に会ったという思いが、貞奴の胸の中で、渦を巻いていた。
(なぜなのさ? なぜなのさ?)
コップ酒に酔うと、くるくる回る頭で、貞奴はよくそのことを考えた。なぜなのさ? と聞くまでもなかった。その理由は、貞奴自身がいちばんよく知っていた。知っていても、どうにもならないから、なぜなのさ? になるのだった。養母の可免は、そういう貞奴をただ痛ましそうに見詰めるだけで何も言わなかった。しかし、胸の中では、(伊藤の御前様に、貞奴のみずあげを急いでもらおう)
と思っていた。
明治二十年(一八八七)、貞奴は、伊藤博文によってみずあげされ、一人前の芸者になった。小奴の小を取り、ただの奴になった。 |
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