童門冬二著書
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          川上貞奴

■若崎桃介の渡米で変わった荒れ方をした貞奴

<本文から>
 明治十九年(一八八六)二月、貞奴は、ひそかに若崎桃介の渡米を見送った。押さえても押さえても出る涙をハンカチで拭った。
 (どうぞご立派になって、日本にお戻りになって下さい)
 心の中でそう言った。我ながら健気な見送り方であったが、その日から貞奴は、荒れはじめた。しかし、彼女の荒れ方は変わっていた。よくある自分の身体をメナャメナャに扱って、男達と浮き名を流すというような荒れ方ではなかった。彼女は、スポーツや趣味の世界に没入していった。乗馬、水泳、柔道、玉突き、花札などに夢中になった。そして、 その合間合間に、冷や酒をコップで飲んだ。わけの分からない理不尽な目に会ったという思いが、貞奴の胸の中で、渦を巻いていた。
(なぜなのさ? なぜなのさ?)
 コップ酒に酔うと、くるくる回る頭で、貞奴はよくそのことを考えた。なぜなのさ? と聞くまでもなかった。その理由は、貞奴自身がいちばんよく知っていた。知っていても、どうにもならないから、なぜなのさ? になるのだった。養母の可免は、そういう貞奴をただ痛ましそうに見詰めるだけで何も言わなかった。しかし、胸の中では、(伊藤の御前様に、貞奴のみずあげを急いでもらおう)
 と思っていた。
 明治二十年(一八八七)、貞奴は、伊藤博文によってみずあげされ、一人前の芸者になった。小奴の小を取り、ただの奴になった。
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■川上音二郎と結婚

<本文から>
 明治二十七年(一八九四)、貞奴は、川上音二郎と結婚した。正式の結婚である。仲人は、貴族院議員の金子堅太郎が務めた。
 金子堅太郎は、青島で、憲法草案の作成に努力した仲間の一人であり、伊藤博文の腹心であった。川上音二郎と同じ福岡県の出身である。藩の侍で、明治四年(一八七一)には、留学生としてアメリカに渡っている。その後、書記官として元老院に入ったが、このとき、伊藤博文に知られた。井上毅、伊東巳代治とともに伊藤門下の三天狗として知られた。
 憲法草案の起草に当たっては、特に付属法の制定に貢献したという。後に、第三次伊藤内閣(明治三十一年(一八九八)一月十二日から六月二十五日まで)で、農商務大臣を務め、第四次伊藤内閣(明治三十三年(一九〇〇)十月十九日から明治三十四年(一九〇一)五月二日まで)で、法務大臣を務めた。枢密顧問官にもなる。法律家であったが、演劇改良運動に特に関心をもっていたから、親分の伊藤博文や、西園寺公望あるいは、土方久元などと明治二十二年(一八八九)に設立した日本演芸協会の賛助者でもあった。
 貞奴は二十四歳、川上音二郎は三十一歳であった。新居は、神田駿河台に設けた「一部屋数十五、庭まで付いた大きな家だった。そこで、音二郎の門弟達もいっしょに仕むようになった。
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■渡米

<本文から>
 神戸に着くと、音二郎は血を吐き続け、全身が蒼白になっていたという。すぐ入院した。病院には一カ月半いた。このとき、川上音二郎は、一人の国際興行主と知り合った。櫛引弓人である。櫛引は、かなり前にアメリカに婚って、アトランティック市で、日本庭園を経営して大当てに当てていた。こういう東洋趣味がアメリカ人に受けたらしい。
 庭で当てた櫛引は興行をもくろんでいた。川上音二郎と貞奴の名は前から知っていた。それが、突然、身体を悪くして、日本丸という小さなボートで神戸に上陸したから、櫛引はじっとこの二人を見詰めていた。だんだん様子を窺っていると、早くいえば、川上夫妻は、借財のために夜逃げ同様にして東京から逃げてきたようだ。船賃を出してやれば、あるいは、アメリカに行って公演するかもしれないとふんだ。
 話をした。川上音二郎は、すぐに飛びついてきた。貞奴にも否やはない。貞奴もまた、いまから束京に帰るのはうんざりだった。帰ってもどうせ高利貸しと、文句ばかり言う座員が待っている。せっかく建てた川上座も、すでに高利貸しの手に渡り、所有権が移ってしまった。川上座は、やがて改良座と改称される。
 「行きましょうよ」
 貞奴は言った。音二郎はうなずいた。
 「そうしよう」
 明治三十二年(一八九九)四月三十日、川上音二郎・貞奴夫妻は、アメリカに出発した。神戸からゲーリック号という船に乗った。が、二人だけではなかった。この話を聞きつけた座員や、新規加入者があったのだ。出発の前、音二郎達は、神戸の相生座や大阪の中座、あるいは京都の南座で公演した。各唾とも満員札止めの盛況になった。ボートで洋行するという宣伝と、実際に神戸までの四カ月の航海がものをいったのだ。たいへんなPRになっていた。
 洋行のスタートとしては、とても幸先がよかった。門弟達が神戸に集まってきた。関西にいた俳優達も合同して、送別公演が催きれた。船賃は、櫛引がもってくれると言ったが、音二郎・貞奴側も一応の渡航資金を手にした。新しく貞奴の兄、小山蔵吉が衣装方として参加した。蔵七は、七年前に師の娘であり妻であった冬を亡くしていたから、傷心を癒すためにも、この洋行に加わりたかったのだ。洋二郎の弟で、十五歳の磯二郎というのと、十二歳になる蛭のつるが子役として参加した。一行は十九人であった。
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■ロンドンでの興行の大成功

<本文から>
 ロンドンでの興行は、はじめから苦労しなかった。音二郎と同郷の海軍少将上村彦之丞がロンドンに来ていたので、上村が積極的に後援してくれた。上村彦之丞がロンドンに来たのは、イギリスから買ったあさひ″という軍艦を受け取りに来ていたのだ。
 しかしそれ以上にものをいったのは、何といっても、ボストンで貰ったイギリスの名優アービングの添書である。川上音二郎は、この添書を武器に、ロンドンで一流のコロネット座での上演を確保している。開演は六月十五日からだった。演し物は、『児島高徳』『袈裟御前』『芸者と武士』の三つであった。
 この中で、『芸者と武士』というのは、実にいい加減な芝居で、最初の部分は貞奴の『道成寺』の踊り、後はドラマで、名古屋山三と不破伴左との恋の鞘当てが織り込まれていた。しかし、それは、貞奴の当たり狂言になっていて、アメリカの各地で最も人気を博していた。
 コロネット座でも、最も受けたのがこの『芸者と武士』であった。音二郎が受けたのは、主に切腹の場面であった。つまり、ハラキリである。アメリカでも、彼がリアリティをもたせて、血に見立てた塗料をどくどく流しながら、立ち腹を切る場面は、ヤンヤの喝采を受けた。ひどいもので、川上音二郎は、観客を喜ばせるために、『児島高徳』も『曽我兄弟』も、みな腹を切らせてしまった。メナャメチャである。
 コロネット座の大成功を聞いたイギリスの上流階級は、先を争って川上芝居を観にき、貞奴の妖しい美しさに陶然とした。その評判を聞いたウェールズ親王殿下が、
 「王室で日本芝居を観たい」
 と申し込んできた。音二郎と自奴は、飛び上がって喜んだり
 「さすがにイギリスの王室は違う。おれ達を河原乞食と罵って、おれを国会議事堂に入れなかった日本のやつらとは、まったく考えが違うのだ。こんな嬉しいことはない」
 と手を取り合って喜んだ。
 当日、一座の男達は、全員新調のフロックコートで、パッキングム宮殿に行った。貞奴は派手な裾模様の紋服に金欄の丸帯を矢の字に締めていった。日本協会の副会長アーサー・テオンー氏か先導した。バッキンガム宮殿の中には、庭先に舞台と花道が仮説されていた。ちょうどパリで万国博覧会が行われていたので、日本出品の岐阜提灯をたくさん買い込んできて、庭内にくまなく吊してあった。柱や天井には、一面に真っ赤なビロードが張りつめてあった。見物席には、すでに王室一族と、貴族、大官の紳士淑女が集まっていた。
 演し物の最初は『児島高徳』であった。アメリカでは、主演者の音二郎が大統領に聞いたように、恋に現を抜かすことにかけては、日本人は、アメリカ人にかなわないが、日本人はまだ天皇や主人に対する忠誠心をもっている、その代表が『児島高徳』だ、と説明したが、アメリカ側ではよく理解できなかった。一人の個人に、たとえ王であろうと、どうしてそこまで忠誠心を尺くすのか、ということは彼らの民主主義にはないことであった、
 が、この王室への忠誠心は、イギリス人にはよく理解できた。そこで『児島高徳』はたいへんに受けた。特に音二郎演出による高徳のハラキりは、イギリスの王室一族や貴族達を感動させた。
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■福沢桃介との同棲

<本文から>
 福沢桃介は、この頃、自分の事業を次第に電力関係に絞り、愛知電機鉄道株式会社社長、名古屋電灯株式会社社長などを兼ねていた。彼は、日本の電力王を目指して、木曽川の水力発電に手をつけていた。
 桃介が、貞奴と同棲したのには、この事業欲を満たすという意味も含まれていた。貞奴のような手腕のある女が側にいてくれた方が、自分の事業が発展すると考えていたのだ。貞奴は、そういう桃介の気持ちを恐らく知っていたろう。が、彼女にすれば、桃介との同棲は、ようやく得た、いわば、
「桃の花の咲く里での小さな幸福」
 というべきものであった。貞奴疲れ果てていた。音二郎が生きていたうちもそうだったが、心にもない演劇に引きずり込まれ、音二郎が死んだ後も、とにかくいままで頑張ってきた。最後は、男のよく言う、
 「悠々自適」
 の生活が、何年かあってもいいじゃない?という気持ちになっていた。
 そうなるためには、やはり支えがいった。支えとして選んだのが挑介であった。
 が、挑介といっしょに住むようになってから、貞奴は、果たして、願っていたものが得られたのかどうか疑問に思うことがあった。疑問に思うというのは、桃介の深い愛情が感じられなかったということではない。桃介は、依然として貞奴に優しくしてくれた。思いやりもあった。むしろ、挑介が引き気味で、自由を立てたこ世間から見れば、大実業家が、芸者あがりの女優と住んでいれば、その批難はすべて貞奴にいく。しかし、桃介は庇った。そういう批難が、逆に自分の方にくるようにしむけた。
  桃介も腹をくくっていた。そういう心根は貞奴にもよく伝わった。しかし、どこか違うのだ。その遠いは何からくるのだろう。連和感は桃介も気がついた。よくこういう会話をした。
 「貞さん、おれ達はいっしょに住むようになったが、こういう関係というのは、いったい何だろうね」
 「そうですね、何でしょうね」
  答えながら、貞奴はその答えを知っていた。貞奴の心には、依然として音二郎が住んでいた。音二郎を忘れることはできない。生きている頃、音二郎は、演劇運動に夢中で、人間の問題として、あるいは二人だけの男と女の問題として、貞奴とそういう話をすることはなかった。演劇改革の潮流の中で、抜き手を切って泳ぎながら、ついてくる貞奴を時に見返り、
 「大丈夫かい?」
と聞くくらいが関の山だった。
 その頃の貞奴は、逆に、
(あたしが本当に好きなのは、桃介さんだ。音二郎さんとは、仮の緑であって、いつか、あたしは本当に好きな桃介さんのところに行く)
 と思っていた。しかし、いま、実際に桃介といっしょになってみて、本当にそうだったのかどうか、貞奴は自分の心を疑うことがある。互いに本当のことを胸の底に抱きながら、挑介との生括が、仮のものに思えてくるのだ。
 (あたしは、とことん音二郎さんに参ってしまっていたのかもしれない)
  よくそう思う。桃介もその辺を感じているのではなかろうか。要は、二人とも年をとっていた。
▲UP

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