童門冬二著書
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          小説川路聖謨

■川路は幕閣内を巧妙に泳ぎぬき挫折知らずの経歴

<本文から>
 そういう選ばれた集団の中にいて、川路には必ずしも、集団の中にしつらえられた自分の座の坐り心地がよくなかった。
 「駄洒落の川路」
といわれる川路には、もうひとつ、
 「洞ケ峠の川路。狡聖」
 のあだ名がある。山崎合戦の時に洞ケ時に布陣して、どっちにつくか形勢観望していた、風見鶏の筒井順慶になぞらえられている。
 川路が今計まで幕閣内を巧妙に泳ぎぬき、親分をつぎつぎと替え、およそ陽かげになど入ったことのない、挫折知らずの経歴に対してそういうのだろう。
 それも、政変の都度、かれの親分が政敵に倒され、失脚し、その周囲にいた子分たちも軒並み逐われても、かれひとりはいつも生き残ってきたからだ。生き残っただけでなく、かつての親分の政敵に逆に昇進させられる、という経歴を綴ってきた。老中の大久保忠真、水野忠邦、真田幸貰、阿部正弘、と、かれを重用した親分はすでに四人いる。それに、川路は難問題の処理を命ぜられると、その解決を引っぱれるだけ引っぱる。そして相手が根負けしたのを見計らってドサクサまぎれに解決してしまう。自分でいう"ぶらかし策"だ。
 そういう処生上の不透明さが、一体どこから発生するのか、実をいえば川路にもわからない。たとえば、出世にしても、いままで川路のほうから、
 「出せさせて下さい」
 などと頼んだことは一度もないからだ。上役が勝手に出せさせてくれる。
 海防掛という、時の実権者阿部老中首座の寵愛集周の一員にかぞえられながら、川路がこの派になめらかにとけこめないのは、そのせいかも知れない。自分の譜諺に品の悪さを感じたり、それを自分の品性のせいにするのも、そんなしこりが心の底にあるためか。
 それに、最年長の筒井につぎ、川路と江川が高年者になる。二人とも五十三歳だ。ほかの連中はまだ皆三十歳台だ。それに才気換発だ。岩瀬肥後守など特に舌鋒鋭く、ほとんどの人間がやりこめられてしまう。阿部はそんな岩瀬を愛情を競らせた温顔でみつめる。阿部は秀才が好きだ。時々、筒井が、
 「こら、岩瀬さん。たしかに理屈はそのとおりだが、もう少し年寄りをいたわれ」
 というようないいかたで、遠まわしに制御する。が、岩瀬が現在の幕府最高の頭脳の持主であることは筒井も認めている。天保十四年(一入四三)の昌平贅の学問吟味にも優秀な成績で合格し、同期に、この席にいる堀や永井がいた。しかし出世は岩瀬が群を抜いている。
 もっとも学問吟味でいえば、川路は十入歳の時に合格している。岩瀬が合格したのは二十六歳の時だ。しかし川路はそんな話をしたことはない。しなくても、岩瀬のほうはとっくに調べているだろう。岩瀬はあきらかに川路を意識していた。 

■ロシア交渉を成功させる

<本文から>
一月四日第六回談判この日の談判は短時間に行われたロシヤ側は大きく譲歩し、「今後日本が第三国と条約を結ぶことがあれば、ロシヤとも同じ条件で条約を結んでもらいたい。また最恵国待遇をロシヤに与えてもらいたい」
 と申し出た。川路は、
 「もちろん、そういう際はそうする」
 と応じた。そして、食事に入り、おおいに歓談した。筒井は何が出されても、無頓着にムシャムシヤ食ったが、川路は、一皿ことに質問をした。川路は古い時計を持っていた。勘定奉行に就任した時に、五両で買った時計である。その時計を見ていたゴンチヤロフは、
 心の中で、
 (あんな時計は、ロシヤでは、もう田舎の寺男でさえ持っていない)
 と思い、ニヤニヤ笑っていた。しかし、そのゴンチャロフは、川路をこう見ていた。
 「彼はすこぶる怜例の人だ。そしてそれを我々との討論においてよく示した。すべての語句、すべての主張、その風采態度に至るまでが、よく、彼のたくましい理解カと鋭い眼力と直覚と老熟さを示していた。もし相手の問いの中に、言葉に積れたことの他に何らかの穏れた意味を持っているときは、彼は無意識に微笑をたたえた。そして、彼の答えは、一切の言うべきことを悟っていて、俊慧の光はその目に閃いた。要するに、今回の一切の討論は、川路一人で行われた」
 また、
 「川路の頓智の才は、巧みにこの厳しい論法を他に転じて、座に居る者を全て、おもわず哄笑させた」
 そして、ゴンチャロフは、単に作家としてでなく、ロシヤ政府の代表者としても、川路が、日本側の全権であったことを喜んでいた。こうして、第一次日魯交渉は終った。ロシヤは、果して何を得て行ったのだろうか。アメリカのペリーに比べれば、はるかに後退し、実となるものは、ほとんどなかったと言っていい。しかし、そうさせたのは、ほとんど川路の力によるものであった。ゴンチャロフの言う、川路語義が巧みに、この厳しい情況を緩和して、ロシヤに対して、ほとんど得るものを与えなかったのだ。
 思えば、この頃が、川路の絶頂であった。

■井伊による左遷

<本文から>
しかし、井伊が追放したかったのは、川路より、むしろ岩瀬ではなかったのか。井伊が目をつけていたのは、この当時、岩瀬であって、川路にはそれほどの憎しみをもっていなかったのではないかと思われていた。しかし、事実はそうではなかった。井伊は、かなり前から川路を嫌っていた。それは、腹心の長野主膳に宛てた手紙の中で、
 「大老に就任してから、諸役人に会った。勘定奉行の川路という男にも会った。川路は、かねがね安い男であり、また悪人だという噂を聞いていたが、顔を見て、事実そのとおりだと思った。俺はあの男が嫌いだ」
 という意味のことを言っている。顔を見て噂は事実だった、というのも井伊らしい言い方だが、井伊の性格からすると、川路のような複雑な性格は理解できなかったろう。井伊は、明快な人間が好きだった。分かり易い人間を愛したのである。しかし、岩瀬のように分かり易い人間は、逆に分かり易すぎて嫌ったのだ。あまりにもはっきりと自分に刃向ってきたからである。
 川路聖謨が、急遽左遷されたのは、実はこの井伊の嫌悪感に拍車をかけ、一時期は、川 路に腹を切らせる、といきまくほど激怒させた事件があったからである。
 それは、左遷の辞令が出る日の三日前、川路は、老中首座の堀田正睦に対して建白書を書いた。建白書の中味は、
 「この際、一日も早く、一橋慶喜さまを将軍継嗣と定めて頂きたい」
 という内容であった。堀田はすでに変心して、紀州慶福よりも一橋慶喜を擁立していたから、すぐ、堀田は将軍家定に見せた。家定は、
 (また、堀田の一橋推挙か)
と不快に思った。しかし、その場は、
 「預かっておく」
 と言って、川路の建白書をそのまま懐に仕舞った。しかし、堀田が去ると、家定はこの建白書を井伊に見せた。井伊は読むうちに、顔を紅潮させ、怒りを抑えた。御用部屋に戻ってくると、井伊はいきまいた。
 「僭上至極である。川路ごとき地位の者がかかる大事なことを建白するとは、一体どういうことか。越権極まりない。すぐ腹を切らせるべきだ」
 御用部屋には、堀田のほかに太田、脇坂という老中達がいた。堀田は、井伊の激盤を見て、しまったと思った。そして、心の中で、
 (上様は、いったい何ということをなされるのだ)
と家定に不信感を強めた。しかし、これは堀田の軽率である。今まで何度も会って、堀田は家定がどういう人間かよく知っていた筈だ。どういう人間かよく知っていた筈だということは、家定が、一橋慶喜推挙に対して、どういう反応を今まで示してきたか、ということを分かりすぎるほど分かっていた筈だからである。家定は、一橋慶喜を嫌っていた。そこへ、またまた川路聖謨の建白書を突きつければ、家定は不快になっただけでなく、それを防ぐために大老にした井伊に、そういうものを見せることは初めから明らかだった筈だ。早く言えば、堀田のために川路は左遷されてしまったのだ。しかし、ここにきて、改めて一橋慶喜を将軍世嗣に確定せよ、と迫る川路の心境変化も、また奇怪であった。
 左遷命令を受けた川路は、すぐ家に戻って自分の家来達にこう告げた。
 「私は、今般お役替えを仰せつけられたが、不行届きの段があって、いかばかりか恐れ入っている。本当は、もっと重いお咎めがある筈だけれども、御仁恵によって転役仰せつけられたのは、家来末々まで御洪恩を厚く心得なければならない。私は格別に相慎むつもりなので、お前達もどうか同じようにしてもらいたい」
 川路の左遷を知った人々は、次々と面会を求めてきた。しかし川路は、ほとんど断った。薩摩藩主島津斉彬も、西郷吉之助を使いに差し向けてきた。川路は西郷にだけは会った。かなりの長時間二人は話し合った。
 西の丸留守居役というのは、高二千石、諸太夫の席である。しかし、俸禄はもちろん、席次も勘定奉行より大いに下がる。具体的に言えば、西の丸留守居役の席次は、勘定奉行より二十位も下がる。同時に、その職務内容は、全く空城の番人であって、仕事がない。言わば閑職に遠ざけられたのだ。

■井伊は岩瀬らも弾圧

<本文から>
 言うまでもなく、この批准訪米は、もともとは、岩瀬忠震の案であり、岩瀬がハリスと約束をして、彼自らが、その任に当るとまで衰語した壮挙であった。しかし、その岩瀬は現在永井と共に禄を奪われ、永蟄居を命ぜられていた。蟄居というのは、昔は、米塩通ぜず、と言って、食料補給も断たれ、また外部との接触を一切断たれる厳刑であった。しかし、この当時は、米塩は通じることを許されたが、しかし、外部との交流は一切禁じられた。井伊の憎しみは、岩瀬と永井に最も深く、その次に川路が位置しでいたと予言。川路は、まだ隠居を命ぜられただけだから、そのまま相続人には禄が行くという程度で済んだが、岩瀬と永井は、生活の種も断たれてしまったのである。このころ、同じような憂き目にあった海防掛の面々は、浅野長祖と大久保忠寛が免職になり、鵜殿長鋭が駿府町奉行を免職払なり隠居差し控えを命ぜられた。また、岩瀬の腹心であった平山謙次郎は甲府にとばされた。この中で、永井や大久保、鵜殿達は、もう一度幕府の要職に就くが、川路と岩瀬は二度と用いられることはなかった。岩瀬は、それから間もなく文久元年(一八六一)の七月十一日に、四十四歳で死ぬ。川路は、慶応四年(一八六八)三月十五日に、江戸城開城の報を聞きながら自殺する。

■江戸開城の日にピストル自殺

<本文から>
 それにひき替え、川路聖謨は、たった一人で、騒ぎ立てず、自分の責任において、ロシヤとの条約を、日本の言いなりに結ばせた男であった。彼は決して、自分の功を誇らず、また愚痴もこぼさなかった。上司に、
 「どうしましょう」
 と、いちいち聞くことは決してしなかった。しかし、そういう自己青任において、事を成す川路は、結局孤独な生潅を綴ることになった。それは、阿部正弘のような開明的、人材登用に特に意を用いた老中にしてもそうであった。阿部もまた、大変だ大変だ、と騒ぐ岩瀬達が可愛かった。自己完結する川路には、一目置きながらも、それだけに親しみを覚えなかった。そういうかつての有り様が、今、中風に悩み、臥床する川路の脳裏を走馬燈のように走っていた。川路は、本当に孤独であった。
 慶応四年三月十四日、旧知の男が川路を訪ねてきた。そして、
 「江戸城も、ついに今日、官軍に引き渡しと相成りました」
と告げた。川路は凝然とした。そのまま床の上で目を閉じて、長い時間考えていた。
 明けて翌十五日、彼は、妻を呼んで、
 「こういう用を頼みたい。足してきてくれ」
と自分の側から離した。間もなく、妻は、川路の居室から一発の銃声を開いた。驚いて部屋に戻ると、川路は、右手に拳銃を持ったまま、すでに息絶えていた。遺体を調べると、腹を短刀で浅く切ってあった。そして、念のためにピストルで自分の喉を撃ち、息の根を止めたのである。川路聖謨は、この日、六十八歳であった。

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