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<本文から>
そういう選ばれた集団の中にいて、川路には必ずしも、集団の中にしつらえられた自分の座の坐り心地がよくなかった。
「駄洒落の川路」
といわれる川路には、もうひとつ、
「洞ケ峠の川路。狡聖」
のあだ名がある。山崎合戦の時に洞ケ時に布陣して、どっちにつくか形勢観望していた、風見鶏の筒井順慶になぞらえられている。
川路が今計まで幕閣内を巧妙に泳ぎぬき、親分をつぎつぎと替え、およそ陽かげになど入ったことのない、挫折知らずの経歴に対してそういうのだろう。
それも、政変の都度、かれの親分が政敵に倒され、失脚し、その周囲にいた子分たちも軒並み逐われても、かれひとりはいつも生き残ってきたからだ。生き残っただけでなく、かつての親分の政敵に逆に昇進させられる、という経歴を綴ってきた。老中の大久保忠真、水野忠邦、真田幸貰、阿部正弘、と、かれを重用した親分はすでに四人いる。それに、川路は難問題の処理を命ぜられると、その解決を引っぱれるだけ引っぱる。そして相手が根負けしたのを見計らってドサクサまぎれに解決してしまう。自分でいう"ぶらかし策"だ。
そういう処生上の不透明さが、一体どこから発生するのか、実をいえば川路にもわからない。たとえば、出世にしても、いままで川路のほうから、
「出せさせて下さい」
などと頼んだことは一度もないからだ。上役が勝手に出せさせてくれる。
海防掛という、時の実権者阿部老中首座の寵愛集周の一員にかぞえられながら、川路がこの派になめらかにとけこめないのは、そのせいかも知れない。自分の譜諺に品の悪さを感じたり、それを自分の品性のせいにするのも、そんなしこりが心の底にあるためか。
それに、最年長の筒井につぎ、川路と江川が高年者になる。二人とも五十三歳だ。ほかの連中はまだ皆三十歳台だ。それに才気換発だ。岩瀬肥後守など特に舌鋒鋭く、ほとんどの人間がやりこめられてしまう。阿部はそんな岩瀬を愛情を競らせた温顔でみつめる。阿部は秀才が好きだ。時々、筒井が、
「こら、岩瀬さん。たしかに理屈はそのとおりだが、もう少し年寄りをいたわれ」
というようないいかたで、遠まわしに制御する。が、岩瀬が現在の幕府最高の頭脳の持主であることは筒井も認めている。天保十四年(一入四三)の昌平贅の学問吟味にも優秀な成績で合格し、同期に、この席にいる堀や永井がいた。しかし出世は岩瀬が群を抜いている。
もっとも学問吟味でいえば、川路は十入歳の時に合格している。岩瀬が合格したのは二十六歳の時だ。しかし川路はそんな話をしたことはない。しなくても、岩瀬のほうはとっくに調べているだろう。岩瀬はあきらかに川路を意識していた。 |
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