童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説河井継之助 武装中立の夢は永遠に

■改革にはまず易しいことから一つずづ成し遂げる

<本文から>
  方方はまた継之助にこういった。
 「改革をしなければいけないことが十あったとしたら、まず易しいことから一つずつ為し遂げていかなければダメだ。難しいことをいきなりやると、必ず反対が起こる」
 このへんの現実論は、継之助をひどく感動させた。そして、かれは自分自身を振り返った。
 (おれは少し焦りすぎていた)
 と思った。それに、佐久間象山を批難することでは山田方谷と一致したが、考えてみれば継之肋自身にも、象山的な性格がないとはいえない。つまり、はったりと「俺が、俺が」としゃしゃ出てる癖だ。
 しかし、いずれにしても初対面の継之助に、こんな腹を割った話までしたのは、方谷がよほど継之助が記に入ったからに違いない。
 この日、方谷はこういった。
 「名君に出会ったら、仕える臣は必ず名臣にならなければならない。わたしは、朱子学ではなくて王陽明の学説を求んじている。格物到知を目標にしている。しかし、その王陽明ですから、何度か心逸っては失敗をしているじ これは、他山の石として、反面教師にすべきだ。陽明学者だからといって、王陽明のやったことを全て是認し、その通り行おうとするのは間違いだ。そういう例がこの国にもたくさんある」
 継之助には思い当たることがあった。おそら区く方谷いっているのは、乱を起こした大塩平八郎のことをいっているのだろう。大塩平八郎も陽明学者だった。しかし、逸って乱を起こし、滅びた。
 さらに方谷は、
 「短兵急にそういうことをしたのでは、せっかくの改革意志がなんにもならなくなる。真に王陽明の精神を大切にするのなら、王陽明自身の失敗を一つの見本として、轍を踏まないように努めるべきだ。それがほんとうの王陽学ではなかろうか」
 と語った。

■農庶民は武士の師だ、改革には年月がかかる

<本文から>
 大老井伊直弼の安政の大獄の嵐が吹きまくっていた頃だ。こういう時にあっても、河井継之助の言行は落ち着いていて一つもあわてない。いってみれば、継之助は大波のうねりのような生き方をしてていた。毎日起こる、さぎ波のような事件をいちいち収り上げて、さかしらな論評を加えるようなことはしなかった。かれが胸の底に抱いている、
 「名臣になろう」
 という姿勢だけは一向に崩れないのである。
 長崎だけでなく、継之助はこの時熊本にも行き、また四国に回った。
 山田方谷の元を離れて九州や四国を歩いているうちに、河井継之助には方谷が日常目にしていたことの意味が、改めて身に染みるのを感じた。方谷が、
 「武士にとって農庶民は師だ」
 「改革には、最低十五年の年月がかかる。急いではだめだ」
 といっていたのは、現在の方谷が進めている備中松山藩の改革の推進力が、すべて方谷だということである。水車にやってくる進や神戸や林や三島などがその中核になっている。かれらの身分はすべて農民であり商人だ。だから藩内部の見方は厳しい。それを突破して進んで行くには、方谷グループは強い信念を持たなければならない。その信念が、
 「農庶民は武士の師だ」
 ということであり、
 「改革には年月がかかる」
 ということであった。そしてその信念を貫き通すには、
 「何よりも誠の心が人切だ」
 ということであった。継之助の頭のなかで何かがぱちんと割れた。それは、
 (越綾の長岡に戻っておれが進めるであろう藩政改革も、この路線に従っていこう)
 という考えであった。

■勝より数年前に連合政権構想をもっていた

<本文から>
 以前、継之助が山田方谷の許で学んでいた頃、万延元年(一八六〇)三月七日に義兄に手紙を書いたことがある。その中で、
 「外国と御交際は、もはや避けることができないと思います。そうなったら、日本の政体は公家(京都朝廷)も、覇府(江戸幕府)もなく、政道ご一新、富国強兵に努力せぎるをえません。いつまでも、治世移変ないものと考えるのは間違いです」
 と書いている。万延元年三月七日といえば、その四日前の三月三日に、大老井伊直弼が志士によって暗殺されたばかりの時期だ。このとき、河井継之助は井伊が殺されたことなどまったく意に介していない。それよりも
 「現在は、京都朝廷も江戸幕府も、それぞれこだわることなく、政治改革を行って、日本中あげての連合政権を実現すべきだ」
 と告げているのである。明治維新が成立したのは、一八六八年のことがから、八年も九年も前に、河井継之助はすでに、
 「連合政権構想」
 を持っていたということになる。後に、「共和制」といって、勝海舟や横井小楠やあるいは坂本龍馬たちが、共和制を唱えるが、それは河井継之助よりも数年後のことだ。

■河井継之助の方針、現場から中枢へ及ぼす

<本文から>
 河井継之助はこの打開をはかるために、次の方針を立てた。
・藩が自己努力の姿勢を示す。
・借金の返済方法を確立する。
・借金の使途を公開する。
・増収策を考える。
 そしてかれが行った藩政改革は、
一、水腐他の処分
二、治山治水、特に中ノ口川の改修
三、社倉の創立
四、賄賂・解移・賭博の禁止、遊郭の廃止
五、毛見制の廃止
六、河税・河株の廃止
七、寄せ場の新設
八、兵制改革
九、藩士の特高増減と役職手当の廃止
 などである。改革の推進方法をみていると、
 「現場から中枢へ及ぼす」
 という方はを執っている。

■長岡の町に王道政治を染み込ませる、犯罪者の社会復帰

<本文から>
 このように、河井継之助が平定信の政策を取り入れたのは、定信やその祖父吉宗が主張した、
 「市民の自立精神」
と、その自立精神が集まって成立させる、
 「地域の自治精神」
 の実現である。郡奉行を務めて農村ではこれが成功した。もちろん継之助が目指す「王道政治の実現」という理念を農村に住む人々がどこまで理解したかは分からない。農民だけではない。村松忠治右衛門
をはじめ、郡奉行に勤めていわゆる”河井継之助派”の役人たちも、どこまで継之助の理念を自分のものとしているか疑問だ。しかし継之助にすれば何でもよかった。とにかく自分の目指す地域社会の建設が着々とすすんだことは確かである。現在では、
 「河井さまのためなら、どんなことでも協力しょう」
 と口にする庄屋や庄屋の周りに群がる農民がたくさんいる。これはこれで成功した。つまり、長岡城から一番遠い現場に、継之助はすでに王道政治を旨とする実社会を建設したのである。
 「次は長岡の町だ」
 農村から町へ、そして町から城へという包囲作戦を着々と展開していこうと、町奉行になった時、継之助は思った。
 町は何といってら城に近い。だからこそ城主の枚野忠恭が、
 「町方の風紀を改めてほしい」
 といったのだ。同じ風紀を改めるといっても、継之助にすれば、
 「長岡の町にも、王道政治を染み込ませる」
 という考えがある。
 「それにはまず町に住む人々の心の刷新だ」
 と企てた。そのために、賄賂やぜいたくな暮らしや賭博を禁止し、遊郭も廃止した。取り締まりを厳しくしたので、たちまち犯罪者か牢屋にあふれるほど捕まった。
 この連中をどうするかということについて、例によって小田良運の意見をきくと、良運は、
 「罰するだけが能ではない。かれらの更正も孝えるべきだ」
 と、社会復帰後の対策を念頭に置けという意味のことを助言した。そのため継之助の頭の中に、たちまちかつての松平定信の江戸における″寄せ場″構想が浮かんだのである。
 継之助は部下に命じて、長岡領内に新しく寄せ場を設けさせた。ちょうど、蝋座跡が空地になっていたので、ここを囲った。
 対象とした犯罪者は、賭博した者、親を殴ったりした者、喧嘩で相手を傷つけた者、飲んだくれ者などである。いわば軽犯罪者が多かった。この連中は、すべてその住所において、領分払い(追放)、組払い、村払いなどの刑にあった者である。
 収容したこれらの犯罪者は、一日でそれと分かるように髪は髷を落とさせた。三分刈りにして小を剃り落とし、着物は柿色一色に統一した。
 ただ漫然とこの寄せ場に収容しているだけでなく、それぞれ仕事を与えた。仕事の内容は、什立、大工、左官、ワラ仕事などであった。賃金を払った。この中から食費は差し引いた。夜になると、継之助が先頭に立って囚人を一箇所に集め、心学の講義を行った。勧善懲悪の精神を説いたのである。刑期は別に定めなかった。本人の改峻の情があきらかであり、
 「これなら社会復帰しても十分にやっていける」
と思った者は、どんどん釈放した。

■最新式の軍政改革

<本文から>
 河井継之助が長岡藩の軍政改革を行うのは、翌慶応四年からだが、この時、西洋の銃や、有名なカットリング砲を購入する。かれの考えは、
・今後の戦争は、一人ひとりの武士が刀や槍を振り回して、個人武芸を試し合うものではない。
・集団戦であり組織戦だ。
・武器も刀や槍に代わり鉄砲や大砲が主になる。
・その時必要なのは、組織人としての自覚であり、チームワークである。
.そういうテームワークを生むのには、武士の間に頻瑣な身分制が設けられていると、それが邪魔になって意識ばかり発達し、肝心な集団能力が生まれてこない。
・それには、とくに下部の待遇を良くしておかなければ、やる気は起こらない。
 こういう判断があった。とにかく先見力はすばらしく、人の考えないことを感じ、予見する。これだけは天賦の才能といっていいだろう。
 継之助の軍政改革は藩士の給与改革とセットになっている。両者の相乗効果を狙った。軍政はフランス式だった。しかし当初は西洋式の調練、洋式銃の訓練などに反発する者も沢山いた。特に”号令”による演練にはなかなかなじめなかった。そのほかにも、昼の弁当を持たせた供を連れてくる者もいる。こういう反発、不服従、混乱などを、継之助はひるむことなく卓越した指導力で従わせていった。
 軍政改革が開始されたのは慶応三年(一八六七)三月のことだったが、一年後には三十二小隊、千百五十二人の兵士を育てた。開戦時には、これらがいっそうの精兵となった。武器としては、各人に当時最新の元込め施条銃ミニエー統一挺ずつ、軍として大砲を三十門も持っていた。ガットリング砲、十五ドイムホウィッツル砲、フランス砲、旋条砲などである。
 いずれにしても、当時の日本では、欧米の最新兵器によって装備された最新鋭の軍隊であった。

■奥羽列藩同盟に参加、理念の理解者は皆無

<本文から>
「長岡藩は、奥羽列藩同盟に参加する」
と宣言した。
 一藩の運命を左右するような決定だったから、おそらくこの際、勤王心の厚い小林虎三郎たちは反対したに違いない。しかし継之助の決意も固かった。かれはいった。
「こちら側は条理を尽くして、嘆願した。もし、新政府軍が口にするごとく真の王師であるならば、王道政治の実現のためにも、われわれの願いをきき入れたはずだ。それを頭から拒んだのは、かれらは覇者の軍であって、王者の軍ではない。このことが天下に明らかになった以上、王道政治の実現を求める長岡藩としては、覇者の軍に立ち向かわざるを得ない。長岡藩は奥羽列藩同盟に加入し、その列藩同盟自身も王道政治実現への体質改革を実行しながら、あくまでも西方からきた薩長の覇者の軍の地域への進入を阻まなければならない。断固武力をもってこれを阻止する」
 そういい切った。悲壮な決意であった。
 しかし、継之助自身は悠々たる態度で、常に微笑を失わなかった。かれにすれば、思わぬことがたくさん起こっていた。
(世の中のことは、なかなか理念通り、理屈通りにはいかないものだ)
と痛感した。
 新政府軍の進入を中止してもらうためには、こちら側の軽挙妄動も慎まなければならない。
 しかしそうはいかなかった。桑名軍や会津軍や水戸軍や、旧幕府軍たちは、ことあれかしとしきりに爆発した。それが新政府軍に対する挑発行為になった。こういう状況は予想はしていたが、その状況だけが大きく時代を左右する要因になるとは思わなかった。継之助は、
「条理を尽くして話せば、王師である新政府軍の中にも、自分の言葉に耳を傾けてくれる人間がいるだろう」
と期待した。結果としては、それは無理だった。理解者は皆無だった。

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