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<本文から>
方方はまた継之助にこういった。
「改革をしなければいけないことが十あったとしたら、まず易しいことから一つずつ為し遂げていかなければダメだ。難しいことをいきなりやると、必ず反対が起こる」
このへんの現実論は、継之助をひどく感動させた。そして、かれは自分自身を振り返った。
(おれは少し焦りすぎていた)
と思った。それに、佐久間象山を批難することでは山田方谷と一致したが、考えてみれば継之肋自身にも、象山的な性格がないとはいえない。つまり、はったりと「俺が、俺が」としゃしゃ出てる癖だ。
しかし、いずれにしても初対面の継之助に、こんな腹を割った話までしたのは、方谷がよほど継之助が記に入ったからに違いない。
この日、方谷はこういった。
「名君に出会ったら、仕える臣は必ず名臣にならなければならない。わたしは、朱子学ではなくて王陽明の学説を求んじている。格物到知を目標にしている。しかし、その王陽明ですから、何度か心逸っては失敗をしているじ これは、他山の石として、反面教師にすべきだ。陽明学者だからといって、王陽明のやったことを全て是認し、その通り行おうとするのは間違いだ。そういう例がこの国にもたくさんある」
継之助には思い当たることがあった。おそら区く方谷いっているのは、乱を起こした大塩平八郎のことをいっているのだろう。大塩平八郎も陽明学者だった。しかし、逸って乱を起こし、滅びた。
さらに方谷は、
「短兵急にそういうことをしたのでは、せっかくの改革意志がなんにもならなくなる。真に王陽明の精神を大切にするのなら、王陽明自身の失敗を一つの見本として、轍を踏まないように努めるべきだ。それがほんとうの王陽学ではなかろうか」
と語った。 |
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