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<本文から>
とくに、勝頼に対するいろいろな制約、息子の信勝を相続人とし、勝頼はその後見人であるべきこと、あるいは、軍旗の使用権についての細かい注意、さらに遺体の始末、葬儀のやり方、また、
「三年間、自分の死は他に告げてはならない」
といいながら、
「越後の上杉謙信とは、急遽和をむすべ」
という、秘密漏洩がつきまとうような戦略まで告げた。
(もっと慎重であって欲しかった)
勝頼はつくづくそう思う。
しかし、信玄の長い遺言によって、勝頼の立場は決定的になつた。だれがみても、
「勝頼様は、信玄公から期待されていない二代目」
というレッテルを粘られてしまった。
たしかに武田信玄は名将といわれる存在だった。その行動は、勝頼のなかなか及ぶところではない。とくに、
「情報の収集カと分析力」
「決断と行動力」
「部下を魅きつける人望」
などは、いま勝頼には逆立ちしても追いつけないことだ。
(しかし)
と勝頼は、勝頼なりに考える。
(人間は、そんなふうに名声をひとり占めにして、あの世に空っていいのだろうか)
少しは、跡を継ぐ者に残していくべきではないのか。それが、先代の愛情というものではないのか。
勝頼の胸の中には、そういう声が次々と湧き立っていた。
武田信玄の遺言が、現代風にいえば、
「二代目のとるべき道」
を、はっきりと示したということになる。
いまでも同じだが、先代がすぐれた創業者であった場合には、二代目の役目は、
「守成」
であるといわれる。
守成というのはその文字通り、
「守り、成らせる」
ということだ。守るというのは、
「すぐれた先代が残していった創業的事業をしっかりと守り抜く」
ということである。 |
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