童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          勝頼と信長 後継者のリーダーシップ

■二代目のとるべき道を示された勝頼

<本文から>
 とくに、勝頼に対するいろいろな制約、息子の信勝を相続人とし、勝頼はその後見人であるべきこと、あるいは、軍旗の使用権についての細かい注意、さらに遺体の始末、葬儀のやり方、また、
 「三年間、自分の死は他に告げてはならない」
といいながら、
 「越後の上杉謙信とは、急遽和をむすべ」
という、秘密漏洩がつきまとうような戦略まで告げた。
 (もっと慎重であって欲しかった)
 勝頼はつくづくそう思う。
しかし、信玄の長い遺言によって、勝頼の立場は決定的になつた。だれがみても、
 「勝頼様は、信玄公から期待されていない二代目」
というレッテルを粘られてしまった。
 たしかに武田信玄は名将といわれる存在だった。その行動は、勝頼のなかなか及ぶところではない。とくに、
 「情報の収集カと分析力」
 「決断と行動力」
 「部下を魅きつける人望」
 などは、いま勝頼には逆立ちしても追いつけないことだ。
 (しかし)
と勝頼は、勝頼なりに考える。
(人間は、そんなふうに名声をひとり占めにして、あの世に空っていいのだろうか)
 少しは、跡を継ぐ者に残していくべきではないのか。それが、先代の愛情というものではないのか。
 勝頼の胸の中には、そういう声が次々と湧き立っていた。
 武田信玄の遺言が、現代風にいえば、
 「二代目のとるべき道」
 を、はっきりと示したということになる。
 いまでも同じだが、先代がすぐれた創業者であった場合には、二代目の役目は、
 「守成」
 であるといわれる。
 守成というのはその文字通り、
 「守り、成らせる」
 ということだ。守るというのは、
「すぐれた先代が残していった創業的事業をしっかりと守り抜く」
 ということである。 

■信玄は毎朝幹部会を開いたが勝頼は廃止

<本文から>
信玄は毎朝幹部会を開いた。出席者はいわゆる、
 「武田二十四将」
 と呼ばれた面々だ。この席に自身の得た情報をすべてさらけ出し、
 「武田企業は、今日一日どのように生きるべきか」
 と討論させる。この討論によって生まれたものを、かれは、
 「戦略」
 と名づけた。戦略が合意されるとこういった。
 「この戦略をそれぞれ自分の職場に持って帰れ。そして戦略をどう実行するかという戦術を決めろ。戦術を確定する時には、一般の部下にも参加させろ」
 と告げた。つまり、
 「太いスケルトン」
 は幹部会議で決定するが、
 「細かい実行方法は現場で決めさせる」
 ということである。これは現在考えてもかなり民主的な方法だ。
 そして信玄は、夕方になるともう一度ミーティングを開いた。
 「今朝決めた戦略を、それぞれの職場はどういう戦術で実行したか報告しろ」
 といった。中には失敗した職場もある。しかし信玄は咎めない。理由は、
 「戦略は情報によって組み立てた。後でチェックすると情報に間違っている部分があった。したがってその戦略は間違った情報によって組み立てられたのでその職場の長そのものに責任はない。しかし明日は二度とこんなことがないように」慎重にしたい。そのために、今日の結果をきくのだ。したがって集まった連中も、失敗した職場の長をあざ笑ったり、いい気味だ、などといってはいけない。自分たちも同じ過ちをおかさないようにしようという自戒の念を持つべきだ」
 と告げた。
 これは現在の仕組みでいえば、
 ・情報の共有と指示命令の徹底、という「トップダウン」
 ・下からの意見を戦術に生かそうとする「ボトムアップ」
 という、二本のコミュニケーションのパイプを用意していたということになる。そして、そのフィードバックこそが武田企業の企業運営を活性化すると信玄は考えていた。
 (もちろん、戦国時代の武将である武田信玄に、それほどの現代意識はないが結果としてはそうなる)
 そして、実をいえばこの幹部会議にこそ、二代目の勝頼に対し、
 「大いなる屈辱感」

■勝頼は新城の築城と城下町の地名まで改名

<本文から>
 「よし、韮崎に新しい城をつくろう。できるだけ堅固なものをつくりたい。そして新城の所在地を新府と名付けよう」
 と、新城の築城を命じたほか、城下町の地名まで改名した。
 甲府というのは、
 「甲斐国の府中」
 という意味である。これは日本の古代国家がつくり出した制度で、日本の国は戦国時代も六十六の国と二つの島に分かれ、合計六十八方国あった。それぞれの国が、当時の古代国家の命令で、
 「二文字による佳名をつけよ」
 と命ぜられた。甲斐もそのひとつである。
 六十八カ国にはそれぞれ「国府」が置かれた。この国府の所在地を府中といった。したがって甲府というのは、
 「甲斐国の府中」
 という意味だ。それを勝頼が、
 「新府」
 と名付けるのには、
 「甲斐国の国府は韮崎に置く。よって韮崎を新府と名付ける」
 ということである。長い間甲府に拠点を置いてきた武田家は、勝頼の代になって韮崎に本拠を移すという宣言である。

■勝頼は甲斐国の中央集権化を目指した

<本文から>
これが、ともすれば自分の利益に走って動向をあいま小にしがちな地侍や土豪たちを束ねていく大きなカになっていた。信玄は自分が制圧した地域の人間たちを決して、
 「オーダーメード化」
 はしなかった。それぞれが保ってきた、
 「レディーメード」
 をそのまま認めたのである。これがヒラのいわば社業に対する参加意欲を掻き立てた。つまリ、
 「ヒラの自主性・自立性の尊重」
 がおこなわれたために、そういう連中が、
 「仕事に対する納得が得られ、喜びを感じて仕事ができた」
 という"生きがいの認識"につながっていた。
 武田勝頼はそれを、
 「この際全部簾止する」
 と宣言した。
 勝頼にすれば、
「おれには父親ほどの器量はない」
 という自己能力に対する認識があったから、
「おれはおれ流の管理方法でいく」
 と考えた。
結果論になるが、武田勝頼のこのへんからのやり方は、どうも織田信長的なものに変わっていく。ということは、証拠はないが武田勝頼の頭の中には、織田信長の行動がひとつの規範としてあったのではなかろうか。これはこの物語を書き進めていくうちにもう少し明らかにするつもりでいる。さわりだけをチラリと書けば、武田勝頼には、
「領国経営の近代化」
 と、
「甲斐国内における中央集権化」
 という野望というか志があったような気がする。韮崎に新府城をつくったのはその表れだ。

■勝頼は織田信長同様に地侍を自分の直臣とした

<本文から>
織田信長は違った。すべて、
 「自分の直臣」
にしていく。それで天下を押しまわしている。
 武田勝頼もひそかに、これと同様のことを考えていたといえる。これがかれの甲斐国における中央集権化の野望である。勝頼は、
 「そうしなければこの国はまとまらない。なぜなら、おれのほうがいくら地侍や土豪の自主性を重んじて民主的にことを運ぼうとしても、織田信長や徳川家康がそれを認めないだろう。北条も危ない」
 という四囲に対する状況認識があったからである。

■勝頼は統率するためにる畏怖心だけは持たせようとした

<本文から>
こういうきびしい罰が部下たちに恐怖心を与え、
 「信長様は恐ろしい方だ」
  と思うようになった。したがって武田勝頼のみるところ、
 「織田軍団の統制は大将の信長に対する部下の恐怖心によって保たれている」
 と思えた。勝頼は、
 「自分はそこまではやらない。しかし自分に対する畏怖心だけは持たせよう」
 と考えた。
 そうなると父の信玄が実行し、部下の間で評判のよかった、
「『家庭内の屈託事を解決してから仕事場に出てくる』という現在でいう"フレックスタイム"というのは、いたずらに武士の気持ちをゆるませるだけだ。これを廃止しよう」
 勝頼はそう思い立った。
 もともと父の信玄が生きていた頃から勝頼はこのフレックスタイムを批判していた。かれの考えでは、
 「こんなことばかり続けていけば、次第になまけ者ばかりが出てくる。家庭に何もおこっていないのに、こういう屈託事があります、と嘘をついて出勤をでたらめにする原因になる。オレはそんなことは認めない。すべて決められた時間には必ず全員がそろうようにさせる」
 と告げて、フレックスタイムの廃止を宣言した。これは一面、勝頼が自分の若さにまかせ、自分の事業を急ぐために、
 「オレの現在の最大の閏蔑は時間との戦いである」
 という認識に基づいていたといえる。時間との戦いというのは、かれが、
 「甲斐国内の中央集権化」
 すなわち、
 「当主であるオレ(武田勝頼)に権限の一切を集中させる」
 という考えに燃えていたからだ。
 こうして家中体制を次第にきびしくひきしめた勝頼は、天正二年(一五七四)二月、三万の大軍を率いて美濃に突入した。父信玄が死んでからまだ一年たっていない。老臣たちは反対した。が、断固として、
 「美濃に突入する」
 といい切る勝頼に、老臣たちはあきらめた。

■勝頬は見事な指揮ぶりを発揮し信玄が落とせなかった高天禅城を落とした

<本文から>
「こういうことは絶対にしてはなりません」
 といって断固として反対すべきである。しかし武田家の老臣たちは必ずしもそうはしなかった。
「二代目がああいっているのだからやむをえまい」
 とあきらめてしまうのである。こういう老臣たちの態度も武田家をしだいにむしばんでいく」武田家が勝頼の時代に滅びたことをすべて、
 「二代目が凡庸だったからだ。父信玄に似ず不肖の息子だったからだ」
 といわれるが勝頼だけの責任ではない。
 しかし意外な事に武田勝頬は見事な指揮ぶりを発揮した。美濃国に突入以来、たちまち明智城をはじめ十八の城を落としてしまった。老臣たちは目をみはった。顔を見合わせ、
 「二代目はやるぞ」
 「案外だな」
といいながら、次々とかれらも城を攻め落とした。こうなると弾みがつく。
 驚いたことに、天正二年五月には、いままで父の信玄が絶対に落とせなかった高江の高天禅城を落としてしまったことである。これには武田軍団がいっせいに声をあげて勝頼を称えた。
 「若大将はすごい!」
 「父信玄公でさえ不可能だった城を落とした!」
 武具を叩いてほめそやした。勝頼はほくそ笑んだ。心の中で、
 (どうだ? オレのカは)
 とつぶやいた。そして、
 (これなら信長に負けないカを養えるかもしれない)
 と思った。しかしこれは思い上がりである。父信玄がよく中国の古い兵法書を読んでは、
 「敵に勝つためには、敵の実力がどの程度のものであるかを知り、同時にまたこっちの実力も正確に知ることだ」
 といった。高天神城を落として得意になった勝頼は、この父の言葉の、
 ・敵の実力を知る
 ・自分の実力を知る
 という二つの事柄において、
 「共に正確な認識がなかった」
 といっていい。ということは、
 「敵のカを過小祝し、自分のカを過大視した」
 ということである。

■長篠の大敗北、織田軍の革命的戦術

<本文から>
織田・徳川連合軍の足軽隊は、連子川にそった馬防柵の開から筒先を向けている。川は前に書いたように広く深いので、簡単には渡れない。近くまで出た武田方の常馬武者たちは、バタバタと撃ち落とされた。それが土地の研究者が告げるように、
 「この地域一帯は大きな湿地帯だった」
 ということであれば、名乗りをあげる前からすでに湿地帯の中に馬を乗り入れさせたということも考えられる。そそっかしいやつは、泥田の中でもがきながら、
 「やあやあ」
 などとわめいていたのかもしれない。そこを狙い撃ちにされた。
 武田勝頼は驚いた。というのは、こんなことはいままで経験したことがなかったからである。第一、こっち側の名乗りがすまないうらにいきなり鉄砲を撃ちかけるのは卑怯だ。
 「戦争の作法も知らぬ」
 勝頼は怒った。しかし織田・徳川連合軍は、そんなことはおかまいなしだ。
 みていると、横一列に並んだ足軽隊は、鉄砲を一度撃つとそのままタツタツタと整然と一番後ろに下がっていく。敵の足経隊は三列に並んでいた。一番前が撃つ。撃つと一番後ろの列に下がる。なにをするのかとみていると、そこで弾込めをする。当時の鉄砲は一発しか弾が撃てないからだ。弾を込めると前へ出てくる。その時は二列目が一番最前列に出ている。そして撃つ。弾込めの終わった三列目は二列目に移り、一列目が撃ち終わって引き上げると交替する。その交替ぶりがじつに鮮やかだ。勝頼は目をみはった。
 「いったい、これはどういうことだ!」
 と驚くだけでなく、最後には呆れた。おそらく武田勝頼だけでなく、こんな目に遭ったら他の戦国武将もみんな目をみはつたに違いない。織田信長は、戦国の合戦方法を一変した。革命的な方法をとった。
 いままでは、馬に乗った中間管理職が主要戦闘力であったのが、この場合は一般の兵士が主力になっている。しかもそれぞれが刀や槍を振りまわして、個人で習得した武術を競っているわけではない。ただ鉄砲を撃つという、いまの言葉を使えばチームワークだけで戦争をしている。つまり信長軍団はすでに、
 「仕事は個人でおこなうものではない、組織でおこなうものだ」
 という考え方を実行していた。
勝頼は、眼前の光景をみて、
 (連合軍は、いつそんな練習をしたのだろうか?)
 と臍を噛んだ。勝頼は明敏な武将だったから、織田・徳川軍団の変質をすぐ察知した。他の戦国武将にはない指揮ぶりだ。
 (これは負ける)
 直感した。そのとおりだった。前面に出た騎馬武者のほとんどが、鉄砲隊によって次々と撃ち倒されていた。

■信長は合戦をなくすために速戦即決で勝てる軍団をつくった

<本文から>
 「ほんとうですか」
 勝頼は思わず膝を立てた。快川紆喜がいうのは、
 「信長は、この国から合戦をなくすために、合戦に勝つ方法をあみ出したのだ」
 ということである。快川紹喜はうなずいた。そして静かな眼で勝頼をみつめたまま、こういった。
 「それが信長殿を強くしているのです。つまり、この国から合戦をなくしたいという志があるからこそ、かれは自分のおこなう常識はずれな行為をすべて自ら是認しているのです」
  頼は息を飲んだ。快川紹喜の話がやっと頭の中にストンと落ちた。
 (そういうことだつたのか)
  勝頼は気づいた。快川紹喜のいうのは、
 ・信長は、若い時から尾張国で城下町を通る人間たちに凍触し、いま生きている人間たちがいったいなにを求めているのかを探った。
 ・整理した結果、その願いの最大のものがこの国から合戦をなくすことだと気づいた。つまり、いまこの国に生きている民衆は、一日も早く合戦のない国にして欲しいと願っているのだ。
 ・その願いを実現するとなれば、いまこの国の大名たちがおこなつているような合戦方法を続けていたのでは、百年も二百年もかかる。もっと時間を短縮する必要がある。
 ・そこで、信長は合戦の方法を大幅に変え、速戦即決で勝てるような軍団をつくり、新兵器を採用した。
 ・その大規模な実験が、すなわち設楽ケ原の合戦であった。
 勝頼は頭の中で整理したことを快川紹喜に語った。快川紹喜はうなずいた。
 「よくぞお気がつかれた。そのとおりです」
 「信長は、志を実現するために、あのような常識はずれな戦法をとったとおっしゃるのですか?」
 「そうです。いまの世に生きる大名方にとって、志があるかないかが大きな分かれ目になりましょう」

■武田の敗北は家臣団構成の古さ

<本文から>
高遠城を抜いた連合軍は、怒涛のごとく甲府へ甲府へと進撃した。
 武田勝頼は、ついに新府城を捨てる。そして、都留の領主である小山田信茂に招かれ、その居城である岩殿山に向かった。
 ところが、小山田信茂は前言をひるがえし、
 「都留にあなたをお入れすることはできない」
 と拒んだ。
勝頼はやむを得ず、方向を変え天目山棲雲寺のふもと田野(山梨県東山梨郡大和村)まで逃れた。が、三月十一日織田軍の先陣である滝川一益の指揮する数千の軍勢が一行を襲った。最後までかれを捨てなかった忠臣たちの防戦もむなしく、ついに勝頼は自殺した。
 新羅三郎義光以来の"甲斐源氏"の名門であった武田氏は、こうして滅びた。武田信玄が死んでから、まだ十年経っていない時期である。
 『山梨県の歴史』(山川出版社・磯貝正義・飯田文殊著)の中にこういう一文がある。
 「武田氏はどうしてこんなにもろく滅び去ったのであろうか。勝頼の統率カの欠如、家臣団どうしの内輪もめ、長篠戦後の重税と軍役過重による民心の離反等々、原因はいろいろ考えられるが、所詮は家臣団構成の古さに帰せられよう。辺境型武士団を多くかかえていたことは武田の軍の弱点で、広大な領土も実質は勢力範囲というにすぎず、情勢がわるくなれば、いつでも寝返りを打たれる危険があった。その点、兵農分離をなしとげ、家臣を城下に集めて常時訓練をなしえた、織田の軍に太刀打ちするのはむずかしかった。そこで例の『人は城、人は石垣云々』の歌であるが、実は武田の軍隊組織が巨大な城郭を構築する必要性を覚える段階に、まだ至っていなかったところに、悲劇のもとがあったともいえよう」
 とある。重大な指摘である。
これは、新しい志を実現しょうとする二代目勝頼に、新しい側近となった長坂釣閑斎が決めたことと一致する」

■苦しい時には非情な仕打ちを受けた者は報復する負の遺産も継いだ

<本文から>
みんなの眼が外へ向けられている間はよい。だが、そんな余裕が失われてくると、どうしても過去の不当な仕打ちや怨念が、この時とばかりに立ち返ってくることになる。
 降伏した者や家臣たちに日頃情けをかけるということは、ひとたび行き詰まって、なにもかもうまく行かなくなった時にこそ生きてくる。苦しい時に温かく手を差し延べてくれたという思いが、この人の為ならという気を抱かせる。
 だが、反対に酷い仕打ちや情の欠けらもない扱いを受けてきた者たちは、この時とばかりに恨みの矛先を向けてくる。情けをかけてもらえなかった、苦難を共にしてくれなかったとなれば、心は容易に離れてしまう。それどころか、報復の対象にすらなってしまう。弱り目にたたり目である。
 勝頼は、そうした義昌の心を読み切れなかった。父信玄の仕打ちをたとえ頭でわかっていたにしても、自分の手でおこなったことでないだけに勝顆に読めなかったとしても無理はない。
創業者と苦楽を共にした者の気持ちは、後継者には実感としてわかりようがない。
 同様に、怨念や不満が、時空を超えて立ち戻ってくることを、跡を継いだ者には理解できない。だが、そうした心の底に眠っていた思いを読み切ることこそ、創業者にもまして、後継者には必要となってくる。
 自身がゼロからすべてを生み出したのではない後継者には、創業者の負の遺産をも引き継がなければならない。そういう宿命を好むと好まざるとにかかわらず背負わされている。
 人間は、得てして恩恵を与えてくれたことは忘れてしまうにしても、自分が受けた非情な仕打ちや不当な処遇に対しては、世代を超えて忘れることはないからだ。

■後継から創業へ

<本文から>
 その現状認識と時代認識は正しい。だが、だからといって、いきなり先代が築いてきたものを、それを担ってきた旧臣たちもろとも否定し、新たな創業者の道に踏み出すなどはどうであろう。
 まったくのゼロから出発する以上にそれは難しいことである。新しい創業者としてのステータスを確立したいのであれば、いっそのこと自分が外に出て、裸一貫、まったく違う立場からそれを果たすべきである。
 その場合、小なりとはいえ、一から信頼できる者同士が集まって、一から事業を発展させて行く覚悟が必要である。
 週去のしがらみや怨念を無視し、創業者と苦労を共にしてきた者たちを煩わしく思うのであれば、後継者の地位に立つべきではない。
 だがそうはいっても、後継の立場を自分から放り出すことができないとしたらどうか。
 結論から先にいえば、時代認識がどうであれ、まず自分の足元を見つめ、そこから一歩一歩踏み出していくことを心がけるべきであろう。
 創業者が築き上げてきた実績とやり方をまず十分検討し、その利点と欠点を洗い出す。その中で、時代に合わなくなったものを一気に排除するのでなく、緊急性と他への影響度を考え、改善していくことでぁる。
 価値あるものは極力これを大切に扱い、決して軽く見ないことである。短期的、個人的価値判断のみに偏らず、なにより広い視野に立って、客観的に判断を下していく。
 後継者がなにを軽視し、なにを重視するかに、まわりの者は重大な関心を寄せる。それによって今後の方針が見えてくるからである。好悪の感情を剥き出しにしたりすると、真に価値あるものでも、たちまち軽視されていく。それが新しい気風、社風を意図しないままにつくっいく。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ