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<本文から>
徳川幕府が倒れた後、勝海舟は二回にわたり大きな非難を受けている。最初は西郷吉之助と腹芸で行った江戸無血開城のときであり、二回めは、明治になってから福沢諭吉が有名な「やせ我慢の説」によって海舟批判を行ったときだ。
江戸開城のときは、
「勝は徳川家と幕府を薩長に売り渡した」
と痛罵された。
どういうわけかこのとき、彼に全権を委任したはずの最後の将軍徳川慶喜も、
「少しやりすぎるのではないか」
と含みのある批判をしている。いずれにしろ勝海舟の行動は、幕府方のみならず諸所で相当に不評だったらしく、海舟も後年、座談で、
「あのときは家族も俺を悪く言い続けたよ」
と語っている。
二回目の批判となる「やせ我慢の説」で、福沢が勝に問いただしたのは主として次の点である。
・武士にはやせ我慢が必要だ。なぜあなたは徳川家の高級職にありながら、鳥羽伏見の戦いに敗れた後、大坂城で戦い、大坂城で敗れたら、江戸城で戦うというような意見を出さなかったのか。
・しかしこのことはあなただけの責任ではなく、あなた自身は薩長と渡り合って、江戸百万の民を無事に救った。このことは大きな功績だ。
・しかし、その後のあなたは敵といってもいいような薩長政府の中で高級職の位置を占めている。これはどういうことだろうか。
・武士におけるやせ我慢をあなたはまったくしていない。しつかりした回答がほしい。
というようなことだ。
「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらずと言えり」
という名文句で、明治の新思想家として名を馳せた福沢諭吉にしても、この批判を読むかぎり、依然として、「武士気質」を強く体質として残している。福沢の批判は、明らかに江戸時代以来保たれてきた「士農工商」という身分制度意識の延長にある。 |
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