童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
                  勝海舟

■勝海舟は二回にわたり大きな非難を受けている

<本文から>
  徳川幕府が倒れた後、勝海舟は二回にわたり大きな非難を受けている。最初は西郷吉之助と腹芸で行った江戸無血開城のときであり、二回めは、明治になってから福沢諭吉が有名な「やせ我慢の説」によって海舟批判を行ったときだ。
 江戸開城のときは、
「勝は徳川家と幕府を薩長に売り渡した」
と痛罵された。
 どういうわけかこのとき、彼に全権を委任したはずの最後の将軍徳川慶喜も、
 「少しやりすぎるのではないか」
 と含みのある批判をしている。いずれにしろ勝海舟の行動は、幕府方のみならず諸所で相当に不評だったらしく、海舟も後年、座談で、
 「あのときは家族も俺を悪く言い続けたよ」
 と語っている。
 二回目の批判となる「やせ我慢の説」で、福沢が勝に問いただしたのは主として次の点である。
・武士にはやせ我慢が必要だ。なぜあなたは徳川家の高級職にありながら、鳥羽伏見の戦いに敗れた後、大坂城で戦い、大坂城で敗れたら、江戸城で戦うというような意見を出さなかったのか。
・しかしこのことはあなただけの責任ではなく、あなた自身は薩長と渡り合って、江戸百万の民を無事に救った。このことは大きな功績だ。
・しかし、その後のあなたは敵といってもいいような薩長政府の中で高級職の位置を占めている。これはどういうことだろうか。
・武士におけるやせ我慢をあなたはまったくしていない。しつかりした回答がほしい。
 というようなことだ。
 「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらずと言えり」
という名文句で、明治の新思想家として名を馳せた福沢諭吉にしても、この批判を読むかぎり、依然として、「武士気質」を強く体質として残している。福沢の批判は、明らかに江戸時代以来保たれてきた「士農工商」という身分制度意識の延長にある。

■「海舟」という号は、もとは佐久間象山のもの

<本文から>
 五年後の嘉永三年(一八五〇)、勝は、坂本龍馬といっしょに佐久間象山のもとに弟子入りするが、このとき妹の順子を象山に与えている。そういう解釈は、非常に次元が低くていやだが、勝の象山への入門と、妹を象山に嫁入らせたこととは、どうも無縁ではない気がする。
 「海舟」という号は、もとは佐久間象山のものである。
 日本の国防は、強力な海軍の設置以外にない、と主張する信州松代のこの怪傑は、「海舟書屋」と自筆した扁額を、いつも自分の書斎に掲げていた。

■″臨場”の機会が極力少なかったことのプラス面、マイナス面

<本文から>
 勝はオランダ語の和訳を読んだときには、
 「原書を読まなければダメだ」
 と感じ、次いでその原書に書かれたことを実際に知るためには、
 「オランダ人に直接聞かなければダメだ」
 と言い、さらに、
 「実際にその国をみなければダメだ」
 として、オランダではないが成臨丸に乗って太平洋を渡り、アメリカまで出掛けて行った男である。つまり勝は実体験による”臨場感”を重視する性格なのだ。
 それが情報と縁の遠い場所で、ただ事後の結果を間接的にきいていたのでは、時代のすう勢に無縁であるばかりでなく、「歴史への参加」、つまり歴史をつくり出す作業に従事できるわけがなかった。が、逆のこともいえる。
 幕末・維新時の主な事件、たとえば尊皇擾夷論ぼっ輿期の嘉永・安政期に、海舟は長崎で軍艦操練に専念していたし、また有名な”安政の大獄″期にはアメリカヘ航海中であり、日本に帰り着いたときは、大獄の実行者大老井伊直弼はすでに江戸城桜田門外に斬られていた。
 が、逆にいうと、維新史形成の重大事件発生のたびに勝海舟がその場に”臨場″しなかったのは、勝のその後の生き方にプラス、マイナス両面の作用をしているといえる。
 ″臨場”の機会が極力少なかったことのプラス面は、歴史の推移を大局的にながめることができ、勝の意見をつねに″大局的”にしたことだ。今日のことばでいえば、勝の意見を「パブリック・オピニオン」にしたといえる。ただそれが、開明的でない人間のヒンシユクと憎しみを生む理由にもなった。
 またそのことは、その後の勝を幕臣としてかなり高い地位にランクさせたことも事実である。
 とにかく、一介の貧乏御家人の倅が最後に陸軍総裁という職にまで栄進し、幕府のしめくくりをつけるまでになったのだ。身分制がコンクリートしていたこの時代にあって、やはり豊臣秀吉なみの出世といわざるを得ない。
 もうひとつのメリットは、早く死なずに済んだということだ。
 ”臨場”の利点は、その場に居あわせたということで、事実と密着するという強みはあるが、また一方、当然、事件の渦中にまきこまれざるをえない。その場合には、いやでも「選択」ないし「決断」をせまられる。
 幕末期、このふたつはときに生命を代償にした。自分の考えを選ぶということは、実に”命がけ”であった。これが″臨場″していなければ、たとえ死をともなう”選択”と″決断″であっても、あくまでも″安全圏”内の発言だ。
 勝の発言は、たしかに「パブリック・オピニオン」であったかも知れないが、その場にいないためにリアリティを欠き、そのために彼自身は″死″をまぬがれた場合も多い。純粋、客観的であったかも知れないが、大体が安全圏での発言だ。
 それが、おなじことを言って処罰され、殺された人間の多かった時代に、勝が生きながらええた最大の原因ではなかろうか。
 マイナス面、というのは前記の裏がえしで、江戸開城の一件をのぞけば、そういう「歴史をつくる」作業に直接かかわらず、比較的、評論家として終始し得る立場にいたため、勝の生き方をなんとなく不透明な印象でうけとる同時代人が多かったことだ。特に幕臣としての勝の態度に、一抹のわりきれない″あいまいさ”を感ずる人間は多かった。それが、彼への批判につながるのである。

■能力評価と処遇の問題

<本文から>
 では勝は終始そういう論説中心の生きかたを好んだ人間だったのであろうか。
 貧書生の時代はともかく、多少なりとも幕府という組織の中で、自分の名が出だしてのちの勝が、いつも悩み、不平・不満を唱えたのは、「能力評価」と「処遇」の問題だった。
 特に蘭学をおさめ、軍艦を操る術に長け、ヨーロッパの風習が身についてくると、勝は胸のうちに、このふたつの結合が日本ではかなりいい加減であることに不満をもった。
 長崎の操練所の上役で、またアメリカヘ渡った成臨丸の指揮官でもあった木村摂津守は、そのころの勝を、
 「つねに、不満にみちて、カンシヤクばかりおこしている男」
と評している。
 アメリカで、勝がもっ上も熱心にしらべたのも、自己の信念の正否である。
 「実力あるものは、重要視されるべきだ」
 この考えを裏打ちする実例の探索により熱心だった、といってよいだろう。アメリカで見た製鉄所も、造船所も、長崎で想像していたものを越える以上のものではなかった。
 アメリカで勝が発見したのは、
 「無為徒食の日本の武士のようなものはいない」
ということだった。政治家も、
 「食うためには商業を併せ営なんでいる」
 ということであり、そのことが別に不名誉でもなんでもない、という観念がひろくいきわたっていることだった。
 民主主義、ということばの真義はわからなくても、なんとなく社会にあらわれている諸実例によって、勝はアメリカの社会制度が、日本とはまったく異なっているのを直感でさとったのである。
 それはまた”実力主義″を標傍する勝の、求めてやまない実例でもあった。
 実力ある者は登用されるべきだ−勝のこの考えは、新しくもなんともない。普遍的な原理である。
 多分、勝は当初、その原理を他人のためというよりは、むしろ自分のために唱えたと思われる。これはありあまる才能をもちながら扱いかねて、不合理な低身分を強いられる者の不満のあらわれであり、推測をゆるされるならば、勝の父小吉が求めてついに得られなかったもの、すなわち「出世」の昇華された形とみてもさしつかえあるまい。
 だが、勝は長崎伝習所の五年間、オランダ人教官からひとつの重要なことをまなんだ。
 「幕府より、日本という国家のほうが大事だ」
 という思想である。
 近代国家からやってきたオランダ人たちは、講義の底流にそういう国家観を据えた。勝は、この考えは素晴らしいと思った。勝は、
 「おれは、一幕府人ではなく、日本人だ」
 という、意識をもつにいたったのだ。
 日本人である勝にとり、一幕府における出世は当然、意味をなさなくなる。ここにおいて、勝の″実力主義”は、結果として幕府の身分制と幕府の存在の否定につながっていく。勝の唱える後年の、″私心を去った公の政治”を支える公人の心がまえとして、私心を捨てろ、と特に強調したが、それは彼自身の実力主義が完全に活かされる社会の希求とみていいのではなかろうか。
 幕臣でありながら、薩摩の西郷吉之助に、
「幕府は腐っている。雄藩連合による共和政治をおこなうべきだ」
 と討幕を示唆し、幕府の最高機密を洩らしてしまうのも、そうした意識からであろう。
 ともあれ勝は、長崎でオランダ艦の操作に熱中した。小普請から小十人組入りを命ぜられ、百俵の禄も得た。扱いは伝習生幹部で、幕府伝習生は浦賀奉行組の与力や鉄砲方、天文方付属の与力・同心四十五名である。

■西郷に幕府内部の腐敗を告げる

<本文から>
 操練所閉鎖によって、坂本籠馬以下土佐組は鹿児島へ脱した。西郷を頼ったのである。やがて長崎亀山で「土佐海授隊」の前身「亀山社中」が結成される。
 そのキッカケをつくったのも勝である。
 勝は西郷に会い、坂本たちの身の処しかたをたのんだ。西郷と組んだ坂本たちが何をするか、勝にはおおよそ予測がついていただろうから、このあたりの勝の行動は不可解である。やはり幕府側からみれば″危険人物″であるといわれても仕方があるまい。
 はっきり言うならば、西郷が反幕に踏みきるのはこの時点だ。そして西郷がそういう気をおこしたのは、坂本の身柄をたのむ際の勝の幕政批判であり、幕府内部の腐敗ぶりを情報キヤャッチしたことである。
 あえていえば、勝はこの時点において、幕府を薩摩に売ったのだ。
 禁門の変とそれにひきつづく第一次長州征伐のころ、西郷吉之助は本気で長州をやっづける気であり、
 「防長二州は長州征伐に功績のあった諸藩で分割する」
 と、征伐成功後の褒賞まで考えていた。だからこそ西郷自身が征伐軍総督の参謀をひきうけたのだった。
 前にも書いたが、これは西郷が長州の維新に果す”機能”をまだよく認識していないからであり、国論もまた”討幕”などということがまだ一般化しないころのことだった。
 会津と一緒になって長州を京都から逐い出し、武将としての自信をつけた西郷は、長州征伐軍参謀の地位に相当いい心持になっていたことだろう。
 元治元年九月十一日、勝は西郷に会う。
 征長は決したが、どうも幕府の腰がしっかりすわっていないので、西郷は一日、幕府側の逸材といわれる勝のところへ実情をききにきたのだ。勝には弟子の坂本ら土佐脱藩組の身の処し方について頼みごとがあった。
 ふたりはもちろん初対面ではない。長崎の伝習所時代、勝が鹿児島を訪れたおり、島津斉彬の紹介で二人は会っている。西郷はそのころ、斉彬の”庭塵番”をつとめていた。
(その男が、いまは征長軍総督参謀か・・・・)
 一スパイが参謀総長にまでのしあがったのだ。
(エラくなる奴は、ほっといてもエラくなる)
 勝はそう思う。しかしほっておいてもエラくなるというのは、まわりの体制がそういう状況にあるからで、勝自身には「激徒育成」を理由に懲罰が待ちか事えており、勝をそうする幕府の在りかたは薩摩藩とは実に対照的であった。
 (幕府高官たちは、どこまで人を見る眼がないのか・・・・)
 はっきりいって、勝にのこされたのは絶望感だけだった。
 (幕府は、もうダメだ・・・・)
 そういうあきらめが、彼のこころの中を突き上げてくる。
 体制内の組織員として、こうう態度がいいのかわるいのか、よくわからない。批判は体制の改善に活かすべきだろうし、いうなれば自分が属する組織への誠心というものは、やはりそう蔑ろにしていいというものではなかろう。
 自己がどんな組織に属し、歴史の流れの中のどの地点に位置したかは、人力をこえたひとつの運命である。その中で精いっぱいのことをするのも、また人間の生き方のはずだ。ことばをかえれば、”執着心”である。見込みがないからといって、つぎつぎと自分のおかれた歴史的環境をみかぎっていったのでは、みかぎられた対象こそいいツラの皮である。

■勝は西郷に維新政府のヴィジョンなりを示すべきだった

<本文から>
 「共和政治がダメなら割拠しなさい」
 勝はそう西郷にすすめたにちがいない。すすめる方もすすめる方だが、それを真にうけ、すぐ「共和政治」だの「割拠」だのと大見得を切る西郷もまた若い。しかしこの若さが結局は幕府を倒してしまうのだ。
 その意味で幕府を倒した元凶は勝海舟である。だがその維新政府は果して勝ののぞんだとおりの政治体制だったのか−。
  あえて、
 「勝は、幕府を売った」
 と書くゆえんだ。
 少なくとも、西郷に、
 「討幕」
 の決意をおこさせた責任の意味で。
 さらに勝は西郷の志向する「維新政府」の具体的なヴィジョンなりイメージなりをたしかめるという慎重さを欠いた。ただ、
 「幕府は腐っている」
 と言い、腐った幕府は倒さねばならぬ、という次元でのみの示唆におわっている。
 幕府を倒す以上、倒したのちの日本の政体のありかたを示し、そのありかたをこそ討幕の目標にすべきであり、西郷にその考えを植えつけるべきであったのに、結局、西郷は「討幕」にのみとびついた。それは単なる権力奪取闘争にすぎない。
 以後の日本の時流は、「討幕」の気流に完全にのってしまう。「何のための討幕か」という何のためが見失なわれ、討幕そのものが討幕の目標になってしまう。つまり目的が失われ、手段が目的になって、その目的化した手段のために、さらに手段がえらばれ、さがし出される。そういう倒錯した形になったのだ。
 幕末後期の抗争が、醜い政略戦に終始するのは、スタートがこういう事情ではじまるからだといっていい。

■町火消しとバタチうち、非人頭、女郎などに江戸の焼き市民の避難をお願いした

<本文から>
 勝は二月の某日、市中の町火消しとバタチうち、非人頭など雑多な人間を自邸によんだ。新門辰五郎、弾左衛門、車善七、清水次郎長などに、踊りの花柳寿輔まで加わっていた。妙なとりあわせだが、共通するのは、これらの人々が部下を多く持っていることだ。
 顔が揃うと、勝は伝法な口調で言った」
 「イモが江戸を焼きに来る」
 いつも焼かれるイモが焼く方にまわる、聞く方は妙な気になる。その倒錯効果を狙う勝一流の話術だ。
 「焼かれる前に、こつちの手で焼いちまいてえ。ナポレオンが攻めこんだときの露都モスコーの轍を踏むんだ」
 「……?」
 集まった連中には、ナポレオンもモスコーも耳なれない。しかし、勝の博識を知っているから、大層なことを言っているのだとは感覚的に理解した。その連中に勝は言った。
 「ついては、おめえたちに江戸に火をつけてもらいたい」
 一同、へ? と顔をあげた。しかし、これも倒錯心理に追いこむ勝の作戦だ。町火消しやヤクザたちは、江戸の火事にはいつも動員される。消火要員なのである。その火消しに火つけになれという。人間、だれだって建設より破壊の方に快感を感ずるのが本能だ。その本能を勝はくすぐつた。
 「火消しに火をつけさせるんで?」
 新門辰五郎がニヤニヤ笑って言った。辰五郎は町火消し「を組」の親分だ。
 「そうだ」
 辰五郎は、娘のお芳を慶喜の妾に出していた。辰五郎を抱きこむことは、江戸の有力者を制するうえで大きな効果があった。
 「こいつぁ面白えや。死ぬまでに一度でもいいから燃す方にまわってみてえと思っていたんです」
 六十をすぎた辰五郎は、大きく笑った。この笑声で”火つけ作戦”はきまった。しかし、江戸を燃すのになぜ駿河の博徒次郎長を招んだのか、このあたり、まだ勝の考えの秘密がありそうだが、いまは深く触れていられない。
 勝がつぎによんだのは、魚市場の親方連中だった。
 「腰ぬけ旗本がみんな江戸から逃げた。イモが殴りこんできたときの守りになってくれ」
 そう頼んだ。
 心意気に生きる親方どもだ。それに、勝は身分が低いために幕府のおエラ方が全然協力せず、勝を爪はじきしているという噂をこの連中は耳にしていた。ひとり、江戸のことを心配する勝の心意気に、この連中はグッとくる。
 「かしこまりました。デバ一丁あれば、イモなんざ、寄せつけるもんじゃござんせん」
 市場代表は胸を張って言い放った。勝は、ありがてえ、それをきいて大安心だ、と真実、安心の表情をみせた。
 イギリス渡りの銃で攻めこんでくるイモを、デバ包丁で迎えうてるわけがない。勝が狙ったのは市場の働き手の確保である。浮き足立って、もし江戸から逃げられたら、市民は魚も食えなくなる。
 (これで、台所は安泰だ)
 勝は、ひとり胸を撫でおろした。
 次に集めたのが江戸川から房総へかけての網元だった。
 「おめえたちの舟を全部借りてえ」
 勝は、畳に手をついた。
 「江戸に火があがったら、江戸の岸から市民を千葉へはこんでもらいてえんだ」
 市民の疎開作戦を考えていたのだ。網元はみんなうたれた。
 「御家人の出だっていうのに、勝の殿様はてえしたもんだ」
 一致した批評である。勝は、これで舟の出動の約束をとりつけた。
 (これで、いざというときの手はすべて打った……)
 勝は、町の人間の意外な協力に胸をあたためた。柔な武士たちよりよほど頼りになる。
 (ところで、もうひとつ残っている)
 江戸の男の最大の心配事が。勝は吉原に向った。松葉屋に上って、付近の女郎を全部集めた。
 「勝、一生の頼みだ。おめえたちで江戸の娘や堅気の女房を守ってくれ」
 と、泣くような調子で言った。
 江戸の男は、みんな女房や娘が官軍の兵に犯されはしないかと心配していた。その心配をとりのぞこうというのだ。そ.のために、プロに犠牲になってくれと頼んだ。”防穴作戦”である。
 江戸の女郎は、ここでも勝の身分の低さとその江戸を思う真情にうたれ、頷いた。品川、板橋、新宿、千住の宿場の妓たちにも、勝は同じことを頼んだ。
 こうして、市民関係の手をうつと、勝ははじめて政治工作をはじめた。江戸を焼かせぬための手だ。江戸を自らの手で焼き、市民を全部千葉に疎開させ得るという見とおしをつけた上で、今度は逆に江戸を焼かせぬための方略にすすんだ。

■江戸無血開城

<本文から>
 慶応四年(一八六八)三月十三、十四の両日は、江戸にとっていちばん長い日だった。
 三月十三日は芝高輪の薩摩藩邸で、十四日は芝田町の薩摩藩下屋敷で、徳川方と官軍側とを代表する勝海舟と西郷吉之助が会見した。
 勝自身の言によれば、
 「十三日は、和宮のことだけ話した。和宮を人質にとって談判しようなどというケチな了簡は全くないから、安心して談判してくれ、と西郷に言ってやった」
 十四日、『海舟日記』から要点を抽き出すと、
 「慶喜は隠居のうえ、水戸へ慎む。
  江戸城は明け渡すが、即日田安に頚けてほしい。軍艦・兵器はそのままにしておいて、いずれ寛典の沙汰があったときは、官軍と幕府で分け合う。
 慶喜の暴挙を助けた者も、格別の寛典を賜わりたい」
 およそ虫のいい要望を出したのち、勝は、はじめて胸中におさえにおさえて納めてきた鳥羽・伏見戦以来の官軍の猛進撃を抗議調で論じ、最後に、
 「大政返上のうえは、わが江城下(江戸) は皇国の首府なり。今日天下の首府に在て、わが家の興廃を憂いて一戦わが国民を殺さんことは寡君決してなさざるところ、ただこいねがうところ、御所置公平至当を仰がば、上天に恥じるところなく、朝威これより興起し、皇国化育の正敷をみて響応瞬間に全国に及び、海外これをみて国信一洗、和信ますます固からん−」
 江戸を皇都として扱え、そうすれば民も朝廷の恩をありがたく思い、外国の信用も深まるだろう、というのだ。
 西郷は、承知しましたが、一存でいかぬ点もありますので、いまから総督府に行って何分の返答をしますと答え、脇にいた中村半次郎と村田新八に、
 「明日の攻撃はとりやめる」
 と、命令した。
 実は、勝との交渉直前まで官軍はあくまでも江戸を攻撃する気でいた。
 ところが、十三日に長州藩の木梨精一郎参謀が横浜にとんでイギリスのパークス駐臥公使に、江戸攻撃で負傷者が出たら、病院を借りたいと病院借用を口実に江戸城攻撃を匂わせると、パークスは、
 「恭順一途の慶書を討つのは人道に反する」
 と、声を荒げだ。
 終始、薩長に武器と討幕の方寸をさずけてきた維新の黒幕としては意外な言だったが、新政府の勝利を信じたパークスにしてみれば、もうそれ以上の深追いは必要ないと判断したのだ。
 パークスの発言も、勝のひそかなイギリス公使館への根まわしの結果だといわれている。
 薩摩邸を出ると、バラバラと官兵が銃をかまえて寄ってきた。
 「無礼なことをするんじゃなか」
 叱りつける西郷を制して、勝は言った。
 「町日は、君たちとどういうまみえかたをするかわからん。この勝の胸をよくおぼえておきたまえ。万一、戦いになったときは、私を撃ち損じるな」
 痛烈な西郷への牽制球であった。西郷は黙って苦笑した。
 その夜、勝は江戸城にのぽった。外を一望すると、灯がうるんでいた。勢いこんで市中に溢れていた官兵も、いまはどんどんひきあげているという。うるんだ灯は、江戸の空に薄明の層をつくっていた。
 何事もない。江戸は平和そのものだ。
 勝は、ひとりこぶしで肩を叩いた。
 「…疲れた…とにかく疲れたよ」
 肩を叩きながら勝はその灯の群に向ってつぶやいた。おれはこの灯のために闘ったのだという思いが、言いようのない感動をともなって勝の胸に払みた。
 翌日、和談はなり、江戸は燃えなかった。百万の江戸市民は、戦争の惨禍からまぬがれたのある。

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