童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          勝海舟の人生訓

■行ないは自分が、批評は他人がする

<本文から>
  この言葉は、勝海舟の全思想を表わしている。彼はこういう態度で自分の生涯を生き抜いた。この言葉を口にしたのは、具体的にはつぎのような事件があったからだ。
 彼は徳川幕府の終戦最高責任者でありながら、その後明治新政府に参加した。しかも、それも平職員としてでなく、海軍大臣や枢密顧問官にもなった。こういう勝の生き方を見ていて、学問一途に走った福沢諭吉は、『やせ我慢の説』という本を書いた。その本で、
 「二君に仕えた幕臣」
 の典型として、勝海舟と榎本武揚とをとりあげた。そして、この『やせ我慢の説』を二人に贈った。贈っただけでなく、
 「ご感想をおもらしいただきたい」
 と添え書した。榎本は、福沢のこの申し出に実に懇切丁寧な答え方をした。しかし、こういう答えは長ければ長いほどどこか言いわけじみてくる。榎本の回答も言いわけじみていた。勝は何も言わなかった。黙殺した。そして、一人で、この行蔵は我に存す……という言葉を呟いた。
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■渡米で学んだこと

<本文から>
 「天皇政府か徳川幕府か」
 を選ぶという意味だ。それは勝にはできなかった。何故なら、勝は、天皇政府か徳川幕府かという次元で政治を考えでいなかった。日本の政治と、日本の国家という次元ですべてを考えていた。彼にとって必要だったのは、外国と堂々と渡り合える強い日本国家を創り出すことであった。その能力が徳川幕府にないと見たから、
 「日本における共和政府の樹立」
という構想をもった。したがって、彼は徳川家の家来でありながら、既にそういう家来意識を捨てていた。むしろ、日本国家の一員であり、日本国民だという意識の方が強かったのである。この発想は、彼が成臨丸でアメリカに行った時に、アメリカで学んだものであった。
 アメリカで彼が見たものは、四年毎に選出される国家元首の姿であった。大統領選挙である。しかも、国民によって選ばれたこの大統領の子孫が、今どういう暮らしをしているのか、国民は関心をもたなかった。アメリカに行った時、勝は福沢諭吉といっしょにアメリカ市民にきいた。
 「ワシントン大統領の御子孫は、今どうしておられますか?」
 しかし市民達は、
 「そんなことは知らない、関心もない」
 と答えた。これには、勝は一驚した。大統領といえば、日本では徳川将軍に相当する。将軍様の子孫が、今どうしているかは、普通の人間であれば誰でも知っていた。それを、アメリカの市民は、知りもしないし、また関心もないという。
 勝が、さらに驚いたのは、議会であった。議場の、
 「日本の魚市場のような」
 論争のやかましさは、江戸城の奥で老中達がひそひそと声をひそめて話し合う光景とは、まったく違った。しかも、その議場で論争した論敵同士が、いったん議場を出ると、今度は、実ににこやかに、肩を叩きあって談笑するのだ。
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■世論の潮にのって飛躍

<本文から>
  幕府は、まだまだそこまで心が広くなかったから、彼の直接の上司は、口に出して、海舟のオランダ学修学をとめた。が、海舟は諦めなかった。オランダ学の先生の所に、夜中に潜行しては、学業を続けた。これは、彼が自分のやっていることに自信をもっていたこともあるが、それだけではない。彼は、
 「おれの背後には、たくさんの日本人がいる。その人達が、おれのオランダ学修業を支持している」
 と思っていたからである。つまり自分のためにオランダ学を学ぶのではない、単なる出世の手段にするためではない、日本の国のためにおれがオランダ学を学ぶのだ、という自負をもっていた。そして、それは正しかった。やはり目に見えない人心(世論・人々の期待)は、たしかに勝を支持していた。だからこそ、そういう世論の潮にのって勝は、大きく飛躍できたのである。
 このことは、今の社会でも同じだろ、つ。会社の中で、ひとりだけ新奇なことをやり、しかも人間関係が下手なら周囲の月は冷たくなる。そういう時に、普通の人ならすぐ自信をなくしてしまう。しかし、勝のような考え方をしていれば、自分の考えたことや売る品物が、客の間で評判がよければ、
 「社内でどんなに人間関係がまずくても、おれにはお客さんがいる」
という自信がもてるだろう。大切なのは、社内の気受けをよくすることではない。客の気受けをよくすることだ。それが、会社が作るもの、あるいは提供するサービスの質によって、客とつよい信頼関係をもつということである。勝のやったことは、このこととまったく同じであった。
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■他人の忠告や助言は選んで聞け

<本文から>
  この世の中で、人間が生きて行くということは、
 「人との出会いの連続」
 であると言っていい。だから、人は、人に影響されて生きて行く。影響を与える人にも、いろいろな人間がいて、参考になる場合も、ならない場合もある。悪影響を受けてしまう場合もある。その悪影響を受けないためには、よほど自分がしっかりしていなければならない。
 勝は、立場上、人なみ以上に多くの人と会った。しかし、彼の人を見る目は厳しかった。鋭かった。したがって彼は、いろいろな忠告や助言をもらったが、その全部を聞くということをしなかった。つまり人の言いなりにはならなかったのである。
 「開くべき意見」と、
 「聞かない意見」とを分けた。
  分ける基準は、
 「その人物が一流であるか、二流であるか、あるいは三流五流であるか」
 である。一流の人物の意見は、無条件で聞いても、二流三流の人物の意見は、黙殺した。無視した。それが、彼を鍛えた。
 つまり、美術品を鑑賞する場合にも、がらくたばかり観ていたのでは目が肥えない。目を養うたぬに、は、一級品ばかり観なければならない、というのと同じである。
 人間にも、一級品もあればがらくたもある。がらくたの言うことを、いちいち真に受けていたのではきりがない、というのが、勝の人生態度であった。
 それは、彼が人を見る上にも表われている。はじめは人のあまり評価しなかった西郷隆盛や横井小楠を、かなり若い時分から高く評価していた等は、その例である。だから、自分が一級品とレッテルを貼った人間達の意見は、素直に聞いた。しかし三流五流の人間の意見は、全部右の耳から左の耳へつきぬけさせてしまったのである。
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■全方位に向けて自分を対応させる能力

<本文から>
  勝海舟の弟子坂本龍馬も、小楠には手を焼いたらしく、こんなことを言っている。
 「先生は、二階に上がってゆっくり酒を飲みながら、政治劇を見物していて下さいよ。役者は我々だけで間に合いますから」
 龍馬は、龍馬なりに小楠をもてあまし、二階に上げて、梯子をはずしてしまおうと思っていたのだろう。とにかく、ユニークな人物であった。普通の人が理解できなかったのは無理もない。
 が、その小楠の本質を的確に見抜いていた勝は、
 「日本で最も優秀な人物の一人だ」
と言い切った。というのは、小楠は勝と同じように、
 「全方位に向けて自分を対応させる能力」
 をもっていたからである。自然体である。流れに沿って、その流れに乗りながら、自己を確立していくという主体性が二人に共通することだ。
 こういう全方位対応は、特に、管理化が進んでいる現在の高度なシステム社会には、最も必要である。古い価値観にしがみついて、ああだこうだというような層の言葉を、あまり気にしない方がいい。
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■機を見ての自己主張は必要

<本文から>
  幕臣達も、進んで意見書を出した。大名達も出した。しかし、その多くは、
 「外国の出かたを見て、対処すべきだ」
 という姑息なものばかりだった。この中で、一通だけ優れた意見書があった。
 「柔軟に外国に対処すること。それは、日本国の主体性を貫きながら、みだりに壊夷などという暴挙に出ないことである。外国が求める薪水を与えることや、また日本の漂流民を受け取ることは、国際上の礼儀である。が、そのままにしておけば、勢いに乗った外国は、日本を清国(中国)のようにしてしまうだろう。したがって、大いに海軍を興さなければならない。しかし、海軍を興すといっても短時日で完成されるものではない。そのためには、身分にかかわらず人材を登用し、海軍伝習所を作り、外国の技術を取り入れ、
日本の軍備カを増すことが大切である」
 というものであった。阿部はひどく感心した。意見を提出した者の名を見ると、勝麟太郎とあった。勝海舟の意見書である。阿部は勝を登用した。勝は外国語の翻訳係に採用され、そこで、日本の海軍振興についての研究を命ぜられた。後に彼が長崎伝習所に行くのは、この意見書がきっかけになっている。
 意見書は総理大臣の阿部を感心させただけではなかった。阿部はこれを多くの幕臣に見せた。感心する者がたくさんいた。なかでも、大久保一翁は、ひどく勝の人物にほれ込んだっそして、その後、何かにつけて大久保は勝を引き立てて行く。
 勝は、乾坤一滴の意見書を書くことによって多くの知己を得た。すがるべき蔓が、蔓の方から下がってきたのである。勝はそれを活用した。しかし、蔓が下がってくるのには、彼がそれまでの全教養をたたきつけて書いた意見書が、大きくものをいっていた。長年の自己充電の成果であった。
 つまり、勝は、
 「トップ層が下部の意見を求めている」
ということを敏感に嗅ぎとって、それを、
 「自分を生かす一つの機会」
 と見たのである。このことが大事である。機会を無視した自己主張は必ず裏目に出る。しかし、敏感に機会を察して、それに乗った自己主張は必ず実る。
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■公的次元の自己PR

<本文から>
  このことをもう少し分析してみると、こういうことが言える。勝は明らかに、この事件を自己の名を売ることに利用したのだ。つまり自己PRに活用したのである。しかし、彼の偉いところは、活用した素材が決して″私″の次元ではなく、″公″の次元だったことだ。大砲の注文という公的素材に絡む賄賂を、厳として退けたことである。これが、彼個人の技術や学問にかかわりをもつことであったら、問題が小さくなり、広いPR力をもたない。彼は、
 「習わしとなっていたバックの悪弊」
を粉砕するという挙に出たのだ。これが受けた。いわば、公的素材を活用して、自分の名を売ったのである。
 人間はあまり謙虚すぎると、人に知られることは少ない。時には、思いきって自分をPRすることも必要である。それはなり振りかまわずのはじ知らず、ということではない。なり振りかまわずのはじ知らずと、そうでない自己のPRとの差は、その扱う素材が、私的なものであるか、公的なものであるかによって分かれる。この点、自分の名を売るにしても、私的次元で行なず、公的次元で行なうところに、彼の人生能産があった。
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■西郷寅太郎とのエピソード
<本文から>
 「勝さんに、寅太郎の説得を頼んだらどうだろうか?」
 ということになった。吉井友実がその使いに立った。勝は承知した。寅太郎に会った。しかし、
 「たとえ勝先生のおおせでも、私は従いません」
と言って、態度は相変わらず硬い。そこで勝はニコニコしてこう言った。
 「あんたの気持ちはよく分かったよ。じゃあこうしなさい。あんたの今の力でも、親父ほどにはいかないにしても、千人やそこらの人数は集まるだろう。だから鹿児島で、そういう人を集めて、親父と同じことをしなさい。そして、千人の人間をきまえよ勺殺しちまいなさい」
 この勝の言葉を、どう受けとめたのか分からないが、寅太郎は鹿児島に帰った。そのまま半年過ぎた。半年後、西郷寅太郎は上京してきて、まっすぐに勝のところに行った。そして、
 「よく考えましたが、勝先生のおおせに従うことにしました。親父のしたようなことをするよりも、洋行させていただいて軍人になり、国家にご奉公する方が、人間が大きくなる、ということに気がつきました。どうかよろしくおとりなしのほどをお願いいたします」
 と言った。半年前とはうって変わって殊勝な態度であった。勝は寅太郎の半年間の苦労を推し量り、
 「大変だったと思うよ。おそらく、あんたは国に帰って、まだいきり立っている連中をこんこんと説得したに違いない。でも、よく説得しなさった。感服します」
 そう言って、勝は吉井達に連絡をとり、ご下賜金による洋行を実現させた。
 この時、伊藤博文は総理大臣をしていた。このことを聞くと、深いためいきをついた。
 「おれにひとこと言ってくれればいいのに、勝という人も恐ろしいことをする人だ」
 この伊藤の呟きが勝に伝わった。勝は、
 「もっともだ。おれが総理でも、そう思うだろうよ」
と言った。が、
 「伊藤さんは、感心だ。そのことでおれの足を引っ張るということもしなかった。幕府時代なら、このことで誉めておいて、他のことできっとおれを追い落としたに違いない。もちろん、おれの方でもそうされると思って、それなりの用意はするが、伊藤さんはそうしなかった。さすがに偉いよ」
 が、その勝が誉める伊藤は、本当に、
「勝というのは、恐ろし、いはどの手の広い気味の悪い男だ」
と思っていた。
 これは、勝が、新政府にとり込まれたふりをしながら、その実、やはり勝なりの底力を、依然として確保しているということを示した事件である。
 こういうことを、ちょいちょいやったからこそ、政府の中でも勝は大きな頼をして、言いたいことを言っていられたのである。
 現代でも、部下のために、いわば身売りをしなければならないような実力者がいるだろう。勝の態度は大いに参考になるはずであ。
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