童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          春日局・家光を名将軍に育てた稀代の才女

■「反逆者の娘」から「将軍家の乳母」へ華麗に変身

<本文から>
 まず、春日局がたどった生涯を、大ざっぱに整理しておこう。
 春日局は本名を福といい、天正七年(一五七九)に生まれた。父は斎藤内蔵助利三であり、利三の父は利賢といった。福の母あんは、明智光秀の妹であり、稲葉一鉄の姪にあたる。
 稲葉一鉄は、最後には良通といったが、それまでに通以、通朝、貞通、長通などと何度も名を変えた。美濃(岐阜県)清水城の城主であり、「美濃三人衆」の一人といわれた。国盗りとかマムシと呼ばれた斎藤道三以来の重臣だったが、その子義龍の時代になって、織田信長に帰順した。稲葉一鉄だけでなく、三人衆の他の二人も信長にしたがった。早くいえば、斎藤家を裏切って織田信長にしたがったのである。
 福の父の斎藤利三は、よく転職した。はじめは斎藤義龍に仕え、その後、稲葉一鉄に仕え、やがて義兄にあたる明智光秀に仕えた。
 この斎藤利三は、有名な明智光秀の織田信長殺し(本能寺の変)で、信長を攻撃した主力部隊の総大将をつとめている。だから、直接、信長を殺したのは福の父だったといっていい。
 本能寺の変のあと、信長の部下であった羽柴秀吉がたちまち明智光秀を攻めたが、斎藤利三は近江国に隠れていた。しかし、発見されて、長男とともに処刑された。
 反逆者の娘となった福は、このとき四歳だったが、母とともに、伯母の夫である四国の長曾我部元親を頼って土佐に渡った。そしてそこで成長した。
 十七歳になったとき、本土に戻り、母方の親戚にあたる稲葉重通の養女となって、重通の養子の稲葉正成の妻になった。正成はすでに重通の娘の婿になっていたが、その娘が死んだので、福を後妻にしたのである。ところが福は、美人ではなかった。子供のころにかかった痘瘡の痕が、たくきんのアバタとなって残っていた。いまふうにいえば、完全なブスであった。そのため夫の心はしだいに福から離れていく。
 福は、正成とのあいだに、正勝、正定、正利という三人の男の子を生んだ。だが、世の中が落ち着いてくると、夫の正成に情人ができた。正成は、これみよがしにその情人を家に引きいれて、一緒に暮らしはじめた。怒った福は、その情人を刺し殺し、家を飛びだした。

■徳川家康に直訴し家光を将軍に

<本文から>
 このようにして福は竹千代の乳母に採用されたのであるが、竹千代が成人するにしたがい、父の秀忠と、その妻である江与は、竹千代のあとに生まれた国松のほうを愛するようになった。そして二人は、「竹千代よりも、国松を跡取りにしたい」と考えはじめた。これは母江与の強い希望だったが、どうも父の秀忠もぐらついていたようだ。
 これを見た福は、たいへんなことだと思い、「お伊勢さまにおまいりしてきます」とウソをついて東海道をのぼった。そして、静岡にいた徳川家康に直訴した。福の訴えを開いた家康は、「秀忠のバカめ」とつぶやき、「鷹狩りに行く」といって、そのまま江戸城までやってきた。そして、秀忠や江戸城の重役たちが居並ぶ前で、はっきり竹千代を次期相続人に指名したのである。
 竹千代が、のちの徳川家光として三代将軍のポストを得たのには、福の直訴が絶対的な影響をもっていた。したがって家光は、福が死ぬまで、単なる乳母としてだけでなく、自分を将軍の地位につけた恩人として敬ったのである。そのため、福の権限は絶大なものになった。
 福は、家光に売った恩を最大限に活用した。つまり、「大奥」という女性社会に、単なる将軍のセックス発散の場ではなく、オモテの政治や幕府上層部の人事にまでかなり口を出せるような権限をもたせたのである。いわば「力をもつ女性社会」を、江戸城の一角に構築したことになる。
 ただし、これだけなら、福の単なる″女の野望″の実現で終わってしまう。が、福はそうしなかった。彼女は、大奥に構築した女性の権限の代表者として、オモテの幕府の威令を天下に示すうえでも活躍した。それは、ときの新郎賢皇を退位に追いこんだことである。

■家光の弟・国松を自害に追いやる

<本文から>
 その最大の例が、国松が成長してからの始末である。国松はのちに駿河大納言忠長としていろいろな問題を起こすが、結局、兄の家光の命によって流罪人となり、やがて自害して果ててしまう。その背後には福のカが大きく働いていたという。
 また彼女は、家光の側近群を育てあげた。自分の子供である稲葉正勝のほか、阿部忠秋、松平信綱、堀田正盛、三浦正次、久世広之などはすべて福の息がかかっていた。同時に、家光の補導役であった酒井忠世、土井利勝、青山忠俊などの実力者も、福に一目おいていた。さらに福は、自分の生んだ子供たちをそれぞれ大名にしてもらっただけでなく、かつて別れた夫の稲葉正成をも大名に取りたててもらった。
 福の長男である正勝の系統は、長く大坂の淀城主となった。幕末の城主稲葉正邦は、老中になっていた。が、鳥羽伏見の戦いのときには淀城の門を閉ざし、敗走してくる幕府軍を一兵も入れなかった。この事件は「淀城の裏切り」として有名である。もちろん、福は知るよしもなかった。
 福は、寛永二十年(一六四三)に死んだ。六十五歳であった。

■波瀾万丈の経歴

<本文から>
 これまで見てきたように、福の経歴はまさに波瀾万丈の生涯といっていい。そこで今度は、視点を変えて、彼女の生涯を別な角度から整理してみよう。大ざっぱに分けて、彼女の生涯は次のようにいえるだろう。
○時代の波に翻弄きれ、転職をくりかえす父とともに生きる。結局、父は反逆者として捕らえられ、刑死するという少女時代。
○そのために、流浪と潜伏をくりかえさなければならなかった娘の時代。
○不美人であるにもかかわらず、親戚側の事情によって一族の男の後妻に入らなければならなかった妻の時代。しかし、三人まで子を生んだが、結局は夫に情人ができたために、これを刺し殺して家を出た時代。
○たまたま京の高札場で見た乳母募集に応募して採用され、以後、将軍家康の孫である竹千代の保育にあたった時代。
○単なる乳母から、たまたま起こった将軍の後継ぎ問題に積極的に乗りだして、大御所家康に直訴するという時代。
○それが受けいれられて、竹千代が将軍家光となり、その威光を背景に「大奥」という女性社会をつくりだした時代。
○その女性社会の権限をフルに活用した時代。
 福が経験したこれらの「時代」には、やはり大きな「歴史のうねり」がある。つまり福は、まさしくこのころの日本人が味わった「戦国の世から平和な日本社会への移行」を、文字どおり自分のこととして味わったのである。
 その意味では、この時代に生きた歴史上の人物と、福はことごとく接触している。織餌信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光だけでなく、稲葉一鉄、明智光秀、江与、酒井忠世、土井利勝、青山忠俊、阿部忠秋、松平信綱、堀田正盛、三浦正次、久世広之などである。さらに、名所司代といわれた板倉勝重も入る。
 これだけ多彩な歴史上の人物とかかわりをもった女性もめずらしい。そういう意味でも、福の人生は傑出している。

■愛妾を殺すが家康の後ろ盾があったので追求されなかった

<本文から>
 そうなると、正成の性格が一変した。わがままになった。同時に、いままで隠していた別な面を露骨にした。何人かの愛妾をつくり、この女性たちと福たちを同居させた。これは、福にとってたまらない屈辱であった。しかも、正勝、正定、正利の三人の子を生んですべて男子だったために、福の存在そのものも用ずみになってきた。
 福の胸のなかで、少女のころに身につけた「流動精神」が頭をもたげた。流動精神は、一所懸命という規制の秩序に対してある種の反逆性をもっている。福は、流動精神に忠実にしたがった。つまり、稲葉家に漂っている一所懸命の思想に反乱を起こしたのである。どう反乱したかといえば、慶長九年(一六〇四)の夏、彼女は突然、夫正成の愛妾の一人を刺し殺した。
 このへんはほんとうにそうであったのかどうか、確かめるすべはない。が、多くの書物にそう書いてある。そうなると、福は殺人を犯したことになる。そして、夫の愛妾を殺すということは、殺人の理由としては正当性がない。つまり、嫉妬の所産であるからだ。
 にもかかわらず、福はその後の生涯をまっとうする。福が将軍家の乳母となってからも、この殺人を罪として追及きれたことは一度もない。これはやはり、徳川家康のかばいだてが功を奏していたのであろうか。
 忘れないうちに書いておけば、徳川家康がのちの福に対して特別なかばいだてをしたのには、福のそれまでの人生航路が(かなり俺と似ているな)と思ったからだろう。家康もまた、不幸な前半生を送っていた。とくに六歳のときから十八鹿のときまでは、人質として他人の家の冷飯を食った。半分は囚われ人としての生活である。そんな暮らしをして、明るい気持ちが植えつけられるはずがない。
 家康は、「人間の一生は、重い荷をかついで遠い山道を行くようなものだ。急いではならない」という有名な人生観をもっていた。ここには、家康独得の怜倒な人間観察眼が感じられる。
 つまり、違った言い方をすれば、
 「俺は、少年期から青年期にかけて深い傷を負った。自分で、猫のようにその傷をなめながら育った。だから、俺には他人の傷の痛みがわかる」
 ということだろう。
 福を発見した家康の目には、福が単なる女性ではなく、自分と同じような人生航路をたどってきた人間として映ったことだろう。つまり、「同じ傷の共有者」として福を見たのではなかろう。

■将軍夫人の「威厳」に新しい人生目標を見出す

<本文から>
 しかも、普通なら、自分よりすぐれた女性に出会うと羨望や嫉妬や、果ては憎悪の念までもつ人もいるだろうが、福の場合は違った。はっきりいって、福は江与に感嘆したのである。
 彼女もまた、自分なりに調べて、江与の生涯を頭のなかに諳んじていた。自分と同じような経歴をたどっているし、その意味では決して前半生は幸福とはいえない。とくに、徳川家の牙城である江戸城に入って、いったいどういう孤独な生活を送っているのか、と勘ぐりさえした。
 ところが、江与にはそんなところは微塵もなかった。めざめた一個の女性として堂々とふるまっていた。夫の秀忠に対してきえ毅然とした姿勢を保ち、自分を卑しめるような低い悪度をとらなかった。このことは、福自身にも新しい目標を与えた。つまり、「自分以上に不幸な半生を送りながら、しかもなお、敢然として生きている方がいらっしゃる。私もこんな人生を送りたい」という思いである。
 いまの言葉でいえば、福は、江与の毅然とした態度にサディズム的な要素を発見し、そして、それをたたきつけられることにえもいわれぬ快感を覚えていたのである。したがって、福の場合はマゾヒズム的感覚が濃厚だったといっていいだろう。さげすまれ、たたきつけるような態度をとられながらも福は、江与に反感を覚えることなく、逆に感動してしまったのである。
 こういうところが、福の「教養を超えた猪突性」の一端だといといえるだろう。つまり、言葉は悪いが、福はいわば「感激オンチ」だったのではなかろうか。
 福は江与に会って、対抗者としてよりも、むしろ「学ぶところの多い女性」と感じた。これは、福にとってよいことだったかもしれない。だが、初対面の日に、これほどまでに福を感動させた江与とは、その後まもなく敵対関係に入る。それも、女同士が自分の生命をもかけかねないような一大闘争に発展する。

■福の直訴に家康が江戸城に乗りこむ

<本文から>
 ある日、福は突然、「お伊勢まいりに出かけたい」と願いでた。このことが秀忠夫妻に伝えられると、夫妻とも「いいだろう」と許可した。竹千代も国松も、ある程度大きくなっていたからである。
 福は飛びあがって喜んだ。しかし、その喜びの色を表しはしなかった。彼女は、すぐ旅出た。もちろん、伊勢になど行く気はない。彼女がめざしたのは駿府である。駿府につくさっそく家康に面会を申しこみ、家康は「よし、会おう」と応じた。その後の孫たちの話聞きたかったからである。しかし、家康の前に出た福は張りつめた面持ちで、江戸城内の忠夫妻の竹千代と国松に対する態度を語った。
 このときの家康の態度については、「秀忠夫妻はとんでもないヤツだ! 俺がすぐ江戸に行って決着をつける」と怒ったという説もあれば、逆に、「お前は乳母の分際で、将軍のすることにいちいち勝手な推測を加えるとんでもない女だ! さがれ!」とどなりつけという説もある。どっちがほんとうかわからないし、前者の考えを胸に抱きながら後者の態度をとったとも考えられる。
 むしろそれらの説よりも、いっさいの反応を示さずに、ただ「ご苦労さん」と応じたという見方のほうが真実に近いかもしれない。つまりタヌキおやじの家康は、目を細めて「ふふん」といいながら、いっこうに驚いた様子もなく黙って福の話を開いていたのではあるいか。いくら心の中であれこれと思っていても、それを表情に出すほど家康は単純な男でなかったはずである。

■家康は弟・国松を怒鳴り竹千代をたてる

<本文から>
 すでに使いを走らせていたので、家康たちが江戸城につくころ、竹千代と国松は堀の端で出て祖父を迎えた。このとき家康は、二人の孫に「おう、おう」と声をかけただけで、段改まった態度は示さなかった。
 家康は西の丸に入った。翌朝、家康の日の覚めたところを見はからって、秀忠夫妻は二人の息子をつれてきた。が、妻の江与のほうは、意識的に国松を竹千代より前に出すようにしていた。
 家康は、二人の孫を見ると、こういう声のかけ方をした。
「おう、竹千代、大きくなったな。ここへ来い。菓子をやろう」
 家康は、一段高い座にすわっていた。指名なので、江与は秀忠と顔を見合わせ、しぶしぶ竹千代に「おじいさまのところに行きなさい」と冷たくいった。竹千代は、オドオドしながら家康のそばに行った。家康は竹千代の頭をなで、「いい子だ、いい子だ」といいながら、菓子を与えて自分の脇にすわらせた。
 江与は、国松の尻をつついた。そして小さな声で、「お前もはやく、おじいさまのそばに行きなさい」といった。国松は、竹千代とは違って天真爛漫な子だから、母親にいわれるとすぐチョコチョコと家康のそばに行った。そして、そのまま竹千代の脇にすわろうとすると、突然、家康がカッと目をむいた。そして、「国松!お前はここにすわってはならない!下におれ」とどなりつけた。

■福の事件で長子相続制が定まった

<本文から>
 この事件で、徳川家には次のようなルールが生まれたといっていいだろう。
○徳川将軍家は、徳川本家の長男をもって相続人とする。
○それは、長男が多少ボンクラであっても家臣がそれを補佐して、将軍の責務をまっとうさせるということになる。
○同時にこれは、もはや徳川家以外の人間には将軍のポストを与えないということを意味する。それはとりもなおさず、「徳川家康は、成人した豊臣秀頼にそろそろ将軍の職を譲るだろう」すなわち「天下を譲るだろ、つ」という世間の憶測をたたきつぶし、「そんなことはない」という決意のほどを天下に示すことになる。
 徳川家康は、はじめのうちはおそらく、最後の「天下は二度と豊臣家に渡さない」という点を強調することにウエートをおいていただろう。その意味では、「徳川将軍家の後継ぎは、別に長男でなくても有能な者であれば誰でもいいのではないか」という考えをもっていたかもしれない。「長子相続制」までは考えがおよんでいなかったかもしれない。それが、この事件によって家康自身のフラフラする気持ちもはっきりさせられたのである。そうきせたのは、なんといっても福のカであった。

■福は子供、親族を出世させた

<本文から>
 稲葉千熊は、福が稲葉正成の後妻となって生んだ子供である。亭主がほかに愛人をつくり、その愛人を福が刺し殺すという事件も引きおこしたが、やはり子供はかわいかったようだ。福は、自分の子を竹千代の遊び相手として江戸城に呼んだ。
 また、のちにいちばん若手の老中になる堀田正盛という側近がいるが、これは福の夫であった稲葉正成の前妻が生んだ娘の亭主だ。しかし、福はこれも江戸城に引きこんで、しかも自分の養子にしている。そのため正盛の出世はフルスピードで、高いポストをきわめていった。
 こういうところを見ると、福の処世術もなかなか達者だ。彼女は、大奥というところに特別な女性の権成社会を確立したが、それだけではなかった。なんといっても、江戸幕府は男の社会である。女性の社会ではない。大奥にいかに権力を確立したといっても、もともと大奥というところは将軍の後宮だ。つまり、将軍の閏房の相手をする女性のたまり場である。
 政治は、やはりオモテで行われる。したがって、そこに同調者やいうことを開く連中がいなければ、大奥での権威もアヤフヤなものになる。そのへんを考えて福は、オモテのほうにも自分の意のままになるような若者を次々と送りこんだ。

■福は天皇を退位させた

<本文から>
 天皇は、このとき、侍臣を通して福に、「生まれはどこか」と聞いた。福は、「春日という土地でございます」と答えた。そこで天皇は、「今日から春日局と名のるがよい」といわれた。こうして福は、福という本名よりも彼女を有名にしている「春日局」という名を、後水尾天皇から与えられたのである。寛永六年(一六二九)十月のことであった。
 うわさが広まると、人々はみな驚いた。「前代未開のことだ」と大騒ぎになった。それはそうだ。将軍の乳母にすぎない女性が、龍顔を拝して直接お言葉をたまわったというのだから、人々は仰天したのである。
 しかし、驚きはそれだけではなかった。後水尾天皇は、徳川幕府から派遣された女性使者と面会した翌月の寛永六年十一月六日に、突然、退位を宣言した。そして、わずか七歳の興子内親王に皇位を譲った。輿子内親王は、東福門院すなわち徳川秀忠の娘和子が生んだ娘である。いわずもがなだが、興子内親王が天皇の位についたということによって女帝が出現した。これは、称徳天皇のとき以来絶えてなかったことだ。
(中略)
 天皇は決して福に好感はもっていなかった。むしろ「出すぎた女め!」と思ったに違いない。
 このことが、さらに評判を呼んだ。徳川幕府は世間から、「乳母を使って天皇を退位させた」といわれた。しかし、その非難の大部分は福が受けた。福はジッと耐えた。なにも弁解しなかった。また、徳川幕府のオモテ側、つまり男性社会に対して抗議することもなかったというのも、彼女自身が、この役に命ぜられたときに「お受けいたします」と応じて出かけたからである。いったん役を引き受けた以上は、その役割が最初に開いたものと違ったからといって文句をいう筋あいではなかった。そういう点、福は、なんといっても戦国を生きぬいてきた女性である。したたかな精神がその底にあった。

■朝廷の台頭を止めるため家光の妾・お万の子を次々と堕胎させる

<本文から>
 徳川家光いちずに生きてきたとはいえ、現在の彼女は徳川家光一人だけを念頭においているのではない。彼女が考えているのは、「徳川家の長続き」である。
 徳川将軍家は徳川家の子孫で代々継がれなければならない。そして、その権威に対して、京都朝廷が再びカを増して、かつてのような強い存在になることは認められない。なんとしてもそれを食いとめなければならない。それが、女ながらに春日局の考えたことであった。
 そこで家光に対しては、お万を、「女性というのもなかなかいいものだ」という気にさせるための道具にとどめさせた。そういう考えを生むことには賛成だったが、実際に男の子を生むところまでは許さなかったのである。だからお万が妊娠したと開くと、それが男の子か女の子か確かめないうちに、春日局は次々と堕胎させた。このあたりは、じつに恐ろしい女だ。
 しかし、春日局にも得るところがあった。それは、お万を見て家光が、自分のほうから「あの女が欲しい」といいだしたことである。そこで春日局は、(家光さまの女性に対する関心を引きとめなければならない。それには次の女性を用意することだ)と考え、(その女性はなによりもお万に似ていなければならない)という結論に達したのである。
 こういうことになると、春日局の知恵はじつによく働く。そして、彼女の行動にはつねに一貫性がある。なによりも彼女は現実主義者であった。決してムリをしない。そして飛躍もしない。だから、家光がお万に惚れたとなれば、お万をしりぞけるようなことをしつつも、その次に差しだす女性はお万に似ている者を選ぶというような一貫性を保つのである。
 このあたりは春日局の生まれつきの才能なのか、それとも、戦国からずっと経験してきか生き方にもとづくものなのか、それはよくわからない。いずれにせよ、特別な才能といってもいいだろう。そして春日局は、今回は、お万に似た娘を探しだすという役をみずから買ってでた。もちろん″極秘″にである。
 幸か不幸か、やがて、お万に似た娘を見つけた。浅草観音の境内である。

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