童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          改革者に学ぶ人生論

■中間管理職が部下に「目的」「寄与度・貢献度」「評価」の三点を告げる重要性

<本文から>
  しかし経営者がこういう面に非常な心配りをしているので、まったく欠陥はなかった。工場長は悩んだ。そして、「自分のリーダーシップにも問題があるのではないか」と思い至った。
 このころちょうどハーバード大学の経営学教室では、こういう企業組織を、「病人に見立てて診断を行う」といういわば産学協同を実行していた。
 工場長は社長に頼んだ。そこで社長もハーバード大学に行き、「ウチのホーソン工場を病人に見立てて診断してほしい」と申し込んだ。ハーバード大学から、メーヨーと呼ばれる教授ほかがやってきた。そして何千人もの工員の一人ひとりから聞き取り調査をおこなった。
 結果、この工場で働く人のすべてが、
一、何のために働いているのか(目的)
一、自分のやった仕事がどれだけ会社あるいは客のために役立っているのか(寄与度あるいは貢献度)
一、役立ったとしても、それに対しどういう信賞必罰が行われているのか(評価)
 の三点がまったく知らされていないことを知った。主としてこれは、中間管理職の責任である。つまり工場の工員たちがイキイキとして働くためには、この三つをわきまえていなければならない。ところがこれがぜんぜん知らされていなかった。
 つまり、ホーソン工場における、「コミュニケーションのパイプ」が、上から下にくるトップダウンのパイプと、下から上に行くボトムアップのパイプの二本ともが、ゴミがたまり、あるいは一部が割れてしまっていたのである。メーヨ一教授はこのことを指摘した。
 つまりトップダウンとしては、
一、情報の伝達
一、指示命令の伝達
一、指示命令に必要な説明の伝達
 をきちんとおこなうこと。そしてボトムアップのパイプとしては、
一、下からの意見の伝達
一、現場における不平不満の伝達
一、現場で働く人間の経営参加の回路の設定
 などである。
 ホーソン工場においては、これらのパイプの故障はすべて、中間管理職の段階でおこなわれていた。たとえば上からもたらされた情報を下に伝える場合も、ミドルたちは「こんなことはすでに新聞やテレビのニュースで伝えられている。みんなも知ってけるはずだ」と思い込む。したがって、課長会などがあってもそこでもたらされたこういう情報については、何も伝えない。つまり、「みんなが知っていることをあらためていえば、自分がバカにされる。そんなことでムダな時間を費やしたくない」という、いわば善意の過失″をおこなってしまう。
 しかしこれが積み重なると、部下としては、「ウチの課長は、課長会で話題になったことを何も伝えてくれない」という気持ちを持つ。これが高ずると、「ウチの課長には、何を話してもムダだ」と、自分たちのすぐれた意見も口にしなくなる。
 これがホーソン工場内における、「情報回路の停滞」をもたらしたのである。
 経営診断を託したハーバード大学のメーヨ一教授の助言によって、ホーソン工場では二本のパイプ(トップダウンとボトムアップ)を完全にクリアした。そして何よりも重要視したのは、中間管理職が部下に、「目的」「寄与度・貢献度」「評価」の三点を告げることだった。
 IT人間は、この三点を重視する。したがって、かつてのリーダーシップのようなニコボン(リーダーがニッコリ笑って部下の肩をたたき、しつかり頼むよというやり方)″や飲ませる(今晩、一杯やろうかと誘うやり方)″などは通用しない。そんなことをすれば逆にバカにされる。
 上杉鷹山の「してみせて、いってきかせて、させてみる」は、このことをいっている。
 「なぜ、今、こんなことを、自分がやらなければいけないのですか、と聞く部下には、そのなぜと、どれだけと、どんなにを正確に伝えてほしい。これには時間とエネルギーが必要だが、それに耐えてほしい」と、中間管理職たちに望んだのである。というのは、日和っている中間管理職は、部下がそういうことを聞いてもいきなり怒鳴りつけるからだ。
 たとえば「課長、私はなぜ今こんなことをやらなければならないのですか?」と聞くと怒る。そして、「なぜだかそんなこと知るか。オレはそれがわかるほど管理職手当をもらってほいない。殿様がやれといっているのだ。殿様の命令だ、黙ってやれ!」という。説得性も何もない。現在こんなことをいえば、部下たちからそっぽを向かれてしまう。上杉鷹山はその辺を知っていた。
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■賀島兵助の改革−荒廃の原因である貧困対策

<本文から>
 賀島兵助が、田代領の代官を務めたのは、延宝三(一六七五)年から貞享二(一六八五)年にかけての足掛け十一年間である。現在の地方首長の任期にたとえれば、だいたい三期、このポストにいたことになる。この間、兵助は命を輝かせて仕事に励んだ。しかし、こういう仕事ぶりは必ずしも本藩の歓迎するところではなかった。
 このころの対馬本藩にとって、田代代官を任命することが、「出世なのか、左遷なのか」ということははっきりしない。が、遠隔地に勤務を命ぜられた当事者にすれば、やはり、「左遷された」と思うのが、普通ではなかろうか。
 しかしこれは、現地の人びとにとっては失礼な話だ。現在でいえば、支店長なり出張所長としてやってきた人物が、「一日も早く本社に帰りたい」とボヤいてばかりいたら、現地のモラール(やる気)もあがるはずはない。仕事の帰りに居酒屋で酒でも飲めば、みんなで顔を見合わせて、「われわれの職場は、本社からみれば左遷地なのだ」と語り合うだろう。これはみずから、自分の職場を卑しめる考えといえる。
 しかし、だからといって、現地採用の社員たちに罪はない。そんな思いをさせる支店長なり出張所長なりが悪い。つまり、上に立つ者が、「ここでの仕事に、腰を据えて専念しょう」という意気込みに欠けるところに問題がある。
 兵助はちがった。「オレは田代に骨を埋める」という覚悟を示した。これがはじめのうちは、かれに非協力的で、「今まで通りの悪習に、この代官も巻き込んでやろう」と、手ぐすねを引いていた連中を手こずらせた。
 兵助は不正が大嫌いだった。というより、むしろ、「赴任先でおこなわれている悪習を、すべて粛正する」という改革意欲を持っていた。それは、年貢を納める村人のくらしが、あまりにもみじめだったからだ。
 かれは、この改革を進める上において、「誠意だけが唯一の武器だ」と思った。「誠意を尽くせば、今は堕落している村人たちもかならずわかってくれるはずだ」と信じた。
 だからといって、説教ばかりしていたわけではない。
 「田代領が荒廃している原因は、すべて貧困にある」と、兵助はみた。つまり、「まず村をゆたかにすること」が命題となると考えた。
 しかし村をゆたかにするためには、単に農産物の生産量をあげるだけでは不十分だ。住民たちを縛りつけているいろいろな要因を取り除かなければならない。
 そのひとつに、「それぞれの家が背負っている借金がある」と考えた兵助は、「借金の整理」を決意した。かれは債権者に対し、「利率の引き下げ」を頼んで歩いた。はじめのうちは、兵助の願いを聞き入れることを渋った債権者たちも、かれの誠意ある懇願によって、ついにうなずいた。
 そして、「わかりました。利子を下げましょう」といってくれる者や、「賀島様のご熱意に負けました。この証文は被ります。借り手は正直な人ですから」といって、貸借関係を白紙にしてくれる奇特な債権者も出てきた。さらに、「新しい農作物をつくるには、農耕具を買ったり、牛や馬を買ったり、いろいろと金がいります。しかし今、この村の人々にはそういう余裕はありません。わたしが立て替えますから、これをご活用ください」といって、資金提供まで申し出る者もあらわれた。兵助はよろこんだ。
 次にかれが打った手は、地域内における売春行為の禁止だった。とくに貧しい夫が、妻に売春を強要し、それをしないと妻の実家に押しかけて、「慰謝料」を請求するような悪習を徹底的に取り締まった。また、この地域独特の、妻が不倫をした時の謝罪賃「くび銭」なども廃止させた。いわゆる「風俗矯正」の触れ(法令)を次々と出した。
 兵助は、「こんな悲惨な風習も、結局は貧しさのために生まれたのだ。根を絶てば、住民も考えを変える」と考えて、それを実行に移した。つまりかれは、「農村の生産性が向上し、農民の可処分所得が増えれば、そういう悪習も自然に改まる」と信じたのである。
 だから兵助は、そういう罪を犯している人びとに対しても、「悪いことはやめろ」と強要はしなかった。「おまえたちがこんな悪習をおこなっているのも、結局は貧しいからだ。貧しさは、われわれの敵だ。まずこの敵を退治しよう。それには、こういう方法をとろう」と、段階的に指導していった。
 年貢徴収や公共事業をおこなうときに、代官所の役人が取ってきたワイロもいっさい禁止した。そして時間の余裕ができると、兵助は代官所に希望者を募って、「人間としての生き方」を講義した。かれは学問に深かったので、その中から、わかりやすい表現に改めて、懇々と村人たちに教えをたれた。兵助の講義に感動した村人は、「われわれだけでなく、子供も導いてほしい」といって、代官所に子供たちをよこす者もあった。兵助はよろこんで教えた。
 しかし代官所の役人の中には、こうした兵助の活躍に嫉妬し、兵助を憎む者もいた。また依然として「昔のやり方のほうが、くらしが楽だった」と考える者もいた。
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■加賀藩・前田綱紀の功績

<本文から>
 このころになると、加賀前田家も他藩の例に漏れず、「財政難」に陥りはじめていたからである。それは幕府の経済方針が、「米価を安定させて、ほかの物価を統制する」という米経済を重視し、貨幣の流通をきびしく取り締まったためである。十割自治を求められていた藩(大名家)にすれば、こんな矛盾することはない。米価だけで、他の物価を統制することなどできず、また藩の産業を振興してみずから資金を調達しなければいけない地方自治体的立場にあれば、当然、「金によって動く世の中」に日本はしだいに変わっていたからである。
 綱紀の功績について、ある人が次のような項目をあげている。
一、政治を独裁実行した。
二、五十歳で婦人を近づけなくなった。
三、儒学者を招いたが、学校はつくらなかった。
四、武技に精通し、武士の風紀を改めた。
五、書籍をたくさん集めた。
六、オランダの書まで集めた。
七、法典を整備した。
八、収監者が少ない。
九、意見書をおおいに奨励した。
十、福祉施設(養生所など)をつくつた。
十一、人材を登用した。
十二、薬草学を振興した。
十三、みずから学問に精励した。
十四、日本の古い典礼を復活した。
十五、茜染を復活した。
十六、好んで魔の絵を描いた。
十七、粗衣粗食を守った。
 などである。やはり、文化立国を実現し、それを守っていくためには、「率先、自分自身が粗衣粗食に甘んずる」という、現在でも求められるリーダーシップが綱紀にはきちんと保たれていたのである。
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■頼恭の固定観念を破る漢方薬の栽培

<本文から>
 つまり、「漢方薬は中国産のものに限る」という考えは、「漢方薬は、中国でしかできない」という前提に基づいている。これはしかし見方によっては、やはり先入観であり固定観念だ。四代あとの頼恕が、「真水でタイを飼う」ということを実験したように、先入観と固定観念をぶち破れば、ちがった考えが生まれてくる。
 頼恭は漢方薬についてそう考えた。はっきりいえば、「この讃岐国でも、漢方薬の栽培がおこなえるのではないか」ということだ。
 かれはその栽培地を藩士の庭園である栗林公園″に定めた。栗林公園というのは、いい伝えによれば、「米がとれない年にも、栗の実を代替食にしよう」ということで、ある藩主が積極的に栗をたくさん植えさせたために名づけられた名だという。現在は、藩主の別邸として、回遊式庭園がつくられ、政務に疲れた時に訪れて憩いを得る場所になっていた。
 しかし、そういう発想をしたからといって、藩主の頼恭自身が自分で漢方薬の栽培にあたるわけにはいかない。
 「だれか適当な人物はいないか」と物色した結果、藩内の志度というまちに、平賀源内という変わった青年がいることを発見した。源内もまた小さい時から、「神童」と呼ばれていた。天才である。現在でもかれは、「日本のレオナルド・ダ・ヴインチ」といわれる。科学万能の天才だったからだ。松平頼恭はこの源内を呼び出した。
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