童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          「情」の管理「知」の管理 組織を率いる二大原則

■情による管理とは、ハートに訴えるだけでなく、仕事をロマン化すること

<本文から>
  別な言い方をすれば、
 「ハートに訴える」
ということである。
 「人生、意気に感じさせる」ことだ。
 が、現代はそうそう根単(ネタン=根が単純)な人間ばかりはいない。白けている、ということばどおり、価値の多様化にともなう生き方の多元化で、簡単な同一化はできない。
 特に、単なる「率先垂範」や、「先憂後楽」等が、そのまま通用しない場合もある。若い人ほどそうだ。すべてに対して懐疑的である。
 こういう状況をさして、
 「世の中が湿っぽい」
 と言う。何をやっても社会は燃えない、と言う。燃やし手は、
 「マッチばかり無駄になる」
 と嘆く。組織も同じだ。クールで、小ぢんまりした自己完結型の人間が増え、なかなか協同作業がしにくい。自分さえよければいい、という人間が増えている。
 こういう状況の中で、果して、
 「人生意気に感じ」たり、
 「自分の胸に火をつけ」たり、
 「損得を考えずに、崖からとびおり」たり、
 「他人のために生き」たり……、することができるのだろうか。
 が、できなくても、やらなければならないのが現代の管理である。そこが辛い。しかし人間は、まだまだ、何かに感動したり、涙を流したり、喜んだり、悲しんだりする能力を持っている。いわゆる喜怒哀楽の四感情を持っている。
 ただ、この四感情の中で、怒と哀は辛い。辛いから避ける。避けると、四感情の中からこれが抜ける。残るのは、喜と楽だ。いまの人間は、この喜と楽だけで生きようとする、
 「喜楽人間」
 が多くなった。喜楽人間は気楽人間″に通じる。自分のことしか考えない。それが白けている、ということだ。
 しかし、そういう現象を責めるわけには行かない。職場内に喜楽人間が増えて困るとすれば、それは、その職場で怒と哀が価値を失っているからだ。
 怒と哀が価値を失っている、というのは、怒っても、哀しんでも意味がないということである。何も得られない、ということだ。つまり、その組織(職場)では、怒ることや哀しむことが、すべて徒労で、エネルギーロスだ、という不文律が成立しているということだ。組織内正義が価値を失っているのである。怒哀の価値基準があいまいになっているから、怒ることも哀しむこともばかばかしい、ということになる。そこで、情による管理とは、
一、組織人に、喜怒哀楽の四感情を自然に流露させることである。つまり、人間が人間らしく生きられるようにすることである。
 二、情感を刺激し、知の管理による温かみの欠如を補うことである。
 三、職場そのものに、前のふたつのことが可能になるように血を通わせることである。活性化することである。
また、部下に対しては、部下が持っている、
 一、正邪の観念を歪めずに育てる。
 二、他人への心くばりを忘れさせない。特に、組織内差別・抑圧・疎外等に対する怒りの念を持たせる。
 三、自己の情操を養ってゆたかな人間性を培う。それが職場全体をゆたかにする。
 四、好奇心、ユーモア精神を養う。そのことによって、常に精神の青春化をはかり、また、弛緩させない。
 等であろうか。
 これは、前に書いた塔(目標)をより高く、より美しくし、そこに到る道(方法)や橋(障害克服)を、より変化に富んだものにする、ということだ。手っ取り早く言えば、
 「仕事をロマン化し、ドラマ化する」
 ということだ。それも、湿っぽい、つまらない仕事ほど、変化に富んだロマンとドラマにすることだ。
 情による管理とは、単に部下の、「ハートに訴える」だけでなく、部下ひとりひとりの胸を、仕事のロマン化、ドラマ化の発生源にする、という。とである。
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■知の管理とは、目的をよく認識し、納得する契機をつくること

<本文から>
 一方、知の管理とは、この塔と道と橋の存在を認識させることだ。それも、部下が自分の眼で確かめ、考え、判断し、納得するように導くことである。つまり部下の知性に訴え、刺激することである。
 したがって、知の管理の目的は、部下の、
 一、情報に対する意欲・収集力を養う。
 二、情報の分析力を養う。
 三、情報分析の結果、抽出された問題点について、真剣に考える力を養う。
 四、考えた結果、得られた複数の選択肢の中から、最良、次善のものをえらび取る判断力を養う。
 五、そうした過程を経て得た組織合意に従う精神を育てる。
 ということになろう。この過程で、管理者は、部下が障害に突き当ったり、戸惑ったりするときは、そっと手をそえる。知的水先案内人の役を果す。
 要は、部下のひとりひとりが、組織目的をよく認識し、納得する契機をつくることである。
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■家康は知的部分を隠して情的面だけで管理

<本文から>
 家康は知的部分を隠して情的面だけで管理しているように見せかけるから、部下はこれにひっかかるのである。これが、家康の、「狸親父」と言われる所以である。彼は、自分では、自分の狡さを情のシュガーコートで隠して、うまくやっているつもりだったろうが、心ある部下には、それを見抜かれていたかもしれない。世間は馬鹿ばかりではない。まして部下以外の周りから見ても変なことは沢山あったろう。彼が狸親父と言われる所以は、つまるところ、彼の本能的な素質に根ざすものであった。しかし、本能的な素質に根ざすと言っても、その素質は、子供の頃からの不遇な辛酸がそれを培ったので、その点、世間から同情されていた。家康は、何と言っても根暗人間″であった。根暗だからこそ、胸の中に種々な権謀術数の才が養われ、しかしそれを露骨に表わせば人々が嫌うという処世法を彼はよく学んでいたのである。
 従って、知に綿を巻いて、気づかれないようにし、それを情の面でうまく管理していくというのが家康の組織・人事の管理方針であった。
 だからこそ、彼は自己のイメージ作りに、PRに、生涯、渾身の力を込めて努力したのである。彼の生涯は、その節目節目の行動を見ると、すべて世論に対する阿りか、あるいは自分のイメージを、より良きものにするためのPRの連続であった。人に悪く思われまい、人から感謝されよう、俺はこんなに情深いぞ、というようなことを臆面もなく、行為によって表わし、またそういう事を言い続けたのである。信ずる人間もいた。信じない人間もいた。
 しかし、家康はそんなことには頓着なく、とにかく、
 「徳川家康という人間は、こういう人間なのだ」
ということを、情による管理によって、続けたのであった。徳川家臣団と家康との類まれな結びつきが、よく戦国武士に希薄な、「忠誠心」の表われだと言うが、その忠誠心の実体は、構造的に演出された家康の功妙な管理方法であったことは間違いない。
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■管理の極意は温かく許すこと−家康の例

<本文から>
 人の評判を良くするものに、人を許す″という行為がある。許された人が、その人のことを周りの人に良く言うからだて
 家康は許せるものは許した。許すことによって、その者を、そして回りの者を味方にした。
 「家康公のためには、力の限りを尽くそう」という者を増やしていったのだ。
 こんなことがあった。ある時、本多正信が、
 「ある小身者がこのようなものを持って参りました」
 と言って、その小身者が書いた意見書を差し出した。家康は、
 「お前が読んでみろ」
 と言った。正信は読んだ。箇条書きのかなり長い意見書だった。読み終って正信は腹を立て、
 「この馬鹿者め。長い文章を書いてはきたが、ひとつも役立つものはないではないか。いや、お忙しいところをとんだお邪魔を致しました。さぞかしご不快でございましたでしょう。お詫びをいたします」
 と言った。家康は、正信がその小身者を罰するであろうと思い、こう言った。
「決してその小身者を咎めるではないぞ。一所懸命書いてきたのだ。たとえ、ひとつも役立つ意見がなくても、その者がそれなりに、俺への真心を示したのだ。それを大切にしよう。能がなくてもひたむきに考え、それを俺に届けようという心根はあっばれだ。褒美をやれ」
 と言った。正信は、しばらく家康をみつめていたが、
 「そう致します」
と言って、改めて家康に感動したと言う。
 この話も、たちまち拡まった。
 許すということの奥にあるものは、大度である。そして許すことへの責任である。
 その人の度量の内で、可能な限り許していけば、その度量は大きくなっていく。
 「右の頬を打たれたならば、左の頼を出せ」ではないが、自分に逆らう行動をとった者をも、許せる限りは許すということは大切なことなのである。それも、できることなら、温かく許すことである。相手が、心から感謝するほどに温かくである。
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■知力を研くものは諫言

<本文から>
 ところで、知による管理者は、常に自身の知力を研いでおかなければならない。名刀のようにである。知による管理者の武器は、何といっても自分の知力なのだから、これが鈍刀になったのでは、どうにもならない。
 では、知者の知力を研ぐものは何か。砥石とは何だろう。ひとことで言えば、それは、
 「諌言」
 である。直言だ。特に、耳に痛い直言である。諌言にきちんと耳を傾けるか、傾けないかが、実を言うと、知による管理の成否を相当に左右する。つまり、知者の器量を問われると同時に、知者自身が、自分の頭のよさ″を、いつもフレッシュに、今日的に保つゆえんだからだ。
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■土井利勝に見る″自ら泥をかぶる″管理法

<本文から>
 土井の管理法は、自分が最高の権力の座にあるがゆえに、そのままでも人は怖れるということをよく知っていた。だから、極力、勢威を抑制して、逆に情の中に知を溶けこませた。
 「苦心の管理法」と言っていいだろう。
 ここには、第一章で述べた黒沢明監督の話と相通ずる点がある。それは″自ら泥をかぶる″、自ら同じ次元に下がる(?)″という姿勢であり、実践である。
 一般にエリート社員が弱いのはこの点である。つい保身を考えるくせがついているために、こういった自ら泥をかぶる″ことができない。知らず知らずの内に、卑怯な行動をとり、それなりの理屈で自分を正当化してしまうのである。これでは、諌言をしてくれるような価値ある部下を失ってしまうことは目に見えている。
 しかも、反省のない、どうしようもないエリート意識旺盛社員は、諌言タイプの部下がいないことを、「部下がバカだから」とか、「俺のやっていることに間違いはないからだ」と、全くおかどちがいの了見を持ってしまうのである。
 諌言する部下がいない、もしくは、育っていないというのは、リーダーとして失格であることを、全くご存じでないのだろう。
 人の上に立った者が、一番にしなくてはならないことは、「自分を棄てる」ことだ。自分の下らない面子、エゴ、了見を棄てれば、部下が見えてくる、ビジネスが見えてくる、世の中が見えてくる。否、世の中の方が見てくれ、と、その実態を見せてくれる。それは、たとえば、江戸城明け渡しの時の勝海舟等を見れば明らかであり、こんな例は、歴史にごまんとあるものだ。
 それはさておき、自分のことよりも、一人の部下を思って行動することにおいてさえも、ものごとの流れはその者たちの方に流れてくるものだ。
 これこそ、大きな意味での「一体化」である。部下と一体化し、しかも世の流れまでが自分たちと一体化するのである。
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■ちょっとバカにされる上司になろう

<本文から>
 よく、「あだなや愛称で呼ばれる人間には、徳がある」と言われる。そしてまた、権力者や組織のトップ層もそう呼ばれたがる。かつて、佐藤栄作元首相が、
 「栄ちゃんと呼ばれたい」
 と言ったのは有名な話だ。
 あだなや愛称で呼ばれる、というのは、やはり人気がある、ということになるから、政治家の場合は、特に選挙民の投ずる票とのからみで考えるのだろう。
 アメリカの大統領がボビー(おやじ)″と呼ばれるのを喜ぶのも同じ理由からだ。
 管理者も、部下から、あだなや愛称で呼ばれるようになったら、これは大したものである。それも、「課長さん」とか、「部長さん」とかの役職名でなく、たとえば、
 「おとっつあん」
 とか、
 「おやじさん」
 あるいは、
 「頭」
 などと呼ばれるようになったら、その人の知・情両刀の管理はみごとに成功し、一体感・共感の土壌が、豊鋳にその職場に培われた、ということになる。
 部下という若い苗は、もう自分でどんどん育って行く。職場において「共感」ほど、個々人の能力を育てるいい肥料はない。
 それにしても、あだなや愛称で呼ばれる人々には、必ず共通点がある。それは、「親しみやすい」ということだ。部下を含めて、まわりの人々がスッと入れることだ。
 たとえば、吉田茂元首相がワンマン″と言われた。が、国民は別に吉田さんを怖がっていたわけではない。恐怖心の結果、あの呼びかたが生まれたわけではない。
 国会で、「バカヤロー」と言ったり、マスコミ・カメラマンにコップの水をかけたり、あるいは、ラッシュ時になかなかあかない踏切に腹を立てて、自分専用の道路をつくったりしても、どこかに愛敬″を感ずるのだ。ひとつひとつの言動に可笑しみを感ずるのである。
 この可笑しみを感ずる、というのは、ある意味で、大衆がその人物に軽い侮蔑の念を持つということだ。砕いた言いかたをすれば、
 「ちょっとバカにする」
ということだ。
 人気のある人は、いまもむかしも必ず、このちょっとバカにされる″要素を持っている。
 共感の管理者は、この要素を持つことが必要である。つまり、スキのある人間″になることだ。剣道で、未熟な後輩に、わざと打たせてやるのと同じだ。それが、まず、問題点に興味と関心を持たせるきっかけになるのだ。
 ちょっとバカにされる人間になろう、というのは、親しみやすさ″の入口である。共感の管理者になる基礎動作だ。ここからすべてがはじまるのだ。
 「敬愛」
ということばがある。
 敬して愛す、というのは、相手の知力を尊敬し、情力を愛するということだ。が、愛するというのは、いろいろあって、特に、職場で、
 「あの人は、愛すべき人物だ」
とか、
 「憎めない人物だ」
とか言われる時は、やはり、この、「ちょっとバカにされる」要素が入っている。
 これが、「愛すべき人物」 から、「あの人は、いい人だ」となると、ちょっとバカにされているのでなく、大分バカにされていることになる。好人物になるのは管理者失格だ。いい人というのは、別に、いてもいなくてもいい人になるからである。
 したがって、バカにされるのを、ちょっと″の段階でくいとめるのが知力だ。知力との巧妙なミックスである。
 だから、ちょっとバカにされる″というのは、管理者が職場に共感の土壌をつくるための土ならし″である。器量と言ってもいい。それだけの包容力を示すことになるからだ。
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