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<本文から>
別な言い方をすれば、
「ハートに訴える」
ということである。
「人生、意気に感じさせる」ことだ。
が、現代はそうそう根単(ネタン=根が単純)な人間ばかりはいない。白けている、ということばどおり、価値の多様化にともなう生き方の多元化で、簡単な同一化はできない。
特に、単なる「率先垂範」や、「先憂後楽」等が、そのまま通用しない場合もある。若い人ほどそうだ。すべてに対して懐疑的である。
こういう状況をさして、
「世の中が湿っぽい」
と言う。何をやっても社会は燃えない、と言う。燃やし手は、
「マッチばかり無駄になる」
と嘆く。組織も同じだ。クールで、小ぢんまりした自己完結型の人間が増え、なかなか協同作業がしにくい。自分さえよければいい、という人間が増えている。
こういう状況の中で、果して、
「人生意気に感じ」たり、
「自分の胸に火をつけ」たり、
「損得を考えずに、崖からとびおり」たり、
「他人のために生き」たり……、することができるのだろうか。
が、できなくても、やらなければならないのが現代の管理である。そこが辛い。しかし人間は、まだまだ、何かに感動したり、涙を流したり、喜んだり、悲しんだりする能力を持っている。いわゆる喜怒哀楽の四感情を持っている。
ただ、この四感情の中で、怒と哀は辛い。辛いから避ける。避けると、四感情の中からこれが抜ける。残るのは、喜と楽だ。いまの人間は、この喜と楽だけで生きようとする、
「喜楽人間」
が多くなった。喜楽人間は気楽人間″に通じる。自分のことしか考えない。それが白けている、ということだ。
しかし、そういう現象を責めるわけには行かない。職場内に喜楽人間が増えて困るとすれば、それは、その職場で怒と哀が価値を失っているからだ。
怒と哀が価値を失っている、というのは、怒っても、哀しんでも意味がないということである。何も得られない、ということだ。つまり、その組織(職場)では、怒ることや哀しむことが、すべて徒労で、エネルギーロスだ、という不文律が成立しているということだ。組織内正義が価値を失っているのである。怒哀の価値基準があいまいになっているから、怒ることも哀しむこともばかばかしい、ということになる。そこで、情による管理とは、
一、組織人に、喜怒哀楽の四感情を自然に流露させることである。つまり、人間が人間らしく生きられるようにすることである。
二、情感を刺激し、知の管理による温かみの欠如を補うことである。
三、職場そのものに、前のふたつのことが可能になるように血を通わせることである。活性化することである。
また、部下に対しては、部下が持っている、
一、正邪の観念を歪めずに育てる。
二、他人への心くばりを忘れさせない。特に、組織内差別・抑圧・疎外等に対する怒りの念を持たせる。
三、自己の情操を養ってゆたかな人間性を培う。それが職場全体をゆたかにする。
四、好奇心、ユーモア精神を養う。そのことによって、常に精神の青春化をはかり、また、弛緩させない。
等であろうか。
これは、前に書いた塔(目標)をより高く、より美しくし、そこに到る道(方法)や橋(障害克服)を、より変化に富んだものにする、ということだ。手っ取り早く言えば、
「仕事をロマン化し、ドラマ化する」
ということだ。それも、湿っぽい、つまらない仕事ほど、変化に富んだロマンとドラマにすることだ。
情による管理とは、単に部下の、「ハートに訴える」だけでなく、部下ひとりひとりの胸を、仕事のロマン化、ドラマ化の発生源にする、という。とである。 |
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