童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          井伊大老暗殺 水戸浪士金子孫二郎の軌跡

■鳥島に流されるが冒険心で乗り越える

<本文から>
 「藤九郎の島だ。」
 人間はいない−とにかく水をさがそう、五人は岩をのほりはじめた。
 五人は知らなかったが、この由は、いまの鳥島であった。
 土佐の中浜から室戸岬、潮ノ岬の沖と東に流され、そこから伊豆七由を左に見ながら南に流されて、ついに鳥島まで流されてしまったのである。
 その頃、日本では「遠島」といって、非人を島に流す刑罰があったが、それも、せいぜい八丈島ぐらいまでで、こんな速い島まで流されることはなかった。
 (もう日本には帰れないのではないか)
 島の位置がわからないながらも、五人の不安がますますつのった。ひとかたまりに集まって、じっと遠い沖を見つめるのだった。
 「こんなところでは船も通るまい」
 筆之丞がぼつんといった。五右術門が泣きだした。
 しかし−
 こうなると、もう万次郎はくよくよしていなかった。岩から岩をとび歩き、やがて海水が浸食してできた大きなほら穴を見つけた。ここなら風も吹きこまないし、満潮になっても海の水も入ってこない。
 「住む家にちょうどいい。」
 万次郎はにっこり笑った。持ち前の冒険心が、再び頭をもたげたようであった。 

■ハワイからアメリカへ勉強にいく

<本文から>
 文明の進んだアメリカ人が、当時、かなり世界の進歩に遅れていた日本の子どもを養子にするというのである。
 「万次郎。」
 筆之丞は万次郎に船長の希望を伝えた。ところが、驚いたことに、万次郎は、
 「船長と−緒にいきます。」
と、きっぽり答えたのである。
 「おまえ、おれたちと別れるのがさびしくないのか?」
 ちょっと意外な顔でききかえす筆之丞に、
 「それはさびしいと思います。でも、わたしは、もっとアメリカのことを勉強したい。船のことも、漁のことも=」
 万次郎はそう答えた。答えたが、本当の気持ちは、もっと別のところにあった。
 万次郎が勉強したいと思ったのは、船や漁のこともだが、それ以上に、こういうのびのびした人間が育つアメリカという固は、一体、どういう国なのだろうか、ということなのだ。つまり、
 (アメリカそのものを勉強してやろう。)
 そう思っていたのである。だから、確かに、くらしよく、住みよいことはわかるが、ハワイのホノルルでのんきに毎日を送ろうなどということは、まったく考えもしなかったのである。
 万次郎の答えに、四人は相談した。そして、万次郎がそうまでいきたいのなら、と、船
長に、
 「どうぞ、連れていってやってください。」
と、頭をさげた。断わられるか、と思っていた船長は、心からうれしそうな顔をして、
 「サンキュウ! サンキュウ!」
と、四人の手をひとりひとり、しつかりと掘った。

■アメリカの良いところを日本に持ち帰ろうと決心していた

<本文から>
 その帰れる日まで、できるかぎりこの国のいいところを学んで、日本に持ち込みもうと思っていたのである。
 それは、一五歳の少年が、たった一人で日本の国のありかたや、そこに生きる人びと(日本人)の生きかたを、がらりと変えようとすることだった。
 考えてみれば大変なことである。夢、といってもよかった。野望、ともいえる。しかし、
万次郎は、必ず、
 (やってみせる!)
と、心に誓った。
 そうでなければ、平和なハワイの生活を捨てて、たった一人でアメリカ本国にのりこんできた意味はなかった。
 男手一つでは万次郎を教育したり、生活の面倒をみたりすることが不便なので、ホイットフィールド船長は、万次郎を、部下の三等航海士ジョン=アスキンのところにあずけた。

■オックスフォードからパートレットへ。成績は優秀。

<本文から>
 オックスフォードというのは、名門校で、本当の秀才でないと入れない。そこへいって、数学や航海術や天文学などの、船員としての専門的な知識を学んでこい、というのである。
 船長がなにを考えているのかはきくまでもなかった。船長は、万次郎を、立派な航海士に仕立てるつもりなのだ。
 そして、ゆくゆくは、自分のあとを継がせるつもりなのかもしれない。
 難しい学校へ入ることは、ちょつととまどつたが、万次郎は、少年らしく、
 (将来、船長になって日本にいける日がくるかもしれない。)
 おっかあがどんなに驚くことか、と思った。
 万次郎は、また、街に戻ってオックスフォード校に入った。しかし、学校の費用を全部船長に山してもらうのは想いので、万次郎は、術の桶屋に見習いにはいった。桶屋で技術を学びながら、学費をすこしでもかせごうとしたのである。
 一八四五年、万次郎は、オックスフォード校からさらに上のパートレット高等学校に移り、ここの教程をぜんぶ修了した。成績は抜群だった。

■万次郎の通訳を水戸斉昭がアメリカのスパイとして邪魔した

<本文から>
 そして万次郎に、
「至急、江戸へきて、通訳の準備をするように。」
とげう命令を出した。
「幕府も、ようやくその気になつたか。」
と、万次郎は喜んだ。いさんで江戸につくと、幕府の役人は、急に、
 「あのことはとりやめだ。」
といった。あのこととは通訳のことだ。わけをきくと、役人は、
「水戸さまが、おまえのことをアメリカのスパイだ、といっている。」
と答えた。
 「・・・・・・?」
 万次郎は果然とした。
 水戸さまというのは、将軍の親戚になる水戸斉昭のことである。だから発言カが強い。こちこちの外国きらいだ。自分の城のある水戸の近くの寺の鐘を全部つぶして大砲を造っている。そのための費用は、税金を高くしたり、サムライたちの給料を半分に減らして造っている。だから、評判は全くよくない。
 しかし、将軍の親戚なので、幕府も持て余している。しかも、海防総裁といって、今の防衛庁長官のような役目についている。
 この水戸さまが、万次郎についてのよくないデマを開き込んだのだ。それを本気にして、
 「万次郎は、アメリカで教育されたスパイだ。日本に上陸して、日本の内情を全部アメリカに知らせた。そして、べリーに艦隊を率いてこさせたのだ。ペリーは日本を乗っとろうとしている。万次郎は、その手先だ。通訳などとはとんでもない!」
 そういうことをいって反対している、というのである。
  万次郎は呆れた。
 (なんというばかばかしいデマを信じこむのだろう)
 こちこちの水戸さまの頭を疑った。
 (この人も、ブタの頭だ。)
と、つくづく思った。通訳はとりやめになつた。

■万次郎が福沢諭吉を咸臨丸に乗せた

<本文から>
「中浜さん、どうか一緒につれていってください。」.
と、強引に赦んだ。アメリカの実態を自分の日で確かめ、さらに英語の勉強をしたい、という福沢諭吉の気持ちが非常によくわかるので、万次郎は勝に、
「ぜひ、連れていってあげてください。」
と頼みこんだ。勝も訪のわかる男なので、
 「よし、引き受けた。」
と胸をたたいた。こうして福沢諭吉は成臨九に乗り込めたのである。その後の日本にとって、かれがアメリカに行けたことの意義は、かなり大きいものがある。なぜなら、福沢論吉は万次郎とともに、日本にアメリカのいい面、すなわち、民主主義を植えつけようと努力したからである。
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず。」
という有名なことばは、福沢諭吉の考えをよくあらわしている。かれは、
「人例は全て平等である。」
ということを、日本人全部の考えにしたかったのである。これは、実際にアメリカで生活し、その考えを自分の身につけていた万次郎と一緒に航海しているうちに学んだことに違いいない。
 徳川幕府が倒れて、新しくできた明治政府は、日本をヨーロッパの国々の経済や文化水
準に追い付かせようと必死になった。
 「まず、国を富ませることだ。」
と考えて、日本の工業化に大きな力を注いだ。そのかわり、国民を富ませることを忘れてしまった。
 「国民にはなにも知らせる必要はない。ただ、政府に頼らせておけばよい。」
という当時の考えは、その後もずっと続く。日本に民主主義がもたらされたのは一九四五年
−昭和二十年−以後のことである。それも主としてアメリカ側からであった。)
 しかし、福沢論吉は万次郎とともに頑張りぬく。自分の思想を受け継ぐのは若い人たちだと考えて、慶応義塾(のちの康応先塾大学)を作ったりした。民主主義の種をまいた、という意味で、福沢諭吉の果たした役割は大きい。それも、万次郎に無理に頼んで咸臨丸に乗せてもらったことからはじまるのである。

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