童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
           人生の師一期一会をどう生かすか

■高齢者も自己啓発が必要(人の動かし方を学ぶ)

<本文から>
 そうなると、定年や隠居後も安閑と生きているわけにはいかない。めまぐるしい変化に対応するための「自己啓発」を欠くわけにいかない。
 定年や隠川は一つのコンマであってピリオドではない。人生の文脈はその後も長く続くのである。精神的資源も、「いままでの経験」という預金を少しずつ引き出して使うわけにはいかない。それだけではたちまち底をついてしまうからだ。コンピューターに、
「この金納では残金が不足します。はじめからやり直してください」
と言われる始末になる。結局、新しい預金が要るのだ。新しい預金とは、「新しい経験」のことである。新しい経験とは、新しい状況に立ち向かって、その状況にどう対応したかという″孤独な斗い″の成果だ。定年や隠居前の緊張感を依然として続ける必要がある、ということである。
 そして、できればその″新しい預金″を″古い預金″に加え、より豊かな高齢者として、あとに続く者に寄与することが望ましい。そうすることが、高齢者自身の本当の″生きがい”にっながるのではなかろうか。碁会所やゲートボールで楽しむのも、もちろん悪いことではなく、長い苦労に対する社会からの、″ご苦労さま″という感謝だろうが、率直に言ってそれだけでは寂しい。
 人間が人間として、生きる喜びをおぼえるのは、やはり、
「まだ自分も、誰かの役に立っている」
 ということを自覚できることである。他人にいやがられ、迷惑がられる存在でなく、喜ばれる存在なのだという自覚がもてることである。
 ということは、高齢者も高齢者なりの自己改革を続けなければならない、ということだ。

■「いかに」というその内容の伝え方も大事(人間の品格を学ぶ)

<本文から>
「自分が教えている内容は素晴らしいのだから、理解しないヤツの頭が悪いのだ」と考えているためである。「内容さえよければ、伝え方なんかどうでもいい」という考えだ。
 これはそうはいかない。「何を」 という内容を伝えるためには、「いかに」というその内容の伝え方、すなわち″表現方法″が大切になってくる。話で言えば「話法」 である。文章で言えば「文牽そのもの」 である。もう一つは、伝え手の副次的な属性だ。魅力と言ってもいい。魅力には天性のものと後天的なものとがある。生まれつきのものと、あとから努力して自分で作り出したものとである。
「魅力は自分で作れない」 と多くの人が言うが」 そんなことはないと思っている。魅力を自分で作り出す秘訣は、手っ取り早くは「他人を喜ばせよう」 という気持ちを育てることだ。自分のことばかり考えているのでなく、他人をまず喜ばせようという奉仕の気持ちがあれば、それはそのまま仏の心になる。それがその人を光り輝かせるのだ。
 このことは、学問指導にも言える。教えるほうが自分の教え方を省みることなく、ただ「理解しろ」と言ってもダメだ。「理解させるための工夫・技術」も大切だが、それ以上に ″教えられる側″ に対する深い愛情が要る。これがないと、教えられる側は敏感に見抜く。あると、これも敏感に感ずる。

■孤独な″自己放出″で部下を育てる(人の動かし方を学ぶ)

<本文から>
 如水はよく息子の長政にこういうことを言った。
「俺は、おまえより早くは死ねないな」
「なぜでございますか」
「おまえが先に死んでも、輿田家の部下たちはご憶居がいるから安心だと言うよ。が、俺が先に死んだら黒田家は大混乱に陥るぞ。それだけ俺のほうが人望があるのだ」
「よく言いますな」
 そう応じながら長政は心の中でカチンときた。
(俺だって、おやじに負けないぞ)
 という気持ちがあるからだ。しかし、それにはそれなりの工夫と努力が要る。長政は新しく″異見会”という会を創って、部下たちを集め、仕事についての議論をさせた。議論の中には、
「いま残っている如水さまのご方針はおかしい」
という指摘もあったが、長政は黙っていた。そんな話をすれば、父の如水が気を悪くすると思ったからだ。ところが、この異見会の議論が如水の耳に入った。ある日、長政は父のところに呼ばれた。
「異見会で、俺の方針がおかしいという話が出たのは本当か」
「誰がそのようなことを申しました」
「誰でもいい。なぜ俺の耳に入れぬ」
「お気を憑くなさると思いまして」
「俺はそれほど狭量ではない。すぐ直せ」
「それはできませぬ」
「なぜだ」
「私が親不孝者になります。直すのなら、父上がお亡くなりになってからにいたします」
「馬鹿者。そのほうがよほど親不孝になる。あの息子はおやじが死んだから、おやじのやり方をみな直したと言ってな。すぐ直せ。俺が生きているうちに直せば、ああ、おやじさんも承知しているのだな、と世間も納得する」
 長政は感動して如水を見た。
(うちのおやじはそんじょそこらにいるガンコおやじとは、全然違う)
 と思った。

■知らない人物を登用しないのは傲り(寛容と徳の精神を学ぶ)

<本文から>
徳川家康が土井を重く用い始めてからしばらくたって、こんなことを訊いた。
「新しくこういうポストを創る。甲という人間を登用しようと思うが、おまえはどう思うか」
すると土井はこう答えた。
「甲という人間は知りません。なぜならたいていの人間は私のところへ挨拶に来るのですが、甲はまだ来ておりませんので」
これを聞くと、家康は顔色を変えた。
「するとおまえは何か、自分のところに挨拶に来ない人間は、登用しないと言うのか」
土井はちょっとピックリしたが、家康に自分の考えを話した。
「大切なポストであればあるほど、やはりその人物をよく知っていなければなりません。人物を知るには、なんと言っても会って話をすることが効果的です。甲とは、まだ話し合ったことがありません」
 家康はたたみ込んだ。
「おまえは、いまのポストに就いてから、少し自惚れているのではないか。自分が人事を左右できるポストに就いたから、人事に希望があれば、必ず自分を訪ねて来るべきだ、挨拶に来るべきだ、という思い上がった気持ちがあるからだろう。そういう先入観や固定観念があったらけっして人間を正しく見ることはできない」
 土井は、さすがに心の中で(しまった!)と反省した。しかし、このときの家康は、鉾先を緩めなかった。なおも土井を叱りつけた。
「できる人間で誠実な人間は、けっしておまえの言うような挨拶回りなどはしないものだ。そんなことはしなくても、上のほうに目があれば、必ず発見してくれると思っているからだ。そのとおりだと似う。
 にもかかわらず、おまえのように、挨拶に来ない者はその人間を知らないから登用できないなどと言っていたら、野にいる遺賓は、発見者が誰もいなくなってしまう。結局、野に埋もれてしまうのだ。
 つまり、人間は、考えていることと、それをどう表現するかということが問題なのだ。そして、いまわしが例にしているような人物は、えてして表現がへたくそだ。処世術がへただと言ってもいいだろう。思うことも十分に言えないが、しかし能力がある。そして何よりも大切なことは、必ずそういう人間のほうが誠実だということだ。おまえも、人を左右できる立場にいるのだから、そのくらいのことはよく考えなければいけない」
 はじめの荒い語調が消えて、最後のほうはおだやかな口調になっていた。が、家康の土井を諭す気持ちは厳しかった。土井は冷や汗をかいて、その場に平伏した。そして、
「大切なお教えをいたださまして、ありがとうございました。本当にお恥ずかしゅうございます。たしかにいままでの私は思い上がっておりました。深く反省し、ただちに改めるようにいたします」
 これを聞いて、家康は、大きくうなずき、
「いつもに似ず、おまえに厳しいことを言ってすまない。しかし、これもおまえを大きく育てたいからのことで、悪く思うな」
 と言った。土井は、さらに平伏して、「もったいのうございます」と感謝した。

■「項羽型人育て」と「劉邦型人育て」の功罪(寛容と徳の精神を学ぶ)

<本文から>
 職場でのリーダーシップのとり方には二つのタイプがある、と言われる。項羽型と劉邦型だ。二人とも中国古代の英傑で、古代中国を統一するために争った。
 なぜ二つの型に分けられるのか。そしてどこが違うのか。ひと言で言うと、
○項羽は、部下のあらゆることを知っている。だから人事についても人事課の案を鵜呑みにしない。注文を出すし、クレームもつける。彼は人事はパズルはめだと思っている。丸い穴が開けば丸い人間を、四角い穴が開けば四角い人間を当てはめなければダメだ、と考えている。
それが人事課の案では、丸い穴に四角い人間を、四角い穴に三角形の人間を当てはめたりする。項羽はそのたびに、「取り換えろ」と命ずる。
 が、それだけに項羽は部下一人ひとりについてあらゆることを知っていた。部下だけでなく、その家族についても、誕生日や就学年齢に達したかどうかも知っていた。その日が来ると、
「何課の誰々を呼んでくれ」
 と言って、その誰々を呼んだ。そして、
「おい、今日はおまえの奥さんの誕生日だろう。俺のお祝いだよ。これをあげてくれ」
 と言って、用意しておいた品物を渡す。その部下のほうが女房の誕生日など忘れていたくらいだから、これにはハッとする。そして感動する。
(項羽さまのためなら、命も要らない!)
 と思う。いまでいうなら、
「この上司のためなら、時間外勤務もいとわない」
 と言って、日曜出勤も喜んでする、ということだろう。
〇一方の劉邦は、そんな項羽をせせら笑う。
「項羽はトップリーダーじやない。重箱の中を楊枝で突っついているようなものだ川 リーダー
は、重箱の中はスリコギでかき回さなければダメだ」
 と言う。つまり、
「拙かいことを隅々まで気にするな。もっと下に任せろ」
 ということである。現場のヒラの人事まで社長が口を出すな、もっと幹部に任せろということである。だから劉邦は現場の人事には口を出さない。みんな幹部に任せる。勢い、幹部は劉邦に心服するが現場の人たちは劉邦にあまり親近感をもたない。
「劉邦さまなんて雲の上の人だ」
「入社以来、一度も顔を見たこともないよな。社長室のある階のトイレで張り込みをしてたんだけど、トイレにも来ないよ。あとで聞いたら、社長室の中にトイレがあるんだってさ」
「あの人の頭の中には、俺たち下っ端のことなんか全然ないさ」 などと言われる。
 これが項羽型と劉邦型である。中国の歴史の上では劉邦が勝った。彼は項羽を滅ぼして漢という国を造り、そこの高(始)祖になる。だからなんでも中国の真似をする日本の武将たちは、ほとんど劉邦の真似をした。戦国時代の武田信玄ほかすべてそうだ。
 たった一人項羽型がいる。繊由信長だ。信長は人事も仕事のやり方も絶対に幹部に任せなかった。全権を一手ににぎつた。そして天下を取った。″お任せ″型のほかの武将はみんな彼に従わせられた。

■松下村塾と敵塾の人材育成(寛容と徳の精神を学ぶ)

<本文から>
  さて、それでは前項に書いた吉田松陰の松下村塾における、”お世話型”の人材育成方法と、洪俺の適塾における″お任せ型”の人材育成方法とは、どんな点で違っているのだろうか。
 吉田松陰の教育方法は、言ってみれば、
「弟子一人ひとりの人間性を見極め、それに似合った人づくり方法をとる」
 ということであった。だから松陰は、弟子一人ひとりについての細かいデータを全部頭の中に叩き込んでいた。そのデータによって、
「この人間は、こういうふうに育てれば、可能性が伸びる」
と思っていたのである。
 ところが、適塾の緒方洪庵は、そういう方法をとらなかった。彼が行なったのは、
「門人の間で後輩を育てる先輩を作り出す」
ということであった。後輩を導く先輩を作り出すというのは、洪庵は、古い門人しか教育しなかったということである。古い門人たちだけを集めて勉学を教え、
「お前たちのあとから入ってきた門人は、おまえたちが教えろ」 と言って、新しい門人にはいっさい目を向けなかった。トップリーダーのあり方としては、
「ヒラまで目を向けない。ヒラは幹部が管理監督すればいい。したがって、トップリーダーとしての自分は、幹部だけを指導する」
 という方針である。こうなると、幹部門人としての弟子たちは、まごまごしていられない。彼らは、先生に代わって、若い弟子たちを教えなければならないからだ。前に名をあげた福沢諭吉以下の門人たちは、全部緒方洪庵から直々に教えを受けたが、今度は自分たちが先生の代理として若い門人たちを教えたのである。そのためには、たいへんな勉強をしなければならなかった。
 もう一つ、適塾の特性として、「将来の就職の世話はしない」ということがあった。洪庵の教育方針は、「適塾は学問を学ぶ場であって、将来どんな職業に就くかはそれぞれ自分で考えればいい」
 ということであった。ということは、職業の斡旋はいっさいしないということの裏返しである。しかし、この塾で学んだ門人たちは、むしろそのことのほうを大切にした。もちろん、みんな貧乏だった。しかし、本当の青春を謳歌していたのである。そういうありさまを、師の緒方洪庵は、ニコニコ笑いながら見守っていた。

■龍馬の自分を変える三つの方法(人生への情熱と忍耐を学ぶ)

<本文から>
 いまの世の中でも、龍馬の言った自分を変える三つの方法、すなわち、
@自分の古い価値観を破壊する。
A新しい価値観を創造する。
B古い価値観の中でも、いいものは最後まで守り抜く。
 ということはなかなか実行が難しい。特に、古い価値観を壊すということは、自分の心の中でも抵抗がある。
「俺は古くはない。改めるところはない」
 と頑固な声が、胸の中で叫ぶ。しかし、それを押し潰して新しい考えに変えていくということは、自分における「何か」を「殺す」ことなのだ0そして、新しい生命を「生む」ことなのである。
 この「自分を殺し、新しい生命を生む」という行為は、毎日のように起こる。おそらく死ぬ日まで続く。そのためには大きな勇気が要る。
「その勇気がなければ、自分を変えることなどできない0自分を変えることがでさなくて、なんで世の中を変えることができるのだ」
 というのが、坂本龍馬の考えだったのだろう。彼のこういう考えはいまでもそのまま通用するのではなかろうか。

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