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<本文から> そうなると、定年や隠居後も安閑と生きているわけにはいかない。めまぐるしい変化に対応するための「自己啓発」を欠くわけにいかない。
定年や隠川は一つのコンマであってピリオドではない。人生の文脈はその後も長く続くのである。精神的資源も、「いままでの経験」という預金を少しずつ引き出して使うわけにはいかない。それだけではたちまち底をついてしまうからだ。コンピューターに、
「この金納では残金が不足します。はじめからやり直してください」
と言われる始末になる。結局、新しい預金が要るのだ。新しい預金とは、「新しい経験」のことである。新しい経験とは、新しい状況に立ち向かって、その状況にどう対応したかという″孤独な斗い″の成果だ。定年や隠居前の緊張感を依然として続ける必要がある、ということである。
そして、できればその″新しい預金″を″古い預金″に加え、より豊かな高齢者として、あとに続く者に寄与することが望ましい。そうすることが、高齢者自身の本当の″生きがい”にっながるのではなかろうか。碁会所やゲートボールで楽しむのも、もちろん悪いことではなく、長い苦労に対する社会からの、″ご苦労さま″という感謝だろうが、率直に言ってそれだけでは寂しい。
人間が人間として、生きる喜びをおぼえるのは、やはり、
「まだ自分も、誰かの役に立っている」
ということを自覚できることである。他人にいやがられ、迷惑がられる存在でなく、喜ばれる存在なのだという自覚がもてることである。
ということは、高齢者も高齢者なりの自己改革を続けなければならない、ということだ。
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