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<本文から>
明治から終戦までの弘前は″軍都″だった。戟後はそれを学都″に変えた。たくさんの大学や学校がある。この方針転換は古くからとられてきた賢明な策である。
戦国時代、この地方を支配していたのは津軽(旧大浦)為信だった。しかし為信はいまでいう、
「先見力に富む軽骨者」
であって、東北の一隅にいながらも常に天下の動向を望見していた。そのため、手元に中央からの情報を集める。為信はすでに、
「中央と地方」
の関係を重くみていた。つまりかれは、
「天下人というのは、中央において全日本的な政治をおこなう存在である」
と考える。そして、
「地方大名はそれぞれの地域の行政をおこなう存在である」
と区分する。しかしこの両者は村立するものではない。というのは、そこに住む人びとがいまでいえば「国際人であり、日本人であり、地方住民である」という三つの性格を持つからである。そうなると為信にすれば、
「中央政治をおこなう者と地方政治をおこなう者とは、それぞれ役割分担をしているだけであって、決して敵対するものではない」
ということになる。為信が考えたのは、
「いかにおれがすぐれていても、おこなえるのは津軽地方の地方行政だけだ。天下(国政)のことは、やはり天下人に依存せざるを得ない。そうであれば、やはり地方大名と天下人とはともに手を携えるべきである」
と考えていた。このへんの見解は正しい。かれが天正十八(一五九〇)年に真っ先に、小田原城を攻略していた天下人豊臣秀吉のもとを訪れたのは、この考え方からだ。当時は天下人と地方大名とは主従関係にあって、天下人のご機嫌を損じたら地方大名はつぶされる。したがって為信が早速小田原に駆けつけたのは、
「天下人秀吉公によって、自分の支配している行政区域を認知してもらおう」
ということであった。こういうすばやさはやはり正確な情報がなければとれない。その点為信は、上方情報を間断なく取り入れるルートを持っていた。またネットワークも張っていた。
桜や紅葉の名所である弘前城が築かれたのは、慶長八(一六〇三)年の計画で、工事はその二年後に起こされた。実際に築城をおこなったのは為信の子で二代目の津軽信枚である。築城地は高岡といった。海抜約五〇メートルの台地である。そして、高岡が弘前に改められたのは寛永五(一六二八)年のことだ。 |
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