童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          人生の歩き方はすべて旅から学んだ

■弘前−津軽為信が、中央と地方の関係を重視したために発展

<本文から>
  明治から終戦までの弘前は″軍都″だった。戟後はそれを学都″に変えた。たくさんの大学や学校がある。この方針転換は古くからとられてきた賢明な策である。
 戦国時代、この地方を支配していたのは津軽(旧大浦)為信だった。しかし為信はいまでいう、
「先見力に富む軽骨者」
 であって、東北の一隅にいながらも常に天下の動向を望見していた。そのため、手元に中央からの情報を集める。為信はすでに、
「中央と地方」
 の関係を重くみていた。つまりかれは、
「天下人というのは、中央において全日本的な政治をおこなう存在である」
 と考える。そして、
「地方大名はそれぞれの地域の行政をおこなう存在である」
 と区分する。しかしこの両者は村立するものではない。というのは、そこに住む人びとがいまでいえば「国際人であり、日本人であり、地方住民である」という三つの性格を持つからである。そうなると為信にすれば、
「中央政治をおこなう者と地方政治をおこなう者とは、それぞれ役割分担をしているだけであって、決して敵対するものではない」
 ということになる。為信が考えたのは、
「いかにおれがすぐれていても、おこなえるのは津軽地方の地方行政だけだ。天下(国政)のことは、やはり天下人に依存せざるを得ない。そうであれば、やはり地方大名と天下人とはともに手を携えるべきである」
 と考えていた。このへんの見解は正しい。かれが天正十八(一五九〇)年に真っ先に、小田原城を攻略していた天下人豊臣秀吉のもとを訪れたのは、この考え方からだ。当時は天下人と地方大名とは主従関係にあって、天下人のご機嫌を損じたら地方大名はつぶされる。したがって為信が早速小田原に駆けつけたのは、
 「天下人秀吉公によって、自分の支配している行政区域を認知してもらおう」
 ということであった。こういうすばやさはやはり正確な情報がなければとれない。その点為信は、上方情報を間断なく取り入れるルートを持っていた。またネットワークも張っていた。
 桜や紅葉の名所である弘前城が築かれたのは、慶長八(一六〇三)年の計画で、工事はその二年後に起こされた。実際に築城をおこなったのは為信の子で二代目の津軽信枚である。築城地は高岡といった。海抜約五〇メートルの台地である。そして、高岡が弘前に改められたのは寛永五(一六二八)年のことだ。
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■兵庫県三木市に伝わる「羽柴様のご恩」

<本文から>
 三木城が陥落したのは天正八(一五八〇)年一月十七日のことである。羽柴秀吉は切腹した城主別所長治たちの首を安土城に送って、三木城を落としたことを織田信長に報告した。信長は、
 「サル、でかした」
 と褒め、
 「茶の湯をゆるす」
 と告げた。
 当時茶の湯の会を開催するのは信長のパテントになっていて、部下の武将は誰もゆるされなかった。したがって茶の湯の会が開けるということは、武将たちにとって大変なステータスになる。このへんは信長の、
 「土地ではなく文化を褒美に変える」
といううまい管理法なのだが、秀吉たちもこれを求めていた。羽柴秀吉は城が落ちる前日に、すでに三木の城下町に制札を立てている。次のような内容だ。いまふうに文章を改める。
 一、当町(三木の城下町)へ転入する者はすべて課役を免除する。
 一、借金・借米・年貢の未進分は、天正人(一五八〇)年一月十七日より前のものはすべて帳消しとする。
 一、去年までの町の負担金や商人との貸し借りなども、これを帳消しとする。
 一、この制札に反し、あくまでも先年までの借銭などを取り立てる向きがあるときは必ず直訴すること。
 一、どさくさまぎれの略奪や安い値段でものを買うことを禁ずる。
 というものであった。大変な優遇策である。この制札ゆえに三木の旧住民及び新住民は、
 「羽柴様のご恩」
 として長く語り継いだ。
 おもしろいのは徳川時代に入ってからもこの恩典が活かされて、明治維新まで三木の城下町ではこの制札に書かれたとおり課役の負担が軽減されたという。
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■岡山県総社市−地方自治を整えた温羅皇子が謀反人として鬼にされた

<本文から>
 しかし、突然日本に渡ってきた温羅皇子がそれほど長い年月をかけずに、総社という山里にひとつの城を築くということはやはり異常だ。当然、温羅皇子がそれを成し遂げることができたのには、付近住民の理解と協力があったと思わざるを得ない。それには当然、
 「反対給付」
 があったはずだ。
ではいったいその反対給付とはなんだろう。ぼくの推測だが、温薙が地域住民に対し反対給付として提供したのが、
 「地域開発の新しい技術」
 だったような気がする。農耕民族である日本人に、水稲の的確な育て方や、水田に引く灌漑用水の設置、あるいはその水源の整備、さらに道路整備や家屋の季節に応じた村応などを、次々と惜しみなく伝授したに違いない。住民たちはおどろいた。自分たちの気がつかなかったことを、この温羅皇子は的確な言葉と技法によって教えてくれる。みんな眼をみはった。だから住民たちにとって温羅皇子は決して鬼″ではない。
 「朝鮮から渡ってきた生きボトケ棟」
のように思えたことだろう。
 しかし、それにしても温羅皇子はなぜ大きな城を築いたのだろうか。現在も残るこの城跡は、
 「あきらかに朝鮮式築城だ」
 といわれる。しかも山城だ。現在、石垣が残っているが、その石の積み方がまさしく朝鮮式だという。となると温羅皇子はここに、
 「自分なりの地方自治の拠点」
 を築いたのだ。
 都のほうではこのことを気にした。情報を得ると都では、
 「温羅皇子はけしからん。都の方針に従わずに、勝手に地域に自治の拠点を築いている。征伐しよう」
 ということになった。いまでいえば、
 「中央の方針に従わない地方割拠主義」
 ということだ。中央政府に自信があればそんなことは気にしない。
 「そうか、総社のほうでそん.な地方自治が実現されているのか。中央でも参考にして、よいところは取り入れよう」
 と広いきもちになるだろう。ところがそのころの中央政府はビクビクしていた。したがって地方で温羅皇子が強力な自治地帯をつくりあげたときくと、大きな脅威になる。しかも温羅皇子は日本人ではない。渡来人だ。
 「まごまごしていると、温羅皇子の本国からもさらに応援がくるのではないか」
と疑心暗鬼はさらに増した。いってみれば総社近辺に、異国の自治地帯が出現してしまうという恐れだ。バカな話である。しかし中央政府は征伐軍をさし向けた。その司令官になったのが吉備津彦だ。出陣した吉備津彦が吉備の中山に布陣した。温羅皇子のこもる鬼ノ城はここから約一〇キロ(二里半)の距離にある。たちまち激しい攻防戟を展開した。
 このときの戦いについては、互いに魚になったり動物になったりしたという伝説がある。現在岡山市内にある吉備津神社に矢置石″があって、これが吉備津彦の本陣の跡だろう。吉備津彦はこの石の上に夫を置いたという。結果として、温羅皇子は敗れる。吉備津彦が勝つ。つまり、
 「地方自治に対する中央集権の勝利」
である。古代の鬼退治″だ。
 「日本国内における、先進技術の誘致地帯」
 としての総社地方は、大和朝廷の枠の中に入った。そして温羅皇子は、
 「大和朝廷に背いた謀叛人」
 という位置づけにされてしまった。このへんは大和朝廷のPRの勝利だ。だから現地でも温羅皇子についての伝説は、″鬼″の名で示されるように、反逆児の扱いだ。
 しかし掘り起こしてみると、必ずしもそういうことではない。中央政権が、日本各地で大きな力を示すような実力を知ると、必ずこれをつぶしにかかる。出雲の大国主命もその例だ。この温羅皇子については、もっと掘り起こしてみる必要があろう。
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