童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          人生、義理と人情に勝るものなし

■親代わりだった映画

<本文から>
 「ぼくにとって、映画はめんどうをみてくれない(というより、みられない)親の代わりの役をつとめてくれたからである。
 ぼくはいまでも映画を、
「ぼくの体験にない人生経験を味わせてくれる得がたい媒体だ」
と思っている。
 特に外国映画ですぐれているのは、ほとんどが家族や小さな町の物語である。個人やコミュニティを大切にし、起こつた問題への突っこみの探さは日本の比ではない。
 しかしぼくが子どものころは、日本にもすぐれた家族映画や町の映画があった。「路傍の石』 (一九三人年、田坂具隆監督)などはその代表だ。もともと空想癖のつよいぼくはすぐれた映画の中にはいりこむ。「路傍の石」でいえば、たちまち主人公の吾一になってしまうのだ。
 貧しさのために、友人の商家に小僧にいって味わう屈辱は、そのまま貧しいぼくの日常にオーバーラップする。しかしその吾一を支えてくれるやさしい母親はぼくにはいない。
 「吾一という名は、この世でたったひとりしかいないという誇りに溢れたものだ。その名を大切にし、名前に負けないように生きろ」(意訳)と、はげましてくれる小杉勇のような教師もいない。ぼくを教える教師は、授業参観にくる金持ちの母親に媚態ばかり示し、その分、ぼくたち貧しい生徒をイジメる鼻もちならないヤツだった。
 この現実と映画との乖離は、次第にぼくを″映画の世界に生きる空想癖"の中に追いこんでいった。つまり、
 「オレのほんとうの父親は小杉勇先生のようなヒトなのだ」
 「オレのほんとうの母親は、風見孝子さんか、「無法松の一生」(四三年、稲垣浩監督)の吉岡大尉の奥さん(園井恵子)のようなヒトなのだ」
などと夢想するのである。バカバカしいかぎりだが、この空想はそのころのぼくの心の空洞部分をかなりみたしてくれた。

■小説は男子一生の仕事

<本文から>
「わたしは小説を修業する上で、師匠がいなかった。ほとんど懸賞小説に応募ばかりしていた。その頃のわたしは特に純文学と大衆小説を分けて考えていなかったので、「文学界」、「新潮」、「群像』あるいは「オール読物」、「講談倶楽部」(のちに「小説現代」に発展する)などの新人賞に片っ端から作品を送った。しかしなかなか入選しなかった。ほとんどの作品が、うまくいって次席、あるいは佳作だった。こういう応募を何度も続けていると、例えば第一次予選、第二次予選、そして最終選考に残った顔ぶれをみていて、
 「ああ、またこの人も応募しているな」
と、一度も会ったことのない応募者に妙な親しみの気持ちが湧いてくる。

■わたしの歴史小説作法

<本文から>
自分の企業秘密を明かすようですこし面映ゆいが、わたしが歴史小誓書く時の行程はつぎのようなものだ。
 ・現実に身近で起こつた事件で特に関心を引くものへのこだわり
 ・その事件にひそむテーマ、さらにモチーフヘの接近
 ・歴史上の類似事件の探索
 ・歴史上それがどう解決されたかの経過調べ
 ・現在の事件とのオーヴァーラップ、整合
 したがってわたしの場合は、過去の"死体解剖"でなく、現実の"生体解剖″が目的になる。そのため、往々にして結論が先に出るという誤カをおかす。帰納法でなく演繹法ということだろうか。結論もひとりよがりであり、牽強付会の強引さもある。
 史(資)料の勉強の方法もわたしなりの選択をする。地方自治や地方分権とのからみで人物を扱うことが多いので、
 ・県(都道府)史シリーズでその県の歴史(山川出版社)
 ・その県(都道府)の歴史散歩(同右)
 ・地域別歴史散歩(創元社)
から読みはじめる。
 ・そして現地調査。この時は現物のほか地域の公共団体が出している「市(都道府県町一村)史」をねらい目にする
 こうして持ち帰った素材をバラバラに仕事場に並べ腕を組む。小説にかぎらず、表現によってある固体に仕上げるモノの制作行程は、つぎのようなプロセスを辿るものではないか、と思っている。
 ・気体…モチーフ。もやもや
・液体…
・粘体…テーマ化(多少形が見えてくる)
 ・固体…テーマがパチンと割れ、表現が可能になる
 現実にはこれがなかなかうまくいかない。パンをつくる時のイースト菌の発酵のようなもので、完全発酵まで至らないうちに締切日がきてしまい、中途半端な焼きあがりになることもある。
 さて固体化への作業で、人物史を改めて勉強する。この基幹にさせていただくのは、
 ・『人物叢書』(吉川弘文館)
 だ。これに中公新書や岩波新書を併行して勉強する。思想がからむ人物は中央公論社の思想シリーズを読む。この思想シリーズはその人物の生注が必ず添えられているのでありがたい。こういう史料を読んでいるうちに、頭が勝手に動き(寝ている時も)、やがて厚い雲が裂け、うっすらと薄明の層が見え、その向こうに日輪の光が垣間見えてくる。こうなってはじめて、
 「やったあ!」
と快哉の声をあげられる。つまり完全発酵の手ごたえが得られたということだ。
 本来ならここで筆をとりたいところだ。が、逸る心をおさえもうひとつ書く前の確認作業がある。

■オトナは、目にみえないものをみようとしない

<本文から>
「オトナは、目にみえないものをみようとしない」
  これがひとつだ。もうひとつは、
 「いまの世界では、正しいものがかならずしも歓迎されない」
 というセリフである。この二つが、ぼくにとってこの難解なドラマを理解するひとつのカギになった。切実に感じたのは、たしかにおどろおどろしたオカルト的なシーンもたくさんあり暴力もある。しかしこのドラマの根底を地下水脈のように流れているのは、やはり、
 「若者たちの真実追求の姿勢」
である。つまり若者たちが、
 「オトナが信じょうとしない、目にみえないものを自分たちは信じている」
 という心境に追い込んだのはいったいだれなのだろうか。オトナがそういう世界をつくったのではないのか。ぼくはそう思う。若者たちは、オトナたちのつくった世界に愛想を尽かし、そこには何ら信じられるものの存在を認めなくなっているのだ。
 「いまの世界では、正しいものがかならずしも歓迎されない」
 という控えめないい方は、本当は絶叫に近い。ぼくは考えさせられた。したがって、こういう難解なドラマを突きつけられると、ぼくのような怠惰な人間に対して、
 「少しはわかろうとする努力をしろ」
 といわれているような気がした。ぼくは審議会の席上でこう告げた。笑いが湧いた。中には、苦笑まじりで、
 「あなたのような努力をするような根気はもうわたしにはなくなりましたよ」
と正直な声をたてる委員もいた。しかしこの完全な"カルチャーギャップ″の谷を埋めるのは、やはりオトナ側が、
 「若者をわかろうとする努力」
 という大乗的な態度を示さないかぎりいつまでたっても平行線だ。ましてや、
 「いまの若いやつらの考えていることはまったくわからない」
 とか、
 「日本はいったいどうなるのか」
 などという若者を突き放すようなことばかりいっていたのでは解決にはならない。どちらかが折れなければならない。そして折れるのは、こ、ついう〃正しいことが歓迎されないような状況〃をつくり出したオトナのほうにむしろ罪があるのではなかろか。

■幕末の若者たちは基礎を身につけている

<本文から>
幕末の若者たちの生き方を見ていて、わたしが感じたのは、「どんな英傑でも、その才能に任せてトントン拍子に自分のしたいことをしていったわけではない。みんな、基礎をしっかり勉強している。根気強く努力している」という事実であった。
 高杉にしても坂本にしても西郷にしても大久保にしても、みんなある時期かなり不遇な時代を送っている。かれらはそれぞれ自分に自信があった。しかしその自信も状況によって発揮されなければ、次第に疑問を感ずる。
 (俺はだめ人間なのではなかろうか)という考えに落ち込む。しかし、かれらはひるまなかった。つまり、不遇な時代に基礎的な勉強をコツコツと重ねることによって、その勉強の中から自分に潜んでいた才能を発見し、「この才能を伸ばすにはどうしたらいいか」と考えたのである。
 わたしがこの時期にある先輩からいわれた言葉は、「自分を高く評価し、謙虚に生きろ」ということであった。
 自分が大切に守らなければならないものには自信を持ち、誇りを持て、しかしいつも自分は完全ではないという謙虚な気持ちを持って、渡する多くの人々から何でもいいから一つでも学ぶような態度を取りつづけろ、ということであった。この考え方は現在でも実行している。常に、(自分はまだ完全ではない。修行者だ)という気持ちを失わない。
 現在はすでに老齢に達しているので、同じ年頃の歴史上の人物を調べては、「この人は自分の年にはも、」これだけのことをしていた。にもかかわらず自分は一つも満足なことを
 していない。俺はやっぱりだめ人間かな」と、絶望の谷に落ち込んだり、「いや、俺だってできをかもしれない」と、自分を奮い立たせてまだどこかに隠れた才能が潜んでいないか、そういう探索も怠らない毎日である。

■壁に挑む

<本文から>
仕事の壁には"ハードな壁″と"ソフトな壁″のふたつがある。ハードな壁というのは、その仕事に対する知識不足や技術不足などのことだ。努力次第ではこの壁は破れる。が、ソフトな壁はなかなか破れない。
 ソフトな壁というのは、人間の意識にかかわりを持つ壁のことである。たとえば職場での人間関係のコジれ、誤解、対立、嫉妬、憎みあいなどがこれに入る。解決するのにも相手があることなので、こつちの思うようにはいかない。そして、もっと厄介なのが、「自分で、自分の中につくる壁」だ。
 ぼくは三十二年ほどサラリーマン生活を送ったが、若いころ、ひどい対人恐怖症にかかったことがあった。経験のある方はご存知だろうが、あの病気にかかると実に厄介なことが起こる。それは、症状としては、人と対きあうとすぐ顔が赤くなる、胸がドキドキする、思うように話せない等の現象が起こる。
 が、一番辛いのは、そういう病気にかかっていながら、しかも周囲の方がそのことをよく知っているのに、本人の方が、
 「自分は神経症なんかじゃない、正常だ」
 という姿勢を無理に示すことだ。病人でありながら病人じゃない、といい張るのだ。そういう突っぱりを続けるから、病気はいよいよひどくなる。"心のひずみ・亀裂"がさらに大きくなり、治癒とはほど遠くなる。
 こうなったらもう仕事どころではない。職場に行くこと自体が苦痛である。辛うじて職場にたどり着いても、職場の人たちとまともに接することはできない。こっちと全く関係のない話をしていても、(オレの悪口をいっているのではないか?)と気にかかる。
 いま、思い出してもゾツとする。文字どおり、″地獄の思い″であり、その地獄の中で生きていた。必死になって癒す方法を探した。精神科医に看てもらうのは恥ずかしかった。朝からお酒を飲んで出勤したこともある。しかし、これは自己嫌悪心を育てるだけで、病気にはますますよくない。ついに、(自殺しようか)とまで思った。が、そんな勇気はない。毎日のくらしはまっくらになり、何をどうすればいいのか見当もつかなかった。

■吉田松陰の教育法

<本文から>
「人それぞれには必ずひとつぐらいいいところがある。その長所を伸ばすことが、わたしの願いなのだ」
吉田松陰が松下村塾を開いていた期間はわずか二年ぐらいにすぎない。しかしそのわずか二年間の教育で、あれだけ多くの人材が生まれたのである。木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、明治新政府の最高幹部になった人物もたくさんいる。
 かれらが松陰に一様に感じたのは、
 「松陰先生の魂は、部類に美しい。絶対に嘘をいわないし、信ずるに足る。松陰先生は、つねに命がけでわれわれを教育してくださった」
 ということであった。
 この無欲、無心の教育姿勢が、若い弟子たちの魂を根底から揺さぶったのである。吉田松陰の教育方法は、こういうように社会問題を素材にしたというだけではない。かれは、自分の魂から学生の魂に訴えつづけたのだ。人間の根源と根源が結びつけば、必ず相乗効果を起こして世の中のためになる力が生まれる、ということを松陰は固く信じていた。
 こういう松陰の教育方法は、徳川幕府をも警戒させ、安政の大嶽で松陰は殺されてしまう。しかしその精神は、脈々とその後も続いてゆくのだ。松陰の教育方法は、単に知識や技術を教えただけではない。
 「人間としてどうあるべきか」
ということを、心の問題として捉えていたのである。松陰にとっては、吉田松陰という存在自体が、一個の教育素材であったといっていい。

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