童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          人生を選び直した男たち 歴史に学ぶ転機の活かし方

■渋沢栄一−代官の不正な取り立てを一大転機とした

<本文から>
 「ただお代官様の言うことを承ってこい、と言われました。したがって、家に戻って、父から返事をさせます」
 これを開くと、今までニヤニヤと笑いながら、上目づかいに栄一の顔を見ていた代官が、突然形相を変えた。そして、今度はさらに居丈高になって、
 「名代というのは、当然、父親の権利を与えられて来ているはずだ。家に戻って相談をするくらいなら、代理とはいえない。この場でお受けしますと返事をしろ」
 と言った。栄一は、屈しなかった。そして、
 「どのように仰せられましても、すぐお受けするわけには参りません」
 脇でハラハラしていた他の二人は、しきりに栄一の着物の袖を引っ張って、
 (承知しろ。後がやっかいなことになる)
 と目で、合図した。栄一は首を振り続けた。代官は呆れて、
 「貴様のような頑固者は見たことがない。早々に立ち帰って、父親と相談をしてすぐ返事を持ってこい」
 憎々しげにそう言った。
 「是非、そうさせていただきます」
 一歩も引かずに、栄一は頑張りとおして陣屋を出た。他の二人が追いかけてきて
 「栄一さん、やっかいなことになっても知らないよ」
 と言ったが、栄一は、昂然と二人を見返した。栄一は、この時のことをこう述懐したそうだ。
 「個人の財産は、個人に所有権があるのであって、他人がどうこうすることはできない。また、人間の世の中で大切にされるのは、賢いか愚かかだ。にもかかわらず、今の徳川幕府の制度では、ただ武士であるということがすべてに優先して、もともと返す気のない金を、御用金などといいながら、強制的に民から取りあげている。しかも、その態度が傲岸不遜で、金の出し手に対しても礼をつくさない。しかし、あの代官を例にとれば、あの代官は実に愚かな男で、ただ威張ることしか知らない。一体、こんな人間が御用金を出す人間を軽蔑していいということは、徳川の士農工商とい与商人や経済をバカにする政治から生まれている。あの代官のような、虫けら同然の人間から、ただ農民だというだけでバカにされるのはたまらない。このうえは、一日も早く農民をやめることだ」
 この時点での栄一の「農民をやめることだ」というのは、そのまま「武士になることだ」ということだろう。家に戻って、栄一は、散々代官の悪口を言った。しかし、父は、首を振って、
「昔からよくいわれる、泣く子と地頭にはかなわないというのは、このことをいうのだ。御用金は引受けよう」
 と言った。しかし、栄一は諦めなかった。かれは、この日の出来事を自分の「一大転機」ととらえた。渋沢栄一の生き方は、この日を境にして、大きく変わっていく。かれは激しい尊皇攘夷志士に育っていく。
▲UP

■渋沢栄一−一橋慶喜への家臣への道

<本文から>
「この度のお話をお受けしたいと思います。ただし条件があります。それは、我々は尊皇壊夷の志士として京都にやって参りました。一橋家に仕えるというのは、その志を折ったということではございません。たまたま、一橋様が、禁裡守衛総督の任に就かれ、皇都護衛を通して、国事に奔走なさるとの由であります。そのために、尊王の志厚い志士を雇い入れて、国事奔走の一助にしたいというふうに承っております。我々は、一橋様のそのお心に添いたく、こうして参上した次第です」
 無理に肩を張って、そういう見栄を張った言い方をする渋沢栄一に、平岡円四郎は苦笑した。が、平岡はできた人物なので、
 「それでいい。是非頼む」
 と領いた。栄一は首を振って、
 「いや、まだあります」.
 と言った。
 「何だ?」
 今度は、多少訝し気な顔をする平岡円四郎に、栄一はこう言った。
 「おそれいりますが、一橋慶喜様からじきじきに、我々二人に、是非一橋家の家臣になつてほしい、とおっしゃっていただきとうございます」
 「何?」
 平岡円四郎は呆れた。そして、よく言うよという顔をした。が、そこまで突っ張る渋沢栄一と喜作に、やはり見処があると感じたのだろう。
 「よし、何とか手配してみよう」と領いた。その日はそのまま引きあげてきた。やがて数日たった。また、平岡円四郎から呼び出しがきた。
 「慶喜様が、おまえたちに会いたいと仰せられる」と言った。二人は、パッと喜びの色を浮かべて顔を見合わせた。平岡円四郎は約束を守った。一橋慶喜は、二人を引見した。そしてこう言った。
 「わたしは、国家有事の時にあたり、京都の守衛総督を任じられた。非常の時であるので、人材登用の道を開いて、天下に志ある人物を網羅したい。開くところによると、おまえたちはその志を十分に持っていると開いたので、是非当家に召しかかえたい。頼む」
 一橋慶喜が言ったことは、渋沢栄一たちが求めたことをきちんと言葉にしていた。平岡円四郎が余程苦労したのに違いない。慶喜は、円四郎が書いた脚本のセリフをただ口にしたのだろう。しかし、これで渋沢栄一と喜作の面目は立った。つまり、尊皇壊夷の志を抱いたまま、京都守衛総督の一席慶喜の家臣に登用されたということなのだ。これなら、それほど世間に対しても、後ろめたさを感ずることはない。しかも、一橋慶喜がじきじきに二人を呼んで、「家臣になれ」と頼んだのだ。面目は立った。二人は、この日から一橋慶喜の家臣になる。
 そして、一橋慶喜が、後に徳川宗家を継いで徳川慶書に変わり、やがて十四代将軍徳川家茂の急死の後を受けて、第十五代将軍職に就く。渋沢栄一と喜作は、一橋家の家臣から、今度は徳川将軍家の家臣に変わる。そして、二人とも、持ち前の才覚を発揮して、どんどん重きを成していく。渋沢栄一は、篤太夫と名を変えて、慶喜の側近にのしあがる。特に財政方面で腕を振るった。かれの方針は、「入るを量って出るを制する」ということだ。現在では、こんなことは会計の常識としてあたりまえだが、当時はそういうことを守る大名家は少なかった。徳川幕府自身が、そういう財政制度をとっていなかった。
 以後、渋沢栄一の行動は、ほとんど徳川慶喜の行動とオーバーラップする。完全に、尊皇壌夷の志士ではなくなっていた。いや、尊王はともかく、嬢夷のほうはとっくに捨てていた。栄一は、(今の日本の国力で、嬢夷なんかできっこない)と信じていた。自分でも驚くような変わりようだつたが、それはそれでいいと、栄一は自分の変わり方を認めた。
▲UP

■渋沢栄一の転機−パリ万国博覧会

<本文から>
 開国条約後、日本は国際社会の一員になった。たまたま、慶応三年にパリで万国博覧会が開かれた。日本も出品しているので、代表を送ることになった。代表は、徳川慶喜の弟昭武が送られることになった。そして、昭武について行く供の一人に、渋沢栄一が選ばれたのだ。栄一は喜んでこれを受けた。そして、慶応三年三月三日に、昭武一行は京都を出発し、大坂から船に乗って横浜に入った。横浜から今度はフランスの船で、マルセイユに向かい、そこから陸路パリに向かうことになっていた。この使節一行が日本に戻ってくるのは、慶応四年十一月三日のことである。慶応四年は、すでに明治と年号を変えていた。これが、その後の渋沢栄一の生き方を決定的にした。というのは、日本の政情の変化だけでなく、かれがヨーロッパの文明情況を目のあたりにしてきたからだ。これによって、かれの考えは根本的に変わった。もともと経済や財政をとおして社会をみつめる目が研ぎ澄まされていたのを、たまたま故郷の尾高塾で尊皇攘夷思想にかぶれ、そういう方面で志士活動をしたのだが、むしろ、そういう行動は表層部分であって、地金はもともと経済や財政に関心があることを改めて自覚したのである。そして、それは、日本を欧米並みの文明国に仕立てあげなければいけないという考えを生んだ。もう一人の渋沢喜作は、たまたま日本に残っていたため、まっしぐらに徳川幕府のための志を貫いてしまう。そして、北海道五稜郭まで戦い抜く。フランス行きが、二人の運命を大きく分けた。そして、その後の選択肢に大きな違いを生んだ。
 徳川幕府の忠実な部下でありながら、後に明治新政府に仕えたのは勝海舟だ。そして、箱館五稜郭の指揮者であった榎本武揚だ。そのため、福沢諭書は、「痩せ我慢の説」を書いて、二人の無節操ぶりを告発した。が、渋沢栄一は、そうはならなかった。かれは、日本に戻ってきた時には、すっかりクールになっていた。
 「どうするのか?」と開く父親に、
「今から箱館に行って、脱走組に加わる気は全くありません。そうかといって、新政府に仕える気もありません。当分は、駿河(静岡県)に封ぜられた旧主慶喜様のお世話をしたいと思います」
 と答えた。そして、その通りに実行する。静岡に、商工会議所のようなものをつくる。どこへ行っても、かれは経済から目を背けることができなかったのである。
 これが、駿河地域の商工業の振興につながった。その手腕を見た新政府が、かれを大蔵省に招く。しかし、かれは、大蔵省の空気に馴染むことができず、ついに飛び出す。そして、財界に乗り出す。その後の渋沢栄一は、会社づくりと組織づくりに努力し、実に五百に及ぶ団体や企業を設立した。
 業体としても銀行、製糸、セメント、天然ガス、肥料、電力、鉄、石炭、繊維、それに鉄道などあらゆる新事業をつくり出した。明治日本の建設に、どれだけ多く貢献したかわからない。株式取引所や、商工会議所などの団体をつくり出したのもかれだ。しかし、そうなる転機は、実に、かれが京都にいて、尊皇攘夷の血気盛んな志士から、一転して、徳川一門の一橋慶喜の家臣になる、という大転身にあっかのである。
▲UP

■西郷隆盛−斉彬の庭方になり転機を迎える

<本文から>
 西郷が、直接斉彬と話すことはできない。そこで斉彬は考えたあげく、西郷を庭方に任命して、諜報活動に従事させようと思ったのである。情報を集め、報告させる。また、いろいろな根回し役として、密命を帯びて関係者のところに走らせる。そういう仕事をさせようと思ったのだ。それは、斉彬のためだけでなく、西郷自身のためでもあった。そういう志を同じくするような大名家や、有力幕臣のところに出入りするうちに、西郷もいろいろと学ぶことが多かろうと思ったのである。西郷教育のきっかけを、この庭方任命によって斉彬はつくろうとしたのだ。この時、斉彬は言った。
「西郷よ、今までおまえがわたしの手元に届けた意見書は全部読んだ。しかし、あの意見書は、純粋ではあるが、まだまだ私憤がこもっている。その私憤を公憤に変えろ。身近な役人に対する憤りを、日本全体の憤りにせよ。そのためには、この庭方が、おまえにとっては最大の勉強になるだろう。わたしは、おまえがまだまだ大きく育つ人物だと思っている。おまえの育つ様を見るのは、わたし自身にとっても大変な楽しみなのだ」一
 初めて、斉彬から本心を明かされて、西郷は感動した。この頃の西郷は、早くいえば感激屋である。かれは庭方を拝命して感動し、それにこういう言葉を付け加えられて、ハラハラと涙をこぼした。体中、幸福感でいっぱいだった。西郷はこの日、(おれは、この殿様のために命を捨てる)と決意した。この決心は西郷が死ぬ日まで続く。庭方を命ぜられた西郷は、巨体を揺るがせながら、あちこち走りまわった。
▲UP

■西郷は自分の初心・原点を貫くという方法を選ぶ

<本文から>
 これが、かれの″最大の転機″に対する対応であった。対応する選択肢として、西郷はあくまでも、「自分の初心・原点を貫く」という方法を選んだのである。まさに絶望的な選択だ。しかし、この選択が結果として西郷に大きな福をもたらす。この時こうしなければ、後の巨人西郷隆盛は存在しない。旧主を忘れ、新権力者にゴマをする姑息なイエスマンに成り果てていたことだろう。西郷は、前の時とは異なり、島の牢獄に入れられて、虐待されるが、これに耐え抜く。かれを耐えさせたのは、あくまでも初心であり原点である。かれの頭には、常に恩師であり、主人である故島津斉彬の面影があった。斉彬は、どんな逆境に置かれても、西郷に対して、
 「耐えよ。頑張れ」と激励した。
 いままでも西郷の胸の中には、いつも島津斉彬の面影があった。かれが、これまでの数々の転機に対して、最後まで初心を貫いたのはこのためだ。特にこんどのようなきわどい転機に、みすみす損になる選択肢を選んだのも自分自身の考えを、島津斉彬だけが、「正しいぞ」と支持してくれたからである。同時にまた、錆江湾に飛び込んだ月照が、海の底から、「西郷さん、頑張りなさい」と励ましてくれたからである。転機に際して、いろいろな選択があるにもかかわらず、西郷は、頑として最初の選択肢を選び続けたのである。
▲UP

■大塩平八郎−三度の転機

<本文から>
 大塩平八郎は、その学問を究めるプロセスでも、「三度の転機」に見舞われたという。まず、(自分の祖先は、開くところによると、今川家だという。つまり、足利家一門の名門だ。が、今は、このように落ちぶれている。したがって、自分は学問に志して、大坂町与力という身分を越えて、その方面で、先祖の名をはずかしめず、再び名を興すようなことをしたい)というのが、最初の動機だという。そして、二十歳過ぎに、大坂町奉行所に勤めていた関係もあって、(自分の今やっている学問は、世の中に対して何の役割も果たしていない。それは、もともと自分が学問しようという動機が、自分の家の名をあげようというような不純なものにあったからだ。それではいけない。もっと世の中に役立つような学問をしなければいけない)と考え直したのが、第二の転機だったという。
 これによって、かれは、どちらかといえば、「秩序社会」を維持するために恰好のテキストとされていた当時の朱子学を退け、陽明学にはしったという。つまり、「死学」から「実学」に移ったということだろう。栄子学がすべて死学というのではないが、大塩の目にはそう映ったのだ。かれは、(実際の生活に役立たない学問は、いくら学んでも仕方がない)と考えた。それだけでなく、(学問は、実行してみて、初めて学問の意義があるのだ)と考えるようになつた。これが三度日の転機だ。いわゆる陽明学にいう、「知行合一」の思想だ。
 しかし、かれのこの学問の修めぶりと、人の教え方は、一部ではあまり評判がよくなかった。というのは、かれは、学問を修めるのにも、師につかなかったからである。つまり今でいえば″独学″で、学問をした。そのため、かれの学問は、「天満与力の我優学問だ」と言われた。系統立った学説を唱える人々からみれば、かれの言っていることは、思いつきや、感情に基づくものが多かったのだろう。このへんは、いわゆる″独学″をした人々の一部が陥る落とし穴だ。大塩がそうだったとは言わないが、キチンとした学問を修めた者からみると、そういう印象を持った人もいた。特に、かれが、世の中の仕組みや、時間をかけて培われたルールなどを無視して、突発的に何かを発想すると、「これは、いいことだから、必ず実現されなければならない」という短兵急な結論を用意する。そして、その通りにいかないと、
「やっている奴が悪いからだ」と決めつける。早くいえば、かれはあまりにも、「他人を裁きすぎた」のである。それを、跡部山城守によって、徹底的に叩かれた。
 大塩が、自分の「転機」に際してとった態度で、現代に生きる我々が最も参考にすべきは、「自分を叩きつけた人物に学んだ」ということではなかろうか。つまり、大塩平八郎は、跡部山城守という若い上役に遭遇することによって、自分の学問や、理想だけではどうにもならない 「この世の現実」を教えられたということだ。たとえば、高井山城守が言った、「いずれ、おまえを江戸の幕府に招く」ということが、当時の情況としては、いかに荒唐無稽で、そんなことがありえないということを、跡部ははっきり言った。高井は、それがさも可能であるかのような幻想と錯覚を大塩に与えたままいなくなってしまった。矢部は、そういうところを曖昧にしたまま、人間論や、人情論で、大塩を御した。大塩は、そういう幻想と錯覚の中で生きた。それは、かれのロマン性も左右して、学問を深めると同時に、育っていった理想の次元で、あたかも、そういうことが可能なように思い込んでいたからだ。
▲UP

■飯沼貞雄−白子隊から技術者に

<本文から>
 飯沼貞雄は、自分の「転機」に、(正しい情報を、正しく伝えるコミュニケーション手段の仕事をしよう)と考えた。鶴ケ城の炎上が、全く錯覚であった痛い経験に照らして、そういう新しい生き方を発見した。が、その新しい生き方は、いったん死んだ者が蘇るという、何ともいえない辛い思いの中から湧き起こつたものだ。
 職場で、飯沼貞雄は、部下や同僚に非常に思いやりがあると言われた。
 「あんなにやさしい人はいない」とみんなが評判を立てた。しかも、かれは危険な工事には、いつも、「わたしが行く」と言って率先してその仕事にあたった。また、新しい知識の吸収に、かれほど熱心な人間もいなかった。特に、測量や磁石並列複式交換機の工事には、ほとんど「飯沼式」といっていいような工法を創出した。中でも、かれがつくり出した、「会津碍子」の採用は、この世界では長く記念されている。
 自分を漂う鬼火だと思っても、かれは単なる敗北者や、死にぞこないの虚脱者ではなかったのである。優秀な技術者であり、その人柄ゆえに多くの局員から慕われた。貞雄は、ただ二つのことを心の中で決めていた。それは、「白虎隊のことは語らない」「会津には行かない」ということだった。昔のことは語らなかった。だから、たまたま会津方面に転勤の話が出ると、「あそこだけはかんべんしてください」と笑って、辞退した。しかし、貞雄の話を冗談だと受け止めて、「たまにはいいじゃないか。会津もいいところだよ」と上司のほうが転勤の話を進めようとすると、貞雄は本気でこれを潰しにかかった。そういう時だけは、まわりが変な顔をした。
 その貞雄に、いま会津から白虎隊斯彰式の案内電報がきている。おもわず鬼火の炎がゆらいだ。しかし貞雄は、(おれは行かない)と思った。こだわるからではない。かつて、自分に蔑みの眼を向けた人々に恨みがあるからでもない。そういう感情は、とうに心の川の川底の石の群れが自浄してしまっている。恨みがあるくらいなら、おれは碍子に「会津碍子」などという名前はつけない。おれはおれなりに会津を愛している。しかし、まだ自分のやらなければいけないことが終わっていない。胸の底で、妖しい鬼火が燃えるかぎり、まだまだ漂い続けなければいけないのだ。それが、決して他人にはわからないおれなりの、それこそ″死にぞこない″の本当の生き方なのだ。飯沼貞雄は、遠く会津の空の方角を見ながら、静かに受信紙を破り捨てた。
 飯沼貞雄はその後、明治三十一年に電信建築技師、同四十三年には仙台逓信管理局工務部長に栄進した。そして大正二年に退職し、昭和六年に七十九歳で大往生した。
▲UP

■前田利家−転蔵

<本文から>
 前田利家は、それ以後、腰を据えて信長の合戦に、見え隠れ参加をした。やがて、これが評判になった。かれのことを、信長にあしざまに讒言していた連中も、利家の努力には感動した。柴田勝家だけではなく、他の者たちも、
 「どうか、もう利家を許してやってください。見ていられません。あいつが、あんないじらしい男だとは思いませんでした」
 と言った。信長は微笑んだ。そして、(いい雰囲気になった)と思った。
 前田利家における「転機」に対する能違は、いってみれば、自分の心の奥底をみつめ、(どうあろうとも、自分は、織田信長に仕えたいし、織田家のために働きたい)という気持があったことである。これがバネになった。そして、かれの地道な努力が、かれをあしざまに言ったり、あるいはクルリと能心度を変えたりした、甲型人間や、乙型人間の気持をも変えさせた。つまり、かれをさらにおとしめてやろうと思って覗きに来た連中が、いまは、逆に、前田利家のために、信長にとりなしを始めたということだ。こうなると、信長の方も、利家を許し易くなる。そういう情況ができたということである。情況づくりのために、柴田勝家の助言もあったが、何といっても、利家自身の努力に負うところが大きい。利家自身も、自分を変えたのである。
 信長が、美濃攻めをした時、前田利家は大きな功績を立てた。そして、またテラリ作戦で、サッサと消えようとすると、信長が呼び止めた。
 「利家を呼んでこい」と命じたのである。柴田勝家が喜んで呼び返した。戻ってきた利家に、「今日から、おれに仕えなおせ」と信長は言った。利家は、涙を流して大地に頭を擦りつけた。信長は、その日に、前田利家に、利家の兄が城主になっている寺都城を与えた。ということは、兄に替っておまえが寺部城主になれということである。
▲UP

童門冬二著書メニューへ


トップページへ