童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          「人望力」の条件

■トップは中間リーダーだけを掌握し、部下の管理は中間リーダーにまかせる

<本文から>
  劉邦と項羽に見る、人にまかせる器量
 リーダーには二つのタイプがある。それは「知型」と「情型」のほかに、「完全型」と「不足型」のことだ。完全型というのは、リーダーとして備えるべき条件を全部身につけているタイプだ。不足型というのは、どこか欠けているタイプである。
 中国の有名な歴史書に『史記』というのがある。司馬遷という人が書いた本だ。この本には、「期待されるリーダー像」と、「期待される部下像」のいろいろな例がたくさん描かれている。その中に、劉邦と項羽の話がある。
 劉邦というのは、いうまでもなく中国古代の「漢」という国をつくった人物だ。そのため劉邦は、漢の高祖と呼ばれた。
一方の項羽は、その劉邦に攻め立てられて自分の城で自決する。かれには愛人がいて、非常に美人だった。虞という名だった。項羽は死ぬときに、この虞を抱きながら、「虞や、虞や、汝をいかにせん」(虞よ、虞よ、こんなことになって、いったいおまえをどうすればいいかなあ)と嘆いたという。虞は大変な美人だったので、後に虞美人草″などという花の名になった。
 劉邦と項羽は、まったく対照的なトップリーダーだった。項羽はまじめで、若いときから役人生活を送り、民衆の気持ちをよく理解し、部下への愛に富んだリーダーだった。反対に劉邦のほうは、若い時からヤクザ性があり、酒と女性が好きで、いつもいいかげんな生活を送っていた。また、リーダーシップの取り方についてもまったく対照的だった。
 項羽のほうは、部下のことは何でも知っていた。部下だけでなく、その家族のことも知っていた。たとえば毎日のように、重役に、「どこどこの職場にいる、何とかという男を呼んでこい」という。その男が来ると、項羽は金の包みを出して、「今日はおまえの子どもの誕生日だろう。これで何か買ってやれ」という。部下は感激する。胸の中で、(この人のためなら、命もいらない)と考える。このように項羽は、末端の部下の家族や私生活に至るすみずみまで知っていた。かれの頭の中にあるマイクロフィルムには、そういうものがいっさい記憶されていたのである。
 反対に、劉邦のほうはいいかげんだった。かれには、張良や韓信、粛何などという有名な重臣がいた。劉邦に、こと細かく部下のことを知っている項羽の話をすると、劉邦は「項羽はばかだ」といって笑った。
 報告した者は驚いて、「項羽がなぜばかなのですか〜」ときく。すると劉邦はこう答えた。
「そんな末端の部下の私生活まで知っていて、肝心な仕事をどうするのだ?リーダーというのはそういうものではない。何のために組織があり、その組織にポストがあって、おまえたち幹部がいるのだ?」
 まわりにいた者は顔を見合わせた。末端の部下の家族のことまで知っている項羽に対し、劉邦が、「項羽はばかだ」といったのは、次のような理由からである。
 ●組織には必ずポストがあり、トップはそのポストにいるリーダーたちに権限の一部を与えている。
 ●その権限を受けた中間リーダーは、トップの分身であって、中間リーダー個人ではない。
 ●トップリーダーは、中間リーダーをいかにいきいきと働かせるかが責務になる。
 ●それなのに、項羽のように一般の従業員に対してまでいちいち口を出すことは、間にいるリーダーたちの職権を奪うことになる。また仕事に対する介入だ。
 ●あるべきトップは、中間リーダーだけを掌握し、その下の部下の管理については、すべて中間リーダーにまかせるペきである。
 項羽を滅ぼした劉邦は、自分の重用する幹部である張良や韓信たちに仕事の権限を分け与え、「かれらにまかせておけば安心していられる」という信額感をもっていた。そうなると、まかされたほうは緊張する。「これだけの権限を与えられてもし失敗したら、トップに迷惑が及ぶ。そのときは責任を取らなければならない」という考え方になるからだ。
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■罰を与えても心くばりをする黒田如水

<本文から>
 黒田如水は、「人使いの名人」といわれた。こんな話がある。彼の部下で雑務係をつとめる部割といわれる若者がいた。よく働くが、一人よがりで、とくに動作が乱暴だった。あるとき、如水が大事にしている道具を壊してしまったので、こらしめのために如水は、この竜若を縛って柱につないだ。「こらしめのために、おまえを三日間、こうしておく」と宣言した。ところが、二時間ばかりたつと、如水は竜若の縄を解いた。竜若は、(勘弁してもらえるのか)と思ったが、そうではなかった。
 如水は一通の手紙を竜若に渡して、「これを藍原村の代官のところに持っていけ。代官はこの聞から、うまい瓜があるのでお届けしたいといっていたから、私の代わりに瓜をもらってこい」と命じた。
 竜若は飛ぶようにして藍原村に行った。やがて代官からたくさんの瓜をもらって戻ってきた。如水はニコニコ笑って、「ごくろう。おまえも食え」といって、瓜を二つばかり竜若にも渡した。ところが竜若が瓜を食い終わると、如水は「ここへ来い」といって、また竜若を縛って柱にくくりつけてしまった。
「許してくださったのではないのですか?」
 如水は笑って首を横に振った。
「いったはずだ。おまえの罰は三日間こうしておくことだ」
 竜若はあきれた。まわりにいた者も、思わず顔を見合わせた。
 如水は、その後も柱に縛りつけた竜若の縄を解き、いろんな用事をいいつけた。竜若もよくつとめた。しかし、それで罰が許されるわけではなかった。如水は、「おまえの罰は三日間こうしておくことだ」と宣告したが、その言葉どおり、決して途中で竜若を許しはしなかった。竜若もしまいには観念していろいろ考えた。
 (如水様は、俺が憎いわけではない。俺の性格が乱暴なので、それを戒めようとなさっているのだ。それには、やはり根気を養うことが必要だとお考えになって、俺の性格に潜んでいる根気を引き出そうとなさっているのだ。そのためには、すぐ罪を許すよりも、宣告どおり三日間縛りつけておくことが大切だとお考えになっておられる)
 そう悟った。三日目になると、竜若の行動はいままでとはまったく変わった。顔つきも変わった。柔順さが目に見え、自分の中に潜んでいる別な能力を自分から引き出して、喜んで仕事をするようになった。いってみれば、竜若は自己啓発〃を行ったのである。その呼び水≠如水が与えた。三日目の夕方になると、如水は竜若の縄を解いて解放し、「どうだ〜 こりたか〜」ときいた。
竜若は苦笑して、「はい。お教えは身に弛みました。これからは乱暴はいたしません」といった。如水は満足した。竜若が去ると、側近がやってきてきいた。
「なぜ、三日間柱に縛りつけにせずに、ときおり、縄を解いて用事をお命じになったのですか? ずいぶん変わったこらしめ方だと、みんなで噂しておりました」
 如水は笑いながら答えた。
「別に理由はない。縛りつけにしておいたら、あいつの腕に縄の跡がついて、いつまでも消えないだろう。かわいそうだから、ときどき縄を解いてやっただけだ。あいつも根は善良な人間だ。目をかけてやれ」
 そんなことにまで心くばりをしていたのか、と側近たちは思わず顔を見合わせたという。
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■松陰の教育方法の根本は「情報」

<本文から>
 その教育方法の根本は「情報」であった。かれは、門人たちに、「京都や江戸に行き、優れた人々と会い議論すべきだ。そして、必ずそのときの議論の内容を私に教えてほしい」と告げた。弟子たちはこもごも、当時政局の中心になっていた京都や江戸に出かけて行った。そして、他藩から来た優れた若者たちと議論しあった。
 松陰はさらに、「黒船に乗ってやってきたアメリカのペリーたちが、江戸城に行ったときの様子を詳しく知らせてほしい」とか、「幕府の一番新しい外交方針を教えてほしい」などと書き送った。さらに、長州藩の江戸藩邸の重役に、「若者たちが、長州に送る情報の報知費を支給してほしい」と頼んでいる。
 報知費というのは、飛脚料である。当時の郵便は、すべて飛脚が届けた。しかし、この費用が案外高く、若者たちの収入では到底まかなえない。そこで松陰は、こういう費用も藩で出してほしいと願ったのである。
 吉田松陰が報知費を藩に支出してほしい、ということは、松陰がたんなる観念論者ではなく、日常の細かいことにまで気をつかっていたことがうかがわれる。かれは決して机上の空論を唱える学者ではなく、いま生きている現実に即して物事を考えるタイプの教育者であった。
 門人の絵のうまい人物に松陰は、「君は、文章の代わりに、会った人の印象を肖像画にして描くといい。それを僕のところに送ってくれたまえ」と頼んだ。
 松陰の門人に対する言葉づかいは、自分のことを「僕」といい、門人に対しては「君」といっていたという。当時としては、かなり開けたリーダーだった。こうして情報収集に熱心だった松陰は、まだ締結される前の日本とアメリカの条約の草案まで手に入れている。そして、「この草案のこういうところは正しい」とか、「ここは将来問題を残すのではないか」などと、松下村塾で議論した。かれのリーダーシップの根源は、すべて情報にあったのである。
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■秀吉は城攻めも経済感覚にもとづいていた

<本文から>
 豊臣秀吉は天下を取った後に有名な刀狩り″を行う。武士以外の者が武器を持つことを許さないという方針で、それまで農民、僧、商人などいろいろな職業を持つ人人が刀や槍を持っていたのを、全部取り上げたことである。
 秀吉は、「これからの日本は平和になるのだから、日本人同士戦うことはない。そこで持っている武器を差し出せ。鉄を溶かして大きな仏様をつくり、御利益のあるようにしよう」と宣言した。
 この武器を溶かしてつくった仏様が京都方広寺の大仏だ。しかし、半分は嘘だ。秀吉が恐れたのは、いつまでも農民や商人やお坊さんに武器を持たせておくと、いつ自分にそむくかわからないからだ。いまのうちにその芽を摘みとってしまおうという狙いだ。
 しかし、かれが若くて木下藤吉郎といっていた頃から、秀吉の戦争の仕方は刀や槍ではなかった。かれは城攻めを土木建設事業に変えてしまった。かれが攻め落とした大きな城は、鳥取城、高松城、小田原城などが有名だ。鳥取城を攻めたときは、まわりに櫓をつくって城を囲み、近くを流れている千代川の河口に杭をたくさん打ち込んで、鳥取城内に食糧や武器を運び込めないようにしてしまった。これは大規模な土木事業である。また自分の陣中には、あちこちから飲食店やプロの女性たちを置く店を呼んで、ドンチャン騒ぎをやらせた。
 これにはいくつかの目的がある。一つは城の中にいる将兵に対して、「どうだ? こっちはこんなに楽しいぞ。おまえたちはさぞ苦しかろう」といういやがらせだ。こういうことをやることによって、城の中の将兵たちはどんどん戦う気を失っていく。それにいままで食糧は全部、千代川を通じて舟で運び入れていたから、それが来ない。どんどん食べるものもなくなっていく。鳥取城内では、しまいには馬まで殺して食べたという。
 秀吉のもう一つの狙いは、商人を呼び集めたり、土木建設事業を行うことによって、付近に住む商工業者たちに利益をもたらしたことである。戦争で利益を得るのはよくないが、しかし、戦国の世のことだ。いままでこんな大将はいない。たいていが自分の財産を奪ったり、稲を盗んだりする。それが、秀吉はそういうことをせずに、逆に、「俺の合戦を手伝え。費用は払う」といって、土木建設業者たちを呼び集め仕事を与えた。これには、そういう職人たちが喜んだ。
 そうなると、これが口コミでどんどん伝わっていく。鳥取城の評判が落ちるのと対照的に、攻める秀吉の評判が高まっていく。いってみれば、「世論」がわいて秀吉を応援しはじめるのだ。これは秀吉独特の経済感覚にもとづいていたといっていいだろう。
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■万里は弟子たちの隠れた能力を見抜き絶対に見放なさい

<本文から>
 万里は記憶力が抜群だっただけではない。弟子たちの隠れた能力を見抜く力ももっていた。弟子の中に小田という青年がいた。かなり早い時期から万里の門人になったが、どうも物覚えが悪い。いくら教えても理解しない。万里は根気づよく小田だけを特別に残して補習を行うが、しかし、教えたことをすぐ忘れてしまう。(小田は頭は悪いが、どうも憎めない。何かいいところはないだろうか)と万里は小田に特別な関心をもった。
 万里の塾によく遊びにくるノラ猫がいた。弟子たちが代わる代わるエサをやるので猫は住みついた。黒猫でしっぽが長い。異常に長い。そこである日、万里が、「この猫は可愛いが、どうもしっぽが長すぎる」とつぶやいた。脇にいたのが小田である。小田は黙って席を立つと、やがてカミソリを持って戻ってきた。そして万里の膝から猫を抱き上げると、長いしっぽに軽くふれ、スパッと切ってしまった。あまりにも早業だったので、猫はニャンともいわなかった。この早業にはみんなびっくりした。万里の目が光った。
「小田は、すばらしい才能をもっているなあ。おまえは外科医にでもなったほうがいいのではないか?」
 小田は黙って万里を見返した。が、目の底が光った。その夜、万里が一人で書き物をしていると、小田がそっとやってきていった。
 「先生、私は先生の昼間のお言葉にしたがおうと思います」
 「昼間の言葉とは?」
 「私に外科医になったほうがいいとおっしゃったお言葉です。その方面の勉強をしたいと思います。ご指導ください」
 「そうか……」
 万里はうなずいたが、胸の中で(弱ったことになったな)と思った。小田は万里が外科方面の知識ももっていると思っている。だから、ご指導くださいなどというのだ。しかし、万里にはその方面の知識はない。
 が、万里はここで、「私は外科方面の知識に弱い。ほかの先生のところに行け」とはいわなかった。そんなことをするのは無責任だと思ったのである。自分の口から「外科医になれ」といった以上は、いった本人がそういう糸口というか、ある程度の道筋を示してやる責任がある。
 翌日から万里は、外科方面の勉強に夢中になった。弟子たちには、それが何のためかすぐわかった。が、弟子の中には文句をいう者も出た。
 「俺たちは、頭の悪い小田の犠牲になっている。先生も先生だ」
 そう文句をいう者もいた。しかし、万里はそんな声には耳を貸さなかった。万里は、「一人の門人を育てられなくて、なんで多くの門人を育てることができるものか」と思っていた。
 ある程度の外科関係の知識を得た万里は、ある日、小田にいった。
 「おまえが勉強するべき書物は、こういうものとこういうものだ。また師として仰ぐべきは、この先生とこの先生だ」
 小田は感激した。小田は見事な外科医になった。この、遅れた門人も絶対に見放さず、その人間に潜んでいる能力を発見しようとする万里の態度は、たんに知識を教える師というだけでなく、人間の誠意という、盲示した師であったのである。
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■土井利勝の人の育て方

<本文から>
 若い武士はジリジリした。にらみつけるように土井の顔を見ている。目は、「早く決裁してください」と急きたてていた。土井はニコリと笑うと、若い武士にいった。
 「なかなかいい案だ。面白い」
 「さようでございますか。ありがとうございます」
 江戸城最大の実力者から、案が面白いといわれて若い武士は目を輝かせた。当然、土井はすぐ判を押してくれるだろうと期待した。ところが、土井はこういった。
 「全体に面白いが、ここのところがちょっとすわりが悪い」
 「すわりが悪い、と仰せられますと〜」
 若い武士は不満そうにきき返した。自分の書いた文書は完全だと思っているので、そんないちゃもんがつけられるとは思わなかったからである。
 「どうすわりが悪いのか、ご説明ください」
 たたみこむような問いかけに、土井はゆっくりと若い武士を見返した。
 「すわりが悪いというのは、ここのところの論理の辻棲が合わないということだ。こういうことは、若いおまえにはまだ無理だ。やはり、キャリアのある先輩や上役に意見をきいたほうがいい。江戸城内に適当な人がいなければ、自分の家に戻って家族や親戚にも意見を聞いてみろ。必ずここのすわりをよくするような意見の持ち手がいるはずだ。もう一度自分の席に戻って、じつくり考えてこい」
 若い武士は不満そうに舌を鳴らした。その目は、「そんなうまいことをいって、実際には私の考えた計画の真意がわかっていないのではないのですか?」というような目をしていた。
 土井利勝には若い武士の気持ちがよくわかった。胸の中で、(まだ、若い。修行が足りない)と思った。とくに土井利勝がこういうタイプの武士を見て考えるのは、(いったい、この若者たちは考えるという行いをしているのだろうか)という疑問である。その部分を飛ばして、すぐ結論を急ぐ。 
 これを食い止めるには、自分のところに直結しょうとするこういう武士を、戒めなければならない。しかし戒める方法も、頭からガツンとやったのではだめだ。本人自身が考え、自覚して、「ああ、こういうことをしてはいけないのだな」と感じなければ意味がない。
 つまり、自分で考え、自分で結論を出す思考方法を身につけなければ、いつまでたってもその人間は成長しない。ただいたずらに、結論ばかり求めて走りまわるような武士になってしまう。それでなくてもいま、そういうタイプの武士が江戸城内には増えているのだ。
 土井利勝の決定に、若い武士は不満そうな表情をして去っていった。
 土井利勝が口に出したかったのは、「おまえのやり方は間違っている」ということである。
 っまり、どんなに能なしであろうと、ボンクラであろうと、上役が、「少し考える」といったのは、やはり経験からくるカンとして、若い武士が書いてきた文書に何かひっかかるものを感じたからに違いない。少なくとも、上役といわれる以上は長年の経験で、そういうことはわかる。「どこかおかしい」と感じたのだ。
 土井利勝もおかしいと感じた。しかしかれは、それをあからさまにおかしいとはいわず、「すわりが悪い」といういい方をした。そこで、「もっとすわりをよくしてこい」と命じた。そのためには、「経験者である直属上司や、まわりの者ともう一度よく相談しろ」と命じたのである。
 そのことによって若い武士が、(なぜ、自分はあのボンクラな上役や、まわりの者に相談しなければいけないのか? いったいこの案のどこが悪いのか?)という疑問をもち、その疑問について徹底的に考える時間を与えたかったのである。
 二日ばかりたって、若い武士がまた土井のところにやってきた。
 「ご老中、ご決裁をお願いします」
 土井は文書を受け取った。この前見たときと若い武士の顔つきが違っていた。あのときに見せた倣慢な様子が消えている。どこか物怖じするような照れくささが漂っていた。土井は胸の中でニヤリと笑った。(こいつ、心を改めたな)と感じた。
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