童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
         「人望の研究」西郷隆盛はなぜ人を惹きつけるのか

■西郷は克雪、和雪、利雪の三つを取り込みうまく活用していた

<本文から>
  さて、今、なぜ西郷かということを整理してみる。
 一つは、彼が世紀末の苦悩を身をもって体験し、その解決策のために努力して生き抜いたということだ。もう一つは、あらゆるトレンドからけっして逃げなかったということである。正面から必ず立ち向かった。
 その立ち向か心方にもいくつかの方法があった。たとえば、雪国では、人が雪に立ち向かう場合、次のような三つの方法があるといわれている。一つは雪に克つ、すなわち克雪。もう一つは雪と和す、すなわち和雪。もう一つは、雪を利する、すなわち利雪。この三つの方法だ。
 西郷の生き方を見ていると、この克雪、和雪、利雪の三つがうまく取り込まれていて、状況状況に応じてこれを実にうまく活用していたといえる。だからこそ彼は、殺されかかったり、あるいは死にかけたりしても、また蘇って、パワーを再生し、見事に生き抜いていった。しかし彼は、生き返ったときには、もう昔の西郷ではなかった。勝てなかった雪に対して、これと仲よくしようといタような和雪の方法をとったり、あるいは雪から利益を得ようというように、雪を払み敷いて逆に雪の含んでいる活用部分をうまく取り出すことによって利雪の方法をとった。われわれが西郷から学はねはならぬのは、このユニークなリーダーシップだ。
 いってみれば、彼のとった方法というのは、今よくいわれるリストラクチュアリソグではないかと思う。 

■他人の痛みがわかるリーダー

<本文から>
 西郷のリーダーシップは、一言でいうといつも痛い経験、これがまといついていたといえる。痛い経験ということは、彼が経験によって傷を負うということだ。傷は痛い。だから彼はその痛みにじっと耐える。悲鳴をあげるときもあるし、わめくときもある。あるときは苦痛をじっとこらえて痛みに耐える。彼は生涯のうちでこういう繰り返しを何べんも経験している。
 その経験からすると、あるいはこういうことかもしれない。山本周五郎という作家がある作品の中で書いた言葉にこういう一節がある。それは「俺は自分の傷の痛さを知っている。だから人の傷の痛みもわかるんだ」と。
 他人の痛みを思いやる西郷の優しい一面を伝える、次のようなエピソードがある。
 元治元(一八六四)年二月、二度日の島流し(沖永良部島へ終身遠島刑の流罪)を解かれて、鹿児島へ帰国する召還船がやってきた。そのとき、西郷は赦免使の吉井友実に、
 「俺だけ帰るわけにはいかん。覿札朗に寄って村田新八も連れて帰ろう…藩が許さんときは、おい(俺)がまた島へ戻る…」
 こう言って村田を連れて帰った。「俺の罪が赦されるのであれは、俺のとばっちりで流刑になった村田新八も赦されるのが当然ではないか」というのが西郷の言い分であった。死をかけた友情である。
 村田新八は立身出世を絶ち、明治十年、西郷に殉じて城山で戦死した。
 西郷という人は、一生傷つきながら、その痛みをこらえつつ、そして俺も痛いんだから他人も痛かろう、という考え方を貫いた人である。したがって、坂本龍馬のように置き去りにしなかった。つまり、自分が先見性や予見性を持って、西郷もそういう点では優れた才能を持っていたが、時代が目まぐるしく変わるからといって自分だけさっさと目的地へ行ってしまうというようなことはけっしてしなかった。自分と同時代に生きて、西郷の言葉や行いから影響を受けた人々がやはり傷を負って苦しんでもがいているならば、西郷は、自分自身は新しい状況の中に突き進んでいかなけれはいけないときも、この連中を一緒に連れて前に進んでいく。絶えずこういう繰り返しをしている。だから常に西郷隆盛の自己の磨き方というものは一進一退だ。一歩進んではまた一歩下がる、あるいは一歩後退二歩前進、いったん引き下がるけれども、二歩前に出る、という生き方をした人である。

■矛盾をはらんだ西郷の人間像

<本文から>
 結局、傷を受けるたび西郷は反省をしていく。彼自身にその後訪れる大きな傷というのは、開明的な彼をしても、遂に追いつけなかった時代とのズレが、彼の中にポッカリとロを開いたことだ。
 その一つは、たとえば討幕戦争のときに、それまで全軍の指揮、参謀役を務めていた彼の位置が非常にあやふやになってきた。そして新しく頭をもたげてきた村田蔵六、すなわち長州の大村益次郎の指揮ぶりに彼が従わざるをえなくなる。それは江戸の上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する時点から始まり、東北戦争全般についてそういうことがいえる。
 大村益次郎は、彰義隊を討伐することを強く主張し、西郷は勝海舟にまかせることを主張したが、結局、大村の意見で決着がつく。西郷の戦巧者、あるいは政府軍の参謀としての位置が非常に影が薄くなる。これもやはり彼自身が傷にこだわりすぎて、坂本龍馬のように、弱者を置き捨りにすることができなかったことに原因がある。優しい人間だったために、彼は置き去りにすることができない。自分といっしょに同時代を生き、あるいは同じような次元に立って、少しずつ
時代に後れていることを知っていながらもどうすることもできない、業を背負った人間たちと常に行動を共にしていく。
 これがいってみれは最後の西南戦争に、彼が本意ではなかったろうが、参加せざるをえなかった大きな原因の一つであろう。つまり彼は時代に後れてしまった下士階級、薩摩藩の士族たちに、自分の命を与えてしまうことになるのである。
 その前にもやはり、新政府のビューロクラート(官僚政治家)になっていった旧同僚たちとの間
にもズレが生じていた。特に大久保刺通を頂点とするビューロクラートは生活が封印になっていた。大きな屋敷に住んで、うまいものを食べ、きれいな服を着ていた。こういうことに対しても、西郷はこんな感想を述べている。
「役人の生活というものは質素でなけれはいけない。あんな安い給料で本当に気の毒だと言われるぐらい、働きに働いて、人民のほうが逆に、役人の給料をもう少し上げてやってくれという世論が起こったら、ベースアップをすべきだ。それにもかかわらず、今の役人たちは本当に贅沢をしている。慨嘆にたえない」
 と。これなどもやはり、ヨーロッパに追いつけ追い越せという政策を続けている連中にしてみれは、西郷さんほズレてきた、時代に後れているよ、というようなことになったろうと思う。しかし、西郷が島で悟ったものは「敬天愛人」という一つの思想だった。「敬天」というのは天を敬うということで、「愛人」というのは人を愛するということだが、この間にもう一つの考え方が挟まっている。それは、「人事を尽くして天命を待つ」という思想である。
 坂本龍馬にはこれがなかった。彼は人事を尽くして天命を待つなどと考えないことはもとより、おそらく天などというものを信じていなかったのではなかろうか。この点は織田信長にも似ている。坂本寵馬は織田信長と同じで、おそらく神や仏を信じていない。信じられるのは、自分のカだけだという人間万能主義があった。だから坂本龍馬と織田信長はあっけなく死んでしまったが、死に方自体はけっして後悔とは無縁であったろう。それは、人間のカによって社会を変えられると信じ、また事実変えたという実績を持っていたからだ。
 西郷にはそういう思い上がりはなかった。彼はあくまでも天というものを敬い、一種の運命論を持っていた。人力の限界というものを知っていた。それは若いときに彼が経験した傷に立脚していた。いってみれば、どんなに自分では誠意を尽くし、努力をしてみても、結局は天が自分に傷を与えることがある。しかし、それを恨んでほならない。自分の能力不足だと思う。しかし、能力不足だと思って自己開発をしてみても、また次の機会には天が傷を与えることがある。つまり、自分を挫折させ、失敗させることもある。しかし恨まない。そういう繰り返しが西郷の一生であった。

■時代の潮に背を向けた晩年の西郷哲学

<本文から>
 さて、西郷自身を人間的に分析してみると、けっして理論家ではない。彼が生前残していった言葉を集めたものとして「『西郷南洲遺訓』という本がある。これは戊辰戦争のときに、西郷の意見によって比較的ゆるやかな処分ですんだ庄内藩士たちが、西郷の器量の大きさに感動し、心酔した。そして下野していた西郷を鹿児島に訪ね、一緒に土を耕し、折々にふれて語る西郷の発言に耳を傾け、記録した。それをまとめたものであるが、書き手のせいもあって、必ずしも西郷
自身の肉声は伝わってこない。このへんはコミュニケーショソの難しさだ。しかし書かれていることは比較的当たり前なことで、それほど西郷の哲学的な、あるいは思想的な深さというものを感じ取る人は少ないであろう。むしろ西郷は、巷間に伝えられているエピソードのほうがはるかに彼の人柄をよく伝えている。
 それだからというわけではないが、西郷自身はけっして理論で人を導くタイブではない。自分をけっして出し惜しみせず、精いっばい努力し、自分の持てる力をすべて出し切って、世に問おうとした。それに感動した連中が多い。となると、この感動の質というのは、本来知的なものではない。どちらかといえは感性的であり、情感的なものだ。だから相手のハートを揺るがすことにかけては西郷ほたぐいまれな資質を持っていたが、理論で人を説得するというタイブではなかった。だから西郷に最後までついていった連中は、どちらかといえば知性派ではなかった。西郷のために死ぬ、西郷さんのためなら命もいらないという、人生意気に感じる連中が多かった。
 たとえば、西南戦争の最後に城山で彼を囲んでともに死んでいった連中は、桐野利秋(中村半次郎)、別府晋助、村田新八などである。これらの連中は明治維新政府の軍の将官だったが、いったいどれだけの知性を持ってそういうポストについていたのか、といわざるをえない。むしろ幕末時における実績や、西郷派であるという人閥によって、ここまで上りつめた人もいたことだろう。能力とポストとが、必ずしも一致していたかどうかは不明だ。そういう意味からいっても、
西郷隆盛を最後まで囲んでいた連中は、一種のセンチメソト派であって、けっしてインテリゲソナアではない。知性派はすべて西郷に背いた。それは弟の従道をはじめとして、大久保利通も山県有朋も、全軍をあげて西郷を城山に囲んだ。なぜあれほど尊敬した西郷に多くの人間がついていかなかったかということは、また別問題である。しかし、同時にまた、西郷の人格と人間的魅力をもってしても、ついにそこまでついていけなかった側の論理というものも当然ある。ここに
西郷の限界があったのではないだろうか。
 ということは、やはり明治維新後の人脈のつくり方にも問題があったような気がする。結局このころの西郷は、もう時代のめまぐるしい変化にはついていけなかったのではなかろうか。それを「敬天愛人」、つまり、人事を尽くして天命を待つという西郷哲学だけで乗り切ろうとしたところに無理がある。だから、あるいは彼が「朝鮮に自分を使いに立ててはしい。朝鮮では必ず自分を殺すだろう。そうしたら軍を起こせ」と言ったのは、死に場所を求めていたのかもしれない。彼は彼なりに自分の限界を知っていたのかもしれない。そういう悲哀感が伴う。
 しかし、そういう感じを持ったときは、すでに自分で自分に敗北したということになる。前向きの姿勢ではない。過去を振り返り、過去の栄光を楯にして、そのいっさいを抱きながら自爆していくという玉砕の精神である。これは退嬰的な考えで、けっして建設的でもなけれは生産的でもない。明治時代というのは、生産に次ぐ生産、建設に次ぐ建設の時代だ。過去を振り返ってはいられない時代だ。それがいいか悪いかはまた別問題である。時代の潮というのは、そういう動
き方をするのである。さすがの西郷をしても、時代の読み方ができなかったし、それに対応していく技術も持ち合わせていなかった。この戸惑いの中で、西郷は下野を決意したのではなかったろうか。

■相手の自主性を専重し能力が伸びる「場づくり」をしてやるリーダーシップ

<本文から>
 その点、西郷隆盛のリーダーシップのとり方は、まさにいま述べた新しいタイプのリーダーシップを見事に踏まえていた。彼はけっしてここへ来いなどとは言わなかった。いつも後ろに座っていて、「あそこへ行きなさい」と命ずる。部下は喜んで飛んでいく。部下をそういう気持ちにさせるところが、まさに西郷のリーダーシップの優れていたところである。
 坂本寵馬や中岡慎太郎ほ直接の部下ではない。勝が育て、あるいほ中岡慎太郎ほ五人の公卿たちや長州藩に育てられたといっていい。西郷隆盛は、自力で育っていく連中をじっと見ていた。そして、ある程度まできて成果が上がったなと思うと、今度ほそれをさらに伸ばすために手を差し延べるのだ。坂本龍馬に亀山社中をやらせたのもそのためだし、また、中岡慎太郎に流血討幕路線をどんどん歩ませているのもそのためだ。もっといえは高杉晋作のクーデターを黙認したの
もそのためだといえるだろう。つまり、相手の自主性を十分に専重しながら、その能力が伸びる「場づくり」をしてやることが西郷隆盛のリーダーシップの真骨頂であった。
 西郷隆盛のリーダーシップのとり方、あるいは時代の読み方、さらには彼自身の政治行動のとり方そのものは、一見行き当たりばったりのように見える。つまり全体のマクロな青写真を持っていて彼は行動していたわけではない。その時その時の状況を見極めて行動を考える。つまり彼は、歩きながらワイシャツを着、ズボンをはき、ネクタイを結び、そして上着を着る、そういうタイブの男であった。しかし、彼はけっして走らない。慌てない。根気強くやる。これが西郷のリーダーシップのとり方の特徴である。

■組織の論理の壁も人間の論理によってぷち破れると思ったのが西郷の誤算

<本文から>
 話を最初に戻すと、知的人間の大久保刺通はこの組織の論理にすでに従い始めていた。彼は、藩の新しい実力者島津久光が碁が好きだと聞くと、自分から率先して碁を習い、人を介して久光に接近していく。大久保利通は、
 「物事を成し遂げるのは、けっして個人ではない。組織だ。一人の人間が、いくらジタバタしてみたところで、どうにもならない。そのカは知れている」
 どいう、いわば個人の無力感をとっくに体得していた。それほ、彼の父がお由騒動に連座して、遠く鬼界ケ島に流されていたからである。また彼自身も、失業し、給料の道を断たれていたのである。
 「こんなみじめな思いは二度としたくない」という考えが、大久保の胸の中にみなぎつていたとしても不思議ではない。彼は結局は組織というものの強さ、そしてその頂点にある権力の強さというものを実感していた。だから、
 「自分がやりたいことをやるためには、権力に接近しなけれはならない。あるいは、権力を自分の手に振らなけれはならない」
 というのが、彼の生きる信条であった。そこへいくと、西郷はまったく違う。西郷は、
「たとえ、状況がどんなに変わっても、世話になった人間の恩を忘れてほいけない。受けた恩を返さなけれはいけない。−たとえ、自分の身を危険にさらしても、人間は人事を尽くさなければならない。誠の道を尽くさなければならない」
 と考えていた。
 だから、藩内の空気が激変しているのを知りながらも、月照を伴って鹿児島に帰ったというのは、すでに確立されつつあった新しい薩摩藩の組織の論理を、西郷は無視したということだ。組織の論理の壁も、人間の論理によってぷち破れると思ったのが西郷の誤算であった。だから、彼は組織の論理の前に敗退した。月照を死なせてしまった。そして自分は生き残った。その汚辱にまみれた屈辱感が、その後の西郷を育てる。
 西郷が、いかに人間の論理を重んじたかということは、その後赦免の使いが来たときにも表れる。二度日の赦免のときであったが、西郷はそはの島に流されている後輩の村田新八を、藩命を無視して助けるのである。西郷に赦免の使いが来たが、村田にはまだ来ていない。そこで西郷は、自分を連れにきた赦免船を村田のいる島に強引につけさせ、村田を救出するのである。これは越権行為である。

■西郷の″人望″の根幹をなすもの

<本文から>
 こういうふうに見てくると、西郷は確かに人間の論理を重視し、「何を」よりも「誰が」を大切にし、また権限を一手に独占するのではなく、大幅に委ねるという姿勢を貫いた。この点、組織の論理を何よりも大切にし、「何を」人間であり、また権限を極力一手に収めようとしていた大久保利通とは、まったく対極の立場に立つ。
 こういうふうにくくってみると、それでは「情」重視の西郷には、「知」重視の人間に具わっている要素が、まったくなかったのかという問題が起こってくる。冒頭に書いた、現代の企業経営者が求めるリーダーの条件の上位にラソクされた先見カ・情報カ・決断力・行動力・体力などが、情的人間の西郷隆盛にはまったく欠けていたのかということだ。ところが、これが西郷には十分に備わっていた。彼ほど、先を見通す力を持っていた人間はいない。幕末時は、彼の鋭い形勢観望が大きく物を言って、次々と彼の帰属していた組織の得点になった。前に書いた、長州征伐の例も、あるいほ亀山社中・海援隊の活用も、薩長連合も、あるいは討幕戦争も、全部そうだ。そしてこれは単に先見カや予見力が優れていただけではない。彼が築いてきた、頼まれな人的ネットワークによってもたらされる、すさまじい情報の量と、質も大きく働いている。先を見通すには、何よりも情報が必要だ。しかし、情報は黙っていてもやって来るというものではない。情報の集まる人間と、集まらない人間がいる。これは、情報を提供する側が相手をよく見るからだ。つまり、
 「この相手は、情報をもたらすに値するかどうか」
 あるいは、
 「この情報をもたらすことによって、自分も利益を得られるか、あるいは不利益をこうむるか」
 という判断をする。西郷の場合には、無際限に情報が集まってきた。そしてまた、彼が優れた決断力の持ち主であったことも確かだ。彼は、しはしば危険に陥ったがこれを切り抜けた。それは、情報によって先見性を持ち、決断したからだ。幕末から明治維新に至る彼の事績の数々も、すべてこの決断力によって行われている。同時にまた、彼は行動力の人間でもあった。自分が率先して行ったことは、誰もが知っている。彼は、理屈だけ言って、後方に退くというようなこと
はけっしてしなかった。人を煽動だけしておいて、自分は後ろの安全なところにいてまた論評を加えるなどということはしなかったのである。彼は批評家ではない。常に実践者だった。また、体力もかなりあった。あれだけの肥満体でありながら、かなり鋭敏な行動をしている。後年は、病気が重くなって動くこともだいぶ大儀になったようだが、若いうちはまるで違っていた。
 そういうふうに考えてくると、現代の経営者たちが求めている「先見力」「情報力」「決断力」「行動力」「体力」のすべてを、西郷は持っていたことになる。しかし、体力を除いてこれらの要素は、どちらかといえば知的支えがなければ実現できない。その知的支えを西郷は持っていたのだ。だから、西郷は単なる情的人間ではなく、知的人間でもあったのだ。これが西郷隆盛のリーダーシップの優れたところであり、同時にまた、多くの人々が西郷さん、西郷さんと慕う所以であろう。漱石流にいえば、彼は、
「智に働いても角が立たない、情に樟さしても流されない」ものを具備していたのである。いってみれば「知」と「情」両面にわたって、彼は優れた資質を持っていたと言っていいだろう。その点、大久保刺通のほうが、やや「知」に傾きすぎたために、なんとなく冷たい感じがして、一般的な人気を得るのにはちょっと西郷にはかなわないといった面があるのだ。大久保ファンには怒られるかもしれないが、西郷には、織田信長的な行動力と、また豊臣秀吉的な人気と、さらに
徳川家康的な慎重さ、あるいは根気強さがあったといっていいだろう。戦国の三人の英雄の優れた側面を、具えていたからこそ、彼は並はずれた「人望」を後世まで持ち得たのである。

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