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<本文から>
この劣った他国の民族をエビスと呼んだ。そして方角別に東のエビスを東夷、西のエビスを西戎、北のエビスを北狄、南のエビスを南蛮と呼ぶ。
隣接する国々は、この考え方に圧迫されて、中国に貢ぎ物を捧げた。受けた中国側では、朝貢した国に対し、その最高権力者に「国王」の称号と、その証とする「金印」を与えた。さらに、朝貢された物品の五倍・一〇倍に相当するような宝物を与えた。朝貢品を通貨で買い取るわけではない。必ず宝物をもってお返しした。これが莫大な額に相当するので、朝貢国は喜ん
だ。はっきり言えば、
「中国に従属する形をとっても、実利を得たほうが得だ」
と考えたのである。近隣諸国はほとんど朝貢国となり、中国皇帝から国王と金印をもらって従属した。しかしだからといって中国側は、従属国の主権まで奪うわけではない。
「国政運営は、従来どおりにおこなってよい」
ということだ。朝貢したからといって、家臣のように扱ったわけではない。最小限の主体性と自治は認めていたのである。しかし骨のある国にすれば、朝貢したことに対し、
「おのれを捨てた」
と屈辱的な気持ちをもつ者もたくさんいた。
ヒミコの弟が眉を寄せたのは、彼にも邪馬台国に対する誇りと自信があったからである。だから、
<いかに魏が強大だからといって、何も他国のカを借りることはないではないか>∨
と思ったのだろう。しかし当時の国内状況からすれば、狗奴国の勢いはすさまじく、遮二無に攻めたててくる。放っておけば邪馬台国は滅びてしまう。
−というように書いてきたが、あるいは古代日本や朝鮮・中国との関係は、いまのようにはっきりした国の区分がおこなわれていなかったのかもしれない。筆者はかねがねそんな気持ちをもっている。
中国大陸や朝鮮半島でしばしば動乱が起こった。それを嫌って、狭い海を越えて日本に渡ってくる亡命者もたくさんいた。その亡命者たちが、あるいは、
「この国(日本)で、戦争のない共存共栄の社会をつくりたい」
と願ったかもしれない。妙な言葉を使えば、当時の日本は、騒乱に明け暮れる大陸や半島の人びとからみて、
「平和の実験地」
だったのではなかろうか。その証拠に、大陸や半島から渡ってきた農耕技術や、土木建設の先進技術をもつ渡来人には、いろいろな民族がいた。が、これらの民族がかつての故国における国区分や、民族区分によって争ったというような例はほとんど聞かない。つまり、
「日本で共存共栄していた」
といえる。とくに朝鮮から渡ってきた高麗人・百済人・新羅人などの諸民族が、
「半島にいたときの国区分や民族区分が違う」
と言って、再び武器をとって争ったなどという例はない。それぞれが、手を取り合って日本国のために惜しみなく先進技術を伝えている。
となると、ヒミコの時代にも弟の憂いや不安などは、それほどたいしたものではなかったかもしれない。
つまり、一衣帯水という言葉があるように、日本と九州と半島をへだてる海域は、それほど遠いものとは認識されていなかったのだろう。もちろん、当時の船で渡るのだから、危険が大きい。にもかかわらず、一衣帯水観によって、大陸・半島と日本、とくに九州とは、行ったり来たりすることがごく当た前に考えられていたのではなかろうか。 |
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