童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          時代を変えた女たち

■日本は騒乱に明け暮れる大陸や半島からみて平和の実験地で共存共栄した

<本文から>
 この劣った他国の民族をエビスと呼んだ。そして方角別に東のエビスを東夷、西のエビスを西戎、北のエビスを北狄、南のエビスを南蛮と呼ぶ。
 隣接する国々は、この考え方に圧迫されて、中国に貢ぎ物を捧げた。受けた中国側では、朝貢した国に対し、その最高権力者に「国王」の称号と、その証とする「金印」を与えた。さらに、朝貢された物品の五倍・一〇倍に相当するような宝物を与えた。朝貢品を通貨で買い取るわけではない。必ず宝物をもってお返しした。これが莫大な額に相当するので、朝貢国は喜ん
 だ。はっきり言えば、
 「中国に従属する形をとっても、実利を得たほうが得だ」
 と考えたのである。近隣諸国はほとんど朝貢国となり、中国皇帝から国王と金印をもらって従属した。しかしだからといって中国側は、従属国の主権まで奪うわけではない。
 「国政運営は、従来どおりにおこなってよい」
 ということだ。朝貢したからといって、家臣のように扱ったわけではない。最小限の主体性と自治は認めていたのである。しかし骨のある国にすれば、朝貢したことに対し、
 「おのれを捨てた」
 と屈辱的な気持ちをもつ者もたくさんいた。
 ヒミコの弟が眉を寄せたのは、彼にも邪馬台国に対する誇りと自信があったからである。だから、
<いかに魏が強大だからといって、何も他国のカを借りることはないではないか>∨
 と思ったのだろう。しかし当時の国内状況からすれば、狗奴国の勢いはすさまじく、遮二無に攻めたててくる。放っておけば邪馬台国は滅びてしまう。
 −というように書いてきたが、あるいは古代日本や朝鮮・中国との関係は、いまのようにはっきりした国の区分がおこなわれていなかったのかもしれない。筆者はかねがねそんな気持ちをもっている。
 中国大陸や朝鮮半島でしばしば動乱が起こった。それを嫌って、狭い海を越えて日本に渡ってくる亡命者もたくさんいた。その亡命者たちが、あるいは、
 「この国(日本)で、戦争のない共存共栄の社会をつくりたい」
 と願ったかもしれない。妙な言葉を使えば、当時の日本は、騒乱に明け暮れる大陸や半島の人びとからみて、
 「平和の実験地」
 だったのではなかろうか。その証拠に、大陸や半島から渡ってきた農耕技術や、土木建設の先進技術をもつ渡来人には、いろいろな民族がいた。が、これらの民族がかつての故国における国区分や、民族区分によって争ったというような例はほとんど聞かない。つまり、
 「日本で共存共栄していた」
 といえる。とくに朝鮮から渡ってきた高麗人・百済人・新羅人などの諸民族が、
 「半島にいたときの国区分や民族区分が違う」
 と言って、再び武器をとって争ったなどという例はない。それぞれが、手を取り合って日本国のために惜しみなく先進技術を伝えている。
 となると、ヒミコの時代にも弟の憂いや不安などは、それほどたいしたものではなかったかもしれない。
 つまり、一衣帯水という言葉があるように、日本と九州と半島をへだてる海域は、それほど遠いものとは認識されていなかったのだろう。もちろん、当時の船で渡るのだから、危険が大きい。にもかかわらず、一衣帯水観によって、大陸・半島と日本、とくに九州とは、行ったり来たりすることがごく当た前に考えられていたのではなかろうか。

■政子が頼朝以上に大事にしたのが東国武士の初心であり主体性をもった

<本文から>
このわかりきったことを頼朝は改めて、
  「天下草創の時」
 と言ったのは、京都にある公家政権(朝廷)とは別に、
 「武士の・武士による・武士のための政府」
 を創設したという意気込みを物語る。しかしだからといって、京都の朝廷を否定したわけではない。頼朝は、朝廷を主宰していた後白河法皇とは連携を密にし、法皇のことを、
  「日本一の大天狗(策謀家)」
 とからかいながらも、いわば政権の併存状況を保っていた。京都と鎌倉の完全な"二元政治"を実現した。しかし頼朝は東国武士を主体に、次第に体制を強化していった。
 この時代に生まれた言葉に、
 「御恩と奉公」あるいは「いざ鎌倉」というのがある。御恩というのは、頼朝が主として東国武士(武士たちは自分たちのことを御家人と呼んだ)の土地所有を保証し、それを給与として与えた。これに対し、
 「一所懸命の思想(土地を至上の財とする当時の日本人の財産観)」
 を安堵してくれたので、頼朝に対し、
 「何かあったときは、すぐ馳せ参じて御恩を返す」
 という考えをもった。これが「御恩と奉公」だ。そして、ローマのように鎌倉からは放射状に各地に道路がつくられていた。逆にいえば、鎌倉を囲む地域からはすべての道が鎌倉に通じた。これを「鎌倉街道」という。後の東海道や中山道などのように、鎌倉街道は一本ではない。
 「いざ鎌倉」
 というのは、この鎌倉街道を突っ走って、ことの起こった鎌倉へ駆けつける武士の態度をいう。そしてこのいざ鎌倉も、源頼朝とその子の頼家、その弟の実朝と三代つづく源氏の時代は、将軍家への忠誠心としてあらわれたが、四代目以降は将軍ではなくむしろ執権を務めた北条家のためだった。
 こういう土台をつくったのが、頼朝の妻北条政子である。北条と名乗るように、政子はいまでいえば、
 「夫婦別姓の祖」
 といっていい。したがって政子の頼朝へのつくし方は、いわゆる"内助の功"ではない。
 「夫とともに生きるが、あくまでも女性の主体性を保つ」
 という姿勢である。そして夫の頼朝以上に政子が大事にしたのが、
 「東国武士の初心・原点」
 であった。夫の頼朝がなぜ鎌倉に幕府を開いたかといえば、常にこんなことを言っていたからだ。
 「武士が京都に行って長く暮らすと、次第にその生活ぶりが公家化する。やがては武士の初心を失ってしまう。京都は魔の都だ。自分は絶対に京都には拠点をおかない。野深い東国におく」
 政子は全面的に頼朝の考え方を支持した。というよりも、政子のほうが頼朝以上に、「東国武士の精神」をもち、大切に保持していた。
 北条政子は、伊豆国の国府に務める下級役人北条時政の娘として生まれた。それほど学問は深くなかったが、東国武士は平将門以来の伝統を引き継いで、
 「独立心」
 が非常に強かった。政子もこの気風をそのまま自分の血の中に流していた。かなり激しい性格だった。当時日本の政治状況は、平家一門が日本全国を支配していた。平清盛を長とする一族が、京都朝廷の地方役人の主だったところをほとんど占めていた。だから表の中には、
 「平家にあらざれば人にあらず」
 などと豪語する者もいる始末だった。これに対し、源氏の一部が反乱を企てた。敗れた。青年頼朝もその反乱軍の中にいた。敗れたのち頼朝は生命を助けられ、伊豆に流された。この流人頼朝と政子は恋におちた。治承元(一一七七)年のころだった。時政は怒った。そして、
 「流人と情を通じるなどもってのほかだ。平家にしられたらエライことになる」
 と怒って政子を幽閉してしまった。しかし、政子は閉じられた部屋から飛び出し、雨の中を伊豆山にいた頼朝のところへ走った。そして、
 「事実上の結婚宣言」
 をおこなった。この娘の行動に、父時政も次第に考え直しはじめた。それは時政自身も、
 「平家の東国武士の扱いは非情だ。いつまでもイヌのようにシツポを振って従っていても、ろくな目にあわない」
 と、現実認識を深めたことと、同時に東国武士特有の「独立心(自治精神)」がむくむくと頭をもたげたためである。

■静御前が頼朝の前で義経の妻として舞う勇気

<本文から>
聞いていた鎌倉武士たちは一斉に顔を見合わせた。歌の意外さに驚いたからである。頼朝の本拠鎌倉に来たのだから、
 「将軍万歳」
 というような歌詞を期待していた。ところが静が歌ったのは、あきらかに行方のわからない夫義経を慕う歌だ。しかも、歌はそれで終わらなかった。静はさらにつづけた。
 しずやしず賎のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな
 しずというのは、自分の名前静に引っかけたものだろう。しかしいくらやまびこのように名を呼んでも、昔は今に帰らない。夫の義経との日々が懐かしいという哀切きわまりない歌だ。
 聞いているうちに頼朝は怒りだした。ブルブル身を震わせる夫を、脇にいた妻の政子が静か に抑えた。そして、こうなだめた。
 「いま舞っている静は、義経殿の妻でございますよ」
 この一言に、頼朝は怒りを鎮めた。しかし目は憎しみに燃えていた。それは静が憎いのではない。ここまでひとりの女性に慕わせる弟が憎かったのだ。眼前に舞う静には、おそれも何もない。ひたすらに弟義経を慕っている。その悲しいまでの恋慕の情が、鶴岡八幡宮に集まった人びとの胸を打った。なかには瞼を押さえる者も何人かいた。いいようのない感動が社前に満ち満ちていた。天下人源頼朝も、この空気には圧倒された。
 このとき静は十九歳である。やがて閏七月二十九日に産んだ男の子は、頼朝の命令で由比ケ浜に捨てられた。傷心の静は京都に戻った。そして嵯峨の草庵にこもり、消息不明の義経の身を案じた。が、翌年二十歳の秋に、ひとり静かにこの世を去ったと伝えられている。そして、その翌々年の文治五(一一八九)年四月に、奥州平泉の衣川の館にいた義経も、藤原一族の手によって殺された。しかし、
 「いまのわたくしは白拍子ではなく、源義経の妻でございます」
 と言い切った静の勇気は、長く語り伝えられた。

■細川ガラシャの夫を変えた悲壮な死

<本文から>
徳川家康と、これに従う諸大名が東北に向かった留守に、石田三成は兵を起こした。玉の夫細川忠興も勇躍、徳川家康の軍に参加していた。大坂城周辺にいた諸大名の家族は次々と城内へ拉致された。細川邸にも軍勢がやってきた。留守を仕切っていたのが家老の小笠原少斎である。細川忠興は出陣する時打少斉に命じた。
 「玉を絶対に敵に渡してはならぬ」
 これには理由があったという。それは、玉があまりにも美しすぎるので、忠興は終始男性としての不安を感じていた。
 「玉を他人に盗まれはしないか」
 ということだ。豊臣秀吉が天下人時代に、しきりに大名の夫人を城内に招いた。妙な噂が立った。それは秀吉が無類の女好きで、
 「大名夫人に、夜の相手をさせている」
 というものだった。しかし、そういう噂を立てられても、身を屈して妻を城内へ差し出す大名もいた。物笑いになった。玉にも声がかかってきたことがある。しかし、玉は頑としてはねつけた。秀吉は苦笑した。
 「さすが光秀の娘だ。気が強い」
 と言い、二度と声はかけなかった。そういうことがあったので、忠興にすれば、
 「たとえ秀吉公がいなくても、大坂城内では、人質がどんな目にあわされるかわからぬ」
 と心配していたのである。玉にすれば笑止千万な心配だ。
 石田勢は執拗だった。渡せ、渡さぬの押し問答が続いた。石田勢はついに武力行使を宣言した。小笠原少斎は玉のところに行った。
 「いかがなさいますか」
 そう聞いた。玉は平然として、
 「私を薙刀で突きなさい」
 と命じた。少斎は眉を寄せた。大名の妻なら懐剣で自分の身を突き、自決することも可能だ。
 なぜその道を選ばないのだろうか、と不思議に思った。そんな少斎の気持ちを察して玉はこう言った。
 「キリシタンは自殺を禁じられております」
 少斎は納得した。しかし毅然と言い切る玉の姿勢に別なものを感じた。
 <玉様は、最後までご自身の誇りを貫かれるおつもりなのだ>
 玉の気性からすれば、たとえ禁じられていても敵に自分の身体が奪われるとなれば、あえて自決するはずだ。あるいは、いくつかの大名家で敢行したように屋敷からの脱出も可能だったろう。が、玉はあえてそれをしなかった。

■中野竹子 会津の女性決死隊

<本文から>
 激戦がおこなわれたのは八月二十五日のことである。攻撃軍は、長州・美濃・大垣の合同軍だった。襲いかかる敵兵の中で叫び声があがった。
 「会津軍の中に女がいるぞ!」
 この声をきくと、政府軍はいったんピタリと戦うのをやめ、その所在を確かめようと眼を皿のようにした。獰猛な獣心がみるみるその眼に浮かんだ。かれらは一様に、
<生捕りにして、犯してやろう)
 と思った。竹子は声を励ました。
 「絶対に、生きて捕らえられてはなりませんぞ」
 娘子軍はオーツと声をあげた。全員が薙刀を激しく振りまわし、勇敢に戦った。とくに竹子は美人だったので、敵兵が群がり寄った。これを水車のように薙刀を振りまれしながら、斬り払い斬り払い奮戦した。が、敵側の撃った鉄砲の弾が竹子の胸に当った。これにはかなわない。
 竹子はドーツと倒れた。
 「それ」
 と声をあげて迫る敵兵を、妹の優子が仁王のように立ちはだかり、水車のように薙刀を振りまわした。そして、スキを狙って姉の首を打ち落とし、それを抱えてその場から退避した。優子はさっきまで姉が振りまわしていた薙刀も脇に抱えた。この薙刀には、一首の歌が短冊に書かれて結びつけられていた。
 武士の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも
というものだった。竹子が戦死した激戦の地は、若松市西郊の湯川に架かった柳橋である。
一名"泪橋"ともいわれた。現在柳橋から坂下に向かう国道の右奥に、
 「中野竹子殉節之地」
 と刻まれた大きな石碑が立っでいる。優子が持ち去った首は近くの法界寺に埋められた。
 会津戦争では、多くの悲劇が生まれたが、娘子軍を組織した中野竹子の奮戦は、なかでも際立っている。彼女は文字どおり、みずからか"身知らずの柿"のひとつとして、その身を主家のために投げ出したのであった。

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