童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説伊藤博文 青春児 下

■イギリスへの賠償金を幕府からとるように話す

<本文から>
  再び小舟に乗って馬関(下関)に戻る途中、高杉は険しい顔で春輔にきいた。
「春輔、おまえは勝手に賠償金を承知してしまったが、どうやって払うつもりだ。だいたい、あのエゲレス人に何を話したんだ」
「長州はすってんてんで、一文も金はありません。どうしても賠償金金がとりたいのなら、幕府からとりなさい、といっただけですよ」
 春輔はそう答えた。
「なに・・・」
「だってそうでしょう。去年の五月十日以降、外国船を撃ち払えといったのは幕府なんですからね。長州は、忠実にその命令に従ったまでです。国際法上、非は命令老にあります。イギリス側にはそう話したのです」
 国際法上そんなとりきめがあるのかないのか、わからないが春輔はそういった。高杉は改めて春輔を見つめた。そして、
(とうてい、こいつの心臓のつよさにはかなわない)
 と思った。
 高杉はつぶやいた。
「長州藩は、幕府にいよいよにくまれるな…」
「そのほうがいいんです。孤立すれはするほど、藩は結束しますよ」
 春輔はそう応じた。が、胸の中は不安でいっはいだった。自分は大変なことをしてしまったのではないか、という反応が突きあげていた。その不安を抑えつけるやけくそみたいないいかただった。しかし、そういう春輔の肩を、高杉は大きく叩いた。そして笑った。
 「おれもそう思う。春輔、よくやったぞ!」 

■ふしぎな雰囲気をもつ、サービス精神が漲っている

<本文から>
「伊藤春輔というのは、そういう人間」
 なのである。そういう人間とは、接触する人間にそう思わせる、ふしぎな雰囲気が春輔にある、ということだろう。
 その雰囲気というのは、春輔本人にもわからないが、こういうことだ。それは、いつ、どんなときでも、他人が、
(こういうことをしたいな。でも、おれのカはちょっと不足している)
 と思うとき、春輔は必ずその期待に応える、ということだ。
(この男なら、不足分を必ず補ってくれる)
 と思わせることなのである。それは、ひとつは春輔の能力であり、そしてもうひとつは、信頼感である。調子がよくて、特に軽薄な印象さえ与える春輔が、実は、もっとも容易に他人を信じさせてしまうのだ。
 それは、春輔の性格に、いつでも、
″他人をよろこはせたい″
 という、サービス精神が漲っているためである。彼ほど、他人のよろこぶ顔が見たくて、必死の労力をする人間はいない。能力はもちろんある。が、たとえ、高杉と井上を逐っても、藩政府が春輔を逐わずに逆に登用するのは、いわば、春輔の、この無私の奉仕の心にあった。
 それと、さらに春輔の責任感だ。春輔は仕事がうまくいかなかったばあいも、決して逃げない。他人に尻拭いを押しつけない。自分で約束する。そういう態度は、上役からみると、ひじょうに好ましい。高杉や井上は、その点、無責任なところがある。やりたい放題のことをして、他人に尻を拭かせることがある。この差が、春輔だけを、藩庁上層部が特別な目で見るゆえんであった。

■高杉との別れ

<本文から>
高杉は春輔にきいた。
 「はい、がんはっています」
 「らしいな。おれはついに天命がつきる」
 「そんなことはありませんよ。幕軍に勝った高杉さんです、病気にも勝てます」
 「駄目だ、そんなことをいっても。春輔」
 「はい」
、「世話になったな。これからは、桂のいうことをよくきいて、のびていけ。おまえは、ヒマワリみたいなところがあるからな、ちょっとやそっとのことではへこたれまい。桂よ」
 高杉ほ、桂のほうに向き直った。
 「忙しいところをよくきてくれた。こいつをたのむ。おれはこいつが可愛くてしかたがないんだ。もっと面倒をみてやりたかった。が、おれの運もいのちもつきた。こいつは、まだまだこれからの男だ」
 「ああ・・・」
 桂はことばを濁してうなずいた。望東伯が立ち上って去ろうとした。高杉がとめた。
 「いいんですよ。私には、もう何のひみつもない。それに、春輔と桂に会えたので、心残りもない。うん、ほんとうによくきてくれた…」
 と、もう一度嬉しそうにふたりを見た。
 たしかにそうだ、と春輔は思った。昔の高杉だったら、こんな遺言めいた話をするときは、照れて、他の人間に席をはずしてもらっただろう。が、いま、高杉は、そうしなかった。他人の前ではっきりと、春輔のことを桂にたのむである。
 それは、高杉がすでに死生を超越した、昇華した次元ににいるためかも知れなかった。かれの本性である詩的世界に棲んで、人間世界の些事からはるかに飛躍してしまったのだ。
 (高杉さんはすでに雲の上にいる・・・)
 春輔はそう感じた。にもかかわらず、春輔に対する愛怖の探さはどうだろう。春輔は嶋咽していた。涙があとからあとから湧いてきた。

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