童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説伊藤博文 青春児 上

■食ってはいけない娘をほっておいての攘夷ではない

<本文から>
  おどろいて山県は限をむいた。まさか利助が反撃に出てくるとは思わなかったのだ。利助はつづけ
た。
「その例をいおう。ひとつ、利助という名はぼくの親がつけた、君の世話にはなっていない。第一、利助という名をそこまで拡大解釈するのは君の深読みだ。また、ぼくの常に対する冒済でもある。謝罪を要求する。また、吉田先生は松下村塾の門人はすべて異体同心だといわれた。互いに呼びあうときほきみ・ぼくでいこうといわれた。先生も率先実行しておられる。ましてぼくも君も同じ仲間だ、身分に上下はない。だかち君にきさまと呼ばれるいわれはない。取消しもしくは謝罪を要求する。さらに、あらゆる権力者をぼくが利用しているというが、一見、そのように見えることをぼくは否定しない。しかしなぜそうするのか、君はぼくの目的をきいていない。ぼくは君たちの攘夷国防論を否定はしない。しかしぼくはその前にしたいことがあるのだ…」
 すでに怒りのかたまりになって、即座に反論しょうと真っ赤になってすきを狙っている山県を冷ややかな目で見ながら、しかし利助はその機会を与えずにつづけた。
「ぼくほこの隣り村の貧しい農家で育った・・・」
 自分の生いたちから語りはじめ、やがてお津和の話をした。峠での上士たちの乱暴ぷりを話した。結局、できそこないの萩焼をどう安く売ってみたところで食ってはいけず、お津和は馬閑の女郎に身を売ったことを話した。
「こういう娘をそのままにしておいて、何が国防か、攘夷か。ぼくはまずお津和のような娘を救うことからほじめたい。それができるカを自分で持ちたいのだ!」
 自分でもおかしな気分になるほど熱いことばがつぎつぎと出てきた。 

■暗殺によって志士の名をあげる

<本文から>
 師の吉田松陰の話に目が輝き、胸が熱くなるのは、そういう俊輔の殺意を、俊輔自身は、″私心・私怨”
として表に出すことを戒めてきたが、青田松陰はそうでなく、暗殺を、
″公心・公憤″
 として、政治の方法に化したことに対してであった。つまり″人を殺したい″という気持を、理由によっては″公に承認する″ということであった。若い俊輔は、たとえ心情的にはそうであっても、やはり生きている人間の生命をうばう、その前提として個人が人間を裁くということの恐ろしさをまだ理解していなかった。
 吉田松陰の教えのその部分だけをストソと胸に納めてしまったため、伊藤俊輔はこの日から″暗殺者″に変質する。そして、長州の名もない軽輩伊藤俊輔が突如として、
″長州に伊藤俊輔あり″
 と、その名を知られるようになるのは、このときから四年後の文久二年(一人六二)十二月に、高名な幕府の御用学者塙次郎(有名な盲人学者塙保己一の子)を暗殺することによってである。さらに同じ月に、高杉晋作たちと江戸高輪のイギリス公使館に斬りこんで、放火・殺人をおこなうことによってである。つまり、無名の新人伊藤俊輔が、一挙に志士として名を知られるようになるのは、”殺人″と″放火″しか手段がなかったのだ。が、それほ四年後のことだ。

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