童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          維新前夜

■阿部正弘は災害時に現場で指揮した

<本文から>
 「将軍になったばかりの家定は、次々と起る予期しない事件に眼を見張った。正直に、
「まったく一寸先は闇だ。何が起るかわからない。また何が起っても不思議ではない」
とぼやいた。阿部正弘も苦笑した。家定は、
 「京都御所も炎上したことだし、こっちもろくなことはない。改元したらどうだ?」
と阿部正弘に命じた。そこで正弘は朝廷と連絡を取り、嘉永という年号を「安政」と改めた。十一月二十七日のことである。嘉永七年は安政元年と変った。
 安らかにというねがいをこめた改元であったが、翌二年になっても一向に天災はやまなかった。年が変った一月十三日に小さな地震があり、二月十二日、七月三日と同じような規模の地震が起った。そのたびに老中首座阿部正弘は同僚や江戸町奉行、勘定奉行、寺社奉行などを指揮して、適切な処置を取った。これがひどく将軍の家定を感心させた。
 「おまえは八方美人で、根まわしや難問題のまとめ役として有名だが、災害の対策にも見事な腕を示すな。大したものだ」
 と、半はからかう調子でいった。しかし心の中で舌を巻いていたことは確かである。
 阿部は災害対策を、江戸城内では行わない。かれはつねに現場に出た。とくにいまでいえば災害対策本部としての拠点を、江戸町奉行所に置いた。今度もそうするつもりだった。かれはすぐ南北の町奉行に使いを出し、
 「このたびの地震の災害対策役所を、北町奉行所に置く」
と告げた。そして関係者に、
 「直ちに北町奉行所に集まるように」
と指令を発した。
 「また厄介になる」
 阿部正弘は、火事装束に身を固めて北町奉行所の門をくぐつた。北町奉行所の役人たちも、老中首座の職にありながらいつも気軽に声をかけてくれるので、下っ現役人にまで阿部の評判は良かった。 

■阿部正弘は困難対処のために外様や処士まで抱き込んだ

<本文から>
 また、勝麟太郎の意見によって、長崎に海軍の伝習所をつくった。教官はすべてオランダ海軍から招いた。江戸築地にも講武所をつくり、幕臣や各大名家の有志の再教育を行いはじめた。
 「改めて、武士は文武の原点に戻れ」
という教育方針を取った。正弘はさらにこの築地の講武所に、軍艦操練所をつくるつもりでいる。
 一連の政治構想を実現する上で、阿部正弘が心から感じているのは、
 「すべて人間関係だ。人の輪を広げなければだめだ」
ということだった。したがって人の輪を広げるためには、かれは譜代だとか外様だとかいう大名の区分も眼中になかった。幕臣の中でも、有能な者はどんどん登用した。身分や家格も問題ではない。いまの言葉を使えば、こういう現状改革を行う時には三つの壁がある。
 ・物理的な壁(モノの壁)
 ・制度的な壁(しくみの壁)
 ・意識的な壁(こころの壁)
である。阿部正弘は積庵的にこの三つの壁をぶち壊していった。当然、軋轢が起る。いま溜間詰めで、頭から湯気を立て眠から怒りの炎を吹き立てている井伊直弼などはその代表だ。正弘は、
 「しかし、敵を恐れていては何もできない」
と割り切っていた。そして、
 「敵を説得し、協力させるためには、推進母体をより強力にしなければだめだ。それには、譜代も外様もない」
ということが、かれの目下の戦法であった。かれは、
 「やがては市井人にも協力してもらおう」
と考えていた。井伊直鶉が最も嫌う、
  「処士横議」
の処士(民間人)すらも、自分の陣営に抱き込もうと策していたのである。

■開国には二段階ある

<本文から>
 幕末日本の開国には、二段階ある。最初は、
 「和親」
であり、次は、
 「通商」
だ。和親というのは単に、
 「仲良くしましょう」
ということで貿易は関係ない。通商は文字通り貿易を主体にしている。
 最初の和親条約を結んだのは老中の阿部正弘だった。そして通商条約を結んだのは、大老の井伊直弼である。
 「開国の恩人」
というと、すぐ井伊直弼の名があげられるが正しくない。最初に日本本の国を開いたのは、あくまでも阿部正弘である。しかしその功罪を論ずるとなると、いろいろな意見がある。
 阿部正弘は、対日全権大使として日本にやって来たペル−の恫喝外交に屈した。しかしかれは、いまでいえば国際化の波が日本に押し寄せて来ているので、いつまでも鎖国をしているわけにはいかないという決断をした。そのため、ペリーが持って釆たフィルモアアメリカ大統領の国書を日本語に訳し、これを全国にばらまいた。そして、
 「この国難にどう対応すべきか、意見を出してほしい」
と、広く各層の意見を求めた。
 これは、いまでいう情報公開であり、また、
 「国民の国政参加」
を促す行動であった。

■お吉は献身的にハリスの看病をした

<本文から>
 ハリスの病気がよくならないのは食べ物のせいだということを最初に感じたのがお吉だった。他のことをしなければそのまま看護婦として雇用関係を続けるというヒユースケンの話をきいて、お吉は自分が感じたままを森山に話した。森山は眼を見張った。森山にしても下田奉行所の方針で、アメリカ側が一日も早く下田での生活に見切りをつけ、
「こんなことでは日本との交流はできない。集約を破棄して本国に戻ろう」
といい出してくれればいいと考えていたからだ。ところがお吉は違った。
「あんな腐った菜っ葉や肉を売っていたのでは、日本人の活券にかかわりますよ。病人を殺すようなものでかわいそうじやありませんか」
 この言葉をきくと森山は目からうろこが落ちたような気がした。そしてまじまじとお吉をみつめた。
「お吉」
 このやり取りをヒユースケンがいぶかしげな表情でみつめていた。途中から割り込んだ。森山に、
 「オキチサンハナンノハナシヲシティルノタ?」
ときいた。森山は黙った。つまり自分の側に非があったからである。そこでヒユースケンには答えずお吉に、
 「どうすればいい?」
  ときいた。お吉は、
 「新しい野菜やハリス閣下が欲しがる動物の肉を差し上げるべきです。天城の山にいけば、イノシシや鹿やウサギや鳥がいるじゃありませんか。お役所でだめならわたしが買ってきて上げます」
 といった。森山はいよいよ眼を見張った。そして、
(仕事は汚れていても、この娘の心はたとえようもなく美しい)
と感じた。お吉再発見である。そこで森山はお吉に、
 「おまえの思うようにしていい。おれの方も便宜をはかるL
 といった。お吉はパッと顔を輝かせ、うれしそうな表情をした。
 その日からお吉はハリスのために新しい食事の材料を得るために走りまわった。言葉どおり天城の山中にまで入り込んで、昔馴染みの猟師から新しい鹿や山鳥やウサギの肉を買ってきた。
 「おまえのためならタダでもいいよ。その代わり・・・・」
とねだるような眼をする猟師の手をピシヤリと叩き、
 「それは今度のお楽しみ」
といって五泉寺に戻ってきた。また近所の農夫たちに頼んで、新しい野菜をどんどん仕込んだ。それを中国人の料理人に渡したから料理人は眼を見張った。
 「お吉さんはすばらしい政治家だ」
と褒めた。このお吉の努力はハリスにも伝わった。ハリスは、
 「オキチサン、オキチサン」
 といって、お吉を離さなくなった。お吉は夜もずっとハリスのベッドの下に寝て、ハリスが身じろぎをしたり唸ったりするとすぐ起き上がって看病をした。もう二度とハリスの熟を冷ますために自分の裸身を押しつけることはしなかったが、献身的なお吉の看病ぶりは五泉寺内の評判になった。領事館側の使用人たちもみんな感心した。

■桂は世話になった長井を切腹に追い込んだ

<本文から>
 執拗な江戸町奉行黒川備中守の追及の手はさらに厳しさを増した。桂と伊藤は窮地に陥った。この時、たまたま長州から江戸にやってきた同志の井上開多がこういった。
「起ったことはしかたがないよ。長井さんに頼むより方法がない」
といった。桂は井上を睨みつけた。
「長井雅楽に? 冗談じゃない。だれがあんなやつに」
「そんなことをいったって長井さんはご老中の水野忠精様とご入魂だ。水野様はとくに長井さんの航海遠略策を手放しで褒めておいでだ。まるで、長井さんを長州薄から引き抜いて徳川幕府の枢要なポストに就けかねないような惚れ込みようだ。長井さんなら桂さんと伊藤くんへの疑いをなんとか揉み消してくれるだろうよ」
 「・・・・・・・・」
 桂は渋面になった。しかし考えてみれば井上のいうことにも一理ある。
 (この際は政敵の長井に頭を下げるか)
 乗り気ではなかったが、桂はついに長井に屈服した。長井は桂の日本の青年たちに与えている影響の大きさを知っているから、
 「ああ、いいとも、いいとも。まあ、任せなさい」
 と、大きく胸を叩いた。そして事実老中の水野忠精に渡りをつけ工作して、桂と伊藤の不始末を不問に付してしまった。江戸町奉行の黒川は怒った。ギリギリと歯を噛みならして、
 「桂のやつめ」
と、自分をすっ飛ばして頭越しに老中に工作をした桂を憎んだ。黒川は長井が動いたとは思っていない。発端はやはり桂にあると思っていた。そこで幕府は桂と伊藤に対しては「譴責」という処分をおこなった。これで一応危機は切り抜けた。この事件は、桂の言に二度も行った”中座”によって切り抜けられたのである。しかしこのことは志士の間にくまなく漏れ。志士たちの間では、
 「桂さんはそういう人間だったのか」
と、その不透明さを疑われるようになった。だけでなく、桂は政敵長井にもひとつ大きな借りをつくってしまったのである。これが動機となって、桂はその後長井を敵視する気持をいよいよ強め、やがては長井を切腹に追い込む。桂の性格としてこういう世話のなり方は我慢できなかったのだ。どういったらいいのかわからないが、一種の近親憎悪で、
「世話になった人間ほど憎い」
という、複雑な心理がその後桂の心にどつかと根を下ろすのである。

■桂は早くから天皇を核とした新政府の樹立を構想した

<本文から>
「早く国会を設けよ」
と主張したのは、この時勝に合ってきいたアメリカの政治制度の印象が大きく根付いたからである。
 桂小五郎は密かに、
「天皇を核とした新政府の樹立」
を構想しはじめた。そして、
 「その政府の中心になるのは譜代大名ではない。外様大名だ。とくに長州藩が大きな柱になる必要がある」
と構想しはじめた。そうなると、長州藩単独ではそんな政府はできない。やはり連合する藩を探す必要がある。
 「どこだ?」
 桂がすぐ考えたのが薩摩藩である。長州藩と薩摩藩は、関ケ原の戦いの時に徳川幕府から酷い目に遭わされた。薩摩藩は政治工作を積極的に行い、いままでの七十七万石という領地はそのまま保全された。しかし長州藩は百数十万石の領地を失って、長門と周防二国三十数万石に縮小された。しかも城は瀬戸内海側につくることを許されず、日本海側の萩に限定された。
 長州藩にはそれ以来”獅子の廊下の儀”というのがある。これは元旦に萩城に祝賀を述べに登城した武士たちの代表が、藩主に向って、
 「今年は徳川を討ちますか?」
ときく行事だ。いままでは藩主が歴年、
 「いや、今年は見合わせよう」
 と応じてきた。二百六十年近くこのことが行われている。桂小五郎は、
 「そろそろ藩侯が今年は徳川を討とうといい出す時期だ」
 と考えて、ひとりニンマリと笑った。しかしそのためには、
 「薩長連合」
を日程に上らせなければならない。桂の頭の中では、
 「関ケ原合戦以来政経のが軒の外に置かれた外様大名連合による新政権をつくるべきだ」
という考えが渦を巻いた。この構想はいままで誰も考えなかったものである。久留米の神官真木和泉が主張するのは、
 「志士と称する日本浪人軍が天皇の親兵となって、即座に討幕軍に性格を変えるべきだ」
というものである。真木の立場からかれが語り掛けをするのは主として浪士であって、藩の人間ではない。真木には組織嫌いなところがあった。しかしこの真木の考えに共鳴する浪人もたくさんいた。桂小五郎ははじめて、
 「藩の存在、組織の力」
 ということを認識しはじめたのである。そのきっかけをつくつてくれたのは横井小楠と勝海舟であった。ふたりはいってみれば幕府側の高官である。

■桂は池田屋事変で批判されても藩邸に閉じ籠もり続けた

<本文から>
 「わかりません。たいへんな騒ぎです。京都守護職や所司代や町奉行所の役人共もどんどん出陣してきています。池田屋は慕軍によって十重二十重に取り囲まれました。志士側の被害もまったく不明です」
 そういった。桂は立ち上がった。大島が驚いた表情できいた。
 「桂さん、池田屋へいくのか?」
桂は首を横に振った。
 「藩邸へ戻る。急をきいて駆けつけようとする若者たちを抑える」
 「それがいい。賢明だ。あなたは大切な存在だ。暴挙に加わって新撰組などに斬られてはつまらない。すぐ戻りたま、え」
 そういった。桂は走った。長州藩邸に駆けこむと、すさまじい表情で、
 「門を閉めろ! 見張りを立てて誰も外に出してはならん」
と厳命した。藩士たちは驚いた。
 「桂先生、一体何があったのですか?」
 「新撰組が池田屋に切り込んだ」
  といった。みんな驚いて顔をみあわせた。
 「新撰組が? それではうちから参加している連中は?」
 「わからん。やがて状況がはっきりするだろう。何があろうとこの藩邸内の人間が池田屋へ駆けつけることはおれが許さん。いいな?」
 ともう一度念を押した。その桂の表情の恐ろしさに藩士たちは震え上がった。めずらしく桂がそんな顔をみせたからである。
  まもなくそとからどんどん門の戸を叩いて、
 「開けろ! おれたちを入れろ!」
と、叫ぶ藩士の声がきこえた。中に入れると、駆け込んできた者たちは一様に青い顔をして目をつり上げ、
 「池田屋で大変な騒動が起っている。すぐ応援にいこう。そうしなければ、うちからいった連中がみんな新撰組に殺されてしまう!」
とわめいた。しかし藩士たちは留守居役の桂から厳命されているので首を横に振る。
 「だめだ。おまえたちも建物の中に入ってじっとしていろ」
という。駆け込んできた藩士たちは目をむく。
 「何をばかな! 同志を見殺しにする気か?」
と叫ぶ。見張りに立った藩士たちは弱った。桂が出てきた。そして、
「静かにしろ。この藩邸から一歩たりとも出ることは許さん。出る者は斬る」
 いままで一度も刀を抜いたことのない桂が珍しく刀の柄に手を掛けた。そして再び走り出そうとする藩士たちを凄い形相で睨みつけた。その勢いに藩士たちは思わず膝から力が抜けた。池田屋で起った騒動の詳細が次々と戻ってくる藩士によってもたらされた。戻ってきた藩士たちはそのたびに、
 「応援にいこう! 同志を助けよう!」
 と叫んだ。しかし庭に突っ立った桂小五郎は、大刀を杖の代わりにして鬼のように立ち尽していた。応援にいこうという声が起るたびに、
 「ならぬ」
 桂は冷たくいい捨てた。被害の状況が判明するにつれて、庭に集まった若い藩士たちの中には泣き出す者もいた。鳴咽しながら、
 「桂先生、応援にいかせて〈ださい。仲間を見殺しにすることはできません」
と弱々しくいった。いまは怒号よりも哀訴になっていた。若者たちにとって、それほど池田屋に集まった同志たちの安否が気遣われたのである。しかし桂は許さなかった。
(ここでおれが弱気になったら、長州藩は完全にこの京都から叩き出される)
声が上がった。
 「桂先生は同志を見殺しにする気なのですか!」
 「冷たいですよ。桂先生もほんとうはあの合議にご出席なさっていたはずでしょう?なぜここにおられるのですか?」
 この一言は庭に集まった若い武士たちの胸に一斉に火をつけた。若い武士たちは揃って強い疑惑の目を桂に注いだ。桂はたじろがなかった。こんなことははじめから承知の上だ。重大な時期に中座する以上、つねに卑怯者、裏切り者といわれるのは覚悟の上だ。しかしその卑怯な振舞いも裏切りも、違い山や森をみつめる日があるからこそ耐えられる。そして耐えなければ遠い山も森も崩れる。目先のことだけに目がくらんで、自分に注がれる非難を避けようとすれば、結局は過激派と妥協せぎるを得ない。それはできない。桂はそう思っていた。思いが手の先に伝わり、それは杖のように立てた刀の柄に集中した。
 「吉岡が殺された。杉山も死んだ。吉田が自殺した。佐伯、内山、佐藤、山田は全部捕えられて縄をかけられ、新撰組の屯所に引っ立てられた」
 未明になってそこまではっきりした。他藩の犠牲者の状況も判明した。しかし桂は顔色も変えなかった。かれはずっとその姿勢で突っ立っていた。門の前に集まった著者たちは、そういう桂をうらめしげにみつめていた。中にははっきり憎悪の目で睨みつけている者もいた。いまは大声で、
 「桂先生は同志を見殺しにした」
 「鬼だ」
 「自分は池田届から逃げ出してきた。卑怯者だ」
 そういう声が次々と投げつけられた。しかし桂はぴくともしなかった。
(そんな非難はとるにたりない石だ。いくら投げられようとおれは平気だ)
 そう思っていた。この時の桂は、
(おれを支えるのはおれ以外にない。誰もおれのほんとうの志は理解していない)
と思っていた。その孤独感が逆に強い意志となって桂を支え続けた。

■近藤は七分金を民の金として軍資金として受けとらなかった

<本文から>
 永井の説明をきいているうちに、近藤勇の胸に動揺の波が起こった。それは、
 (この金はとても使うわけにはいかない)
 という気持である。永井の説明が終わると、近藤は小栗にきき返した。
 「一言でいえば、その一万両は江戸の民の費用だということでごぎいますね?」
 「そうだ」
 またたきもせずに、小乗は睨みつけるように近藤をみている。その日の底を窺いながら、近藤ははっきり感じた。
 (小栗様は、この金をおれに渡したくないのだ)
 そこで近藤は小乗から永井に視線を移してこういった。
 「そのお金は、いただくわけには参りません」
 「なに」
 永井はちょっと驚いて近藤をみかえした。
 「なぜだ?」
 「ただいま伺ったお話によれば、その一万両の金は、もともとは江戸の身寄りのない老人のための施設の運営資金でごぎいます。それが長年の間それも約百年近くも積立てられたものでございます。そのお金は、やはり江戸の民のために使うべきであって、わたくしなどが項戴するわけには参りません」
 「・・・・・・・・」
 永井は沈黙した。小栗の目に、輝きが走った。小栗は小さくうなずいた。わが意を得たりといった表情である。その小栗の表情をみた永井はすぐ決断した。
 「わかった。しかし、そうなるとおぬしが甲府城にいく資金がなくなるぞ」
 「なんとかいたします」
 近藤は、しかしその一瞬に、自分の立ててきた夢の柱が大きく倒れかかったのを感じた。
 なんとかするといったが、近藤になんとかできるはずがない。できないからこそ、こうして旧幕府の幹部が集まって、とくに前勘定奉行の小栗に資金調達を頼んだのだ。資金調達は、今度の夢実現の大きな柱になっているから、ここでその面の調達が不可能になると、夢の実現も相当影響を受ける。土方は近藤を後ろから指で突いた。しかし近藤は応じなかった。土方の気持はわかる。
 「黙ってもらってください。遠慮することはないでしょう」
という意思表示である。しかし近藤はさらに駄目押しをした。
 「そのお金は、ぜひ新政府にお引き渡し願いとうごぎいます。そして新政府から改めて、江戸の町に下げ渡してくれるように、ぜひご交渉ください」
 「わかった。そうする」
 永井はうなずいた。
 こうしてこの日の会談の主要議題であった、甲府城乗っ取りのための資金の話は消えた。前勘定奉行小乗上野介は満足した。小栗は主戦論者ではあったが、いままでまったくこの七分積金には手をつけなかった。一文でも軍費の欲しかった時期だ。しかし小栗は、絶対にこの七分積金を渡さなかった。
 「これは幕府の金ではない。民の金だ。使うわけにはいかない」
と主張し抜いた。しかし、幕府が倒壊した後、かつての先輩や同僚が集まって、
 「近藤勇にわれわれの夢を託している。頼むから、七分積金を使わせてくれ」
と切望されると、小栗の気持ち揺らいだ。しかしいま、近藤勇から、
 「そや金は新政府に引き渡して、江戸の民のために使うようにご交渉ください」
 という言葉をきくと、小栗はそこまで自分が考えていなかったことに気づいた。
(近藤勇という男は、なかなかの人物だ)
と感じうれしかった。
 「これじゃ、甲府行きはうまくいきませんよ」
と、土方歳三は文句をいった。近藤は苦笑した。
 「勘弁してくれ。しサしやはり民の金だといわれちゃ、使うわけにはいかないんだ」
 「気待はわかりますがね。しかし人が好すぎますよ」
せっかくの一万両がフイになってしまったので、土方は不機嫌だった。

■日柳がなぜバクチをやめないのか

<本文から>
 「なぜバタチをやめないのか?」
ときかれて、次の理由を挙げている。              
・自分は小さい頃親を失った。財産もないので、知人が訪ねてきてももてなすことができない。バタチをやらなければ接待費が出ない。
・子供の項は大きな家に育ったので、技能がぜんぜん身についていない。バタチ以外生きていく方法がない。
・大きな家に生まれたので、人から頭を下げられてばかりいた。自分から頭を下げるということがない。したがって、いまでも人に頭を下げるのは嫌だ。少しばかりの金を貰うために、ペコペコ腹にもないことをいっておべんちゃらをいいたくない。バタチはそんなことはない。実力本位だ。
・バタチうちになったお陰で、慕ってくる子分がずいぶん増えた。いざという時は、この子分を率いて勤皇のために一仕事したい。国家に尽くす。
 口実としては、なかなか御大層なものである。燕石が勤皇思想にかぶれはじめたのは、頼山陽の『日本外史』を読んでからだという。かれはこの本にぞっこん参り、知人から借りた本を全部筆を執って書き写した。この中に含まれている、
 「反幕思想」
に引き入れられたという。

■日柳はおのうに惚れた

<本文から>
(この人は、おのうさんに気があるのかもしれませんよ)
と眼で告げる。高杉もうなずく。
(おれもそう感じている)
 そのとおりだった。
 ある日、いつものように高杉とおうのを訪ねてきた燕石が、おうのに新しい品物を届けた後、
 「ではまた明日きましょう」
 といって家を出ると、お松は後を追った。そして、
 「おまえさん、おうのさんに気があるんだろう?」
といった。振り向いた薬石は、
 「ある」
 と悪びれずにうなずいた。そして、
 「ただし、いままでのようにおうのさんの身体が欲しいとかなんとかそういうことじやね、え。あの女は天女だ、観音様だよ」
 といった。
 「天女?」
 燕石のいい方があまりにも大袈裟なので、お松は眉を寄せた。
 「そうだ。あんなに心の無垢できれいな女はみたことがねえ。初めて合った。おれは完全にいかれたよ」
 「あたしたちは鬼婆で悪かったね」
お松は毒づいた。燕石はわらった。
 「何をいってやがる。おめえたちにはおめえたちのいいところがある。しかしおうのさんには、おめえたちにねえ無垢な心がある。おれがおうのさんに気があるのは、女としてじゃねえ。手を合わせて拝みてえような、一種の信心だ」
 「大したもんだね、おうのさんも。へえ」
 お松はあきれた。しかし燕石がいっていることはどうもほんとうらしい。気があるといっても、普通の男と女の惚れた腫れたでないことに、お松は安心した。そして、そういう燕石の関心の寄せ方なら、高杉さんも心配しなくてすむと胸をなでおろした。
 この日柳燕石のおうのに寄せた関心は、実際にほんものだったようだ。燕石はその後国内戦争が起った時に、自分も参加して越後戦線に赴く。やがて死ぬが、死ぬ時につぶやいた言葉は、
  「おうのさん」
 というものだったという説がある。

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