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<本文から>
「将軍になったばかりの家定は、次々と起る予期しない事件に眼を見張った。正直に、
「まったく一寸先は闇だ。何が起るかわからない。また何が起っても不思議ではない」
とぼやいた。阿部正弘も苦笑した。家定は、
「京都御所も炎上したことだし、こっちもろくなことはない。改元したらどうだ?」
と阿部正弘に命じた。そこで正弘は朝廷と連絡を取り、嘉永という年号を「安政」と改めた。十一月二十七日のことである。嘉永七年は安政元年と変った。
安らかにというねがいをこめた改元であったが、翌二年になっても一向に天災はやまなかった。年が変った一月十三日に小さな地震があり、二月十二日、七月三日と同じような規模の地震が起った。そのたびに老中首座阿部正弘は同僚や江戸町奉行、勘定奉行、寺社奉行などを指揮して、適切な処置を取った。これがひどく将軍の家定を感心させた。
「おまえは八方美人で、根まわしや難問題のまとめ役として有名だが、災害の対策にも見事な腕を示すな。大したものだ」
と、半はからかう調子でいった。しかし心の中で舌を巻いていたことは確かである。
阿部は災害対策を、江戸城内では行わない。かれはつねに現場に出た。とくにいまでいえば災害対策本部としての拠点を、江戸町奉行所に置いた。今度もそうするつもりだった。かれはすぐ南北の町奉行に使いを出し、
「このたびの地震の災害対策役所を、北町奉行所に置く」
と告げた。そして関係者に、
「直ちに北町奉行所に集まるように」
と指令を発した。
「また厄介になる」
阿部正弘は、火事装束に身を固めて北町奉行所の門をくぐつた。北町奉行所の役人たちも、老中首座の職にありながらいつも気軽に声をかけてくれるので、下っ現役人にまで阿部の評判は良かった。 |
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