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<本文から> 三成はもともと、
「主人からいただく給与を残すのは不忠者だ。全部使い果たさなければならない。それも、いい家臣を養うために使うのが最もいい。自分の暮らしなど、贅沢をすべきではない」
と言っていた。
だから、彼の拠点である佐和山城の構築も、いたって粗末なものだった。
関ケ原の大勝後、東軍の大名たちは先を争って佐和山城へ押し寄せた。城を落としそ中に侵入した。
「石田三成はまがりなりにも、豊臣政権の五奉行の一人だった。さぞかし財宝を準えそいることだろう」
そう思い、城を落とした後は、部下たちにその財宝を配分しようと考えたのである。
ところが、城に踏み込んでみると、何もなかった。ないどころではない。諸大名たちは呆れた。三成の城内は、彼の住んだ本丸にしても床は板張りであり、それも粗末な材木が使われていた。徹底的に漁ったが、何もない。大名たちは顔を見合わせた。
「奴がふだん言っていたことは本当なのだ」
つまり、
「主人からもらった給与を倹約して、自分のためにため込むようなのは武士の風上にも置けない。いただいた給与は、全部主人のために使い果たすべきだ」
ということを、三成は本当に実行していたのである。
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