童門冬二著書
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          小説石田三成

■主人の給与は家臣のために使い果たす

<本文から>
 三成はもともと、
 「主人からいただく給与を残すのは不忠者だ。全部使い果たさなければならない。それも、いい家臣を養うために使うのが最もいい。自分の暮らしなど、贅沢をすべきではない」
 と言っていた。
 だから、彼の拠点である佐和山城の構築も、いたって粗末なものだった。
 関ケ原の大勝後、東軍の大名たちは先を争って佐和山城へ押し寄せた。城を落としそ中に侵入した。
「石田三成はまがりなりにも、豊臣政権の五奉行の一人だった。さぞかし財宝を準えそいることだろう」
 そう思い、城を落とした後は、部下たちにその財宝を配分しようと考えたのである。
 ところが、城に踏み込んでみると、何もなかった。ないどころではない。諸大名たちは呆れた。三成の城内は、彼の住んだ本丸にしても床は板張りであり、それも粗末な材木が使われていた。徹底的に漁ったが、何もない。大名たちは顔を見合わせた。
「奴がふだん言っていたことは本当なのだ」
 つまり、
「主人からもらった給与を倹約して、自分のためにため込むようなのは武士の風上にも置けない。いただいた給与は、全部主人のために使い果たすべきだ」
 ということを、三成は本当に実行していたのである。

■朝鮮出兵での反感が関ヶ原敗因の遠因

<本文から>
 この朝鮮出兵で石出三成が担当した仕事は、
・基地としての名護屋城の築造
・渡鮮する大名軍の渡海業務(そのために、披は秀吉から命ぜられた十二名の船奉行の筆頭を務めた)
・諸武士、武器弾薬などの調達
・在鮮軍の監督奉行(これは、大谷吉継、増田長盛と連名で命ぜられた)
・京城で諸将を招集し、今後の軍略の評議
・明の講話使節との交渉
などであった。しかし、文官である披は、武官連中と意見が合わず、現地ではしばしばトラブルを起こした。特に豊臣系の大名たちの恨みを買った。豊山系の大名たちは、
「石田三成は、ろくに戦争のことを知らないくせに、われわれにいちいち文句をつけたり、あるいはわれわれが行った業績を故意に歪めて、太閤殿下に報告した」
 特に加藤清正は、
「立てた手柄を全く無視し、蔚山の苦戦を誇大に報告し、いかにも自分が怠け者であり、作戦下手であったと報告した」
と怒った。これに福鳥正則や黒田長政、あるいは細川忠興などが加わって、
「反石川三成連合」
をつくった。この朝鮮戦線における意見の相違は、結局は開ケ原合戦の特にこれら豊臣系の大名たちが、すべて徳川家康に味方する遠因になる。

■秀吉に欺き政治路線を信長公の復活の野望をもった

<本文から>
石田三戌は、はじめて野望を持った。それは、
「秀吉にもし何かあった後は、秀頼公を擁して、織田信長公の志を継承して実現したい」ということであった。つまり、豊臣政権の継続性は願うが、しかし政治路線としては、
「秀吉のそれではなく、信長のそれを復活させる」
 ということである。
 石田三成は自ら言い出して、
「秀頼公への忠節の誓い」
 ということを、しきりに口にするようになった。同志を語らって、誓紙を出した。そして、全大名にも、これを強要した。徳川家康は、
「石田、いったい何をはじめる気だ?」
 と眉を寄せた。しかし、この一連の行動に豊臣秀吉は気をよくした。
「佐吉の奴は、もう一度心を改めて、俺に犬のような忠誠心を発揮してくれる。可愛い奴だ」
 と一時期の誤解とわだかまりを捨てて、三成にほとんどのことを託すようになった。まさかその三成が、自分の政治路線を放棄して、死んだ織田信長のそれを復活させようと思っているなどとは、微塵も考えなかった。
 もう一つ、三成が心を決めたことがある。それは、
「この世の真実を、自分の手で掘り起こそう」
 ということである。この世の真実を掘り起こそうということは、三成から見て、
・いまの世の中は、嘘で固められている。
・その嘘が事実や真実として通用し、罷り通っている。
・しかもその嘘を、事実や真実として世の中に伝えているのは、豊臣秀吉をはじめ徳川家康などの、野望のある大名だ。
 ということだ。

■天下で実現しようとした3つの目的

<本文から>
「しかし、いまの石田三成には、不思議に悔いはなかった。それは披が、この天下で実現しょうとした三つの目的、すなわち、
・豊臣秀頼公を戴いて、織田信長公の政治路線を引き継ごうとしたこと。
・徳川家康をはじめとする、嘘つきどもが練り固めたこの世の中を復し、もっと真実味のある社会を建設しようとしたこと。
・そういう世の中が来たら、その時こそ、本当に石田三成の本領が発揮できたであろうこと。
 この三つの目的に対し、たとえ敗れたりとはいえ、石田二議は全力を出し尽くしたからだ。おそらく、その気持ちを本当にわかってくれたのは親友の大谷吉継だけだったに違いない。大谷吉継も苦労人だ。だからこそ、彼もはじめは徳川家康に味方しようとしたのに、気持ちを翻して三成に味方してくれたのだ。
 しかし、真実は常に虚偽に敗れる。本当のことよりも、嘘のほうが強い。それが現実だ。そのことをはっきり認識しただけでも、石田三成はこの企てを実際に行ったことを悔いてはいなかった。
 三成たちが斬られたのは六条河原の刑場である。三成、行長、恵竣の首は、先に自殺していた長束正家の首と共に、三条大橋のたもとに晒された。三成はこの時、四十一歳であった。
 三成の遺体は、三成と親しかった大徳寺の円鑑国師が引き取った。そして、同寺の三玄院に懇ろに葬られた。

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