童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          生涯青春 伊能忠敬の生き方哲学」に学ぶ

■幼少期の逆境に耐えて鍛えられる(胡風に立つ)

<本文から>
  だから小関家のほうでは娘(=母)が死ぬと同時に、利右衛門(父=)の追い出しをはかったのではなかろうか。
 こういうゴタゴタを、少年三治郎(=伊能忠敬)は、じつと見守っていた。少年の心にけっしていい痕跡を残しはしない。一生消えることのない傷跡を残したのに違いない。そういう暗い経験をした。
 しかし、朔風(北風) に耐えて樹木は根をしっかり張るように、人間も逆境に耐えてこそ鍛えられるのだ。
 しかも、その逆境もそう長く続くものではない。
 ゴタゴタの果てに、利右衛門は、当時四十二歳だったが、ついに小関家を去った。このとき、上の子は二人とも連れて出た。なぜか三治郎だけが残された。おそらく三治郎は、
「自分も連れていってほしい」
と父利右衛門の袖にすがって頼んだはずだ。ところが利右衛門は首を振り、
「おまえだけはここに残るのだ」
と突き放した。これがまた三治郎の心に暗い傷跡を残したことは言うまでもない。その後、三治郎は、小関家で家業である漁業の手伝いなどをさせられた。そんな三治郎の暮らしを風の便りに聞いて、さすがの父利右衛門も哀れに思った。三治郎が十一歳になったとき、
「家に戻ってこい」
と連れ戻しに来た。三治郎は喜んで父の後をトコトコとついていった。
 ところが、小堤村の神保家に戻ってみると、父はすでに後妻を迎えていた。複雑な境遇を経験してきた三治郎を、後妻は必ずしもいい顔をして迎えなかった。三治郎は神保家を飛び出して、親戚の家を渡り歩いた。そんなあてどのない根無し草のような生活を少年三治郎は送り始めていたのである。
 

■気が強くて付きあいにくい性格だった(自己の使命に本分をつくす)

<本文から>
 ●気が強いだけでなく、自分の言いたいことぼかり言う。
 ●このことは他人の言うことをあまり聞かないということを意味し、これでは周囲との調和を欠いてしまう。つまり、人間関係がトゲトゲしく、周囲からは好感を持たれていないことを意味する。
 ●一方、気は強いけれども、それは表面的なことであって根は優しい。だから、ボンボン強いことを言っても周囲ではそれほど気にも止めないで、あの人はいい人だという印象を持っている。
 ●気が強くても、それを表に表わさない。ソフトでもなければハードでもないというような客観的な態度を取り続ける。一見クールで、場合によってはあの人は冷たいと言われかねない。
 こういういろいろな例が考えられる。忠敬は果たしてどの例だったのだろうか。おそらく最後ではなかろうか。つまり親戚が、
「気ばかり強くて・・・」
 というだけで、その後の評言がない。ということは、忠敬が言われるようなことを態度で示していなかったということだ。だから、
「気が強くて、しかもボンボン他人に向かって言いづらいことを言う」
 ということはあまりなかったのではなかろうか。さらに、彼の科学者精神をもってすれば、やはり世の中の出来事とは一歩距離を置いて凝視するような客観性があったと思われる。そうなると、いちばん最後にあげた姿勢を保ち続けていたのではないかと思われる。これは周囲にとって少し煙ったい。つき合いにくい。心を割って居酒屋で酒を飲もうという気にはならないだろう。

■逆境に対して社会報復などせず自己向上のバネに(自己の使命に本分を尽くす)

<本文から>
彼の場合は、
●自分が経験した幼少年時代の苦労は、他人にはまったくかかわりがない。自分一人の体験として始末すべきものだ。
●したがって、自分が小さいときから苦労したといって、それを社会への報復などという形で投げ返すのは間違っている。
●もしそういう遺恨があるとすれば、それは自己向上のためのバネやエネルギーにすべきだ。
●自分が苦労をしたのなら、他の人にそういう苦労をさせないような社会をつくり出すことが必要だ。
●そのためには、自分はこういう苦労をしてきましたなどということを、いっさいひけらかさずに、じつと胸の底に納めて、むしろ他人に微笑みを向け、社会に貢献できるような仕事に努力することが大切だ。
彼はこう考えていた。だから彼が隠居後に、
「自分が本当にやりたいことがしたい」
と言って選んだ仕事というのは、趣味や風流の道ではなかった。天文学や測量という、そのまま実社会に役立つような仕事であった。彼の志は、
「いままでは、佐原の名家という樫椅によって、十分に活動できなかった。かなり行動を制限されていた。これからは隠居の身として、純粋に世の中に役立つような仕事がしたい」
ということだ。
 今日の言葉を使えば、彼の精神というものは、″生涯現役々 であり、″一生本番″であった。
 何度も例に引くが、サムエル・ウルマンの″青春の詩″をそのまま実践していたのである。

■記録による実証主義を大切さを実感(自己の使命に本分を尽くす)

<本文から>
「理屈では整合できなくても、本宿組の意地を通すためには、心ならずも永沢家の当主を義絶しなければならない。たとえいままでに例がなくても、新しく例をつくってまで本宿組の誇りを守らなければ、忠敬の名主としての存在意義はなくなる。
 この世の中も、不整合でいっぱいなのだ。その不整合を、どう整合していくかが、いわゆる政治力である。名主はそれを求められた。整合できないから、結局は義絶という非常手段をとって、この危機を回避しなければならなかった。
 なんとも後味の悪い始末であった。
 しかし、この事件を経験したことによって、伊能忠敬は、
「何事も地域の古いしきたりを是非を問わず知り尽くすことが必要だ。それには古い記録を読むことが欠かせない」
 と感じた。この感じ方は、忠敬のその後の生き方にも大きく影響を与える。つまり彼は、
「記録による実証主義」 の大切さを感じ取ったのである。それは、
●古い記録を読んで、事実を知り尽くす。
 ということと、
●いま起こっていることをきちんと記録して、後世の参考に残す。
 という両面における努力の発心であった。このことをさらに切実に感じさせるような事件が、引き続いて起こった。それが「佐原邑河岸一件」である。
 事件が起こったのは明和九年(一七七二、改元して安永となる) のことだった。忠敬は二十八歳になっていた。

■学ぶべき祖先を発見そ家風にとけ込む(新しい自分の発見)

<本文から>
「 伊能忠敬はしみじみと考えた。
(自分は、九十九里の小開村に生まれてから、父の実家の小堤村に戻っても、必ずしも幸福な暮らしを送ったわけではない。自分の心の底に、ひがみやねじけた心がまったくないかと言えばそれは嘘になる。自分はそれを努めて押さえつけ、外に出すのを控えてはいるが、根のところにはまだそういうものがある。
 そういうものの見方を続ければ、養家先の祖先にろくなやつはいない、と思うのがふつうだ。
 しかし伊能家では違う。この家には、本当に学ぶべき先祖がたくさんいる。特に、測量や記録に対して、三代前の景利様はたとえようのない立派な方だ。自分は改めて、景利様はじめ他にもいたであろう伊能家の立派な先祖を、自分の先祖として尊敬するようにしよう)
 そう考えた。このことは、伊能忠敬がもはや単なる養子ではなく、完全に伊能家生え抜きの一族と同じような立場に自分の身を置いたということだ。言ってみれば伊能家の家風に完全に溶け込んだということである。

■才覚によって生じた余剰金を村に役立てる(事業家・指導者として大成)

<本文から>
「もらった一部の工事費を元に、あちこち走り回って、材木や竹などの材料を、幕府が決めた
「お定め値段(材料はこの値段で買えという一つの規格的な代金)」を下回る値で買いつけた。そうなると差額が出る。差額は別なものに使える。それを彼は、工事で働く人たちの賃金の増額に使った。賃金もまた、幕府が決めた「お定め値段」があって、
「労務者は一日いくらで雇え」
と言われていたからだ。しかし労務者といってもそのほとんどが農底で、農民は忠敬の才覚に感動し、喜んだ。幕府が決めた賃金よりも増額されて支給されたからである。
 こういう経営手腕が伊能忠敬にはあった。やがて工事が完成した後も、忠敬の才覚によって百七十五両の余剰金を生じていた。
 しかし、忠敬はこれを自分の懐に入れたり、あるいは地頭に内緒で村のために使うようなことはしなかった。きちんと会計報告し、地頭に、
「今後、村に何かあったときの非常用の支出に役立てたいと思いますので、お下げ渡しください」
 と願い出た。地頭は忠敬の誠実さを知っていたので許可した。忠敬は永沢治郎衛門と相談して、この残金を「永久相続金」と名づけ、不測の災害が起こつたときに非常支出ができるようなシステムをつくった。金は忠敬と永沢治郎衛門の二人で預かることにした。

■公務への精神が備わる(事業家・指導者として大成)

<本文から>
「「隠居する前に、やらなければいけないことは必ず成し遂げておこう」
 と思い立ったその″やらなければいけないこと″の範囲がさらに拡大増幅され、しかも質的に高まってきたということだ。影響する範囲も広まった。「永久相続金」の設定もその一つだし、他国から流れ込んできた放浪者の救済もその一つである。
 同時に、伊能家の家格を引き上げ、苗字帯刀まで許されたということは、養子当主である忠敬の大きな手柄であった。
 いまは完全に名実ともに永沢家と並び立つ″両家々”の面目を発揮していた。
 このことは単に彼が事業欲や名誉欲に支配されていたということではない。彼の性格には、「公的な仕事」すなわち「公務」に対する忠実な義務感のようなものがあった。
「人のため、地域のためにやらなければいけないことは、という、現在で言えば″パブリックサーバント(公僕)だから、彼が隠居後に始めた仕事も、全国の測量という、率先してこれに当たる」”精神″のようなものが備わっていた。
いわば幕府がやらなければいけない。
仕事を自ら負ったのである。彼には本質として、
「他者、あるいは地域、さらに拡大して国への奉仕精神」
 が血の中に流れていた。それも、単なるボランティアではなく、それを本務として行なうような性格が彼に根づいていた。
 ただ彼の出身が農民だっただけに、老中や奉行などのポストに就いて行政が行なえなかったというだけにすぎない。彼がもし武士の家に生まれて、津田氏の立場や、さらに江戸城に勤務するような立場にあったなら、もっと違った人生の展開をしていたことだろう。このことは、伊能忠敬という人物を知るうえにおいて大切なことだ。
 忠敬は、子どもの頃から天の星を仰いで、独自な精神世界を構築し、それによって自分を管理してきた。しかしその管理は、必ずしも自分自身のためだけではなかった。彼の生涯を通じて見ても、自己の欲望充足のために何かをしたということはあまりない。常に、
「誰かのため、どこかのため」
という目標がはっきり設定されていた。しかしそのために、
「自分はこういうことをやっているのだから、おまえたちはもっとよく私のことを理解し、協力しなければならない。家族もまた犠牲に甘んじなければならない」
 というようなことは、けっして言わなかった。彼が、
「やらなければいけないことはやっていこう」
と考えたということは、伊能家の当主として家族に人並みの生活を保障し、地域の人々にも豊かさが享受できるような地域環境の整備を行ない、そして日本全体のことを考えて、
「この国に住む人の生活は、このようでなければならない。しかしそのためには、こういう整備が必要だ。それをとりあえず、自分が責任を持っている払尉地域から行なっていこう」

■リストラクチャリングの名人(壮大なるライフワークの実現)

<本文から>
「 忠敬のやったことは、現在の言葉を使えば、そのまま″リストラクチャリング”である。りストラタチャリングという言葉は、不況下に喘ぐ企業組織が、減量経営を主として行なうというような経営改革の意味にとられているが、本来はそうではない。
 ●次々と状況が様替わりするにつれて、客のニーズも変わってくる。
 ●客のニーズの中には、いままでのこ−ズの中でも特にもっと拡大してほしいもの、あるいは新しく湊いてきたものの二つがある。
 ●そうであれば、経営体としては場合によってはある仕事については拡大再生産、あるいは新規事業を興すことが必要になる。
 ●しかし、それらのことを実行するのには資金が不足する。
 ●そこで、思い切った大倹約を行なう。倹約によって保留された資金を思い切って客の消えないニーズに対しては拡大再生産を行ない、あるいは新規事業を興す。そういう面には、思い切って設備投資をし、また人をつけ予算をつける。
 ●そうなると、当然組織の改変、人事異動、仕事の持ち替えなどが行なわれる。
 ●しかし人間というのは保守的な面があって、自分のこと上なると反対する。つまりよく言うところの総論賛成各論反対だ。
 そういう傾向のある組織人を、どう説得し、納得させて新しい経営方法に協力させるかが、本当のリストラクチャリングだと言われる。
 ●そして何よりも大切なのは、はじめ反対した者や対立した者も結果的には納得させ、一人の積み残しや置いてけぽりもなく、みんなが気を揃えて一緒に手をつないで歩いていくということが大事だ。
 伊能忠敬が養家先や地域で行なったことは、まさしくこのプロセスをたどつている。伊能忠敬もまた、
「江戸時代における、リストラクチャリングの名人」
 だったと言っていい。つまり彼は、単なる養子ではなく、資質的にすぐれたリーダーシップの持ち主でもあった。そしてそのリーダーシップも、持って生まれたものではなく、彼がそのとき、そのときにおける自分の置かれた状況に対して、真撃に向かい合い、解決策を必死に探求した結果、得られたものだった。
 だから、二番目の彼の家訓には、そういう自分がたどつてきた苦労の積み重ねと、同時に、
「人間の努力には限りがない。また、相手を頭からきめつけてはいけない。異(意)見がある者は、素直に聞くべきだし、また異見をなかなか口に出せない者に対しては、こっちら水を向けてそれを引き出すように努力すべきだ」
 そういうことを積み重ねてきた結果、伊能家においても佐原においても、かなり自分の言うことが通るようになったではないか、という自負の気持ちも含まれていただろう。しかし、これは彼にして言える言葉であって、他の誰もが言えるという言葉ではない。

■隠居後の回りの応援態勢を整えてきた(壮大なるライフワーク実現)

<本文から>
「応援態勢がきちんと整えられるようなことを、忠敬がしてきたということだ。それは単に目に見えることだけではなかろう。目に見えないソフトな、精神的な訓育も忠敬が長年かかって行なってきたということだ。つまり忠敬が隠居後、天文学や暦学を学んで、さらに測書にまで手を伸ばそうということを、みんなが喜んで支持するような態勢づくりを彼がすでに奴わっていたということである。
 ここが、いわゆる第二の人生とか余生を生き抜く場合に、
「自分の好きなことをしたい。本当にやりたいことをやりたい」
 と考えたときに、最も大切なことなのだ。好きなことをやりたい、やりたいことをやりたいと言ってみても、それに金がかかるのならば、思うように金が使えるという人の数は少なかろう。忠敬はその少ない人間の一人だ。忠敬にそれが可能だったのは、
 ●当主であったときに、本業に専念し、努力したこと。
 ●本業に人並み以上の実績を上げ、見事に家を復興したこと。
 ●家の復興は特に財政再建という形で行なわれたこと。
 ●自分の家のことだけでなく、地域の福祉にも十分寄与したこと。
 ●人格的にも、家人並びに近隣の人々の尊敬を得るようなところまで自己研済を行なってきたこと。
 ●彼が隠居後やろうとしている天文学や暦学についても、少しずつその片鱗が示され、人々の評価を受けていたこと。
 こういうことが整っていた。したがって、忠敬が隠居後、
「自分はこれから天文学や暦学を学び、測量の道を歩みたい」
 と言っても、二つのまったく違う事柄が、突然接続されたわけではない。忠敬の隠居後の事業は、そのまま本業時代から引き継がれたことだ。本業から隠居後の事業への移行は、実に滑らかに行なわれている。その滑らかに行ないうるような努力を、彼は五十年の間に積み重ねていたということだ。このことは、
 ●非常に合理精神が要る。
 ●根気が要る。
 ●金が要る。
 ●人々の支持が要る。
という条件がひしめいている。
これをすべて整えたということは、忠敬の精神力がいかに強靭であり、また合理性に富んでいたかを物語っている。

■壮大な足跡(壮大なるライフワークの実現)

<本文から>
「亨和元年(一八〇一)、五十七歳のときには、伊豆から陸奥までの本州東海岸と奥州街道を測量した。
 亨和二年、五十八歳のときには、出羽街道、陸奥から越後までの海岸、越後街道などを測思した。このとき、子午線一度の長さは二十八・二里と算出した。
 亨和三年、五十九歳のときには、簸河から尾張まで、また越前から越後までの海岸と、その地方の主な街道や佐渡島などを測量した。ただこのときは糸魚川で測量中、現地の村役人と筋突し、勘定奉行所に訴えられた。
 文化元年(一八〇四)、六十歳のときには、日本東半分沿海実測図を作成して幕府に提出した。幕府は伊能忠敬を正式に役人として採用した。そして、西日本の測量を命じた。この年に師の高橋至時が死んだ。四十一歳だった。その子景保が跡を継ぎ、幕府天文方に登用された。
 文化二年、六十一歳になって、東海道筋から伊勢、紀伊半島、備前(岡山)までの海岸、淀川筋、琵琶湖周辺などを測量し、珍しく岡山で越年した。
 文化三年、六十二歳のときは、山陽の海岸と瀬戸内海の島々、山陰と若狭の海岸、隠岐の島などを測量した。
 文化五年、六十四歳になると、四国と淡路の海岸、大和及び伊勢街道などを測量した。このときは伊勢の山田で越年した。
 文化六年、六十五歳になると、中山道と山陽道の街道筋を測量し、九州の小倉に行って越年した。
 文化七年、六十六歳になって、九州の豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、肥後などの海岸や、熊本から大分までの街道を測量した。このときは大分で超年した。この年、江戸に出て盛右衛門という婿を迎えていたイネが佐原に戻り、仏門に入った。
 文化八年、六十七歳のときは、中国地方の主な街道と、美濃三河から信濃への街道、甲州街道を測量した。後半は、九州に向かい、摂津郡山で越年した。
 文化九年、六十八歳のときは、九州に渡り、筑前、筑後と備前の島、九州の話術道などを測量した。そして肥前で越年した。
 文化十年、六十九歳のときは、九州の残りの海岸と街道、壱岐、一部の海岸、種子島、屋久対馬、五島の島部、さらに中国地方の残りの諸街道などを測量して、姫路で越年した。この年長男の景敬が死んだ。四十七歳だった。不肖の子と言われている。つまり忠敬ほどの当事者能力がなく、凡庸な跡継ぎだという評判が高かった。
 文化十一年、七十歳のときは近畿地方や中部地方の残りの街道を測量した。江戸の拠点を、八丁堀の亀島町に移した。
 文化十二年、七十一歳になると、江戸府内の予備測量を行なった。部下たちに伊豆七島を測量させた。さすがに忠敬も老年になって体力が衰えたので、伊豆七島行きは諦めた。
 文化十三年、七十二歳になって、江戸府内の細部を測量した。そして 『大日本沿海輿地全図』の作成に取りかかった。この年、間重富が死んだ。
 文化十四年、七十三歳になって、『大日本沿海輿地全図』 の作成を続行した。しかし、健康がとみに衰えた。
 文政元年(一八一八)、七十四歳。衰えた健康はついに回復せず、四月十三日江戸八丁堀の亀島町で死んだ。遺言によって、師高橋至時の墓の側に埋めてもらった。なかには、
 「高橋至時は御目見え以上の幕府の正式な武士だ。たとえ幕府の役人といっても、農民出身の伊能忠敬を高橋殿の墓の側に埋めるのはいかがか」

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