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<本文から>
このころ、近藤勇一派は、しきりに大坂にいる井上松五郎という武士を訪問している。井上松五郎は、助勤を命ぜられた井上源三郎の実兄である。井上家は古くから武蔵国多摩郡の日野宿北原に住む、八王子千人同心の一人であった。八王子千人同心は、いうまでもなく徳川家康が江戸幕府を開いた頃から、甲斐国(山梨県)の武田家の遺臣や多摩地域に住む農民たちを現地採用して、合わせて千人にした組織である。
八王子千人同心の設置を提言したのは、大久保長安だ。大久保長安は、武田家の遺臣だ。名将といわれた信玄に仕えた。能役者だったという。元の姓を大蔵といった。が、長安には別な能力があった。それは、道路整備・都市計画などのいまでいうインフラストラクチャー(基盤整備)の知識や技術を持っていたことと、同時に鉱山開発の知識と技術を持っていたことである。特に鉱山開発については、すでにメキシコで行なわれている採鉱法も心得ていた、とう不気味な人物である。
(中略)
妻和宮親子内親王が降嫁なさる時の条件に、孝明天皇は、
「必ず撲夷を実行すること」
という一項目を入れたから、家茂はその誓いを守らざるを得ない。近藤が尊皇攘夷佐幕論者であっても、かれが誠忠を尽くそうという将軍家茂が攘夷を誓ったのだから、この意味では、
「目的は公武一致している」
ということであって、全く矛盾しない。ただ、この方針を貫く基盤のところに、近藤は、
「多摩地域に保たれて来た八王子千人同心の精神を導入したい」
といったまでである。正直にいって、伊三郎には八王子千人同心の精袖がどんなものかはわからない。山南敬助や沖田総司に開いたところによれば、
「徳川身の家臣団では、めずらしく半農半士の生活形態を保ってきた」
という。この生活形態は徳川幕府の創始者家庭が特に力を入れたもので、それだけに八王子千人同心には父子相伝の徳川家への忠誠心が純粋保存されてきたのだという。近藤勇は、八王子千人同心と関わりの深い地域に生まれ育ったので、それを、
「壬生誠忠浪士組の主柱にしよう」
といい出したのである。が、これは内輪の話であって、近藤はこのことを全隊士に告げなかった。告げればすぐ騒ぎが起こる。特に、八木邸の離れにいる芹沢一味は、水戸天狗党の残党を名乗るだけあって、水戸に伝わつて来た、
「尊皇攘夷」
の精神の権化だと思い込んでいる。それが、
「いや、浪士組は徳川将軍家に忠節をつくす集団だ」
などといえば、真っ向から反対することは目に見えていた。したがって近藤がいうのは、
「これはあくまでもわれわれの心構えであって、試衛館一門の行動指針とすればよい」 |
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