童門冬二著書
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          異聞・新撰組−幕末最強軍団・崩壊の真実

■近藤が尊皇攘夷佐幕論者であっても八王子千人同心の精神を導入したい

<本文から>
 このころ、近藤勇一派は、しきりに大坂にいる井上松五郎という武士を訪問している。井上松五郎は、助勤を命ぜられた井上源三郎の実兄である。井上家は古くから武蔵国多摩郡の日野宿北原に住む、八王子千人同心の一人であった。八王子千人同心は、いうまでもなく徳川家康が江戸幕府を開いた頃から、甲斐国(山梨県)の武田家の遺臣や多摩地域に住む農民たちを現地採用して、合わせて千人にした組織である。
 八王子千人同心の設置を提言したのは、大久保長安だ。大久保長安は、武田家の遺臣だ。名将といわれた信玄に仕えた。能役者だったという。元の姓を大蔵といった。が、長安には別な能力があった。それは、道路整備・都市計画などのいまでいうインフラストラクチャー(基盤整備)の知識や技術を持っていたことと、同時に鉱山開発の知識と技術を持っていたことである。特に鉱山開発については、すでにメキシコで行なわれている採鉱法も心得ていた、とう不気味な人物である。
(中略)
妻和宮親子内親王が降嫁なさる時の条件に、孝明天皇は、
「必ず撲夷を実行すること」
という一項目を入れたから、家茂はその誓いを守らざるを得ない。近藤が尊皇攘夷佐幕論者であっても、かれが誠忠を尽くそうという将軍家茂が攘夷を誓ったのだから、この意味では、
「目的は公武一致している」
ということであって、全く矛盾しない。ただ、この方針を貫く基盤のところに、近藤は、
「多摩地域に保たれて来た八王子千人同心の精神を導入したい」
といったまでである。正直にいって、伊三郎には八王子千人同心の精袖がどんなものかはわからない。山南敬助や沖田総司に開いたところによれば、
「徳川身の家臣団では、めずらしく半農半士の生活形態を保ってきた」
という。この生活形態は徳川幕府の創始者家庭が特に力を入れたもので、それだけに八王子千人同心には父子相伝の徳川家への忠誠心が純粋保存されてきたのだという。近藤勇は、八王子千人同心と関わりの深い地域に生まれ育ったので、それを、
「壬生誠忠浪士組の主柱にしよう」
といい出したのである。が、これは内輪の話であって、近藤はこのことを全隊士に告げなかった。告げればすぐ騒ぎが起こる。特に、八木邸の離れにいる芹沢一味は、水戸天狗党の残党を名乗るだけあって、水戸に伝わつて来た、
「尊皇攘夷」
の精神の権化だと思い込んでいる。それが、
「いや、浪士組は徳川将軍家に忠節をつくす集団だ」
などといえば、真っ向から反対することは目に見えていた。したがって近藤がいうのは、
「これはあくまでもわれわれの心構えであって、試衛館一門の行動指針とすればよい」 

■河井伊三郎は無利子で融通したが土方が敵視した

<本文から>
 芹沢鴨の入知恵によって、河井伊三郎は自分の資金を口座として、そこから借金を望む隊士たちへの融通をはじめた。利子は取らない。無利子である。これが評判になって、次々と、
 「河井殿、融通してほしい」
という申込み者が殺到した。これが耳に入って、土方歳三は、
 「河井の野郎は金貸しをはじめたのか」
と険悪な表情になつた。だれが考えても、金を貸せば必ず利子を取る。まさか伊三郎が無利子で金融を行なつているとは思わない。
 「河井の野郎は、浪士組で利ザヤを稼ぐあくどい商売をはじめやがった」
と土方は怒った。まさか伊三郎が、
 「自分の金融は隊士を浪士組に繋ぎ止め、また隊内生活を快いものにする副次的効果を狙っている」
と考えているなどとは思いもしない。ひたすらに、
 「河井の奴は、最後まで商人根性を捨て切らないけしからぬ男だ」
という見方を日増しに強めて行った。この河井金融横閑を利用するのは、何も生活苦に追われり浪士や、遊興費を欲しがる浪士だけではなかった。芹沢鴨をはじめその一味も大いに利用した。そして、時に山南敬助や沖田総司も利用した。原田左之助や山崎黍も同じであった。とにかく無利子・返済期限なしなのだから、借りる方にとってこんな、地獄で仏に会ったような借金方法はなかったのである。

■池田屋事変で個人の集合体から組織に変遷

<本文から>
この暗殺事件によって伊三郎は、新撰組における大きな変質を感じた。それは、いまの言葉を使えば、
 「新撰組が、個人の集合体から、次第に組織に変わりつつある」
ということであった。壬生誠忠浪士組であった当時は、浪士組はいわば、
 「個人の集合体」
だつた。ところが八・一人の政変直後に、朝廷からもらった新撰組という隊名を名乗ることによって、新撰組は完全に、
 「組織」
に変わった。そして邪庵になる新見錦・芹沢鴨を粛清した後の新撰組は、近藤勇一派の牛耳るところとなったが、それはまさに、
 「組織の論理」
が前面に出て来たことである。浪士組の時は、いわば主体性を持った団子の群れが何となく幹部たちによって管理されている様相を呈していたが、近藤が隊を指揮するようになつてからは、その団子の群れが全部一本の太い串によって刺し通されてしまった。例外はない。串というのは、いうまでもなく、
 「局中法度」
のことだが、伊三郎が感じたのはそれだけではなかった。もっと不気味な違うものが、ひたひたとかれ自身に追って来たのを感じ取った。いうまでもなく伊三郎もその串に刺し通されてしまったからである。そしてこのことを、決定的な意味合いを持って、伊三郎に経験させたのが、例の、
 「池田屋事変」
である。

■山南は池田屋での尊王攘夷志士襲撃に反対

<本文から>
町奉行所からの知らせによると、近頃不蓬浪士どもが集まるのは、三条小橋の池田屋と、四条縄手の四国屋が多いそうだ」
 「その二軒を襲おう」
 そういうと近藤は立ち上がった。さすがに、江戸で道場主を務めただけあって、こういう時の決断は早い。また統率力もある。伊三郎は感心した。
 (さすがに局長はちがう)
と思った。近藤はいった。
 「出動できる隊士を集めろ」
 「ちょつと待ってください」
 それまで黙って腕を組んでいた副長の山南敬助がいった。
 「何だ?」
 江戸では山南敬助も近藤勇の門人だつたから、近藤の山南に対する態度は昔と同じように門人に接するものだ。山南は目を上げた。こういった。
 「われわれがこれから襲おうとするのは、同志です」
 「同志とは?」
近藤が聞き返す。山南がいった。
 「尊皇撲夷の志においては同じだという意味です」
 「そんなことはいま関係ねえ」
苛立った土方が喚いた。しかし山南は土方の方は見ずに、近藤を凝視したまま続けた。
「いきなり同志を襲うのは、いかにわれわれ京都の治安の任に当たる新撰組としても、やや行き過ぎだと思います」
「では、野郎どもが町に火をつけるのを黙って見てろというのか?」
土方が喚く。山南はやっと土方を見返した。

■藤堂も攘夷と喚く、新撰組の均衡を近藤によって保たれた

<本文から>
「不均衡の均衡」
という一線でかろうじて束ねているのは局長の近藤勇だった。近藤にはそういう風格と器量があった。統率力もあった。
 (これだけはとても真似ができない)
 商人出身の伊三蹄はしみじみとそう思う。
 藤堂平助も、江戸の試衛館以来の近藤の門人だ。しかし、京都に来てからは市中の空気に巻き込まれた。つまり、
 「尊皇撲夷論」
の熱風に身を灼かれていたのである。この頃ではしきりに、
 「攘夷だ攘夷だ」
と喚く。しかし河井伊三郎が見ていて、藤堂の攘夷論者かぶれにはもうひとつ理由があると思っている。それは、
 「藤堂さんは、山南さんが好きなのだ」
 と思う。山南敬助は温和な人柄で、自分のことは一切お構いなく他人の面倒をよく見る。隊士から見ると、まるで優しい兄のように思える。

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