童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          井伊大老暗殺 水戸浪士金子孫二郎の軌跡

■明治維新の思想的震源地は水戸

<本文から>
 「明治維新の震源地は、長州と水戸だ」
 と、よくいわれる。その両津の震源地におけるマグマ的存在は、長州においては吉田松陰、そして水戸においては藤田東湖だった。自分の藩だけでなく、全国的に当時の青年たちに与えた思想的影響がかなり大きい。
 そして、じつをいえは吉田松陰も藤田東湖の門人だった。そうなると、
「明治維新の思想的震源地は水戸だ」
 ということになる。では全国の志士と呼ばれる青年たちは、水戸から何をまなんだのだろうか。
いうまでもなく、
「尊皇倒(討)幕の精神」である。
 水戸学の根本になっているのは、「大日本史」だ。「大日本史」は、元禄以前から第二代藩主徳川光園(俗に黄門といわれた人物)が編纂しはじめた。明治三十九年(一九〇六)にいたって、やっと完成する膨大な歴史書である。ただし、不思議なことにこの歴史書を今日、活用する人々はあまりいない。が、幕末時における「水戸学」の勢威ほすさまじかった。
 が、この 「大日本史」 から、
「尊皇倒幕の精神」
 を導き出すことには、じつは無理があった。というのは、編纂をはじめた徳川光圀ほか、編纂史局であった彰考館の学着たちも、この 『大日本史J で説きつづけたのは、
「専皇敬慕の精神」
だったからである。
 

■伊井暗殺した金子孫二郎こそ「維新の震源地水戸のマグマ」

<本文から>
 「天皇を重んずるあまり、徳川幕府を倒せ」などというはずがない。光圀がい
いたかったのは、「天皇は尊ぶべき存在だ。したがって、将軍が率先して天皇
に忠節を誓えは、他の大名もこれにならう」
 ということだ。そして、
「それがおこなわれれば、自動的に大名たちは将軍を敬うことになる」
ということだ。光園が「大日本史」で語りたかったのは、
「将軍を廃止し、徳川幕府を滅ばせ」などということでは決してなかった。
 そしてこのことは、幕末にいたって”烈公”と呼ばれた徳川斉昭も同じだっ
た。斉昭は、得てして、その激しい攘夷論のために、
「尊皇倒幕論者」
とみられがちだ。子分の藤田東湖もそういう目でみられる。しかし斉昭にも東
湖にも、決して「尊皇倒幕論」はない。かれらもまた、
「尊皇敬慕論」の主張者である。
しかし、同じ水戸藩の指導者であっても、金子孫二郎は違った。孫二郎は、
「尊皇敬慕などはなまぬるい。そんな迂遠な方策では、徳川幕府の首脳部は心
を改めない」
と断じていた。とくに、安政の大獄に遭遇して、主人の徳川斉昭ほかが大きな
罰を受けたときに、金子孫二郎の怒りは頂点に達した。
「伊井大老暗殺」を考えたのも金子である。かれの考えは、すでに、
「尊皇倒幕」
に変わっていた。したがって、水戸学として光圀以来つたわってきた「大日本
史」に基をおく「尊皇敬慕論」を、
「尊皇討幕論」
に変えたのは、あきらかに金子孫二郎の思想的指導だといっていいだろう。さ
らに金子孫二郎は、現在でいう、
「藩際連合」を考え出した。藩際連合というのは、
「志のある雄港の志士と手を組んで藩の際(国境)を越えて事をなす」
ということだ。そしてこの藩際連合を組む過程において、金子はいつも、
「水戸藩は、つねに″破″の役割を果たす」
と告げている。水戸藩は、のちに長州藩と″成破の約″を結ぶ。これは、
「水戸藩が、事を起こし、天下に大震動を与える。そのとき、長州藩が起って
これを鎮め、国家を平定して欲しい」ということだ。
「水戸藩は、いつも起爆剤になる」
というのが、金子孫二郎の思想であった。このへんは”水戸っ子”と呼はれる、
純粋無垢で、つねに行動を重んずる性格がよくあらわれている。したがって、
金子孫二郎が企てた、
「伊井大老暗殺」
は、単に伊井直弼という幕府首脳人を殺せはいいというものではない。
「この成功によって、幕府の威信を大いにおとしめ、一挙に藩際連合が起つ」
という考えを持っていた。だから、伊井暗殺の当日、金子孫二郎はこの行動に
は直接参加していない。かれは上方にいた。
「大老暗殺成功」の報告を受けると同時に、かれは薩摩藩邸に駆け入り、
「この際、約定にしたがって一挙に起とう」
と働きかけるつもりだった。事実、働きかけた。ところが、薩摩藩の考えは当
時、
「公武合体」にかたむいていた。
「幕府を助け、行動をともにする」という方針に変わっていた。いってみれは、
公武合体というのは、
「公(朝廷)を尊び、武(徳川斉昭)を敬う」という
「尊皇敬慕の精神」の実行にほかならない。
 金子は逮捕され、やがて死罪になる。しかし、維新の震源地水戸薄から出て、
水戸学といわれる思想が、それまで、
「尊皇敬幕」であったものを、
「尊皇討幕」
 と大転換させ、全国の志士たちに大きな影響を与えたのは金子孫二郎である。
その意味では、藤田東湖以上に、金子孫二郎こそ、
「維新の震源地水戸のマグマ」
 といっていいだろう。かれの思想は、
「志士は死士だ」
というものであった。

■桜田事変も忠臣蔵に似ている

<本文から>
 忠臣蔵はそういう風潮の中で、一種の爆発割としての意味をもっている。し
かも、見る者が参加しなくていい。画面で行なわれることを、ただ、ああしろ
とかこうしろとか、あるいはこうしてほしいという期待をもって見ていれは済
む。それも、かなり意地の悪いまなざしで見ることができる。
 一時期はやった「イッキ! イッキー!」を思い出す。あれも、考えてみれ
は、意地の悪いイジメだ。つまり、無責任な連中がある犠牲者を選んで、
 「イッキ! イッキ!」
 とはやしたてるのである。が、飲み干したほうは、それでべつにうれしくも
なんともない。腹をこわして、あるいはグロを吐くのがせきのやまだ。そこま
で人に奉仕する必要があるのか、ぼくは疑問に思っている。
 忠臣蔵も、そういう一面がありはしないか。つまり自分の胸の中にたまって
いるウップソを、他人が人を殺すという行為によって発散しようとする陰湿な
期待なのだ。
 その意味では、忠臣蔵は、決して歓迎すべきものではない。いままで流行っ
てきたような、男らしいスカッとした快挙を好む傾向として受け止めるわけに
はいかないのだ。もっと根が複雑でジメジメしている。ジトジトしているとい
ってもいい。

■金子孫二郎はロマン派

<本文から>
「 金子孫二郎はこの「ロマン派」に属しながら、事件のときは「理知派」とし
て行動した。二重性があったのである。
 だからこそ、桜田事変で実際に井伊直弼暗殺に参加した志士たちが、現場に
来なかった金子孫二郎や高橋多一郎にたいして、みじんも非難の気持ちを持た
なかったのだ。
 普通だったら、
「リーダーのくせに、実際行動に参加しないでうしろにいるのは汚い」
 と思うだろう。まして行動着たちの身分が低く、歩のグループが多いのだか
ら、こういうことを思うのも当然だ。
 が、桜田事変の参加者たちは決してそんなことを考えなかった。そうさせた
のは、おそらく金子孫二郎や高橋多一郎の胸の中にあった「ロマン性」 のせ
いである。このロマン性でかれらは心を一致させていた。

■井伊襲撃の実行者ももっと大切なことを認識し、冷静に行った

<本文から>
「・ふつう、暗殺というと暗殺実行者にウェイトがおかれ、功績や計画のほとん
どが暗殺行為に集中する。しかし、この井伊襲撃の場合は違った。
・つまり暗殺にウェイトをおくということは、「暗殺後に状況をいかに展開す
るか」という構想がないことだ。これが暗殺が感情本位のものとして見られる
最大の原因だ。ところがこの水戸浪士による井伊暗殺は、かならずしもそうで
はなかった。
・それを総指揮をとる金子孫二郎と高橋多二郎が、直接襲撃には参加しなかっ
たことである。しかし、これは二・二六事件の場合における荒木・真崎両大将
の場合ともちがう。金子と高橋は井伊暗殺の成功を見届けて、さらにその暗殺
を政治の局面展開に活用しようとしていた。その要員としてふたりはこの袈撃
に加わらなかったのである。
・金子と高橋は暗殺後における活動に期待をもたれていた。そして、それは金
子と高橋の立場や実力を買っている暗殺実行老たちの、一致した意見でもあっ
た。金子は「おれも襲撃に参加する」といった。が、暗殺実行者たちは首を振
って、
「金子さんは、そんなことをしないでください。もっと大切なことがあります。
それは、われわれのやったことを天下にPRして、井伊がいかに誤った政治家で
あるかを告げることです。そして薩摩藩と共同して、政局を正しい方向に戻す
ことです0大切なからだです。もし万一のことがあったときは、取り返しがつ
かなくなります。第一、われわれの井伊暗殺が成功したんしても、それがムダ
になります」
 といっていることだ。つまり暗殺実行者たちも、暗殺だけですべてが終わる
のではなく「もっと大切なこと」があるという認識を共通して持っていたこと
である。これは大事だ。
・つまり暗殺実行者というと、どうしても感情が前に出て頭が熱くなり、すぐ
カッカするような連中を思い浮かべる。たとえは”人斬り”といわれた岡田以
蔵たちを見ていても、はやくいえば感情的にカッカするだけでなく、”無教養
”もこういう連中の属性とし一般化されている。
・水戸浪士(もうひとり薩摩人が加わる)たちには、こういうカッカする感情
もなけれは、また”無教養さ″もなかった。もちろん、水戸人はすぐカッカす
る。が、そのカッカする裏には、かならず”知性″の裏付けがあった。それが
背骨になっているから行動全体のマクロな見通しがあるのである。
・水戸浪士の井伊襲撃は全体の計画の一部分であって、すべてではない。つま
り暗殺によってすべてが終わるわけではなく、むしろ井伊の暗殺はこの計画の
きっかけであった。序章なのである。だから襲撃参加者たちは、序章を完成さ
せればいいので、肝心な本草はその後、金子と高橋たちが主として実現すると
いう期待を持っていた。この意味では井伊襲撃老たちも、かなり冷静だったと
いっていいだろう。
・それが襲撃参加者たちがいった「もっと大切なこと」である。つまり、かれ
らすべてが 「もっと大切なこと」のために、あえて襲撃を実行するというこ
とであった。
・したがって襲撃者たち全員に、こういう襲撃につきまといがちな一種の感激
オソチや思い上がりはまったくなかった。むしろ謙虚な態度で井伊を襲撃しよ
うと心に決めていた。

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