童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          家康と正信 最後に笑った主役と名補佐役

■謙言は一番槍よりも難しい

<本文から>
  「謙言は一番槍よりも難しい」
 といっていたからだ。その意味は、
「一番槍は、まっしぐらに突き進む勇気さえあれば誰でもできる。しかし諌言はそうはいかない。というのは、諫言する者の心根に賤しい根性があると、そのことが気になってたとえどんなにいい夢見をいったとしても、しこりが残る。つまり諫言をした者は、本当に自分は純粋な動機で意見をいったのだろうかと反省する。そして、諫言によって見出され、立身出世しようなどという魂胆のあった話は、自分を責めるようになる。そうなると、主人に意見したことを後悔するようになる。あんなことをいうのではなかったとか、あるいはいい過ぎたのではないかなどと悩む。そうなると、城に出てきても態度がおどおどしていて、端の眼にも奇妙なものに映る。主人も気がつく。おどおどした諫言者を見ていると主人も、あのときの夢見は真心から出たものでなく、計算ずくだったのかと疑うようになる。両者の関係は次第にギスギスしてくる。そうなると、諫言した者も城に出にくくなり、ついには病気だと嘘をついて休むようになる。主人もことさらにその人間を気にするようになり、やがてはその人間の顔を見るのが嫌になる。結局は、重役に命じて、諫言した者をどこか遠くへ異動させるようになる。こういうことを考えると、諫言というのは一番槍よりも難しい」
現代でも通用するような屈折した解釈だが、諫言する者とされる者との心理関係をよくいい得ている。さすがに子ども時から十数年も人質となり、他人の家で冷や飯を食っただけあって、家康の人間洞察力はさすがだ。

■正信は家康から自分の一部になったと信頼されて感動する

<本文から>
いまの正信は、
「政治は民のために行なわなければならぬ」
 という考えが強く確立されていた。だからこそ家康に何度も、
「ものいわぬ民の恐ろしさをお感じください」
 と告げるのである。いま家康が口にした『貞観政要』という書物では、単に「船と水」の話だけが書かれているわけではない。この本の大部分は、
「帝王はいかに侍臣の諌言を聞くか」
 ということが随所に出てくる。じつと考え込んだ正信を見て、やがて家康はクスクス笑い出した。そして、
 「おい、正信」
 といって、指の先で正信の肩を突いた。
 「はい」
「おれはおまえを咎めているのではない。おまえは、いつの間にかおれのここの一部になったということがいいたかったのだ」
 そういって、家康はいま正信を突いた指を今度は自分の所の角に当てて突いた。正信はびっくりした。
「まことでございますか」
 目を見張った。家康は領いた。
「そうだ。他の連中にその真似はできぬ。正信、これからもおれをしっかりと支えろ。頼むぞ」
 そう告げた。正信は思わず、
「は」
と低い叫び声を発し、板の間に額を擦り付けた。えもいわれぬ感動が胸に突きあげてきた。

■家康は城より町の整備を優先させる

<本文から>
 その頃の江戸城内は、旧小田原北条氏の支城として遠山氏が管理していた。しかし北条氏が秀吉に降伏後、家康に引き渡された。建物はすべて板葺き塵根で、台所は茅牽き犀根だった。玄関には、船板が二段に重ねて渡してあった。建物の内部はすべて土間で、床はない。しかも建物はすっかり壊れ、合戦のときに屋根に土を塗り付けたので、その重さで尾根が傾いていた。内部の畳や敷物も湿気で腐り切っていた。
 家康の検分には、本多正信が供をした。あまりのひどさに正信が、思わず、
「これはひどすぎます。せめて玄関の船板だけでも取り除き、きちんと整備いたしましょう」
 といった。家康は笑った。
「おまえらしくないことをいうな。城などどうでもいい。町を先につくろう」
 といった。正信は恥じた。
 (おれとしたことが、つい迂闊なことを口走ってしまった)
 と思ったからである。家康は正信を振り返って告げた。
「弥八郎、江戸の町づくりと家臣の知行割りの案をつくれ」
 と命じた。似重な家康は、いきなり部下に、
「この仕事をやれ」
 とは決していわなかった。まず案をつくらせて吟味する。その案がよければ、今度は、
「おまえが工事の指揮を執れ」
 と命ずる。段階方式が家康の得意な部下の管理法である。しかし正信はこの瞬間に、天に舞い上がるような沓びを感じた。それは明らかに家康が、
 (江戸の町づくりと、家臣の知行割りは、おまえの存念に任せよう)
 といってくれた気がしたからである。同時にまた、家康が、
 「城などどうでもいい」
 といったのは、当面は秀吉口の命令によって、おそらく奥羽方面へ参陣を命ぜられるに違いないと思っていたからだ。それには、また家臣団を率いて出陣していかなければならない。そんなときに、留守にする城を整備しても意味はない。まず家臣をどのように配置するか、同時にまた町を発展させるために、当然諸国から商人を招いたり、職人を招いたりしなければならない。その家臣の配置と町づくりの案を、おまえが立ててみろということだ。
 正信が持ち前の勘の艮さで気づいたのは、
(殿は、おれを江戸に残すおつもりだ)
 ということである。家康のいまの言葉は、
「おれはどうせ関白殿下の命によって東北へいかなければならない。戻ってくるまでにおれが安心してこの地に住めるような第一段階の準備をしておけ」
ということである。正信はそれが嬉しかったのだ。

■家康は江戸に町を自治を実現した

<本文から>
「町のことは町に任せよう」
 という徳川家康の方針を実行したものだ。いまでいう、
「町の自治」の実現だった。これはその後徳川幕府の制度が整っていったときに、江戸町奉行の下部組織としていわゆる町会がつくられ、それぞれ責任者が置かれて、地域内の治安維持や住民生活に関する一時的な行政を行なう機関になる。
 商工業者もかつての旧領地から招かれた。駿河・遠江・三河などから次々と商工業者がやってきた。彼らは、自分の出身地をそのまま屋号にした。現在でも東京には、駿河屋とか三河屋とかの屋号をつけた古い店が多いのはそのためである。やがて、伊勢商人や近江商人なども進出してきたので、伊勢屋とか近江に関わりのある屋号も次第に増えた。
「江戸城に勤める武士は、江戸城の近くに住まわせるべきだ」
 と考えた正信は、次々と武士町もつくつた。徳川家の親循隊ともいうべき大番組は、麹町市ヶ谷に大番町というのをつくった。俗にいう”番町”である。

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