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<本文から>
徳川家康の人づかいの特徴は、一言でいえば「分断支配」にある。家康は、つねに、「ひとりの人間がすべての能力を持っているということはありえない」と、人間の能力の完璧性を否定していた。
だからかれが幕府を開いたとき、その幹部はすべて「複数任命」であった。家康にすれば、「ひとりの人間が、すべての能力を備えていることはない。当然欠陥がある。その欠陥を他人が補う。つまり、幕府の運営は、幹部の能力の相互補完によっておこなわれる」と告げていた。
こういう扱いを受ける幹部の中には、「そんなことはない。おれの能力は完全だ」と思うものもあったにちがいない。しかし家康はそういう人間に対してこそ、「うぬぼれるな。もっと謙虚に生きろ」と命ずる。
家康の、「ひとりの人間が能力のすべてを兼ね備えていることはありえない」という考え方は、少し勘ぐって考えれば、自信たっぷりな人間に対して頭から冷や水をかぶせるようないやがらせであったかもしれない。だが、家康の力は大きい。自分では、「おれは完全だ」と思う人間も、結局はこの「複数式任命制」に甘んぜざるをえなかった。いってみれば、完全だと思っている能力の一部を、家康が「不完全だ」と判定すれば、部下たちは自分でもそう思うように自己抑制を強いられたのである。この自己抑制を強いられた部分は当然、一種の「不完全燃焼」を起こす。しかし、この不完全燃焼部分は決して、「家康への不平や不満」という形にはならきかった。
むしろ、「おれの能力が完全なことを、家康様に認めてもらおう」という気持ちになる。このへんが、家康が″人づかいの名人"と呼ばれるゆえんなのだ。いわば、家臣すべてに「ドツグレース」をさせる。ドツグレースでは、犬の鼻先にエサをぶら下げて、懸命に走らせる。犬がエサにありつくことは永遠にありえない。しかし、イヌは承知で走る。徳川家臣団はまさにそういうイヌの群れであった。これが家康の、「タヌキおやじ」と呼ばれた真の理由だろう。
また家康は、「デーティー(汚れ)の部分」は、決して自分が背負わなかった。部下に押しつける。それも、部下のほうが自分からすすんでダーティーな部分を背負うような仕向け方をした。その一番いい例が、関ケ原合戦後の石田三成の扱いだ。
関ケ原の合戦で敗れた石田三成は、「拠点である近江(滋賀県)佐和山城に戻って、再起をはかろう」と考、え、戦場から離脱した。ふつうの大将なら、戦いに敗れたのだから潔く討死にするところだが、三成はそうはしない。
しかし、途中でかつての盟友であった田中吉政によって捕らえられ、家康の本陣に連行された。当然、三成は後ろ手に縛られていた。ところが家康は、脇の者に「縄を解け」と命じた。その態度には明らかに、「たとえ敗将とはいえ、大将たる者を後ろ手に縛り上げるとは何ごとだ」という武士の面目を重んずる色があった。脇の者があわてて三成の縄を解いた。家康は座敷の中にいたが、庭先に突き出された三成に、「上へあがりなさい」と言った。三成はあがった。家康はしみじみと告げた。
「合戦というのは、武運があるかないかによって支配される。残念ながら、おぬしには武運がなかった。こういう結果になったのは誠に残念だ」と懇ろにいたわった。まわりの者からみれば、(家康は、ええ格好しいだ)と感ずる。しかし家康は真面目にそういう態度をとった。そして、三成の身柄を本多正純に渡した。
本多正純は、家康の扱いを苦々しく思っていたから、再び高手小手に縛り上げて、しかも門前にムシロを敷き、通行人のすべてが三成をみられるように晒した。徳川家康に従った多くの豊臣糸の武将が、次々と通過する。馬の上から三成をあぎけった。しかし三成は、「きさまたちが裏切ったから、こういう結果になったのだ。もしも秀頼公がご出馬なさっていたら、立場は逆になっていたはずだぞ」とののしり返した。
このケースでいえば、家康は、「ええ格好しい」で、そのところは自分の仕事にするが、三成を虐待し、これを天下にさらして恥をかかせるというダーティーな部分は本多正純にやらせている。しかし本多正純は、そんな家康をずるいとは思わない。「これがおれの役目だ」と割り切って、むしろそれが家康への忠誠心の披涯であるかのごとくふるまう。微塵も家康への不平不満はない。なぜ家康は家臣たちをそういう気にきせるのか、実に不思議だ。 |
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