童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          家康名臣伝

■イヌの群れを操るタヌキおやじ

<本文から>
  徳川家康の人づかいの特徴は、一言でいえば「分断支配」にある。家康は、つねに、「ひとりの人間がすべての能力を持っているということはありえない」と、人間の能力の完璧性を否定していた。
 だからかれが幕府を開いたとき、その幹部はすべて「複数任命」であった。家康にすれば、「ひとりの人間が、すべての能力を備えていることはない。当然欠陥がある。その欠陥を他人が補う。つまり、幕府の運営は、幹部の能力の相互補完によっておこなわれる」と告げていた。
 こういう扱いを受ける幹部の中には、「そんなことはない。おれの能力は完全だ」と思うものもあったにちがいない。しかし家康はそういう人間に対してこそ、「うぬぼれるな。もっと謙虚に生きろ」と命ずる。
 家康の、「ひとりの人間が能力のすべてを兼ね備えていることはありえない」という考え方は、少し勘ぐって考えれば、自信たっぷりな人間に対して頭から冷や水をかぶせるようないやがらせであったかもしれない。だが、家康の力は大きい。自分では、「おれは完全だ」と思う人間も、結局はこの「複数式任命制」に甘んぜざるをえなかった。いってみれば、完全だと思っている能力の一部を、家康が「不完全だ」と判定すれば、部下たちは自分でもそう思うように自己抑制を強いられたのである。この自己抑制を強いられた部分は当然、一種の「不完全燃焼」を起こす。しかし、この不完全燃焼部分は決して、「家康への不平や不満」という形にはならきかった。
 むしろ、「おれの能力が完全なことを、家康様に認めてもらおう」という気持ちになる。このへんが、家康が″人づかいの名人"と呼ばれるゆえんなのだ。いわば、家臣すべてに「ドツグレース」をさせる。ドツグレースでは、犬の鼻先にエサをぶら下げて、懸命に走らせる。犬がエサにありつくことは永遠にありえない。しかし、イヌは承知で走る。徳川家臣団はまさにそういうイヌの群れであった。これが家康の、「タヌキおやじ」と呼ばれた真の理由だろう。
 また家康は、「デーティー(汚れ)の部分」は、決して自分が背負わなかった。部下に押しつける。それも、部下のほうが自分からすすんでダーティーな部分を背負うような仕向け方をした。その一番いい例が、関ケ原合戦後の石田三成の扱いだ。
 関ケ原の合戦で敗れた石田三成は、「拠点である近江(滋賀県)佐和山城に戻って、再起をはかろう」と考、え、戦場から離脱した。ふつうの大将なら、戦いに敗れたのだから潔く討死にするところだが、三成はそうはしない。
 しかし、途中でかつての盟友であった田中吉政によって捕らえられ、家康の本陣に連行された。当然、三成は後ろ手に縛られていた。ところが家康は、脇の者に「縄を解け」と命じた。その態度には明らかに、「たとえ敗将とはいえ、大将たる者を後ろ手に縛り上げるとは何ごとだ」という武士の面目を重んずる色があった。脇の者があわてて三成の縄を解いた。家康は座敷の中にいたが、庭先に突き出された三成に、「上へあがりなさい」と言った。三成はあがった。家康はしみじみと告げた。
 「合戦というのは、武運があるかないかによって支配される。残念ながら、おぬしには武運がなかった。こういう結果になったのは誠に残念だ」と懇ろにいたわった。まわりの者からみれば、(家康は、ええ格好しいだ)と感ずる。しかし家康は真面目にそういう態度をとった。そして、三成の身柄を本多正純に渡した。
 本多正純は、家康の扱いを苦々しく思っていたから、再び高手小手に縛り上げて、しかも門前にムシロを敷き、通行人のすべてが三成をみられるように晒した。徳川家康に従った多くの豊臣糸の武将が、次々と通過する。馬の上から三成をあぎけった。しかし三成は、「きさまたちが裏切ったから、こういう結果になったのだ。もしも秀頼公がご出馬なさっていたら、立場は逆になっていたはずだぞ」とののしり返した。
 このケースでいえば、家康は、「ええ格好しい」で、そのところは自分の仕事にするが、三成を虐待し、これを天下にさらして恥をかかせるというダーティーな部分は本多正純にやらせている。しかし本多正純は、そんな家康をずるいとは思わない。「これがおれの役目だ」と割り切って、むしろそれが家康への忠誠心の披涯であるかのごとくふるまう。微塵も家康への不平不満はない。なぜ家康は家臣たちをそういう気にきせるのか、実に不思議だ。

■直政の才覚を見抜いた家康

<本文から>
 家康は"生涯最大の危機"と呼ばれるような場面に何度か遭遇している。なかでも、天正十年六月二日、盟友の織田信長が明智光秀に本能寺で殺されたときがもっとも危険だった。かれはわずかばかりの供をつれて上方へ旅行中だったが、有名な伊賀越えを敢行し、命からがら岡崎城に逃げ帰った。このときの供の中に井伊直政も加わっている。
 甲斐の武田氏は、その前に滅亡していた。待ち構えていたように、旧武田領に手を出したのが家康と小田原の北条氏である。
 両者は衝突し、戦線は膠着状況になった。冬を前にして両者は、「和睦しよう」と歩み寄った。これが、天正十年十月二十九日のことである。和睦の全権大便として、北条側からは一門の北条氏規、徳川方からは井伊直政が選ばれた。このとき、直政は弱冠二十二歳だった。
 さすがに家康の宿将たちが顔を見合せた。
「こんな新参の若造に、大切な交渉の使者を命じていいのだろうか」
 直政の能力を疑っただけではなく、新参者に対する古手の嫉妬と憎悪の念があった。ところが直政は立派にその役を果たした。
 家康は天性の″人づかいの名人″である。かれはよくこんなことを言っている。
 「ひとりの人間に、すべての才能が備わっているはずがない。そんな人間はこの世にいない。したがって、それぞれの長所を伸ばし合い短所を補うことが必要だ」
 これは、「人間はすべて欠陥部分があるから、それを補い合え」ということだけではない。家康の部下管理の基本は″分断支配″である。しかしその前提として家康は、「この人間には、どういう長所があり、それを発揮させればどのように自分を補佐してくれるか」という、その人間の長所(能力)をきちんと見極めている。
 直政が十五歳ではじめてあったときから、家康は直政のオ質の中に、「武勇だけでなく、政略の才知も相当にある」と見抜いていた。
 北条氏と講和をした家康は、旧武田領のほとんどを支配することになった。このとき家康は、
 「武田家の遺臣たちは、冷たく突きとばすよりもむしろ、温かく抱き込んだほうがいい」と考えて、大量に旧武田家臣団を再雇用した。武田家で勇名を馳せていた、土屋、原、山県、一条などの諸衆を軍団に組み込んだのである。
 人を組み込んだだけではなく、武田家でかれらが使っていた武備も取り込んだ。なかに"武田の赤備え"があった。
 武田の赤備えというのは、主として山県昌景の兄、飯富兵部が用いていた武備のことである。飯富隊は、いつも全員が赤い甲肯を着、指物、馬の鞍、鞭にいたるまで全部赤く塗っていた。飯富兵部なきあと、小幡貞政がひきついだ。この部隊が前面に立って、喚声をあげながら突入してくると、相手は思わずひるむ。「武田の赤備え」はそれほど有名だった。
 家康は直政に、「おまえの軍団は、小幡衆を継承し、以後備えを赤くせよ」と命じた。直政は承知し、飯富式の赤備えを、井伊軍団に取り込んだ。以後、直政の軍団は、「井伊の赤備、え」として名を高める。
 家康はまた直政に、「合戦のときは、つねに井伊勢が先陣を承れ」と命じたので、井伊の赤備えはそのまま、「徳川軍団の先陣」の役割を果たすことになった。

■家康は天野のようなシンプルで誠実に忠誠心をつくし抜く男が苦手

<本文から>
 大久保忠隣は手ぶらで家康のところにいった。そして、「いったん発見して安心しておりましたら、天野のやつはまたどこかへいってしまいました。懸命に後をたずねましたがついに発見できませんでした。お諦めください」と言った。康景と語り合った内容についてはひと言も告げなかつた。
 家康は、「そうか」とうつむき、「せっかくの忠臣を失った。おれがばかだった」と口惜しそうにつぶやいた。その家康の姿を大久保忠隣はじっとみつめていた。
 忠隣の胸の中では、康景の、「自分が舞い戻れば、主人の家康公が過ちを犯したことになる。それを天下にさらすことなどとうていできない」と言ったあの言葉が、しきりに渦を巻いていた。
 大久保忠隣に匿われた天野康景は、慶長十入(一六一三)年に死んだ。七十六歳であった。
 「おれほど人の使い方のうまい人間はいない」とうぬぼれていた家康も、天野康景のようにシンプルで誠実に忠誠心をつくし抜く男の、本心をついに見抜くことができなかったのである。
 しかしこれは天野康景のケースだけではない。直線的な忠誠心を持つ三河武士は、康景のほかにもたくさんいた。しかし、得てしてそういう武士はあまり立身出世はしていない。家康の心の中には、こういう武士を苦手とし、どこか退けるような複雑な心理があったのだろう。」

■本多は家康への悪罵を一身に受け止める

<本文から>
 それほど大久保彦左衛門は、本多正信・正純父子を憎んでいた。だからこの原稿の最初に書いた、正信が、「家康公に投げつけられる悪評や汚名のすべてを、自分が弁慶のように受け止めよう」と考えた"つぶて"は、大久保彦左衛門に代表される側からのこうした悪罵であった。正信はそれを正面から受け止めたのである。
 しかし、彦左衛門の投げつけるつぶての多くは、本来なら家康に投げつけられるべきものであった。つまり家康の政治が、時世が変わるにつれてどんどん変質していったからだ。そうなると、家康が自分の家臣団に対して持つ、「これからの期待される家臣像」というのもどんどん変わる。
 家康は人事管理の名人だったから、だからといってそれが露骨にみえるような切り捨て方はしない。本人が、「知らないうちに切り捨てられていた」、あるいは「気がつかないうちに窓際族にきれていた」と、後日気がつくようなやり方をとる。
 しかしこれは家康ひとりがやったわけではなく、当然脇に推進役がいる。本多正信が積極的にその推進役をかって出た家臣だった。
 大久保彦左衛門が非難した本多正信の特性を現代風にいえば、「経営感覚にすぐれ、算勘の術にも巧みであった」ということになる。
 しかし総体的には、「武士は食わねど高楊枝」という気風がまだまだみなぎっていた時代だから、ソロバン勘定にうつつをぬかすような武士は当然ばかにされる。
 しかし、正信にすれば、「家康公は、なによりもこの国の平和化を願っておられる。そんなときにいつまでも、やあやあ遠からん者は音にもきけなどと合戦場のわめき声を上げつづけたり、あの合戦ではこんな手柄を立てたなどと、思い出話にひたっているような武士では困る。今後は、読み書きソロバンがきっちりできる武士でなければ、とても家康公の理念を日本で実行することはできない」と、マクロな政治理念の実行者としての自覚を持っていた。
 この正信のような自己変革をおこなえる武士こそが、家康の期待する家臣団であった。これが大
久保彦左衛門には理解できなかった。あいかわらず、「おれは初陣の鳶ケ巣山でどうのこうの」などと言っている。
 これはいまだに、なくなってしまった軍隊時代を偲んで、集まっては酒を飲んで、「きさまとおれとは同期の桜」などと、軍歌を歌ってありし日の追懐にひたるのと同じことである。
 本多正信には、そういうセンチメンタリズムはない。ドライに割り切る。正信自身あまり合戦は得意ではなかった。武功を立てた実績もない。
 しかし正信は、若い世代のように、「合戦(戦争)なんて知らないよ」と自分たちの若さを誇るようなこともしなかった。武功派の功績や、心情はよく理解していた。が、「これからは、そういう追懐だけではやっていけない」という先見性も持っていた。

■板倉は駿府町奉行を命ぜられた時に妻に相談

<本文から>
 そこで勝重は、「きょう、殿(家康のこと)から駿府町奉行を命ぜられた。しかしおれの能力を超えた大任だから、辞退申し上げた。が、たってというお話である。そこで、おれは一応家内と相談をきせていただきますといって戻ってきたのだ。おまえはどう思う?」ときいた。
 妻は、「家庭内のことでしたら、わたくしにご相談ということもあるでしょうが、公務のことを、しかも殿さまから直々にいただいたお話を、なんでわたくしにご相談なさる必要がありましょうか。お役目が勤まるか勤まらないかは、あなたさまのお心ひとつでございます。このようなご出世に、なんでわたくしがとやかく申すことがありましょうか。どうぞあなたのご一存でお決めください」
 と答えた。
 殊勝な対応だった。おそらく妻も、夫の表情の変化をみて、(しまった)と、自分の出すぎたふるまいを反省したにちがいない。勝重はその妻を凝視してこういった。
 「いや。必ずしもそうではない。駿府町奉行のお役目が勤まるか勤まらないかは、おまえの心ひとつにある。むかしから奉行などという役を勤めて、身を失い家を滅ぼした者がずいぶんと多い。これらの災難の原因の多くは家内の女性からはじまっている。世間には、裁判を有利にしてもらいたいために、奉行ではなくその家族にワイロを贈ったり、いろいろなことを頼みにくる者が絶えない。親近者は、ものをもらったり金をもらったりすると心が揺らぐ。そして、主人に余計な差し出口をする。おれはそういう過ちを犯したくない。
 したがって、もし駿貯町奉行職を引き受けたなら、おまえはますます身を慎んで、出すぎることなく、また何が正しく何が間違っているかをきちんとわきまえ、おれの身辺にどんなことが起ころうとも、さし出たことを言わないという決心をもってもらわなければならない。それができるかどうかが問題なのだ。できるか?もしできるなら、おれはこの役目を引き受ける」
 妻もばかではない。じっと夫の言うことをきいていた。やがて顔を上げてこう言った。
 「ごもっともなお言葉でございます。わたくしは神仏に誓っていまのあなたのお言葉を守ります」
 勝重はニッコリ笑った。
 「それではお受けしてくる。殿はお待ちだ。もう一度城に戻ろう」と言って、礼服に着替えて出ていこうとした。妻が後ろからみると、袴の腰板がよじれていた。そこで妻はなにげなく、「あなた、袴の腰板がよじれておりますよ」と言って手を添えて直そうとした。
 すると、勝重は激しい勢いでその手を振りはらい、恐ろしい形相で妻を振り返った。
 「いま申したばかりではないか。おれの身にどんな変化が起ころうと、いっさい差し出口はきかないと言ったばかりだぞ。その誓いを忘れるようでは、とてもこのお役は勤まらん。おれは辞退する」と言って礼服を脱ぎにかかった。
 妻はおどろいた。
 「申し訳ございませんでした。自分が誓ったことをすぐ破るようでは、おっしゃるとおりでございます。どうか、お許しください。これからは二度とこのようなことはいたしません」と涙ながらに謝った。
 勝重はようやく機嫌を直し、「その言葉を忘れるな」と言って城へ戻っていった。

■板倉勝重は誰からも褒められる名所司代

<本文から>
 法度の趣旨は「天皇と公家は、今後いっさい日本の政治に関与しない。あくまでも、日本の高い文化の保持と神事に専念する」ということである。
 勝重は、衰康の名代としてこのことを皇室や諸公家に告げた。そして、「ご承認のうえ、署名捺印していただきたい」と言って、「この法度に異議なし」を表明する署名捺印をさせた。
 もちろん、文句を言う者もいた。しかし、強大化した徳川家康の軍事力の前には、京都朝廷も言いなりになるほかはなかった。
 この法度がでたあと、勝重の職務には、「京都朝廷関係者が、この法度を守っているかどうか監視する」ということが加わる。いってみれば、「徳川幕府の京都支社長として、天皇ならびに公家の動向をみまもる」という役割を負ったのだ。
 勝重は、根が誠実な男だから、朝廷に対しても別に悪意を持っていたわけではない。単純に、「徳川政権を安泰の場におくためには、他に政治権力を持つ存在を残してはならないのだ」という発想からそうしたまでであった。
 家康にとってこの勝重の存在はありがたかった。つまり、朝延から自分が負うべき批判や非難のつぶてを、勝重が京都に乗り込んでいって堂々と自ら受け止めてくれたからである。いってみれば勝重は、「虎穴に入って虎児を得た」存在であった。
 勝重はこの後二十年にわたって京都所司代を勤める。やがて、「板倉様は名所司代だ」といわれるようになる。これは、主として京都市民から上がった声だが、それだけではなかった。朝廷内でも、天皇や公家が、「板倉はりっぱな武士だ」と評価しはじめていた。つまり板倉勝重は、「誰からも褒められる名所司代」という名声を手にしたのである。
 これには勝重のなみなみならぬ手腕と実績が寄与している。

■林羅山が「国家安康」と「君臣豊楽」にイチャモン

<本文から>
 この直後に、例の方広寺の鐘銘にイチャモンがつけられる。イチャモンの論理を考え出したのは金地院崇伝と林羅山である。鐘銘のなかに「国家安康」と「君臣豊楽」という文字を発見し「国家安康」というのは、家康の名をズタズタに切り刻んだものだ」といい、君臣豊楽については、「豊臣家を君として楽しもう、という意味だ」と言った。
 こんなこじつけは、本来なら通用しない。しかし、当時家康の周りにいた天海や崇伝たち学僧も羅山の説を支持し、居丈高になって豊臣家を攻撃した。
 豊臣家は狼狽した。「もってのほかの言いがかり」と抵抗したが、家康側は許さなかった。憤激した豊臣家は態度を硬化きせ、大坂城に兵を集めはじめた。こうして、大坂冬の陣が起き、この後の夏の陣によって豊臣家は滅亡する。そのきっかけをつくったのは林羅山である。そのためにかれは、「曲学阿世」の徒と後世に汚名を残した。
 しかし江戸時代二宮六十五年間、かれの唱えた栄子学は、徳川幕府の「官学」として位置づけられ、かれの私塾はやがて、「徳川幕府の官立大学」に昇格する。
 ここまでの待遇を、羅山が受けるようになったのは、戦国の思想である「君、君たらざれば、臣、臣たらず」という思想を、「君、君たらずとも、臣、臣たれ」という無制限服紘の精神に変、え、日本の仝武士に植えつけたことによる。その意味でも、羅山は「曲学阿世」の徒といわれて仕方がないかもしれない。日本の武士の基本的人権やその主体性・自由・自立性を大きく奪い取ったからである。

■土井利勝が煙草騒動は収めたエピソード

<本文から>
秀忠は利勝を呼んだ。
 「近ごろ、禁令にもかかわらず江戸城内で煙草を隠れ飲みする者がいるときいた。取り締まれ」
 利勝は、「煙草飲みに対し、一挙に取り締まりをきびしくすることはどうか」と思ったが、秀忠があまりにも激しい煙草嫌いなので、「かしこまりました」とお辞儀をしてその場を去った。
秀忠は利勝を信用していなかった。利勝の反応に、ちょっと疑わしい空気を感じたからである。かれは数人の腹心を呼んだ。そして、「おまえたちに、城内で煙草の隠れ飲みをしている不届きな連中の発見を命ずる。発見したときは、ただちにわたしに報思せよ」と、いわば「煙草日付」のような役を新設したのである。
 この目付たちが走りまわった結果、「城内の湯飲み場が、煙草の隠れ飲みをする連中の集まる場所になっている」ことがわかった。目付はこのことを秀忠に報告した。
 秀忠は利勝を呼んで、命じた。
 「こういう噂をきいた。ほんとうかどうか確かめろ。もしほんとうだった場合には、きびしく罰せよ」
 利勝は、かしこまりましたとお辞儀をしたが、心の中は憂鬱だった。
 かれは、煙草飲みに同情していた。つまり、煙草好きは一種の中毒症状になっているので、いきなりこれを禁ずると禁断症状を起こしてしまう。身体に異変を生ずる。利勝にすれば、「場所と時間を決めて、自由に吸わせてやったほうがいいのではないか」と思っていた。しかしそんなことをいえば秀忠から、「ばか者、おまえはわしの煙草嫌いがわからないのか」と怒られるに決まっている。そこで利勝はやむをえず湯飲み場にいった。中から、煙草の煙が流れてきた。
 利勝はニヤリと笑った。
 「やってやがる」
 「入るぞ」
 そう断って、いきなり湯飲み場に入った。
 中にいた数人の侍はびっくりした。あわてて手で、中にただよう煙を追ったが、そんなことでは間に合わない。全員、うなだれた。どんなお咎めがあるかと、恐れたのである。なにしろ土井利勝は、城中全体の取締総責任者だ。
 ところが利勝は、「どうだ、うまいか」とニコニコしながら声をかけた。武士たちは思わず顔を見合わせた。利勝は言った。
 「おれにも吸わせろ」
 「はあ?」
 武士たちはびっくりした。利勝は言う。
 「おれにも吸わせろよ」
 半信半疑で利勝の顔をみていた武士たちは、しかし利勝が本気らしいので、キセルに煙草を詰めて火をつけさし出した。長いキセルを口の間にはさんだ利勝は、思い切り煙を吸い込むと、やがてフーツと吐き出し、
 「うまい。煙草は、隠れ飲みに限るな」
 笑って言った。
 武士たちはまだ警戒していた。しかし利勝は、武士たちに「早く仕事に戻れ」と言うと、そのまま去っていった。
 その光景を目付たちが盗みみしていて、すぐ秀忠に報告した。
 秀忠は怒って利勝を呼んだ。そして、「城中取蹄の任にある者が、一緒になって隠れ飲みをするとは何事か」と怒鳴りつけた。利勝は一応は、「申し訳ございません」と謝ったが、意を決して自分の考えを述べた。
 「煙草飲みは、上さまのお考えになるような簡単なものではございません。これを禁ずれば、身体に異常を生じます。どうか、城内に、適当な場所を設けて、煙草を飲むことをお許しいただきたいと存じます」
 真剣な利勝の様子に、秀忠も考えた。なにしろ赤ん坊のときから世話になり、ずっと信頼しつづけてきた利勝の言うことだ。理がある。秀忠は、やがて表情を和ませるとうなずいた。
 「わかった。わたしが少し行き過ぎたかもしれない。おまえのいいようにとりはから、え」
 このことが、目付たちのロから江戸城内にもれた。煙草の隠れ飲みをしていた連中は感動した。そろって利勝のところへ謝りにきた。つまり自分たちの現場を発見した利勝が密告などせずに、秀忠から徹底的に叱られたということを、日付からきいたからだ。日付たちも、そういう利勝に尊敬の念を持ちはじめていた。こうして、江戸城内には「喫煙所」が設けられ、煙草騒動は収まった。
 こういうように、利勝が弱い者の立場に立ってものを考えるようになったのも、すべて徳川家康の、「宰相学の訓練」によるものである。

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