童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          家康・秀吉・信長 乱世の統率力

■家康の分断策

<本文から>
  花と実をバラバラにするというのは、一言でいえば権限の独占をさせないということだ。つまり権限の集中化をセーブするということである。家康が行ったのは、「政策立案権限は、依然として父である前将軍家康が持つ。江戸のフォーマルな幕府は、あくまでも実行機関に徹する」
 ということにした。彼はこの理念を実行するために、
 「権限を持つものの給与は安く抑える」
 「給与の多いものには、権限をもたせない」
という方式をとった。そしてこの方式によって分けた大名のうち、幕府の老中をはじめ諸役職につけるのはすべて譜代大名や直参である旗本にかぎった。
 外様大名はどんなに給与が多くても一切幕府の仕事はできない。加賀百万石、島津七十万石、細川五十四万石などという大きな大名も、幕末まで絶対に幕府の役職につくことはできなかった。
 一方、老中とか若年寄、大目付、あるいは諸奉行などのポストにつく大名や旗本の給与は、いたって低い。せいぜい十万石程度で、普通は五万石か六万石の大名がこのポストについた。家康の「分断策」は、最後まで守られたのである。
 いってみれば、これが家康が戦国時代に経験したもろもろの「危機」を切り抜けるための巧みな「背理方法」だった。 

■信長は文化を給与制度に取りこむ

<本文から>
 当時信長には大きな悩みがあった。それは部下に対する給与である。給与はすべて土地で与えられていた。しかし、事業を拡大すればするほど日本列島は狭いので土地に限界があった。
 (これをどうするか)
 信長は悩んでいた。ゆきづまりが迫っていたからだ。これは、外敵に対する危機ではなく、内部に生じた危機だ。
 これをどう管理し突破するか。悩み抜いた信長が活路を発見したのは、今井や千利休たちがいう"茶道"の存在であった。信長は思わず、
 「これだ!」
と膝を叩いた。かれの鋭い頭の中に、ある発想が浮かんだからである。一言でいえばそれは、
 「土地に対する価値観を、文化という価値観に変える」
ということだった。具体的には、
 「部下に土地を与えていたのを、代わりに文化産品を与えることに切り替えよう」
ということであった。
 しかしそれには、信長自身はもちろんのこと、部下たちも新しいそういう価値観を持つように意識を変革しなければならない。
 「それを自分から実行しょう」
 信長はそう考えた。
 かれはこの発想を自分の、
 「知的財産」
 と考えた。当時の日本人で、文化を給与制度の中に取りこもうなどと考えた人間は他にいない。これは完全に信長の独創であり、同時にその発想そのものが一つの価値を持った。
 信長は、
 「この価値観を、自分のパテントにしよう」
 と意気込んだ。
 その後のかれは、部下の大名たちに対して、
 「おまえは土地が欲しいか、それとも他の物が欲しいか?」
と聞いた。部下の大名たちは、この頃の信長が茶の道を大切にし、いろいろと有名な茶道具を集めることを知っていた。
 そこで部下たちは、
 「いや、土地はもう結構です。それよりも、あなたが大切にしている茶碗を一ついただけませんか。今、有名な茶碗をいただけると、わたくしのステータスが上がり、部下の心服度も高まります」
 そういう風潮が生まれていた。これが信長の狙い目であった。

■民を大事にした信長

<本文から>
 信長が、岐阜城を出て、京都に向かったことがあった。岐阜と近江(滋賀県)との境にある山中というところを通過した時、一人の物乞いがいた。まるでサルのような姿になって、信長に手を差し出し、何かくれといった。信長はその男にきいた。
 「なぜ、こんな山の中でおまえは物乞いなどしているのだ?」
 男は応えた。
 「昔、この山中を通る落人の女性の着物を剥ぎ、持っていた金品を全部奪ったことがあります。その後、その女性がどうしたのか気になって、毎日苦しんでいるうちに、こんなサルのような姿になってしまいました。おそらく、天の罰が当たったのでしょう。ですから、里へ降りずに、その女性への罪を償うために、こうして物乞いをしているのです」
 この時、信長はただそうかと領いただけで、通り過ぎた。が、京都からの帰り道、またサルのような姿をした物乞いに遭ったので、信長は附近の村人を全部集めた。持っていた
 金を出してこういった。
 「この金で、との男に家を建ててやってくれ。そして残りで畑を切り拓き、穀物が実ったらその一部をこの男に与えてやってほしい。残りは、全部皆で分けてやってくれ。この男は殊勝な気持の持ち主なので、皆が優しくしてやれば、やがてはサルからもう一度人間に戻ることができるだろう」
 信長の優しい気持にほだされて、村人たちは、必ずそうしますと誓った。一年後、信長がまた山中を通過した時、辺りは見違えるようになっていた。そして、慈しみ深い表情をした一人の中年者が走り出て、信長の前に手をついた。
 「誰だ?」
 聞くと、男は、
 「あのサルの物乞いでございます」
 といった。信長は驚いた。
 「見違えたぞ。一体、何が起こったのだ?」
 「あなた様のお蔭でございます。村の人たちが大変温かくしてくださり、いまはこうして村のためにいろいろと働かせていただいております。それと、いつかお話しした私が物を盗った女性が、この間たまたまここを通りかかりました。私は、あの時のことを詫びて、盗った物を全部返しました。女性は、そんなことはもう忘れたといってくれましたが、気持がスッキリ致しました。そんなこんなで、私の気持が洗われ、もう一度人間に戻ることができました。ありがとうございました」
 これを聞くと、信長は嬉しそうに笑った。そして男に、
 「よかったな」
 といった。
 信長が治めた岐阜や安土は、道路や橋が整備された。いまでいえば、都市基盤が整備された。それだけではなかった。信長の治める国では、絶対に強盗や人殺しが出なかったという。
 だから、夏でも住む人々は窓や戸を空け放したまま寝ることができた。また、旅人が木の陰で寝込んでしまっても、持っている荷物を盗む者は誰もいなかった。
 こんなところにも、信長の意外と人に対する優しい一面がうかがわれる。

■世論が熟すまで静かに待つ家康

<本文から>
 家康は小さな時から他人の家の飯を食ってきたから、人の心の動きをつぶさに見続けてきた。
 かれの人生観は、その底においてかなり冷ややかである。だからこそ、かれは慎重と果敢の絶妙なバランスを保つことができたのだ。
 そして、そのバランスを保つ柱や台になったのが、
 「忍耐心」
 である。しかしかれの忍耐心は単なる、
 「我慢」
 ではない。はっきりいえばその忍耐心を支えていたのは、
 「世論」
 だった。徳川家康ほど戦国時代の武将で、世間の評判を気にした人物はいない。
 かれが天下人への道を歩いてゆく過程を見ていると、必ず世論によって決断を下している。つまり、世論が自分を支えてくれるまでは、静かに待つ。慎重に待つ。そして、世論が自分の方向に風向きが変わったと見れば、たちまち果断な行動に出てゆく。その間、この慎重と果敢の間にあって、ヤジロベエのようにその振子を支えるのが、忍耐心であった。
 そしてその世論を形成するためには、時にはかれは常軌を逸した行動にも出る。つまり他から見ると、
 「あの行動は、少し慎重を欠くのではないか。果敢といっても、あれでは猪突だ」
 といわれるようなことも行う。
 例えば、三方ケ原の合戦だ。都をめざす武田信玄の大軍が、徳川家康がその頃拠点としていた浜松城のはるか北方を通過しようとした。これを知った家康は、攻撃しようとした。部下たちは反対した。また、不時の備えとして織田信長が派遣した応援軍も反対した。
 信長自身も、
 「いま、家康が打って出れば必ず粉砕される。そうなると、家康が敗れた後おれは、上方の反信長軍と信玄の挟み撃ちになる」
 と警戒していた。家康はそんなことは百も承知だ。
 しかし、この時は打って出た。案の定、かれは大敗してしまった。この時の情けない表情の肖像画が現在も残っている。
 しかし、敗れても家康は満足だった。というのは、この時から世論が沸いた。それは、
 「律義な徳川殿」
 という評判であった。律義な徳川殿というのは、
 「たとえ敗れても、徳川殿は織田信長殿との同盟を守り抜いた。負けると分かっている戦いにも勇敢に打って出ていった。見事だ」
 という賞賛の声である。家康はほくそ笑んだが、信長は苦笑した。
 (タヌキめ、やりおるわ)
 とつぶやいた。

■藤堂高虎に二番手主義

<本文から>
 高虎の二番手主義も、
 「自分の理念を実現してくれる主人は誰か」
 という"主人めぐり"に思えてくる。
 ふつうなら、つねに"一番手"を走っている先頭グループの主人を選ぶだろう。そのほうが立身出世が速いからだ。しかし高虎は決してそんなことはしなかった。つねに二番手主義を選んだということは、
 「一番手にいる主人は、滅亡も速い」
 と考えていたからだ。滅亡の速い主人に仕えると、それだけ自分の生涯もパアになってしまうということではない。高虎にすれば、
 「自分の理念は、一朝一夕では実現できない。年月がかかる」
 と思っていた。
 つまり、かれの城づくり・町づくりの理念は、あくまでも″平和″が基盤になっているから、日本が統一され、この国から戦争がいっさい消えなけれぼ実現できない。そうなるためには、
 ●自分が長生きすること
 ●自分の夢を実現してくれるような権力者に仕えること
 ●その権力者が、すぐ消え去るようでは困ること
 ●そのためには、長距離走者として、自分も時代とともに走りながらも、決して先頭には立たないこと
という考え方を貫くことが大切だ。

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