童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
         上杉鷹山の師細井平洲の人間学 人心をつかむリーダーの条件

■真の学問は師と弟子が人間と知り合う必要がある

<本文から>
かれの教育法は、こういうように自分の身近に起った事柄をも必ず学業の素材にした。一緒に旅をすることで、平洲の人柄を弟子に伝え、また弟子の人柄をよく認識しょうとした。平洲は、
「真の学問は、師と弟子がお互いに人間として知り合うことによってさらに進む。講義だけでは駄目だ。一番効果があるのは、やはり対話だ」
 と考えていた。そのためには、とにもかくにもフェイス・ツウ・フェイスあるいはスキンシップで、お互いに接触する時間を多く持つことが必要だ。

■友人に対する情は厚い

<本文から>
 宝暦十一年(一七六一)六月十三日、今度は親友の小河仲粟が死んだ。まだ九十歳だった。
死ぬ時、心配したその妻が、
「あなたにもしものことがあったら、今後私たちはどうしたらいいのでしょう?」
と聞いた。仲栗は死に向いつつあったが、薄く目を開いて、
「何も心配することはない。細井が何とかしてくれる」
と答えた。言葉どおり、小河仲栗が死んだ後の家族の世話は全部細井平洲がした。仲栗には二人の子供があって、上が宝暦六年に死んだ男の子の爵、下が女の子で鼎といった。平洲は、仲栗の未亡人とこの鼎を引きとって自分のところで暮させた。そして、女の子が成人して嫁に行く日まで面倒を見、立派な嫁入り仕度をしてやった。それほど平洲の友人や女人の家族に対する情は厚かった。

■嚶鳴館遺草のあらまし、蒲主は民の父母である

<本文から>
『嚶鳴館遺草』は、全六巻からなっている。巻別の内容は次のとおりだ。
巻の一 野芹 上中下
巻の二 上は民の表 教学 政の大体 農官の心得
巻の三 もりかがみ 対人之間忠 建学大意
巷の四 管子牧民国字解
巻の五 つらつらぶみ
巻の六 花木の花 本末 対共候間書
付録 与樺世儀手簡
 細井平洲は大名たちに向って、
「自分の意見は野芹のようなもので、味もそっけもございません。しかし、野芹は背から春の七草にも入っているので、味がないからといってすぐ捨てるようなものでもございますまい。摘む者が誠の心を持って摘み、お勧めすれば神もお受けになります。そこで、はばかりを捨ててここに書き記す次第です」
 と謙虚に前置きしている。さらに、
「ご節倹の政は、ご領分の全体をはじめ、ご家格、ご風儀、などをもともとよくご存じのお役人たちが申しあげるべきでしょう。したがって、私のような一介の学者が自分勝手の推量で申しあげるべき筋では全くありません。が、あらゆることには道理が必要だと考え、その道理だけをここに書き記しました。不敬の文意も多くあると思い、大変恐れ入る次第ではございますが、腹の中に隠しごとをしていては愚忠をいたしがたいと思いますので、前後を顧みはばからずしたためる次第です。日々の細かいことにつきましては、それぞれ堪能なお役人方へご相談していただきたく、その点についてはわざと書きませんでした」
と、謙虚ながらも自分の意思をはっきり示す前置きを書いている。そして、いきなり「野芹」上では「根本三か条」としてご節倹の政、即ち藩政改革にとって一番大事な認識と考え方を述べている。
 その第一か条では、
 ●国の財用は、土地と民力との二つを根本にして生じるほか、出るところはございません。そこで土地の大小、民力の多少にしたがって財用の生じる高も限りあるものでございます。そのため財用を用いる方法を「入るをはかって出ずるを制する」と申します。入るとは、年内にできる物成を申します。出ずるとは、それを使うことを申します。入る高に比べて、使う高を定めるほか、財用の運営方法はございません。
 ●入るをはかり出ずるを制するということは、古代から決った法です。しかし家国の費用はいつも定めのとおりにはまいりません。そこで財用不足と申す時は、節倹の政をつとめて、碓実に物入りを減らすこと以外財用を足す方法はございません。それなのに元来常法を外れた上に、財用不足になったのには常法の政では元へ戻る方法は全くありません。よって非常の法を用いて、使い方を減らし元へ戻すことが必要です。しかし、非常の法を用いるからといって、無理なことをして下を苦しめることでは決してありません。
 非常というのは、平生に異ることです。平生に異ることというのは、人君が一国臣民の天と仰ぐところにあるので、その尊いことは申すに及びません。そのため人君は、二国でただ一人、豊かで暮らされ、飲食衣服やあらゆるお振舞いに何ひとつ欠けることなく、全部備えお持ちで、多くの人々からかしづかれております。これが人君に備わった持前でございます。
 非常の法とは、その平生の持前を一挙に省きたもうことであります。なぜならば、人君は一国の臣民に天と仰がれるというからには、その身に天のごとき徳がなくてはなりません。これはいままでお教えしたように、聖教賢伝に表れたとおり、古今人君の賢愚興亡が歴然たるものでございます。
 ところで天のごとき恩徳というのは、一体どういうことでありましょうか。天は万物の父母として、およそ天地のありとあらゆるものに恵みを与えております。この恵みを受けないものは何一つとしてありません。このように一国万民の天となることが必要です。それは天の心を心とし、臣民の父母となることが人君の道でございます。
 人の父母と申すものは、とにかく子供を最優先にして考えます。自分が飢えたり凍えたりすることよりも、まず子供たちを飢えさせたり凍えさせたりしないように考えます。もし子供たちがそんな目にあえば、心から嘆き悲しみます。これが人間の天性です。
 したがって、人君が一国の臣民一人ひとりの子供とお考えになる時は、ご自分一人のご安楽を考えるような心は絶対にないはずでございます。そうなれば、お一人だけ満ら足りた普段の生活も、思い切ってご省略になり、臣民と同じ苦しみを分ち合うような方法をお考えになって、上下に肘用が行渡るようにお考えになるべきです。こういうように自己一人の格別のご省略をまず実行し、下々をお恵みいただきたいために、このご仁政を非常の法と申す次第です。
これが節倹の根本でございます。
 ●しかし、この非常の法は、人君のご実心の仁徳から出るものでなければなりません。いたずらに世間の視聴を驚かそうなどという卑しい動機から行なったのでは、すぐ見抜かれます。ご実心から行なうご省略には、臣民も「ああ、わが君はわれわれと労苦を共にしてくださっているのだ。自身からまずご節倹あそばされている」と感動するに違いません。それにはこの非常の法を一旦立てた上は、お心を鉄石のようにお固めになることが必要です。なぜならこのご節倹の政にはかなり年月が必要だからです。ご実心が鉄石でなければ、必ず途中で崩れます。
 ●右の三か条が、節倹の根本でございます。この根本を固く行なわれなくては、次に申しあげる枝葉が栄える道理がございません。
 しょっぱなからかなりガツンとカマす提言である。しかしここに書かれていることは、
 ●藩主は、藩民の父母でなくてはならない。
 ●普通の親は、子のことをまず最初に考える。子が飢えたり凍えたりしないように配慮し、そのために自分が飢えたり凍えたりしても決して何とも思わない。それが親の愛情だ。
 ●藩主も同じではなかろうか。節倹をしなければいけないのなら、藩主自身がまず自ら実践すべきである。それによって、下々も理解し、協力することになる。
 ●いままでやってきた方法をそのまま踏襲して、節倹の政を行なおうとしても無理だ。だから非常の法を考え出さなければならない。しかしその非常の法というのは、
での生活を放榔して、厳しく贅肉をこそげ落すことからスタートする。
 ことばを変えれば率先垂範、”塊よりはじめよ”ということだ。
 後に吋りれる上杉鷹山の溝政改革は、まさにこの、
「蒲主は民の父母である」
「藩主申りが、まず節倹の見本を示す」
 ということからスタートした。

■上杉鷹山の改革のプロセス

<本文から>
 鷹山の歌にこういうのがある。
 なせばなる なさねばならぬ何事も
 ならぬは人の なさぬなりけり
まさしくこの言葉が″リストラクチャリング″そのものではなかろうか。つまり、
●目標を設定する
●実現手段を考える。
●計画を立てる。
●計画を細分化し、仕事として各パート、パートに割り当てる。
●進行管理を行なう。
●為し遂げたところに対して評定を行なう。
●失敗したところがあれば、なぜ失敗したのかを探索し、あらためて改善をはかる。
●総合評価を行なう。
 こんなプロセスを辿る。
 上杉鷹山はまさしく、このプロセスを辿った。

■上杉鷹山の改革の四つの手法

<本文から>
 ●鷹山の考えた改革案の骨子は、江戸商人が不況乗り切りの時に用いた手法をそのまま採用したといっていい。すなわち、
江戸期の商人が不況乗り切りに使った手法は次の四つだ。
 ●始末
 ●算用
 ●才覚
 ●信用
 始末というのは節約のことである。算用というのは勘定、財政のことだ。即ち入るをはかって出るを制するという考え方だ。才覚というのは、いくら始末をしても算用ができない。つまり勘定が合わない。不足分が出る。それをどうするか、ということだ。しかし、鷹山は単にこの才覚を不足分の工面だけにしぼって考えなかった。かれはこう考えた。「景気が悪く、全体に生産性があがらない時は人の心が暗くなる。常に俯きがちになる。国が豊かになるためには、ただ節約一辺倒の減量経営だけを行なえばいいというものではない。それでは単に帳沖上に生じた赤字を消せばいい、という消極的な姿勢になる。民を幸福にするためには、何といっても民を豊かにし、国を豊かにしなけばならない。そのためには殖産興業が必要だ」
 ●そこで、かれはこの始末・算用・才覚・信用のうち、三番目の才覚と四番日の信
用に最も力を置いた。
 ●かれはこう考えた。
「米沢に住む人々にいま必要なのは、他人への思いやりである。そして、自分が一所懸命働き倹約したあげく生じた余剰分を、他人あるいは地域に対して差し出すことが必要だ。これは、他人の悲しみや苦しみをそのまま見るに忍びないという孟子の”忍びざるの心”を持つことだ。米沢の人々の胸には、皆その忍びざるの心がある。しかし現在機能していない。なぜか。それは米沢の都市環境が必ずしも整備されていないからだ。
”水は方円の器に従う″という言葉がある。即ち水という存在は柔軟なものだから、円い容器に入れられれば円くなる。四角い入物に入れられれば四角くなる。住む人も同じだ。環境という容器如何によっては、円くなったり四角くなったりする。いま、せっかく忍びざるの心を持つていながらそれが槻能していないということは、あまりにも容湘がお粗末だからだ。丸にせよ四角いにせよ、その容器がポロポロで、あっちこっち割れたりしていれば、中の存在もおちおちとしていられない。いつ落下するかと不安がる。そうだとすれば、改革で心掛けなければならないのは、環境の整備である。即ち容器づくりである。そのために、殖産興業を行なって、その費用を生むのだ」
 ●即ち鷹山は改革の目標を、
「米沢に住む人々全員が、忍びざるの心々という、他人への優しさ・温もり・思いやりを持つことだ」
と定義した。
 ●そのためには、やはりいまでいう”町づくり”が欠くことができないと考えた。町づくりというのはお題目ではない。具体的に都市基盤の整備をすることだ。現在でいえば、道路、橋、上下水道、ゴミの処理場、保育園、公民館、図書館、あるいは福祉施設等住民が必要とする諸々の施設を整えるということだ。このことは、町づくりがともすれば掛け声やお題目に終りそうになるのを戒め、いわゆるハコもの即ち鉄とコンクリートを絶対に忘れないという態度である。町づくりは、ハード・ソフト両面にわたって行なわれなければならないというのが鷹山の考えであった。
 ●いってみれば、そこに住む人々が安心して住め、死に甲斐と生き甲斐を同時に感じ、同時に自分の子孫も住まわせたいと願い、さらにいえば他地域に住む人々を呼び寄せたいと思うような魅力を皆の手でつくろう、というのが鷹山の町づくりの指標であった。
 ●しかしそのための殖産興業を行ない、究極的に理想的な環境整備を行なうとしても、それを行なうのは人である。そこで二本日の柱として、鷹山は、
「人づくり」
を考えた。そのために学校をつくろうと企てた。学校の名前は細井平洲と相談してすでに「興譲館」と決めていた。もちろん学長は平洲に頼んでいた。

■上杉鷹山は中間管理職に重きを置いた

<本文から>
  「実態を数字で示せ。絶対に隠してはいけない」
といっている。このことは、
 ●まず、藩の実態を財政を中心にして全員に告げる。即ち情報を公開する。
 ●その上で目的を示し、どうすればいいかを明らかにする。
 ●藩主である鷹山をはじめ、全藩士の役割を告げる。
 ●その中小で、鷹山は率直に自分の能力不足を告げる。「だから、力不足を全藩士で補ってほしい」と依頼する。これは改革が一部の推進グル−プのものではなく、藩あげての全成員の仕事なのだという認識を持たせるためだ。つまり、全藩士に「参加」を求めたのだ。そのために情報を公開するということだ。鷹山は、何よりも「自分は聞いていない」とか「自分に関係ない」といわれるのが頼も嫌いだった。そういわせないためには、あらゆる情報を公開し、嘘をつかず率直に実態を認識させたうえで、どの部分にどう参加すればいいかを自ら認識するという方法をとったのである。
 ●鷹山が特に重きを置いたのが現代でいう中間管理職の存在だ。この層がしっかりしていないと、せっかくの改準案も途中で歪められる。前に書いた「自分は聞いていない」とか「上のやることで、俺の知ったことではない」というような中間管理職もいるだろう。あるいは、疑問を持って「なぜ、いま、こんなことをしなければいけないのですか?」と訊く部下に対し、怒鳴りつける管理職もいるだろう。「ばかろやう。そんなことがわかるほど俺は管理手当を貰っていない。上の方がやれといっているのだから、グズグスいわずにやれ」。こんなことをいわれたのでは、下の者はむくれてしまう。鷹山は、
「この計画が成功するかしないかは、あげて中間管理職のリーダーシップにかかっている」
と考えていた。それが、
 してみせる いってきかせて
 させてみる
という考え方になる。これは単に「このとおりやってみろ」ということではない。部下が「なぜこんなことを?」という疑問を突き付けた時に、情報を与え、砕いた説明をし、情熱を持って説明し、結果的には部下を納得させる、というプロセスをいう。
となると、これはそのまま現代でいうリストラクチャリングそのものではないのか。
■良いことでも”誰”が行うかによって成功が決まる

<本文から>
 ●本来なら組織というのは「何をやっているか」で判断すべきで、「誰がやっているか」というモノサシをあてはめてはならない。即ち、いいことであれば誰がやろうとそれは受け入れるべきだ。これは上下の関係においても同じだ。上の老は下のある者が嫌いだからといって正当な評価を欠くとすればそれは不公正だ。上の者としてなすべきことではない。また下の者も上が嫌いだからといってその指示された内容がいいものであるにも拘らず、自分は上の者が嫌いだから協力しないというのは間違いだ。しかしこれは理屈である。世の中はそうはいかない。どんなにいいことでも、言い手や、やり手が気にくわなければ協力しないことはしばしばある。
●米沢滞も同じだ。現在、菁莪社グループは確かに正義感が強く、仕事に対して強い情熱を持ってはいるが、本国から見れば必ずしも好感を持って迎えられるグループではない。かれらはことごとに米沢本国の重役たちを糾弾し、批判した。竹俣当網のように、森平右衛門という重役を殺した者さえいる。そうなると本国から見る菁莪社グループは全部問題児だ。組織の秩序を破壊し、職場の調和を乱す、いってみればトラブルメーカーの群である。こういうトラプルメーカーの群に対して、現在米沢本国の人々がどういう見方をしているか、これは火を見るよりも明らかだ。
「そこでです」
平州は微笑みながらいった。
「菁莪社グループの連中にも、少し自分を変えさせていただきたい」
「自分を変えるとは?」
「せっかくいい案ができたのです。これは、”何をやっているか”という内容が見事に完成したということです。そうなると今度は”誰がつくったのか”という、”誰が”の面に目を向ける必要があります。いまのかれらは、鬼のような表情で後脚で砂をぶっかけて米沢を出てきました。その印象はいまだに本国の人々が持っているでしょう。そこでかれらに少し自分を変えてもらって、せめてお地蔵様のような顔に変わってもらうことです。それには、やはり組織の秩序を守り、他人のいうことももう少し聞く、自分のいうことばかりいわない、というような性格に自らを変えることが必要です。いってみれば、自己改革が必要なのです」              
「先生のおっしゃることはよく解りました。私も、何をいってるかだけでなく、誰がいっているかという見方にも十分耐えられるように自身を変革致します」
「あなたはご立派だ。変えるところは別にございませんが、しかし菁莪社グループに自己変革を求めるとすれば、やはりそのようなお心掛けは大切でございましょう」
「お教え、ありがとうございました」
 細井平洲から助言された鷹山は菁莪社グループを集めていった。
「おまえたちの作った案は見事である。江戸藩邸で実験の結果、いいところを残し悪いところを削った。案は見事に整った。いよいよ本国に向って出発する。しかしその前に一つだけ頼みたいことがある。それは、おまえたち自身もう少し性格を変えろ。つまり、いまのままだとこのいい案が、米沢本国で真向から拒否されるおそれがある。それを緩めよう。それには、おまえたち自身が自分を変えて、本国でも素直に受け入れられることが必要だ。自己変革をせよ。米沢藩の改革は、改革案をつくったグループの自己変革から出発する」

■改革には勇気だ必要<鷹山が重役のクーデターに立ち向かう>

<本文から>
  味方と思った先代重定の意外な怒りに触れ七人は色を失って城を追っていった。鷹山は呆然としていた。心が重かった。やがて何か起るとは思っていたが、こういう形で重役が七人も揃ってクーデターを起すとは思わなかったからだ。胸の中でガラガラと何かが崩れていった。いままで積み重ねてきた改革の石の群が、宙に吹っ飛んだ。
 その夜鷹山は一睡もできなかった。そしてこの時思い出したのが江戸で教えられた細井平洲の一言であった。すなわち「嚶鳴館遺草」の中に書かれていた一文である。
「人間も薬と毒と同じで、どんなによく効く薬が十あっても、その中に一乃至この毒が混れば、結局は毒の薬の方が強くなる。いい薬の効力はなくなる。確に対しては、断の一字を以って対するべきだ」
 そしてもう一つ。鷹山がはじめて米沢に入国する直前、細井平洲はこういった。
「あなたがこの度本国に赴くのは、まさに薄氷を踏むようなものです。単身でほとんどの人間が知らない米沢に行くのですから。しかしこういう時に心に抑えるべきは、勇以外ありません。勇なるかな、勇なるかな、勇にあらずんば何をもって行なわんや。君、その時なるかな」
一言でいえば、
「いまは勇気以外何もありません。男気をお持ちください」
と励ましたのだ。鷹山は改めてあの時の細井平洲の言葉と表情を思い出した。そして胸の中で呟いた。
「まさに、いまが私の渾身の勇気を奪う時なのだ」

■話は内容と話し方の両面で相手に伝わる

<本文から>
 つまり、話というのは、
「何を話すか」
という内容と、
「どのように話すか」
という表現との二つで成り立つ。もらろん内容がくだらなければ、どんなうまい話し方をしても意味はない。が、だからといって、
「どんな話し方をしようと、内容さえよければ必ず相手に伝わる」
と思うのは錯覚だ。傲慢でもある。細井平洲はこの辺のことを心得ていた。平洲は、「どんなにすぐれた内容でも、聞き手の水準に合わせて表現方法を考えなければ正確にこっちのいいたいことが伝わらない」
 と考えていた。この辺は、平洲が若い頃から江戸の両国橋のほとりに立って、いわゆる″辻講釈″を行なっていた経験が役に立った。かれが街頭に出たのは、
「字も満足に読めないような人々が解るような表現方法で話を伝えなけれげ、決して実学とはいえない」
 つまり平洲にすれば、自分の学問がいま生きている人々に役に立たなければならない、という実学的態度をとる以上、現実に生きている人々を選り好みはできない。一定の教養がある人だけを相手にして話すのはたやすい。いままで、学問とはほとんど縁のなかった人々にも、
「ああ、学問というのはこんなにも面白いものだったのか」
という興味を持たせることからはじめなければならない。江戸の街頭講釈で十分経験を積んだ平洲は、米沢に来てもその経験を生かした。だから、米沢の純朴な人々は飛びついた。早くいえば、江戸の人間はある意味で擦れっからしだ。毎日数十万の人の間で挟まれて生きているから、感覚が鋭いかわりに、容易なことでは勧善懲悪の情も素直に受け止めない。どこかに人間不信の念を持っている。米沢の人々にはそれが全くなかった。平洲のいうことは、まるで砂地が水を吸い込むようにスイスイと受け止められた。これは平洲にとって喜びだった。
「日本には、まだまだこういう純粋な人々がいる」
 それが大きな励みになった。だから、平洲は「何を」という内容を、「どのように」いかにわかり易く伝えるか、という「表現」の面でも、多大な苦労をしていたのである。米沢ではその苦労が実った。

■鷹山が師を慕う様子<エピソード>

<本文から>
 「先生、お懐しうございます。お達者で何よりでございます」
 込みあげる涙を押えながら鷹山はかろうじてそういった。平洲は黙って頷くだけだ。言葉が出てこない。しばらくの間、言葉なしの対面が続いた。やがて鷹山が先に立った。
「ご案内致します」
 普門院の門をくぐり、先に向って歩いた。外門から中門まで、およそ三丁ばかりある。坂道だ。鷹山は平洲と並んで歩いた。気付いた鷹山が、
「先生にお杖を」
といった。平洲は慌てて手を振った。
「お尾形様、まだまだ大丈夫でございますよ」
すると鷹山は平洲の体にピッタリ寄り添い、手を引かんばかりにして肩と肩を並べながら、
「私を杖の代りにお使いください」
といった。

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