童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          逆境に打ち克つ男たち

■金次郎は、小さなことでも積み上げれば大きな成果を生むと信じて行動

<本文から>
  彼の家は、彼が少年時代に大きな洪水に襲われた。そのため持っていた田畑の土が全部水に流され、代わりに石がゴロゴロ転がるようになってしまった。土の畑が石の畑に変わってしまったのである。このため金次郎の家は、極度の貧窮に陥った。 
 そんなある日、金次郎は、荒れ地と化した石の田の中に、小さな水たまりを見つけた。ちょうど田植えの時期だった。
 付近には流されなかった幸運な田を持つ農民もたくさんいた。農民たちはせっせと田植えに励んでいた。しかし田植えは、用意した苗を全部植えつけるわけではない。余りが出る。そういう苗の余りが田と田の間の道に捨ててあった。それを発見した金次郎は、田植えをしている農民にいった。
「この苗はいりませんか?」
「いらないよ。そのぶんまで植えるほどの土地がない」
「では、もらってもいいでしょうか?」
 農民はこっちを向いた。
「かまわないけど、どうするんだい?」
「田植えをします」
「田植えをするといったって、おまえさんのうちは、田がみんな流れてしまったじゃないか。どこへ植えるんだ?」
「石ころの田の中に、ちょっとした水たまりができました。そこに植えてみようと思います」
「なるほど、金次郎さんらしいな」
 農民は笑い出して、「いいよ、持っていきな」といった。
 稲の苗をもらった金次郎は、発見した水たまりに丁寧にそれらを植えた。そして丹精に育てた。一日に一度は必ず見にきた。
 水たまりはやがて干上がり、カラカラの土に変わった。金次郎は、乾いた土に水をやり、肥料を与えた。稲は育った。夏になると、そんな小さな場所にも雑草が生えた。金次郎は丹念に雅章を抜いた。
 彼は、(目の前に起こっていることを、丁寧に一つずつ、かたをつけていくことが大切だ)と思っていた。それは、「どんな小さなことでも、努力して積み上げていけば、やがて大きな成果を生むだろう」
 ということであった。つまりそれが、(いまの自分にできる、−番大切なことなのだ)という気がまえを生んだのである。 
 秋になった。稲は実をつけた。見事な穂が頭を垂れた。金次郎は喜んだ。穂を刈ると、一升あまりの米が得られた。彼は感動した。
 そこで彼は、米を半分持って農民のところに行った。
「ありがとうございました。あの苗でお米ができました。半分をお礼に持ってきました」
「なんだって?」
 農民は驚いて家族と顔を見合わせた。そして金次郎を見返し、
「あの稲の苗で、米がこんなに取れたのか?」
「はい、一升取れました。ですから五合お礼に持ってきました。稲の苗をいただきましたので、種籾でお返ししたいと思います」
 彼はのちにこういっている。
「たとえ千里の道でも、一里歩くことから始めなければダメだ。一里歩かなければ、千里には到達できない」
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■蔦屋重三郎の市民ニーズを見抜く能力

<本文から>
「人を育てるのに絶対必要な態度
 しかし、蔦屋重三郎がこういう才能を育てるきっかけになったのは、あくまでも、「生活者の視点」、あるいは「市民の視座」に立っていたことだ。畢竟それは、「反権力」にならざるをえない。
 そして蔦屋重三郎の巧妙なところは、彼自身はあくまでも仕掛け人であって、実作者ではないという立場を取りつづけたことだ。そしてろくな原稿料や画料も払わなかった。かなり儲けた。
 が、松平定信は、やがて重三郎が出版する出版物に目を向けた。山東京伝の描いた諸作品が、「幕府の政治を批判している」といういいがかりをつけ、山東京伝の作品は絶版、蔦屋重三郎に対しては、「財産の半分没収」という刑が科せられた。
 しかし、重三郎はへこまなかった。以後も、コツコツと新しい才能を発見しては、次々と育てていった。江戸の出版文化や、絵画文化について、蔦屋重三郎の功績を忘れることはできない。
 そして、彼の育てた作家や画家がなぜもてはやされたかといえば、やはり、その「市民感覚」にあったのである。蔦屋重三郎の活動によって、大田南畝が望んだ「文化の東高西低」、すなわち、
 「文化は京都や大坂から発信されるだけでなく、江戸からも発信される。そして、江戸文化のほうが、上方文化よりもすぐれている」
 という町人文化の黄金時代″を出現させたのである。ということは、やはり蔦屋重三郎の中に、
 「社会状況の底にひそむニーズを見抜く能力」
があったということだ。
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■伊能忠敬の謙虚は姿勢

<本文から>
(幕府の予算は少ない。使いたい器械も思うように買えない。そこへいくと、この伊能忠敬という人物は、自分の財産を惜しみなく使って、どんどん新しい器械を購入している。それをわれわれも使わせてもらおうではないか)
 と考えたのである。
 これは高橋の師の麻田剛立も利用したことだ。とくにいま浅草の暦局にきている間重富は大坂の富裕な質屋だったので、金はいくらでもあった。話に聞くところでは、間の家は質蔵が十一か十五だかあって、間重富自身も、「十五楼主人」などと酒落こんでいたらしい。店は大坂富田橋の北詰にあって、家号は十一屋といっていた。もともと土蔵が十一あったのを、重富の代に十五に増やしたということらしい。
 伊能忠敬が高橋至時の門人になったのは寛政七年(一七九五)五月のことである。高橋は二カ月前に大坂から江戸に上ってきたばかりだった。そして遅れて江戸にやってきた間重富が、浅草暦局で伊能忠敬に会ったのは六月のことだった。
「高橋先生に新しく弟子に加えていただいた伊能忠敬でございます。よろしくご指導ください」
 丁重にそう挨拶する伊能忠敬に、間重富は目を見張った。驚いて、
「これはこれはご丁重なご挨拶いたみいります。わたしは暦局の役人とはいっても、もともとは大坂の質屋の親父でございます。どうかこちらこそよろしくご指導をいただきます」
 と挨拶を返した。
 伊能忠敬にとって間重富と知り合ったことは、その後の大きなプラスになった。重富はこのころ四十歳だ。忠敬より十歳も年下だが、そんなことは関係ない。忠敬は、
 「年齢に関係なく、自分の知らないことを知っている人はすべて師だ」
 と思っていた。その謙虚な態度が高橋至時や間重富を感心させた。
 「伊能さんはすばらしい。佐原で名主までつとめていたというのに、ちっともそんなことをひけらかさない」
 と話し合った。
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■伊能忠敬の偉業には星が好きでたまらないという精神があった

<本文から>
 こういう、いわば科学者間の無邪気さというのは、俗人たちにはうかがいしれないような精神状況だ。忠敬には子どものときからそういう気持ちがあった。つまりどこか、完全に俗化されないような、いわゆる、「サンクチュアリ(聖域)」があったのである。
 それが子どものときからの星好きだ。星が好きで好きでたまらないという精神だ。わたしが、空が好きで好きでたまらないというのと同じである。
 この、「好きで好きでたまらない」という気持ちが、大きなバネになる。あるいはマグマ吋な役割を果たす。これがないと、志があってもものにならない。
 つまり、「これをやりとげたら、どんな地位につけるか」、あるいは「どれだけ儲かるか」などというような不純な欲望を持っていたら、やはり大成はしない。
 伊能忠敬は五十五歳のときに、初めて身につけた知識と技術を実験する。「エゾの踏査」に出かけたからである。
 しかし、これも半分は私的な立場での踏査であって、必ずしも幕府が正式に任命したとはいえないような扱いだった。幕府にすれば、
 「民間の農民に幕府の大切な地理調査を命ずるのはいかがかと思われる」
 というような、ためらいがあったのだろう。
 この扱いは、その後の伊能忠敬にずっとまとわりつく。つまり彼を、「正式な指導権のある調査員」としてなかなか扱わない。だから、忠敬は行く先々で苦労した。つまり現地にすれば、
 「おまえはいったいどんな資格があってこの調査をするのだ?」
 と聞く。はっきりした答えはいえない。というのは身分が曖昧だからだ。しかし、忠敬はへこたれない。彼は敢然として調査を続行する。
 それはやはり彼が、子どものときから持ちつづけた、「星が好きで好きでたまらない」という気持ちが、「日本の地理が好きで好きでたまらない」というところにまで高まっていたからだ。
 この、「やむにやまれない気持ち」が、サムエル・ウルマンの青春の詩″につながっていく。
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