童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          義塾の原点(上)

■門人も驚く篤胤の知識と論説の鋭さ

<本文から>
 かれの弟子たちに対する教授方法もいろいろユニークなエピソードが残っている。
 ある時、かれの説が仏教を否定しているというので、あるお坊さんがやってきた。そして、篤胤に論争を吹っかけた。篤胤はちょうど書き物をしていた。
 「論争はいたします。しかし、わたくしは忙しいので書き物の筆は止めるわけにはいかないのです。どうぞ、あなたのいいたいことをおっしゃってください」といった。面白いので、門人たちがグルリとお坊さんを囲んだ。お坊さんは、自分の考えを話しはじめた。しかし、興奮しているので、その日全部話すことができなかった。そこでお坊さんが、
 「今お話ししたことにお答え願いたい」といった。篤胤は、
 「しかし、あなたのお話はまだ済んでいないのでしょう?」と聞いた。お坊さんがまだ済んでいないというと、
 「それでは明日またもう一度いらっしゃって、お話の続きをしてください」と篤胤はいった。
 翌日やって来たお坊さんは、またとうとうとしゃべった。しかしその日も話は終わらなかった。
 三日目もやって来た。そして、
 「これでわたくしがあなたにお聞きしたいことは全部です」と告げた。そこで初めて篤胤は、書き物の筆を止めてお坊さんの方に向き直った。そして、一日目、二日目、三日目にお坊さんが話したことを、全部整理し、論点を組みたてた。
 「こういう質問だというふうに受け止めてよろしいですね?」と念を押した。お妨さんは目を見張った。今まで、
 (この男が、一日目も二日目もずっと返事をしなかったのは、書き物にかこつけてはいるが、本当のところは答えられないからだ)
 と思っていたからである。ところが、論点を整理した篤胤は、今度は自説をとうとうとしゃベりはじめた。お坊さんが問いかけた質問を全部論破した。お坊さんは呆れ返り、
 「あなたには恐れ入りました」と降参した。門人たちは、今さらながら篤胤の知識の広さと、その論説の鋭さに感嘆したという。
 また、篤胤はいつも自分の居間の入り口に、次のような貼り紙を掲げていたという。
 「この頃、とりわけ私は著作に忙しいので、学問上の論議以外は来ないでもらいたい。特に、世間のくだらない長談義は一切御免被りたい。たとえ塾生といえども、学問上の疑問を問いかけに来ること以外は入ってはならない。学問上のことなら、たとえ、徹夜をしても論議に応ずる」
 かれらしい貼り紙だった。
 そこまで生き急ぐかれは、毎日の睡眠時間はほとんど四、五時間だった。時には全く眠らない日もあった。それがあまりにも長く続くので弟子たちは心配した。
 「少しお眠りにならないと、体を壊しますよ」
 「そうか」
 うなずく篤胤は、今度は二日も三日もぶっとおしで寝ることがあったという。つまり″寝貯″のきく男だったのだ。
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■複眼の思想で社会に対した東湖

<本文から>
 東湖が家を継いだのは、文政十年(一八二七)一月のことで、禄高は二百石だった。ただちに彰考館入りを命ぜられた。
 この頃、水戸藩の内情を憂慮した幕府は、次の藩主に徳川本家から養子を差し向けようとし た。この時、反対運動の先頭に立ったのが東湖だ。東湖は、
 「そんなことをしたら、藩の自治が守られない」と叫んで、断然斉昭を擁立した。やがて藩主になった斉昭はこのことを忘れなかった。東潮は、国際的動乱に巻き込まれた日本がどう生きるべきか、その中で水戸藩はどう進むべきかという強力な意見を出す、斉昭のブレーンであった。それだけでなく、
 「東湖たちのおかげで、自分は藩主になれた」という斉昭のこの時の経験も大きくものをいって、東湖は水戸藩を代表する外交官であり、報道宮でもあった。なまじっかな人間では務まらない。さいわい東湖は学問が深く、また詩心に富み、熱情家であった。
 多くの人々が訪ねて来るようになった。別に、藩の政治にかかわりなく、個人的にも東湖の名前を聞いて、幕府の政治家も訪ねてきた。藤田東湖は、今でいえば「複眼の思想」を持っていた。短絡しない。結論を一つにしない。複数選択をする。いってみれば、″トンボの眼″で社会に対していたのである。
 こんな話がある。老中水野越前守のもとで、新しく江戸町奉行を命ぜられた矢部駿河守という男がいた。かれは家格の低い家の出なので、町奉行の要職を得るために、賄賂を使った。このことを始終気にしていた。ある時、東湖を訪ねた矢部はこの悩みを話した。
 「あなたと親しい幕府の要人たちは、みんな家柄が良く才幹もあった。しかし、私は身分が低く、ろくな才幹もないので、江戸町奉行の職を得るために、恥ずかしながら賄賂を使った。こういうことをあなたはどうお考えになるか?」
 東湖は感心した。そして、矢部にこういった。
 「あなたは大変正直な人だ。町奉行というポストは、やはり正直・誠実でなければ困る。裁かれる庶民が迷惑するからだ。野に遺賢なしといわれるが、今の世の中は決してそうではない。どんなに才幹を持ち、清い志を持っていても、発見する側が乱れているからなかなか世に現れない。そこへいくとあなたは勇気を持って、たとえ賄賂を用いてでも自分の志を実現しようとした。他の人々とは違う。むしろ誇りを持っていいでしょう」
 この答えを聞いた矢部は涙を浮かべて感謝し、自分の生き方に自信を持ったという。
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■足利学校の精神

<本文から>
 足利市の歴史的遺産の核となっている、ばんな寺とのかかわりからいえば、足利義兼が最も関係が深いので、
 「足利学校も、義兼が建てたのではないか」
というようにいわれている。
 一方、小野篁は、平安末期の文学者だ。漢学者として名高かった。漢詩文や和歌をよく作った。
 ある時彼は、遣唐副使を命ぜられた。が、気の強い篁は正使とケンカして、
 「オレはいかない」と、乗船を拒否した。そのため罪を得て、流罪になった。この篁が、
 「国家が運営する中央校ではなく、地方に中央校をしのぐような学校を建てたい」と志して建てたのが、足利学校だというのが小野篁説だ。遣唐使とけんかをするくらいの骨っぽい男だから、あるいは今いわれている「中央対地方」「官学対私学」というような理念を持っていたのかもしれない。
 一時学校は衰微したが、やがて上杉憲実が関東管領として活躍しだすと、手厚く保護した。
 学校は、再び隆盛の時期を迎えた。
 その後、後北条氏、武田氏、徳川氏らが代々手厚い保護を加えた。天下に志を伸ばそうとする武将たちが、一郷学ともいうべき足利学校を、保護し抜いたのである。
 足利学校は、単なる一地方学校ではなかった。存在そのものに大きな意味を持っていた。というのは、ここで学ぶ者は、
 「時代の流れとは無関係に、学問に励め」という教育方針によって、育てられていたからだ。
 はっきりいえば、戦国の動乱と無関係に、勉強に勤しむということだった。
 裏を返せば、
 「戦争を憎み、平和を愛する精神」が、足利学校の精神だったといっていい。そうしたことが、一地方校であった足利学校を、天下に名をとどろかせ、外国人のフラシスコ・ザビエルにすら、
 「ここで学んだ学生たちが、日本の知識層となって各地で活躍している。この人々を相手にするのは容易ではない」と思わせて、
 「日本に派遣する宣教師は、とりわけ優秀な人間でなければならない」と本国に報告させることになったのである。
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■諭吉が義塾をつくる動機のひとつに身分差別に対する怒りがある

<本文から>
 諭吉が頭に描いていた日本国民は″市民″の名に値するものであり、それは、
・ひととおりの知識や識見を持っていること
・独立の生計をいとなむだけの能力を持っていること
・高尚な品位をそなえていること
 などを条件としていた。だからなにかにつけてすぐ付和雷同するようなモブ(群集)を嫌った。いってみれば、
「自分の意見形成能力を持っている人間」
を市民と考えていた。それはかれ自身も経験した幕末までの庶民は、
「ただ治者のいいなりになっている奴隷根性の持ちぬし」
 だったからである。とくにそれを制度化したものが身分制だった。あるいは門閥制である。
 諭吉が義塾をつくる動機のひとつに、かれの身分差別に対する怒りがある。それはのちに『学問のすゝめ』に書かれた、
 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」
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■武士道精神をもった福沢諭吉

<本文から>
 勝海舟と榎本武揚に公開質問をぶつける。論旨は、
・あなた方は、徳川幕府が存在した時代に高宮であった
・にもかかわらず、その幕府をほろぼした明治新政府にふたたび高宮として仕えている
・武士は二君に仕えずという古い言葉があるが、この言葉をどのようにうけとめられておられるのか
 おそらくこの疑問は諭吉だけではなく、まだ徳川時代を知っていた多くの人びとの共感を得たものだろう。そういう人びとの疑いを諭吉は代弁したのだ。榎本武揚はとくに返事は寄越さなかったが、勝海舟はたずねた人間に、
 「おこないはおれのもの、批判は他人のもの、おれの知ったことじゃねえ」
と捨てゼリフめいた反応を示したという。これも諭吉の、
 「権力には絶対におもねらない」
という、民間人としての在野精神を示すものだ。しかしその根底には欧米流な考えではなく、むしろ日本の「武士道精神」を思わせるものがある。
 しかしこの凛然とした武士道精神のあらわれは、古い保守的なものではない。こんな話がある。それは慶応四年(一八六八)の五月十五日に、新政府軍は上野の山にこもった旧幕臣の集団である彰義隊を攻撃した。当時の慶應義塾は新銭座にあった。砲声がこのあたりまで響いてきた。多くの学生たちは動揺した。なかには屋根に上がって、
 「上野の山に炎が上がっている」
などと叫び、見物に夢中になる者もいた。諭吉は別に止めない。さらに、
 「わたしもいまから駈けつけて"彰義隊と一緒に戦いたい」
などといい出す者もいた。しかしこういう連中を諭吉は止めた。そしてこういった。
 「諸君の現在における責務は学ぶことだ。学べ。世間がどんなに騒がしくとも慶應義塾は一日も業を休まない。洋学の命脈を絶やしたことがないのだ。したがって慶應義塾のあるかぎり、日本は世界の文明国である」
 この堂々たる言葉に学生たちは圧倒された。そして砲声を気にしつつも、諭吉の講義に耳を傾けた。やがて講義に神経が集中し、鳴りつづけている砲声も学生たちの耳から遠ざかった。
 この日諭吉がテキストにしていたのはウエーランドの経済書だったという。慶應義塾ではのちにこの事件を記念して、昭和三十一年から「ウエーランド講述記念日」を設け、記念講演会を催しているそうだ。
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■和魂洋才の精神の佐久間象山

<本文から>
 入門を希望する門人がひきもきらないので、象山は木挽町五丁目(現在の東京都中央区銀座)に新しく塾をつくった。この塾の跡も現在何も残っていない。近くの隅田川の沿岸一帯に、各藩の江戸屋敷があり、それぞれ邸内に射撃場を設けていた。しきりに砲術訓練が行われていた。そんな地域の空気を利用して、象山もこの地域に塾を開いたのだ。象山の名はすでに知られていたので、また違った種類の若者たちが押しかけてきた。越後長岡藩の小林虎三郎、越前藩の橋本左内、そして長州藩の吉田松陰たちである。中でも、小林虎三郎と吉田松陰(寅次郎)は、徹底的に象山の影響を受けた。この二人は「象山門下の両虎」と呼ばれた。
 象山のこの頃の教育方針は、有名な「和魂洋芸」である。和魂というのは日本人の精神だ。洋芸というのは、西洋の芸術を指すのではなく、知識や技術を指す。それも科学的なものをいう。象山は、以前にお玉ケ池で朱子学を教えていた頃も、こんなことをいっている。
 「およそ学問は、徳行をもって首となし、才識はこれに次ぎ、文芸は最も末なり」
 この考え方は、西洋学を教える時も変わらなかった。象山によれば、外国の不時な侵略行為も、それに的確な対応策がなくて、いたずらに混乱している日本の情勢もすべて徳が欠如しているからだという。したがって、徳を確立さえすれば、現在の世界状況も、必ず治まるはずだと信じていた。しかし、日本の科学知識や技術は、大幅に外国に遅れをとっている。これを早く身に付けなければならない。しかし、その用い方を誤れば外国と同じような過ちを犯してしまうバそうしないためには、日本にずっと伝わってきた精神、すなわち「和魂」を大切にすることだというのだ。
 この和魂洋芸あるいは和魂洋才の精神は、彼に学んだ橋本左内、勝海舟を通じ、坂本龍馬や横井小楠にまで広がっていく。そして、この精神が、実際には明治新政府の方針にもなるのだ。
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■橋本左内登用のエピソード

<本文から>
 「政教一致とは?」
 「政治に役立つ実学を教えるということでございます。現在の明道館では、全く役立たぬ空理空論ばかり教えられています。学生たちがああいう風になるのは無理もありません」
 「具体的には?」
 「まず、教えるに足る人材を発見することでございます。続いては、その人材を育てることで ございます。第三には、その人材に正しい政治技術を授けることでございます。そして第四は、そういう人材を枢要なポストにつけて活用することでございます。現在の明道館の状況は、教官たちが器量が小さいため、才能のある人材を発見できない。また、学問に自信がないものだから、学生たちの行いの小さなことを問題にして、ああでもない、こうでもないと注意したり罰したりしております。自分に迎合する者を好み、教官に反論したり、議論をふっかける者を 次々と退けております。この三つの悪弊を除かなければ到底人材は発見されないし、育てることもできないでしょう」と説いた。
 慶永は感心した。わずか二十三、四歳の左内が、ここまで堂々と自分の所論を展開するとは思わなかったからである。
 「その方に任せる。思うように改革せよ。それによって起こるゴタゴタは、全部私と重役たちで引き受ける」
 今でいえば、「思い切って冒険をせよ。過ちを恐れるな。責任は全部トップがとる」ということだろう。非常に力強い言葉であった。左内は感動した。そして、
 <この主人のためには、今後いかなることがあっても生命を投げ打って尽そう>と誓った。
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