童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          義塾の原点(下)

■北方交易を目指した大名、土井利忠

<本文から>
 「山間の小蒲大野藩が、洋学校を開いた」
 ときいて日本各地の大名家から、「うちの若者を入学させてもらえまいか」という希望が殺到した。利忠は認めた。そのため、全国各地から集まってきた留学生は、実に五十名を超えたという。佐賀藩、高松藩、宇和島藩など四国や九州の大名家の武士が多かった。これらの藩は、当時積極的に海外との交流を考えていたからだ。
 利忠が洋学館を造ったのは、自分の藩の武士たちが、やがては藩を富ませるであろう北方交易の知識と技術を身に着ける準備であったことはいうまでもない。
 利忠は、
 「我が大野藩は、山間の小藩ではあるが、一日も早く海へ乗り出したい。北方を目標とし、交易を行い、さらに蝦夷地を開拓して、幕府の許可を得、蝦夷方面に領土を新しく設けたい」
 と主張していた。
 これは単に、大野藩の財政難を救うだけではなく、かれはすでに、北方問題を真剣に考えていたのである。
 こういう藩主利忠の志の下に集まって支えたのが、家老の内山良休や隆佐兄弟、吉田拙蔵、早川弥五左衛門、西川寸四郎などであった。かれらは積極的に、明倫館や洋学館の経営に携わると同時に、利忠の究極の目的である北方開拓の問題にも、自ら蝦夷地に乗り込んで、調査し、開拓の計画を立てた。
 しかし、徳川幕府は必ずしも大野藩のこういう計画を快く思わなかった。
 利忠にすれば、日本の国防問題と、国際交流のために、率先して蝦夷地開拓を希望したのだったが、幕府側では、屈折した応じ方をした。
 「大野藩は、口ではうまいことをいっているが、実は自分の藩の利益拡大を因って、あんなことをいっているのだろう」という了見の狭い対応をした。そのため、はかばかしい許可を与えなかった。
 そこで、利忠はいよいよ「藩商会」としての「大野屋」 の開店と、洋式帆船「大野丸」 の建造に乗り出した。
 先に開設された大野屋は、いってみれば殖産興業政策や専売業務を行う国産会所である。いわば、大野藩経営の商社であった。
 最初に開店したのが、大坂の大野屋である。たばこ、生糸、麻、漆などを扱った。すべて、大野藩の産品だ。また、鋼、金、銀を売った。これは巨大な利益をもたらした。
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■一人の弟子のために医学のテキストを書も上げた藤樹

<本文から>
  藤樹は、若い頃林羅山と朱子学を批判したくらいだから、独特な学問を教えた。たとえば、朱子学では、孔子の有名な「馬屋火事」のエピソードで、孔子をほめる。しかしそのほめ方は、火事に遭った馬屋に行って孔子が、
 「人間に怪我はなかったか?」とまず聞いたからだという。つまり、孔子が馬より人間を大切にしたから偉いとほめる。藤樹は、
 「そんな解釈は間違っている。孔子はそんな底の浅い人物ではない」と反論する。
 藤樹にいわせればこういうことになる。
 「孔子がまず人間のことを心配するのは当たりまえの話で、別に孔子自身が意識してそんなことを聞いたわけではない。また、馬屋側でも、馬屋というのは馬を飼っているところなのだから、聞かれなくても当然馬の安否についても孔子に報告する。その部分がこの話では省略されているのであって、別に孔子が馬のことを聞かなかったわけではない。同時に馬屋の管理人も馬の安否を報告しなかったわけではない。当然報告したはずである。
 そういう生活に密着した事実を文章に書かれていないからといって、見落としてしまうのは、底の浅い学者のやることだ。だから朱子学はだめなのだ」
 かなり手厳しい論評である。しかし、そういったように藤樹の学問は、
 「あくまでも人間が生きていく上で役立たなければならない」という実学思想に基づいていた。言葉のやりとりや、ただ美辞麗句を並べ立てるような修学態度を藤樹は嫌った。
 弟子にもいろいろをタイプがいた。頭の悪い弟子もいた。大洲から来た大野了佐という若者は、その頭の悪い弟子の中でも最も頭が悪かった。師の藤樹が、短い一、二の文章を読んで、
 「このとおり読んでみなさい」と了佐に命ずる。了佐は読めない。そこで、藤樹がまた読んで聞かせる。しかし了佐はポカンとしている。読む気がないのではなく、読もうとする気はあるのだが頭の方がついていかない。
 そこで、藤樹は百回、二百回と繰り返す。授業は大体午前十時頃からはじまるのだが、いつの間にか了佐一人にかかりきりで午後四時になってしまう。六時間も繰り返し藤樹は教え込む。しかし、依然として了佐は覚えられない。他の弟子が呆れてしまう。そして、
 「先生、了佐だけに構っていないで、我々の方の授業もしてください」と文句をいう。藤樹は首を横に振って、こう応じた。
 「了佐一人を教えることができなくて、なんでおまえたち全員を教えることができよう。私の力が不足しているのだ。了佐の頭の悪さのせいではない」
 これを聞くとみんなは黙ってしまう。了佐に対する藤樹の愛情がそこまで深いことを知るからだ。もちろんそのことは了佐にもわかす。了佐はたまらなくなって泣きだしてしまう。自分の頭をガンガン叩きながら、
 「先生、本当に申し訳ありません。私はなぜこんなに頭が悪いのでしょうか?」と泣きわめく。藤樹は優しく了佐の扁を叩く。
 「嘆くな。おまえが悪いのではない。私の教え方が悪いのだ」
 そういって、藤樹はまた同じことを繰り返す。
 こういうやりとりを繰り返しているうちに、藤樹は発見した。それは了佐にも別な才能があったのだ。別な才能というのは、了佐は医学のことだとすぐに覚えるのだ。そこで藤樹は了佐のために、
 「医学の早わかり手引」というテキストを書いた。
 他の弟子たちはまたビックリした。たった一人の弟子のために、藤樹が毎日毎晩時間を費して、医学のテキストを書きあげたからである。テキストをもらった了佐も感動した。そしてかれは必死になって勉強し、そのテキストによって見事に医者になった。大洲に戻った了佐は、立派な医者として地域の人々の専敬を受けたという。
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■山陽の日本外史の誕生秘話

<本文から>
 こうして座敷牢が造られ、山陽はその中に入れられた。ところが、一日産敷牢の中に入ると、山陽は今までにない生気を発揮しはじめた。初めのうちは闇の中で孤独感に苦しみ、地獄の思いを味わったのかも知れない。が、しばらく経つと変わってきた。生き生きとしてきたのである。暗闇の中の方が居心地がいいらしい。みるみる山陽の様子が変わってきたので、しづ子は喜んだ。
 「久太郎さん、だんだん元気が出てきましたね」というと、山陽は大きくうなずいた。
 「私はこういうところが性に合っているようです。お母さんは本当にいい場所を造ってくださいました」
 皮肉でも何でもなく、山陽はそういった。そしてその頃の山陽は、密かに母親を尊敬しはじめていた。つまり、母のしづ子ほど自分のことをよく知ってくれている存在はこの世にいない、と思ったのだ。息子の苦しみを自分の苦しみとして考えるからこそ、こんな座敷牢に閉じ込めるという破天荒なことをしたのだ。しかし、それは決して憎しみではない。むしろ愛情の裏返しだということを、座敷牢の中で山陽は悟った。
 しつ子は食事の世話や洗い物の世話をしながら時折いった。
 「そうしながら、あなたという存在がどういうものなのか、世の中とのかかわりを全く断たれた時に、一体あなたの生き甲斐というのは何なのか、ということをお考えなさい」
 しづ子にいわれるまでもなく、山陽はそのことを一心に考え続けていた。やがてかれは、母親に、
「本を入れてください」というようになった。その本も、歴史の本が多かった。やがて、
「紙と筆をください」というようになった。少しずつ何かを書きはじめた。
「何を書いているのですか?」
 しづ子が聞くと、山陽は、
「日本外史と名付けた歴史の本を書いています」と答えた。
「社会と人間のかかわりを考えるために、日本の歴史をもう一度整理し直そうと思います。私のためだけでなく、もし誰か読んでくれるのならば、そういう読み手の人々にも何か役に立てばいいと思っています」
 この言葉を聞いて、しづ子は目を輝かせた。それこそ、しづ子が望んでいたことだ。自分のことしか考えない自閉症の次元から、この息子は立派に他人とのかかわりを考え出している、社会とのかかわりを考え出している、と嬉しかった。
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■日本近代化に大きく貢献した適塾の人材

<本文から>
 適塾からは多くの人材が出た。彼の門下は三千人といわれたが、中でも、長与専斎、橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、佐野常民、高松凌雲、箕作秋坪などは有名だ。長与専斎は、肥前大村の出身だが、日本の近代医学の発展に力を尽くし、後に東京医学校の校長になる。橋本左内は越前出身で一般には志士としてのイメージが強いが、彼の本業は医者である。同時に越前藩の藩校の学長を務め、学制改革に力を尽くした。大村益次郎は日本国軍の創設者だ。福沢諭吉については、いうまでもない。彼の出身は中津(大分県)である。佐野常民は、佐賀出身の人物で、後に日本赤十字社の創始者になる。高松凌雲は、幕府の医官だった。幕府が倒壊した後、榎本武揚と一緒に箱館に行って戦い抜く変わった医者だ。しかし、明治維新後は政府の医学奨励に協力し、後に医療奉仕機関の同愛社を作る。箕作秋坪はいうまでもなく有名なオランダ学者だ。息子の元入は、東大の教授になり、西洋史の権威として鳴らした。
 このように、緒方洪庵の適塾から出た人々は、それぞれ多方面に生きる場を求めたが、共通していえることは、明治以後の日本近代化に大きく貢献したということだろう。松下村塾で育った人材たちが、徳川幕府という古い家をぶち壊した後、更地になった日本に新しい家を建築する過程で、適塾の門人たちが大いに活躍したといえるのではなかろうか。
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■適塾は学生の自立性と自尊心にまかせた勉強

<本文から>
 諭吉の書いたものを基に、この頃の適塾での洪庵の教育方法を見てみよう。洪庵の教育方法は、吉田松陰とは全く対照的だということは前に書いた。それはあくまでも、「学生一人ひとりが自立性と自尊心を持ってそれぞれ勉学せよ」というものだ。そして、「必要最小限の原書や辞典は用意する」といった。
 学生たちは、毎月「会読」を開いた。だいたい月に六回ぐらい開いたらしい。これは、テキストを決めておいて、こもごも勉学する。しかしテキストはすべて原書だ。したがって、字引が必要になる。しかし、この字引は、塾に一部しかない。そのため、誰が最初にこの字引を使うかということをくじ引きで決めた。それは、別に先輩後輩の別はなかった。会読は、特に新しく入ってきた塾生のいわば一種のテストだったから、古参だけが率先して字引を使うことはなかった。そして、厳しいのは、新しく入った塾生たちが原書を読んでわからないことがあっても、絶対に先輩には聞けないということだ。
 「聞くことは恥ずかしい」という気風が濡っていた。そのため、正しかろうと間違っていようと、新しい塾生は自分なりの勉強と解釈で、むずかしい横文字を理解しなければならなかったのである。会読の日がやって来る。会読は原書の何ページから何ページまでを誰、次のページからどこまでを誰と決めている。そして書かれていることを日本語に訳し、意味はこれこれだと説明する。先輩がその解釈が正しいか正しくないかを判定する。そして正しければ脇に白い玉を置き、間違っている時は黒い玉を置く。正しいか正しくないかの判定が、この白黒の玉によってみんなにわかるようにするのだ。
 同時にまた、この会読で何回も優秀な成績をとると、一クラス上位に昇格する。大体、クラスの階級は八つぐらいあったらしい。一級から八級までというようなことだろう。上位にあがった頃は、そういう苦労をして勉強した結果だから、原書もほとんど読み尽くしているし、字引を引かなくても、書いてあることがわかるまでに学問が進む。諭吉が塾長に推されたのは、この辺の学問の進み方がかなり目ざましかったからのようである。こういう連中はさらに上昇を望む。相談して、「ひとつ先生にご講義を願おうではないか」ということになる。
 こうなってはじめて、洪庵は、「よし、わかった。講義をしよう」と出てくる。そして、清々と講義をする。今まで後輩の会読で、自分が山の頂に達していると自惚れていた連中は、ペシャンコになる。福沢諭吉なども正直に、
 「先生にはとてもかなわない。今日の講義のすばらしかったことは言葉に尽くせない」と正直に後で語り合っている。
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■適塾は王侯貴人を見下せるはどの高い気概を持てと指導

<本文から>
 緒方洪庵は、常々学生にいっていた。
 「適塾は、その名のように、学んでいる君たちが、己に潜んでいる能力を開発する場だ。互いに切磋琢磨しあって、磨き合う場だ。だからこの塾は就職の世話はしない。そういう場ではない。学問を修めて、幕府や大名家にコネを求める場だと思ったら大間違いだ。私はそんな世話はしない。あくまでも君たちの自立の精神によって、自分の内部に潜んでいる能力に磨きをかける場だ。君たちは原石だ。宝石になるための場だ。その宝石をどう売るかなどということは私は考えない」
 今の時代に照らし合わせてみると、相当に厳しい言葉だ。就職の世話は一切しないというのである。しかし、塾生たちはそれで満足していた。つまり彼らも、
 「西洋日進の書を読むことは、日本国中の誰もができるということではない。我々に限ってこれができる。貧乏して苦しんでも、粗衣粗食、見る影もない貧乏書生でありながら、しかし知力思想の活発高尚なることは、王侯貴人も及ばない。王侯貴人を逆に眼下に見下せるだけの気概を我々は持っている。だから、テキストもむずかしければむずかしいほど勉強のし甲斐があるのだ」といい合っていた。同時に、
 「学問を修める目的が、始終我身の行き先ばかり考えていたのでは修行などできない。だからといってただぼんやりと本ばかり見ているのは最もよろしくない。しかし、自分の身の行末ばかり考えて、どうすれば立身できるだろうか、どうすれば金が入るだろうか、どうすれば立派な家に住むことができるだろうか、うまいものが食えるだろうか、いい着物が着られるだろうか、そんなことばかり考えてあくせく勉強するということでは、決して真の勉強はできない」
 そういうことを本気で語り合っていた。負け惜しみでも何でもない。だから彼らは、江戸の学生たちを馬鹿にしていた。
 「江戸の学生たちは、真の勉強をしていない。就職のための手段として学問を修めている。堕落している。我々は違う。大坂の適塾に学ぶ者は、決してそんな卑しい気持ちは持たない。学問に対する志は、はるかに我々の方が上だ」
 今では到底考えられないような学問に対する高い気概である。福沢諭吉もその中にいた。
 こういう考え方だから、よく学ぶだけでなく、またよく遊んだ。彼等の日々の生活は、相当に無茶苦茶である。大体が、服装がだらしない。また整理整頓をしない。同時にまた頗を洗う洗面器で、物を煮たり焼いたりする。したがって顔を洗う時は魚や動物の肉の油が浮いて水が汚れる。同時に臭う。しかし塾生たちは平気だった。彼等が好んで遊びに行ったのは、道頓堀や、難波橋の近くである。難波橋の近くには、牛鍋屋があった。
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■医業と教育を続けながらの孤独な学究生活の緒方洪庵

<本文から>
 緒方洪庵の適塾における教育方針は、いってみれば放任主義である。しかし、完全に塾生を思いのままに生きさせたのではなく、肝腎庖ところでははっきりけじめをつけていた。鵜匠のようなもので、縄をつけた鵜に、勝手に鮎を捕らせたということだ。鵜飼の場合は鵜が捕った鮎を、鵜匠が自分のものにしてしまうが、緒方洪庵はそんなことはしなかった。「自分で捕ってきた鮎は、自分の思いのままにしてもいい」と鵜にいった。
 洪庵は、絶対に門人を叱ったことがなかったという。彼は後に幕府に召し出されて、幕府が作った西洋医学所の頭取を命ぜられた。同時に将軍の侍医も兼務させられた。洪庵は抵抗せずにこの職を受けた。そういうポストに就きながらも、コレラや天然痘防止に努力した。種痘を行う施設も建てた。彼は生涯実際に医業に携りながらも、自己の研究を深めていった。その意味では、弟子たちのはるかに遠く及ばない場で、孤独な学究生活を続けていた人物である。
 しかし、大坂の商人術で暮らし続けた彼に、江戸の空気は合わなかった。江戸に召されて十カ月後の文久三年(一八六三)六月、喀血して死んだ。まだ五十四歳である。一部の遺骨は大坂に持ち帰られた。東寺町の竜海寺に葬られた。お医者さんの墓が多い寺である。そのため、一名「蘭学の寺」とも呼ばれている。面白いのは、洪庵の墓の向かって右手に、大村益次郎の足の一部が埋められていることだ。益次郎が暗殺者に襲われて、右足を切断したので、遺言によってその切った足を洪庵の墓の脇に埋めたのである。
 「死んだ後も、洪庵先生の傍にいたい」という大村の切なる願いであった。
 洪庵の適塾は、最初に書いたように、今も保存されている。まわりがビルばかりで、まるで石の林の中にポツンと立ち残ったような恰好だが、それだけにこの塾の保存は意義が大きい。洪庵の書斎や、屋根裏の天井板のない三十畳ばかりの大きな部屋、弟子たちがひしめいて一冊の『ヅーフ・ハルマ』という字引を奪い合った「ヅーフ部屋」なども全部保存されている。
 この部屋に立つと、日本の近代化に早くした若き英才たちが、この狭い部屋にひしめいていた光景がありありと浮かんでくる。
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■大塩平八郎の幼少のエピソード

<本文から>
 現在でも、師や指導者の中には、民主的だといって、若い教え子たちの顔色をうかがったり、その意を迎えようとして汲々としている人がいる。しかし、これは間違いだ。本当のことをいえば、表面はどうであろうと、若い人たちの中には、真剣に勉強し、そして師や指導者から、正しい叱られ方をしたいと願っている者もいる。叱ることがすべて、若者の心を傷つけるわけではない。その点、今の一部の指導者は臆病になっている。若者に対して、
 「君たちの気持ちはよくわかる」などといいながら、ただいたずらに、″いい人だ″といわれることを期待するのは誤りである。若い人たちは案外そういう指導者を腹の中では馬鹿にしている。
 (この人は、軽薄だ。自分たちが求めているものをひとつも教えてくれない。時には叱ってでもいいから、正しいことを教えてほしい)と考えている。
 指導者の中には、若者たちが講義中によくおしゃべりをしているのを怒る人がいる。
 「黙って、私の話を聞きなさい」という。が、今の若者はマルチ人間だから、何か別なことをしていても、人の話はちゃんと聞いている。大体、耳に残らないようなことをしゃべり続ける方が悪いのだ。
 大塩平八郎は、この辺のことをわきまえていた。かれは、
「俺の学説は、他人とは違う。厳しい。それには、教え方も厳しくしなければならない。真の学問は、恐怖心を与えることによって、弟子に正確に伝わる」と考えていた。
 大塩の考えは、
 「自分は、自身に対して厳しい。したがって、他人に対しても厳しくする」ということである。こういう厳しい性格になったのは、かれの生い立ちが大きく影響している。
 こんな話がある。かれが八歳か九歳の時に、同じ天満与力の子供たちと、天満橋のそばで遊んでいた。この時付近で火事が起こった。その騒ぎの中で、子供の大塩平八郎だけが悠然と立っていた。かれは持ち前のきかん気を顔一杯に破らせながら、右往左往する市民たちを睨みつけていた。
 「火事ぐらいで、何をこんなに騒ぐのだ?」という表情をしていた。これを見た代官所の役人が、
 「まごまごしていると、あの子供は踏み潰されてしまう」と考え、いきなり走り寄ると、抱きかかえるようにして、安全な場所に平八郎を移した。ところが、平八郎は代官所の役人を睨みつけただけで、礼もいわなかった。かれは、こういう扱いをされたことに腹を立てた。逃げるのなら、自分一人でも逃げられる。それを、代官所の役人が、何を余計なことをするのだ、と腹を立てたのである。
 その夜、口惜しくてたまらないかれは、夜中になると代官所に行った。そして代官所前に掲げられていた提灯を、棒の先でメチヤメチヤに破って鬱憤を晴らした。戻って来て、祖父母に、
 「これで、昼間の仇を討ちました」と告げた。祖父母は顔を見合わせた。さぞかし、
 (こんなに痛が強くて、成人したら一体どういう人間になるのだろうか)と憂えたに違いない」
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■松下村塾、初期の門人たちの不運な末路

<本文から>
 最初、松陰の門人として松下村塾に入門したのは、増野徳民、吉田栄太郎、松浦松洞の三人だ。徳民は、周防山代の医者の子だ。吉田栄太郎は、村塾のすぐ近くに住む足軽の子だった。松浦松洞はやはり同じ松本村の魚屋の息子である。三人が村塾に入ったのは安政三年の秋から暮れにかけてのことだ。増野徳民は十五歳、吉田栄太郎は十六歳、そして松浦松洞が二十歳だった。この時、師の松陰は二十七歳である。吉田栄太郎と松浦松洞は、家が近いから通って来た。しかし、増野徳民だけは遠いので、内弟子になった。入門の動機はそれぞれ違う。徳民の家は医者だから、彼は将来医者になるために、漢学を身につけなければいけないと思って入門した。栄太郎は、はじめから国事に役立つ人間になりたいという考えを持っていた。変わっていたのは松洞だ。彼は画家を志していた。それがなぜ松下村塾に入ったのかといえば、絵の先生からこんなことをいわれたからだ。
 「絵の中には詩がある。そして詩の中には絵がある。このふたつは別なものではない」
 松洞には何のことだかわからなかった。非常に悩んだ。江戸で修行していたのだが萩に戻って来た。そして、家の近くで松陰が塾をはじめたのを知るとやって来た。
 「詩を教えてください」と頼んだ。
 「何のために詩を習う?」
 松陰は聞いた。もともと、松陰は詩があまり好きではない。彼は「詩は、言葉での遊びで、人間向上の役に立たない」と考えていた。そのため、松陰自身もあまり詩の素養がなかった。
 松洞は、絵の先生からいわれたことを松陰に話した。松陰は考え込んだ。はじめは頭から断ろうと思った。しかし考えてみると、自分は詩が不得意だ。不得意だから断ったというのでは人間として間違っている。まして、人にものを教えるのに、自分が不得意だから弟子入りを断るというのは、卑怯なふるまいになる。松陰は(自分も詩を勉強しよう)と決意した。が、こう聞いた。
 「君は絵を描くことを目標にしているというが、一体、誰のために、何のために、そして何を描きたいのだ?」
 この問いに松洞はつまった。そこで松洞はいった。
 「それを先生が教えてください」
 松陰はニッコリ笑った。領いた。
 「では一緒に勉強しよう。実をいえば、僕は詩が不得意だ。君と一緒に詩の中にある絵を探ろう。しかし、同じ絵を描くにしても、見る人が君の絵から感動を得て、人のため、国のために何かしようという気持ちを起こさせなければ駄目だ」
 松洞の目が輝いた。もやもやしていた心の霧が替れたような気がした。弟子の松洞に触発されて、改めて詩を勉強しはじめた松陰は悟った。
 「人を感動させるのが豪傑の詩だ。ことばの遊びでひとりよがりになっている詩は俗物の詩だ」
 このことを松洞に教えた。そして助言した。
 「絵を描くのなら、花や風月などではなく、人物を描いた方がいい。その人物も義人がいい」
 松陰が最初のモデルに選んだのが、月性というお坊さんだった。月性は周防遠崎のある寺の住職で、当時勤皇僧とか海防僧とか呼ばれていた。「男児志を立てて郷関を出づ…」という有名な詩は、月性が作ったものだ。松洞はこの忠告に従って、月性をモデルに描く。
 しかし、次第に過激化する師の松陰の影響を受けて、絵と政治の狭間に落ち込んで神経を痛めてしまう。結果、彼は自殺する。芸術か政治かの二者択一の谷間で、若い純粋な魂は耐えられなくなったのだ。自殺した時彼は二十六歳であった。
 増野徳民も、松陰についていけなくなって、医者の世界に戻る。そして、明治になって三十六歳で死ぬ。しかし、村塾で学んだ後輩たちの行動を見るにつけ、深い挫折感が彼を襲い続けていた。
 そこへいくと吉田栄太郎は違った。栄太郎の方は、はじめから松陰の志を自分の志としていた。彼は入門する時、松陰から韓退之の文章を読まされた。栄太郎はスラスラと読んだ。しかしすぐ文句をいった。
「私はこんな文章を学ぶために先生の弟子になるのではありません」
 眼をまるくした松陰は、今度は孟子のある箇所を読ませた。それは、百里実という男が、仕える主人が愚物なので、こんな主人には諌言をしても無駄だと他国へ去ったことを捉えて、彼は聖賢だと記されている箇所だった。しかし、読み終わった栄太郎は、百里実にも文句をいった。
「主人を諌めもせず、死にもしないで他国へ逃げ去った男のどこが聖賢なのですか?」
 これを聞いて、松陰は胸の中にいいようのないよろこびを湧かせた。(この少年は、自分の分身だ)と思ったからだ。以後、松陰の栄太郎に対する期待は日を追うて強まる。が、長州藩の身分差別はひどく、足軽の栄太郎はしばしばその犠牲になった。松陰の教えを守り、松陰のために尽くしても、そのたびに彼は迫害された。栄太郎は後に稔麿と名乗り、「藩内の被差別民を解放すべきだ。そして藩の軍事力に組み込むべきだ」という意見書を出す。が栄太郎自身は、元治元年の池田屋事変の時に、過激派の志士の中にいて、新撰組に殺されてしまう。こういうように、松下村塾の初期の門人は、それぞれ苦悩に満ちた塾生活を送った。
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