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<本文から>
「山間の小蒲大野藩が、洋学校を開いた」
ときいて日本各地の大名家から、「うちの若者を入学させてもらえまいか」という希望が殺到した。利忠は認めた。そのため、全国各地から集まってきた留学生は、実に五十名を超えたという。佐賀藩、高松藩、宇和島藩など四国や九州の大名家の武士が多かった。これらの藩は、当時積極的に海外との交流を考えていたからだ。
利忠が洋学館を造ったのは、自分の藩の武士たちが、やがては藩を富ませるであろう北方交易の知識と技術を身に着ける準備であったことはいうまでもない。
利忠は、
「我が大野藩は、山間の小藩ではあるが、一日も早く海へ乗り出したい。北方を目標とし、交易を行い、さらに蝦夷地を開拓して、幕府の許可を得、蝦夷方面に領土を新しく設けたい」
と主張していた。
これは単に、大野藩の財政難を救うだけではなく、かれはすでに、北方問題を真剣に考えていたのである。
こういう藩主利忠の志の下に集まって支えたのが、家老の内山良休や隆佐兄弟、吉田拙蔵、早川弥五左衛門、西川寸四郎などであった。かれらは積極的に、明倫館や洋学館の経営に携わると同時に、利忠の究極の目的である北方開拓の問題にも、自ら蝦夷地に乗り込んで、調査し、開拓の計画を立てた。
しかし、徳川幕府は必ずしも大野藩のこういう計画を快く思わなかった。
利忠にすれば、日本の国防問題と、国際交流のために、率先して蝦夷地開拓を希望したのだったが、幕府側では、屈折した応じ方をした。
「大野藩は、口ではうまいことをいっているが、実は自分の藩の利益拡大を因って、あんなことをいっているのだろう」という了見の狭い対応をした。そのため、はかばかしい許可を与えなかった。
そこで、利忠はいよいよ「藩商会」としての「大野屋」 の開店と、洋式帆船「大野丸」 の建造に乗り出した。
先に開設された大野屋は、いってみれば殖産興業政策や専売業務を行う国産会所である。いわば、大野藩経営の商社であった。
最初に開店したのが、大坂の大野屋である。たばこ、生糸、麻、漆などを扱った。すべて、大野藩の産品だ。また、鋼、金、銀を売った。これは巨大な利益をもたらした。 |
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