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<本文から>
「いいか、氏郷」
そういって話をつづけた。
「天下取りであらせられる信長さまは、商人、特に行商人からおまえに話したようなことを学んでも、それはそのまま役に立つ。しかし、常に汲の上の木の葉のように揺れ動くわれわれは、きれいごとだけでは済まない。いわば、信長さまは行商人から美しいことだけを学んでいる。しかし、おれたちはそうはいかない。この日野の里で、おれと、おまえの父親が、どれほど商人を優遇してきたかおまえもよく知っているはずだ。が、その商人たちがおれたちに対してどういうことをしたか。決して、信長さまのいう美しいことだけではないぞ。商人たちは時におれたちを騙す。それも、悪辣な騙しようをする。あいつらはずるい。いいか、氏郷、おれが、商人たちから学ぶのは、信長さまのいうような実しいことではなく、逆にずるさと醜さだ。このことをしっかりと腹にすえておけ。商人に騙されてはならん。戦国大名として生きぬくためには、決して商人のずるさに騙されてはならんのだ。おまえが学ぶべきは、むしろ商人の美しさではなく、ずるさだ。信長さまに騙されてはならない」
「……」
氏郷は唖然としていた。なかばロをあけて祖父の顔を凝視していた。
(なんという酷いことを!)
胸の中で、しきりに抗議の声が騒いだ。しかし、それはロに出せなかった。というのは、氏郷は、祖父がいっていることも、決して荒唐無稽なことだとは思わなかったからである。かれは、子供の噴から、祖父と父が保護してきた日野の里の商人の実態を知っていた。この里で商いを営む商人たちは、たしかに、美しさよりもずるさを全面に出した。そうしなければ生きていけなかったからである。祖父の語ることは、決して事実を歪めているのではない。
(が、それだけでいいのだろうか?)
氏郷は考えた。たしかに商人にずるさがあることは事実だ。が、祖父のいっていることはいままでの商人のあり方であって、信長さまのいっているのは、これからの商人のありようだ。祖父は間違っていると思った。しかしそれをロにすれば、祖父は怒るだろう。
祖父や父が、冬姫を、必ずしも歓迎しないのは、そういうずるさに満ちた商人から学んだ原則が二人を支配しているのではないかが
美しさと醜さとは、楯の両面である。表と裏だ。信長さまは表を語り、祖父は裏を語っている。が、どちらを選ぶかは別な問題だ。おれはどちらを選ぶのか?そう考えて氏郷は心を決めた。
(美しさを選ぼう。信長さまのいう商人のいいところを学ぼう)
それは信長が、商人をたんに支配者を富ませる税の負担者として扱うのではなく、もっと人間的な扱いをしていたからだ。かれらの創造性や自主性を重んじ、人間として生きていく様を信長は見ていてよろこんでいた。武士でなくても、そういうような営みができることを信長は信長なりに評価していた。信長は幅の広い人間だった。器量の大きい人間である。
(祖父は間違っている)
と思った。祖父のこだわる商人たちのずるさや、古さは、信長さまの主張する新しさや、知恵によって粉々に打ち砕かれるだろうと思った。その時は、祖父や父も、日野の里の商人の古さにしがみついているわけにはいかなくなる。必ずその日がくると少年の氏郷は思った。 |
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