童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説蒲生氏郷

■氏郷は信長の商人の扱いに習う

<本文から>
  「いいか、氏郷」
 そういって話をつづけた。
 「天下取りであらせられる信長さまは、商人、特に行商人からおまえに話したようなことを学んでも、それはそのまま役に立つ。しかし、常に汲の上の木の葉のように揺れ動くわれわれは、きれいごとだけでは済まない。いわば、信長さまは行商人から美しいことだけを学んでいる。しかし、おれたちはそうはいかない。この日野の里で、おれと、おまえの父親が、どれほど商人を優遇してきたかおまえもよく知っているはずだ。が、その商人たちがおれたちに対してどういうことをしたか。決して、信長さまのいう美しいことだけではないぞ。商人たちは時におれたちを騙す。それも、悪辣な騙しようをする。あいつらはずるい。いいか、氏郷、おれが、商人たちから学ぶのは、信長さまのいうような実しいことではなく、逆にずるさと醜さだ。このことをしっかりと腹にすえておけ。商人に騙されてはならん。戦国大名として生きぬくためには、決して商人のずるさに騙されてはならんのだ。おまえが学ぶべきは、むしろ商人の美しさではなく、ずるさだ。信長さまに騙されてはならない」
 「……」
 氏郷は唖然としていた。なかばロをあけて祖父の顔を凝視していた。
 (なんという酷いことを!)
 胸の中で、しきりに抗議の声が騒いだ。しかし、それはロに出せなかった。というのは、氏郷は、祖父がいっていることも、決して荒唐無稽なことだとは思わなかったからである。かれは、子供の噴から、祖父と父が保護してきた日野の里の商人の実態を知っていた。この里で商いを営む商人たちは、たしかに、美しさよりもずるさを全面に出した。そうしなければ生きていけなかったからである。祖父の語ることは、決して事実を歪めているのではない。
 (が、それだけでいいのだろうか?)
 氏郷は考えた。たしかに商人にずるさがあることは事実だ。が、祖父のいっていることはいままでの商人のあり方であって、信長さまのいっているのは、これからの商人のありようだ。祖父は間違っていると思った。しかしそれをロにすれば、祖父は怒るだろう。
 祖父や父が、冬姫を、必ずしも歓迎しないのは、そういうずるさに満ちた商人から学んだ原則が二人を支配しているのではないかが
 美しさと醜さとは、楯の両面である。表と裏だ。信長さまは表を語り、祖父は裏を語っている。が、どちらを選ぶかは別な問題だ。おれはどちらを選ぶのか?そう考えて氏郷は心を決めた。
 (美しさを選ぼう。信長さまのいう商人のいいところを学ぼう)
 それは信長が、商人をたんに支配者を富ませる税の負担者として扱うのではなく、もっと人間的な扱いをしていたからだ。かれらの創造性や自主性を重んじ、人間として生きていく様を信長は見ていてよろこんでいた。武士でなくても、そういうような営みができることを信長は信長なりに評価していた。信長は幅の広い人間だった。器量の大きい人間である。
 (祖父は間違っている)
 と思った。祖父のこだわる商人たちのずるさや、古さは、信長さまの主張する新しさや、知恵によって粉々に打ち砕かれるだろうと思った。その時は、祖父や父も、日野の里の商人の古さにしがみついているわけにはいかなくなる。必ずその日がくると少年の氏郷は思った。

■秀吉は時間の常識を打ち破って勝利

<本文から>
 信長による桶狭間の奇襲などは、敵の意表に出て、その弱点に味方の兵力を敢然集中する戦法だ。
 秀吉は信長に学ぶところが大きい。が、このところの中国の諸城、三木城の掛し殺し、鳥取城の飢え殺し、高松城の水攻めで見せた大規模な土木工事的攻城戦は、かつて日本の将のだれもが考え出せなかった独創の片鱗をあらわにした。そして山崎の合戦に至る中国地方からの大転戦は、一気に多くの諸将の意識を一変させてしまった。
 合戦の勝敗を決する最も重大な要素は、ほかでもない、
 「時間である」
 ということを、光秀との戦いで秀吉は万人の胸に鮮やかに印象づけて見せたのだ。
 それまで、だれ一人として時間の常識にしばられ、二時間は二時間、一日は一日、五日は五日というように、一様に同じ思考の上に立って物事を考えてきた。
 秀吉が高松城から兵を返すには、どう急いでも十日はかかる。いや、毛利方に対する処置を考えれば半月以上はくぎづけになるはずである。だれもがそう思う。そして、すべての考えがそれを前提として構築されていく。
 明智光秀にしても、柴田勝家にしても、そして蒲生父子も、
 「時間の常識を打ち破る」
 ということの、いかに勝敗を決する重要事項であるか、ということに気づいてはいなかった。
 ところが秀吉という男ただ一人が、一刻一秒の時の流れと競い、これを追い越すかのように、時間の常識にしばられている人々の頭をかすめとんで、本来、絶対にその地には存在し得ない時間に、忽然と全軍兵を集結させてしまっていたので凍る。
 いや、秀吉はこの一事に自分の考えられるだけのすべてを掛け、他を犠牲にして顧みなかったのだ。これは、氏郷に、いまでも繰り返し身体中を震撼させるだけの衛撃を与えた。そして、同時に、その一事のお除で、自分はまだこの世にいる、という思いを痛切に味わわせられた。
 あの時、柴田勝家は、この一事を腰の片隅にすら、想い浮かべなかっただろう。だからゆっくりと進軍した。そして「時間」を失った。勝家はいってみれば秀吉に負けたのではなく、時間に敗れたのだ。

■氏郷は部下に対して給与と情が車の両輪を使う

<本文から>
 「かれの本領は、部下に対する基本的な考え方にあると思う」
 「基本的な考え方とは?」
 聞き返す家康に、秀吉はこう答えた。
 それは、氏郷がいつもロにすることだが、部下に対しては、給与と情が車の両輪だということだ。どっちが欠けても駄目だ、ということをかれはよくいっている。情一辺倒では部下が増長するし、また情だけで、給与を与えなければ、不満に思う者も出てくる、この二つの輪をうまく使いこなすことが、人使いに一番大事なことだ、ということです」
 「給与と情は車の両輪−なるほど、うまいことをいいますな」。

■氏郷は利家と家康の見方を見誤る

<本文から>
 「もし、太閤殿下にもしものことがおありになったときは、秀次さまの家臣になりますか?」
 氏郷は、笑ってこう答えた。
 「だれが、あんな愚か者の部下になるものか」
 部下は、この答えを聞いて、
 「それでは、次に天下の主となるのはどなたでしょうか?」
 氏郷は答えた。
 「まず前田利家だ」
 「もし、前田さまが天下の主にならないときは、どなたさまがおなりでしょうか?徳川家康さまでしょうか?」
 部下もなかなかしつこい。氏郷は、笑いながらいった。
「前田殿がならないときは、このおれがなる。徳川殿は、部下に給与をケチっていて、あんな器量では、とうてい天下の主にはなれない」
 それなりに蒲生氏郷の、他の大名に対する見方が現れている。しかし、徳川家康と前田利家に対する見方は、完全に誤っていた。こういう誤算が、蒲生氏郷にとってのその後を、悲劇的なものにしたのかもしれない。蒲生氏郷は、少し自信が強すぎた。蒲生日野の六万石から、伊勢松坂十二万石になり、やがて会津黒川四十二万石になったあと、さらに九十二万右の大大名にまで立身すれば、多少そういう驕りが出てくるのかもしれない。向かうところ敵なしという気概が吹き上がり、
(やがては、天下そのものも取れるかもしれない)
 と思いはじめたのだ。それはなによりもかれが、
 (おれは信長公の婿だ)
 と思っていたからである。

■怯弱なわが子への思い

<本文から>
 氏郷に対する太閤秀吉の愛惜の念もあるにせよ、次代秀行による蒲生家は自分の力のみでは威令をおよぼしえない、「太閤取立て」の権威によってのみかろうじて成り立ちうる大名と化していくのである。
 そしてさらに、三年後に、蒲生家家臣団の内紛(蒲生四郎兵衛と蒲生左文郷可らの対立)を収められぬことを理由に、秀行は宇都宮十二万石に転封されてしまう。
 だが、そうした行く末は、いまの氏郷にはわかりようはずもない。しかしながら、自分の身体の内部を蝕みつつある病魔と、怯弱なわが子の質を想えば、聡明、深慮の氏郷の心には、自ずと闇莫たる気持が湧いた。
 氏郷は、仁右衛門の隣に端座している仁五郎に向かっていった。
 「おまえが武家の家に生まれた看であったら、おれの手元に置いて戦さの駆け引き、人の扱いを教えてみたいが、おまえの父の話から推しておまえを決して手放しはすまい。だが、これだけはいっておこう。信長さまがおまえと同じ十三歳の時のおれにいった言葉だ。それはな、いつの世にあっても、人を衝き動かすものは時代の空気だ、これを他に先んじて感受できる者のみが、天下に静をとなえうる、ということだ。天下に覇をとなえるとは、なにも武人のごとく武力や権力を行使できる、ということだけではない。おまえの父のように、商いで立つ者たちにとっては、その人と、商法と、家が万人に認められるということだ。おまえも、いまよりあと、この言葉を忘れるな。また、おれがいまひとことつけ加えるとすれば、これから以後、武力がものをいう時代は終息に向かい、その次にくるものは、治国太平の世だ。そうなれば、国を富ませるのは、おまえたち商人の力に負うところが大きくなる。常に世の流れを見きわめ、人の心の底にある欲望というものを、じっと見詰めていかねばならないぞ。人間の欲望は、本能に根ぎした醜いものもあれやそればかりではなく、心をなぐさめ、精神を高めようとする限りない額望もある。心のなぐさめや美しさといったものは、なにも公家や権力者や富んだ者のみがこれを求めるのではない。一介の庶民に至るまで、心の底にひそめているものだ。ただ、その日の糧を求める看たちにとっては、飢えを凌ぎ、寒さを防ぐことにいまは追われているだけのこと。それらが満たされたあとは、たとえ表れる形は違っても美しいもの、心のやすらぎをもたらせてくれるものに、無意識のうちに気が向いていくものだ。人の欲するものがなにかを絶えず読み取りつづけなければなら。ないおまえたち商人にとっても、この事は忘れてはならぬことだ。仁五郎、おれの言葉の意味がわかるか」
 鶴千代にでも語り聞かせるかのような氏郷の口調に、それまで瞳を据えてじっと氏郷を見詰めながら聴いていた仁五郎が、
 「はい。いま、お言葉のすべてがわかったわけではございませんが、これから折り折りに、父に教えてもらって、宰相さまのお教えをかみしめるようにいたします」

■氏郷は会津若松の町を開いた恩人

<本文から>
 やっと、会津の拠点に戻れたのは、翌文禄二年十一月二十四日であった。そして、前に書いたように翌三年正月には、すぐまた京都に向かった。なんともめまぐるしい移動であった。
 そういう意味からいえば、蒲生氏郷は、いまでも、
 「会津若松の町を開いた恩人」
 といわれているが、実際にかれが会津若松にいたのは、天正十八年から文禄四年のあしかけ六年である。
 しかも、実際に会津に滞在したのは、通算して、半年間にすぎない。
 が、その間に、かれは現在も、会津若松開拓の恩人といわれるほどの業績を上げたのである。落ち着いて、かれが会津で仕事をしたのは、天正十八年の秋と、文禄元年の春だけである。それも、城造り、町造りの構想を示すにとどまって、かれが自らその指揮を取ったわけではない。それにもかかわらず、かれがいまだに会津開発の恩人だといわれるのは、なんといっても、かれの優れた都市計画力と、また実際の都市造成力にあったといっていいだろう。
 西野仁右衛門父子と会ったあと、蒲生氏郷は会津若松を発って京都に行った。京都にいる豊臣秀吉が、蒲生氏郷を放さないのだ。おそらく、秀吉は不安なのだろう。侵略が必ずしも思うように進んでいない。朝鮮軍も強い。豊臣軍は、勝つ戦場もあったが、負ける戦場もあった。全体的に戦線は膠着状況にあった。それが秀吉を焦らせ、いたたまれない不安感を持たせる。
 そういう時の秀吉にとって、氏郷は精神安定剤になる。氏郷がそばにいるというだけで、心のやすらぎを覚える。そういう活用のされ方に、氏郷は別段異を唱えなかった。かれ自身も体力が非常に弱っていたからである。
 蒲生氏郷は、九州の名護屋城にいた頃から、次第に健康が思わしくなくなっていた。ときおりめまいがした。自分を支えるのに、冷や汗を流すような努力をつづけていたが、そのことは口に出さなかった。

■三成の讒言で蒲生家断絶は秀吉は決めていた

<本文から>
 二月七日、蒲生氏郷は死んだ。四十歳であった。
 辞世は、前にも触れたように、
 限りあれば 吹かねど花は散るものを
  心短き春の山凰
 とされた。かつて、京都で千利休と詠み合った歌である。
 氏郷が死んだあと、豊臣秀吉は相続人として、鶴千代を指名した。鶴千代は蒲生秀行と名を変え、会津若松城の城主となった。しかし、秀吉はまるまる秀行に氏郷の跡を継がせたのではなかった。次のような布告を発している。
 〇鶴千代を相続人とする。
 〇家康の息女を嫁づける。
 ○鶴千代は秀吉の東北における名代とする。
 〇台所のことは、氏郷が定めたとおりとし、なお、徳川家康、前田利家、前田玄以、浅野長吉らの指示に従うこと。
 〇城持、年寄らは、相続人である鶴千代に誓紙を出して忠誠を誓うこと。
 一見すると、秀吉は少年の秀行に、温かい保護策を講じたというように読める。
 が、実態は違った。ここで重要なのは、台所、すなわち経営のことについては、徳川家康ほか、三人の大名の指示に従えということだ。これは、見方を変えれば、蒲生氏郷の所領を秀吉が取り上げ、家康たちに合同経営させるということだ。その名代として、秀行を置いたということになる。結局、ていのいい所領没収であった。鶴千代改め秀行は、そう扱われていたのである。その証拠に、まもなく蒲生家には内紛が起こり、怒った秀吉は、秀行を宇都宮十二万石に、減封してしまう。そして、蒲生家はやがて滅びてしまう。
 その意味では、蒲生家断絶は、かなり前からの規定の路線であって、石田三成の讒言が、豊臣秀吉を動かし、秀吉は毒して蒲生氏郷を警戒していたといっていい。この警戒心は、徳川家康にも引き継がれ、ジワジワと氏郷の子、孫をいたぶって、結局は家そのものを潰したのだ。なぜ、警戒されたかといえば、やはり、いくら隠しても蒲生氏郷が持っていた、天下への野望を見ぬかれていたためだろう。秀吉も家康も、その点は敏感だった。氏郷は、生前、徳川家康とはかなり親しくいろいろな助言を受けているが、その助言が家康の本心からの友情に基づいていたのかどうか疑問だ。徳川家康は狸おやじだった。

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