童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説榎本武揚 二君に仕えた奇跡の人材

■榎本と黒田との維新美談

<本文から>
 永井と松岡も降伏を拒否した。しかし田島圭蔵はあきらめずに、
「それでは直接榎本武揚総裁と話したい。紹介してはもらえまいか」
と頼んだ。永井は榎本にこのことを話した。榎本は、
「それでは両者の中間地帯で会おう」
ということになった。選ばれた場所は千代ケ岱という所である。榎本はこの日も、
「新政府軍首脳部のご好意はよくわかるが、降伏はしない。最後まで戦う」
と告げた。しかしこの時かれは持ってきた一冊の本を田島に示した。
「これはわたしがオラソダに留学していた時から使っているオルトラソ先生の『海律全書』 です。新政府軍のしかるべき方に渡していただきたい。五稜郭が火にかかった時に、焼失させるのは惜しいからです。保存されれば、必ず日本海軍のお役に立つ本です」
 といった。田島圭蔵は感動した。普通の敵将ならそんなものは預けない。自分たちが滅びる時に一緒に焼いてしまうだろう。それを日本海軍のために引き渡すというのだから、
(この総裁ほなかなか器量が大きい)
と感じた。陣に戻って黒田にこの話をすると、黒田も感動した。
「敵にもなかなかな人物がいる。よし、その本はおれが預かろう」
とうなずいた。よく、『陸軍の長州』「海軍の薩摩』といわれる。黒田清隆はのちに陸軍中将になるが、しかし海軍方面についても知識が広い。
 黒田清隆ほ、折り返し酒を数樽と海産物のつまみを添えて五稜郭内に送った。
 「オルトラソの『海律全書』は確かにお預かりしました。大切にします。お礼です。一杯やってください」
という意味だ。そして、
 「戦闘に必要な武器弾薬の不足はありませんか? 不足なら届けます」
と申し添えた。もう、
 「降伏しなさい」
とはいわなかった。
 オランダで海軍の兵術をまなんだ榎本武揚は、まなんだのは外国の兵法だけではなかった。ヨーロッパの騎士道精神もまなび取っていた。だからこそかれは、最期の時にあたって、大切に保存してきたオルトラソの『海律全書』を敵軍に引き渡したのである。同時にこれを受け取った黒田清隆が、そのお礼に酒を数樽とつまみを添えて送ったというのは、日本に古くから伝わってきた武士道精神だ。
 この騎士道精神と武士道精神が宙で手を結んだ。酒を送られて榎本武揚も感動した。そしてはじめて、
 (敵将がそういう人物なら、降伏してもよい)
と考えはじめた。自分が責任をとって切腹さえすれば、その敵将は少なくとも他の将兵の生命は助けてくれるだろうと考えたからである。
 榎本武揚と黒田清隆のこのやり取りは、明治維新前後に行なわれた新政府軍と旧幕軍との戦争の中で、最も美しい花を咲かせた。黒田が酒数樽送ったことが榎本の心を和らげ、榎本はついに降伏した。明治二年五月十七日のことである。 

■オランダ留学への持論

<本文から>
ここで釜次郎は姿勢を正し、滔々と自分の考えをのべ始めた。持論を語るのだから楽だ。付け焼刃ではない。釜次郎は本心から思っていることを語り始めた。
.いまの政情と幕府の対応策は、かならずしも道が確立されたものではないこと。
・起こる事象に密着し、即時的な対応策に追われていること。
・ということは、この日本をどうするかという遠大な理想と計画が欠けていること。
・しかし、これには理由があることで、幕府のカがひじェうに弱まってきていること。その一番いい例が、この間の無位無官の島津久光ごときに、幕府の政治を引っかき回され、人事にも干渉されたこと。しかし、そこで決められたことはより幕府をしめつける枷になってしまったこと。
・幕府の力を強めるには、なんといっても海軍力を増強する必要があること。列強が頼みとする背景は、すべてそれぞれの国の海軍であること。だいたい日本が開国するきっかけになったペリーが連れてきたのも四隻の軍艦であったこと。あの四隻の船の前に、日本側は終始狼狽したこと。
・そこでいま徳川幕府にとってもっとも必要なのは、海軍力の増強以外ないこと。
・しかし日本が増強する海軍は、けっして商人の手先になってはならないこと。海軍軍人は武士道を持った武士の営むものでなけれはならないこと。それには、銭勘定をまず正面に出すアメリカやイギリスよりも、むしろかつて七つの海を制覇していたオラソダ国の海軍こそ日本の手本になること。
・現在の造船技術からいっても、オランダはもっともすぐれていること。同時に海軍軍人は、商人の手先になることなくきちんとした昔ながらの騎士道を備えていること。これはすでに長崎の海軍伝習所で実験ずみなこと。われわれはそこでまなび、オランダ海軍軍人からヨーロッパの正しい碕士道を教えられたこと。
 などを並べたてた。安藤信正はじっときいていた。途中で茶々を入れたり相槌を打つようなこともしなかった。釜次郎の顔もみない。釜次郎の肩のあたりに眼を据えて、ほとんど身じろぎもしないできいていた。釜次郎の話が終わると、
 「終わりか?」といった。
 「終わりです」
そう応ずると安藤はニコリと笑った。
 「榎本、おまえいくつだ?」
 「当年二十七歳です」
 「なかなか弁が達者だな」
 「いつも幕府海軍の増強を真剣に考えているからです」
 「よくわかった。頼もしい。みんなも同じ考えかフ」
安藤はそういって教授たちの顔を見まわした。教授たちもいっせいにうなずいた。
 「榎本と同じ考えです。ぜひ、われわれをオランダへいかせてください」
赤松大三郎がいった。安藤は大きくうなずいた。
 「わかった。一日も早くおまえたちが出発できるように計らおう」

■日本のナポレオンになろう

<本文から>
 榎本釜次郎はナポレオンの閉じ込められていた家の跡と墓をみた。ナポレオンの住んだ家と墓はロングウッドという地域にあった。釜次郎ほその家と墓をみると何ともいえない感動に襲われた。
(あの世界的な英雄がこの家に住み、そしてここで死んだのだ)
つづその思いはかれの胸に尽きることのない感動の泉を湧かせた。その感動をかれは次のような漢詩に綴った。
   長林煙雨鎖孤栖 末路英雄意転迷
   今日弔来人不見 覇王樹畔列王鳴
 書き出しの″長林″とは″ロングウッド″のことである。
 日頃から日本の海軍の振興のために努力したいと願う榎本釜次郎は、やはり、
 『武人』
の自覚があり、同時にそれは、
 『英雄』
という存在に対する崇拝の念があった。かれはナポレオンを専敬していた。たとえ敗れてこのセソトヘレナの一孤島で死んだといえ、その業績は世界史に冠たるものがあった。釜次郎は思う。
 「英雄が英雄になるためには、つねに三つの条件が必要だ。天の時、地の利、そして人の和だ。当初のナボレオソにはそれがあった。だから遠くロシアまで遠征した。が、地の利を知らず、ロシアの猛吹雪に襲われてロシアの軍隊に負けるよりも冬将軍に負けてナポレオンは敗退した。この時は、ナポレオンは天の時の恵みがなかった。そのため地の利を失い、人の和も失った。敗れたナポレオンは、やがてこの小さな島に流され、ここで死んだ。が、最期がそのように悲劇であったとしても、前半に確立したかれの業績はけっして失われるものではない」
 歴史的英雄にそういう評価を下す釜次郎は、この英雄の墓を前にして、
(おれもナポレオンのような英雄になりたい)
と思った。そのことはすぐ、
 「おれは日本に戻ったら、日本のナポレオンになろう。そのためには、ナポレオンに負けないような海軍振興の知識と技術を身につけなければならない。それをオランダにいったら貪埜に吸収してやろう」
  と考えたのである。

現場不在により純粋な精神を保てた

<本文から>
そして、この子供じみた志を精神的な支柱として保たせる原因は、
 『現場不在』
である。現場不在というのは、
 「その場にもし居合わせたら、多くの危機に見舞われ境遇がまったく変わっていたかもしれない」
といわれるような大事件に遭遇しないでそのまま過ごせた、という意味だ。
 たとえば勝海舟は安政の大獄前後の日本にいない。かれは成臨丸を操って遠くサソフラソシスコに出掛けていた。そのため安政の大獄が起こり、さらに大獄を推進した大老井伊直弼が桜田門外で殺された事件に遭遇していない。これは、
  「現場に居合わせなかった」
 というひとつの運命がかれに訪れていたことになる。安政の大獄やあるいは井伊大老の暗殺を、日のあたりにしたり実体験として味わった人間が感ずるであろう気持ちと、同時にまた自分自身に訪れるであろう処遇問題とから逃れ得たということは、その後の勝を大成させるひとつのカであったこといなは否めない。
 安政の大獄直前には、かれは長崎の海軍伝習所にいてこれもいわば江戸での『現場不在』を貫くことができた。しかし勝海舟は国外に出ることなく日本に滞在したために、その後徳川幕府の最後の局面を担当しなければならない立場に追い込まれる。つまり、大政奉還や王政復古の経験だ。
 この時榎本釜次郎は日本にいない。オランダにいた。そのため日本を出て以来の次々とめまぐるしく変わる国内の政情変化には、すべて立ち合っていない。このことが榎本釜次郎がセソトヘレナ島で志した、
 「おれは日本のナポレオンになる」
という考えを純粋に保たせたといっていいだろう。つまりセントヘレナ島におけるナポレオンの遺跡との出会いは、その後の釜次郎の、
 「日本のナポレオンになる」
 という志を純粋培養したのである。
 そしてその純粋培養された考え方がかれに徳川幕府の無傷だった海軍の艦隊を率いさせ、北海道に出向かせた上でいわゆる、
 『北海道共和国』
と呼ばれる一種の自治体建設を実現させるのだ。もちろん箱館に築かれた北海道共和国に過大な評価を与えるわけにはいかない。中には、
 「北海道軍事政府の役員をたまたま投票で選出したというだけではないか。民衆生活にはまったく閑わりがない。徳川幕府の敗残兵が寄り集まってつくった犬の遠吠的政府にすぎない」
という厳しい見方もある。これも榎本武揚が構築した北海道共和国の実態を裁くいい得ているといえるだろう。
 しかし榎本釜次郎ほどの知識人が、そういう夢を見続けたというのも、セントヘレナ島の経験が大きくものをいい、同時にその経験が日本の国情とまったく無関係なオランダの土地で、純粋に保たれていたからだ。
 榎本釜次郎は江戸っ子だ。江戸っ子の精神の神髄は、
 『粋』
にある。したがってかれがセソトヘレナ島で受けた感動はそのまま江戸っ子の粋な精神にも通じた。釜次郎はあるいはナボレオンに、
 『江戸っ子精神」
を感じ取ったのかもしれない。
 このことによって、榎本釜次郎は着物にちょんまげという異様な姿でオランダのロッテルダムに入っても、いささかも劣等感を感ずることはなかった。つまりかれほ″カルチャーショック″を、セソトヘレナ島の経験によって克服したのである。
 これが内田恒次郎他、釜次郎と行を共にした他の留学生たちの何とも理解できないことであった。
 「なぜ榎本は精神にあのような突然変異を起こしたのか」
という疑問はその後もずっとつきまとう。釜次郎は、しかし仲間に何と思われようと自分の気持ちに自信を持っていたから、いつもニコニコ薪でオランダ人に接触した。
 かつて長崎の海軍伝習所で榎本を教えたことのあるカッティソディーケやボンベたちは、
 「日本人留学生の中で、最も自信を持っているのが榎本釜次郎だ」
と話し合った。そして、
 「かれこそ徳川政府の海軍を背負って立つ人物になるだろう」
  と語り合った。

■福沢諭吉は黒田に助命

<本文から>
 福沢諭吉は、
「まず、わたくしがなぜ榎本武揚のことをお願いに来たか、榎本との関係をお話しします」
 と前置きした。福沢の話によると、
・榎本の実家と、福沢の実家とは縁続きであること。
・いま榎本の家族は、旧主人の徳川家が駿府(静岡県)に新しく領地をもらったので、そっちにいっていること。
・世話をしているのは、これも遠縁にあたる江連加賀守であること。江連は旧幕府で外国奉行をつとめていたこと。
・福沢自身は、江連の下で外国文書の翻訳をしていたために、江連とはかなり親しい仲であること。
・その江速から、入牢中の榎本が急病にかかったらしいので、榎本の母親がどうしても会いたいといっていること。
・その周旋を黒田に頼みたいこと。
 筋道を立てて、こんな話をした。黒田は感動した。
 自分の他にも、そこまで榎本武揚のことを考えている人々がいてくれたことに、胸を温めたのである。
 「母親から嘆願書を出してください」
 黒田はそういった。福沢はうなずいた。
 「出させましょう」
 「その時はあなたが母親の文章の添削をしてください」
 率直なもののいい方である。福沢は苦笑した。
 「黒田さん、あなたはおもしろい方ですね」
 「別におもしろくも何ともありませんが、わたしは榎本さんのことを心から心配しています。ですから、かれの役に立つことであれは、大学者先生のお知恵も遠慮なくお借りしたいと思うのです」
 「わかりました。あなたのような方がいてくださって、榎本も幸せです。母親の嘆願書には、わたしが入れ知恵しましょう」
 「ぜひお願いいたします。取り次ぎはわたしが責任を持っていたします」
 「お願いします」
 そういい終わっても、福沢ほなぜか帰ろうとしなかった。まだ他に用があるらしい。
 「他に?」
 薩摩人らしい剛直さを見せながら黒田は福沢を見た。福沢は懐から一枚の写真を取り出した。そしてテーブルの上に置いた。黒田は手にとって見てみた。外国人の男が、女装している写真だ。黒田は眉を寄せた。
 「何ですか、これは?」
 「アメリカの南軍の大統領です」
 「南軍の大統領? 女装しているこの男がですか?」
 「そうです」
 黒田は眉を寄せた。福沢が何でこんな写真を見せるのか、理由がわからなかったからである。福沢は説明した。
 「アメリカで南北戦争があったことはあなたもよくご存じです。南軍が負けました。南軍の大統領は、女装をして逃げのびたのです。しかし、わたしがいいたいのは、南軍の大統領が卑怯未練な男ではなかったということです。つまり、生きのびてアメリカ国家のために役立つのなら、女装もあえて辞さないというその精神は、日本にはないものです。かえって、そういう恥を忍ぶことのほうが、勇気ある武士の生き方なのではないでしょうか」
 「…・・・」
 黒田は無言で写真に見入っていた。そして福沢の言葉を胸の中でかみしめた。まだよくわからない。
 福沢は続けた。
 「南北戦争の後、勝った北軍は負けた南軍の首魁たちを戦争犯罪人として処刑をしておりません。つまり、戦争が終われば、互いに手を取り合って新国家建設につとめようという約定を結んだのです。南軍側も、しはらくの間しこりは残りましたが、しだいに軟化してこれに協力しました。いかがですか?」
 「つまり、あなたは榎本武揚を助けろとおっしゃるのですか」
 「そうです」
うなずいた福沢はこういった.
 「近く政府首脳部が大挙してアメリカやヨーロッパ各国へお出かけになるでしょう?」
 「その予定です」
 「あなたは?」
 「参りません。西郷先生を中心に、留守政府を守ります」
 「安心しました」
 一息ついた福沢は、
 「その前に、ぜひ榎本武揚を無罪放免してください。アメリカ政府も、榎本武揚の存在はよく知っています。使節団がアメリカにいった時、もし向こうの首脳部から、榎本をどうなさるおつもりか、ときかれた時に、死刑にする予定ですなどとこたえたら、笑われます。日本というのは、けっして近代国家ではない、あいかわらずの野蛮国だといわれましょう。榎本武揚を処刑してほなりません。日本のためにも、絶対にかれを助けるべきです」
 福沢はもともとは言論の人だ。弟子たちに、
「自分の考えは、街頭で演説をしてみてその反応で内容を確かめろ」
と告げ、同時に、
 「内容を告げるには、話法品工夫しろ」
と、演説の方法についてもいろいろと指導している男だ。だから、本人自身もひじ上うに話がうまい。

■西郷の一言で榎本が助命される

<本文から>
 大手町の牢獄内にいる榎本武揚の扱いは、なかなか決しなかった。廟堂の議論も紛糾した。とくに長州系の代表である木戸孝允が、
 「反逆老の首謀である榎本は絶対に首を切るべきだ」
 という主張を引っ込めない。黒田清隆は怒った。
 かれは、酒が好きだ。そして、やや酒乱の気味がある。酔った勢いでかれは、いきなり自分の髪を切り、くりくり坊主になった。そして、
「榎本の首を切るのなら、オレの首を切れ」
と、反対者の間をいきまいて歩き回った。この狂態に、政府首脳は眉をしかめた。しかし、黒田の、
「榎本を助命して、北海道開発の役に立てるべきだ」
という論は、それなりに一理あった。この点で、政府首脳部も迷っていた.
 結局こういう時になると、何でもそうだが、
「あの人の意見をきいたらどうだろう」
という存在がある。西郷隆盛だった。政府首脳部も、
「西郷さんの意見をきこう」
ということになった。使いに立ったのが、長州藩の品川弥二郎である。
  訪ねてきた品川弥二郎に、西郷隆盛はこう応えた。
「榎本さんは助命すべきです。かれが、北海道に徳川武士団を率いていったのは、かれが失業した徳川武士の暮らしを立てようという志があったはずです。いま、新政府は北海道開発にカを入れようとしておられる。黒田君がその任にあたっているようだが、榎本さんは黒田君の仕事を大いに助けると思う。
 どうか榎本さんの命を救ってやってください。しかし、榎本さんにはこう伝えてください。それは、この国に生まれた人間は、いまほ誰もが天皇陛下の赤子であることを忘れるな、ということです。したがって、榎本さんが新政府に仕えても、それは徳川家への裏切りではなく、新しく生まれ変わった日本の主権者である天皇陛下に仕えるのだ、という考えをもてば、過去に対するいろいろな思いも消えるはずです。この西郷がそういっていたと伝えでください」
 品川弥二郎を通じてもたらされたこの西郷の言葉は、それなりに政府廟堂を圧倒した。さすがの木戸も、
「榎本もついに陛下の赤子になったか。これはまいった」
と苦笑した。
 飛び上がって喜んだのが黒田清隆である。黒田は、西郷のいった、
「榎本武揚も天皇陛下の赤子だ」
 といういい方が気にいった。というのは、おそらく助命されても榎本は容易には新政府に出仕しないだろうと予測していたからだ。榎本は江戸っ子だ。江戸っ子気質は頑固だ。
「新政府にすぐ出仕して、北海道開拓の補佐をしてくれ」
 などといっても、
「ふざけるんじゃねぇ」
 と、一笑に付すにちがいない。つまり、
『忠臣は二君に仕えず」
 という、昔ながらの武士道を守り抜くにちがいない。
 その点で実は黒田清隆も迷っていた。せっかく榎本武揚を助け出しても、今度は新政府に仕えさせるたあにどんな論理攻勢を展開すれば榎本を納得させられるか、まだ自信がなかったからである。
 そんなところへ、品川弥二郎が、
 「榎本武揚も、天皇陛下の赤子だ」
といったので、これには黒田清隆も、思わずぐりくり坊主になった自分の頭をビシヤリと叩いた。
 「よし、これでいこう!」
と、かれはかれなりに榎本武揚説得の方法を発見した。
 これに、当時としては大言論人としてめきめき頭角をあらわしていた、福沢論青の工作がものをいった。
「福沢論青は、榎本武揚の知己で、母親にもいろいろと知恵を貸し、榎本助命の運動をしている」
という噂が流れていた。これは福沢が意識的にやったものである。つまり、
 「少しでもオレの名を利用して、榎本助命に役立たせてくれれば満足だ」
 と考えていた。だから、実際に榎本の母親が政府に出した嘆願書は、福沢が口述をしたり、あるいは書きあげた文章の字句を直したり、いろいろ添削をしたようだ。
 こういうことがまとせって実り、榎本武揚はついに助命されることに決定した。

■和魂洋才の一点で新政府に仕える

<本文から>
 黒田清隆の話を開いているうちに、榎本武揚もしだいに気持ちが変わってきた。榎本にすれば、黒田のいいたいのも、
「日本には、アメリカ人に越えさせてはいけない″一線″がある。それを守りたい」
ということだ。その一線の存在を黒田は、さっきから熱を込めて語り続けている。榎本武揚には話の全容がはっきりとつかめた。
 榎本は腕を組んだ。黒田の顔をじっと見ていた。やがていった。
 「先生のおっしゃるのは、つまり和魂洋芸ということですな?」
この言葉をきくと、黒田は目を輝かせて大きくうなずき、ビシヤリと膝を叩いた。
 「そのとおりです! まさに和魂洋芸ですよ。榎本先生がお持ちの日本人の精神です」
 和魂というのは黒田のいうように″日本人の精神″ということだ。洋芸というのは″外国のすぐれた科学知識や技術″のことである。したがって和魂洋芸というのは、
 「日本人の精神を失わないで、西洋のすぐれた科学知識や技術を活用する」
 ということだ。幕末に多くの開明的な学者が使った。別に、
 『和魂洋才』
 ともいった。しかし「芸」と「才」は同じ意味だ。
 近ごろは、文明開化の世の中だというので、次々と横浜を通じて外国のめずらしい文物が日本に入り込んでくる。それに夢中になって飛びつく日本人が多い。そういう連中は、幕末の先覚着たちがいっていた、
 『和魂」
 を、どこかにおき忘れていた。だから一部の古いタイブの日本人は、
 「外国かぷれ」
 と、こういう連中を呼んでバカにした。つまり、
 「和魂をいったいどこへおき忘れたのだ?」
と憤慨しているのだ。
 黒田清隆はもちろん、
 「和魂洋芸論者」
である。榎本武揚もまた、
 「和魂洋芸論者」
だった。
 この一点で榎本の気持ちは固まった。かれは、黒田がしきりにすすめる、
「新政府への出仕」
に、抵抗があった。
 (オレは最後まで徳川家の家臣だ)
という意識がある。それがいかに何でも、掌を返したように天皇政府に仕えるというのはどうも気がすすまない。
 「忠臣は二君に仕えず」
 というのが武士道だ。榎本武揚は武士だったから、やはりこの武士道も、
 「和魂のひとつ」
 ととらえていた。が、黒田の話が本当だとすれば、北海道はアメリカの金によって支配されることになる。日本の国土をそんな目に遭わせては申し訳ない。かりにも榎本は、北海道の箱館で、共和政府を作ろうとした.そしてその精神を、北海道全土にもたらし旧徳川幕府の遺臣団の生活の場にしようともくろんでいた。それはならなかったが、しかしだからといって自分たちが志を得なかった北海道の地を、アメリカ人の自由にしていいということにはならない。
 「黒田さん、お手伝いしましょう」
そういう榎本に、黒田は狂喜した。
 「本当ですか?」
と思わず榎本の手を握った。榎本は微笑んだ。
 「本当です。わたしの愛する北海道が、アメリカのいいようにかきまわされたらたまりません。和魂で守り抜きましょうよ」
 そう告げた。黒田は喜びの度合いをさらに深めた。これは明治五年三月のことである。

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