童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          江戸柳生と尾張柳生

■同じ源氏の新田と足利の違い

<本文から>
  「頼朝なんて大したことはない」
と、頼朝の出自に対抗心を持ったのだ。しかし"貴種等量"の念がつよい当時の武士たちの常識として、これは通用しない。いくち新田氏が、
 「おれは頼朝と同じだ」
 といっても皆はそうは思わない。「バーカ」ということになる。それどころか、世間では、
 「新田は足利宗家の分家だ」とまでみている。その足利家のほうは、まったくナリフリかまわないといってもいいような生き方をしていた。
 源頼朝がいきおいづいてからは、足利義康は頼朝の縁者を妻にして姻戚になった。その子義兼の妻には頼朝の妻北条政子の妹をもらった。鎌倉べッタリだった。この義兼が足利学校と鍵阿寺の創建者だ。
 義兼の子の義氏も、北条奉時の女を妻にした。だから源家将軍時代も、その後の北条氏執権時代も、いってみれば足利氏は「時の権力」と確実に密着していた。足利家生存の力学の原理をそこにおいたのだ。
 そういう足利家を新田家は冷ややかにみていた。始祖以来、新田家のバックグラウンドは"誇りの高さ"だ。
「貧しても貪さない」あるいは、
「武士は食わねど高楊枝」の精神である。このモノサシをあてると、足利家の生き方は低俗きわまる。節操がない。だから新田側では、
(大体、北条氏など源家の家来筋の家ではないか?それを、源氏町流れである足利家が逆にイヌのようにシッポをふるとは何ごとか!)とみていた。
 が、現実というのは面白い。天は人間の生き方に報酬を与える。そしてこの報酬は何も美しい行為だけに与えるわけではない。醜いとされる行為にも与える。つまり、醜い行為には屈辱がともなう。天はこの屈辱に耐える者に実益をもたらす。このころ足利氏が得ていたのは、まさしく、
「屈辱への報酬」
 であったろう。新田氏は、
「誇りへの報酬」を受けた。
 が、それはいわば"自己満足"ともいうべき"花"であって、何等社会的な実益とはならなかった。そのことは新田義貞の鎌倉攻略成功時に、はっきり表れた。

■大阪の陣、家康は野戦に持ち込む作戦に変更

<本文から>
 二十九日、南中島の西南端にある野田・福島で九鬼ら水軍がはじめ同地を占領した。全戦線にわたって活気づいてきた東軍は、束ねた竹の短を盾にしてじりじりと包囲網をちぢめて行く。
 家康はそういう中でしきりに鉄砲や大砲を城内にうちこませ、震動と音響で城兵の神経をゆさぶった。また土をどんどん掘ってそれを山と積ませ、いまにも地下道から攻めこむような気配もみせた。
 が−こういう攻撃を続けながらも家康の気持はどこかすっきりしなかった。というのは戦闘が不透明で爽快味がまったくないからである。
 (野戦の家康といわれたわしが、こんどは城攻めの家康になる)
 と勇経してはじめた攻城戦であったが、こんなにつまらなく、また根気のいる戦いはなかった。やはり野戦のほうが結着が早い、とつくづく感じた。年齢のせいもあって気も短くなっていたのである。
 しかも、たかが浪人とタカをくくっていた城方の真田・後藤・塙(団右衛門)などが実によく戦い、塙は蜂須賀軍を、真田は前田・松平忠直・井伊勢を目茶目茶に突き崩し、千人ちかい死老を出させている。こういう情況を見ているうちに家康はやがて、
 (城方の戦意は高い。これはかんたんには落ちぬ)
 と思いはじめた。即ち、くやしいことではあるけれど、
 (やはり、わしは城攻めには向かぬ)
 と考えはじめたのだ。とすればとる道はひとつ、得意とする野戦に持ちこまなければならない、野戦に持ちこむためには大坂城にこもる軍を平地におびき出さねばならぬ、あるいは城そのものを平地同様にしなければならぬ−(それだ)と家康は胸の中で手を叩いた。

■江戸柳生と尾張柳生の因縁

<本文から>
 従って、「いつかは、尾張柳生家を懲らしめてやりたい」という思いはずっと続いていた。それは父の宗矩にとっても同じだったろう。が、機会がない。同時にまた宗矩が、
 「あっちは父上が正当な新陰流をお譲りになったので、傷をつけてはいけない」
 といういい方をしていた。つまり、
 「手を出すな」
 ということである。
 しかし宗矩は大政治家で、同時に優れた剣の使い手でもあったのでそれでどうにかもった。ところが宗冬は肝心の剣術がからきしダメだ・忘は使っても、父や兄光厳のようにはいかない。弟子の中にも、そういう目で宗冬をみる者もいる。
 「柳生新陰流というのは、ご政治向きの工作ばかり教える流派なのか?」
 と、あからさまな陰口をきく者もいる。江戸城に勤める武士たちの中にも、やはり剣は純粋であるべきだと志向する者はたくさんいた。そういうモノサシを当てはめれば、なんといっても尾張柳生家の方が純粋だ。それに達也斎が標傍しているように、新陰流の正統はあっちで保存されている。
 三代将軍家光が、今年(慶安四年)になってから身体の具合がとみに悪くなり、突然、「高名な武術家たちの妙技をみたい」といい出した時には、宗冬は不安におののいた。他の人間はともかく、間違っても、
 「尾張柳生家の剣技をみたい」
 などといい出されたら、たまったものではない。挙句の果てに、
 「尾張柳生家と試合をしろ」
 といい出されたら、いったいどうすればいいのか・達也斎の剣技が天才的なものであることは、宗冬もよく知っていた。もし立ち合ったら、到底勝ち目がないという予測があった。
 しかし、この不安は二つとも的中した。家光は、
 「尾張柳生家の剣技をみたい。呼び出せ」
 といった。そして、二日間に亘って達也斎とその兄の妙技をみた。とくに、達也斎の演ずる小太刀の使い方には、ウソ、ウソと何度もうなずいた。
 宗冬にとってはいたたまれない数日間だった。そして挙句の果てに、
「尾張の柳生と試合せよ」
 という命令が下ったのである。試合前夜のあの不安と恐怖に似た思いは、いまも宗冬の胸から去らない。
「上さま(家光のこと)は、諒何のためにオレに試合をさせるのだ。
という疑問は、家光が死んでしまった後も消えない。家光の本心が探りきれないからだ。あるいは、剣法の純粋性から離れて、いたずら虻政治工作ばかりするようになった江戸柳生家に対する鉄槌だったかもしれない。もしそうだとすれば、その罪は宗冬にあるのではない。父の宗矩にあり、さらに祖父の宗厳にある。そもそも宗厳が問題点をあいまいにしたままいくつも積み残したからこそ、こんな苦労をするのだと宗冬は恨んだ。
 宗冬の不安と恐怖は、事実となって表われた。
 かれは、達也斎厳包によって右の拳を叩き潰されてしまった。指を折られた。血がほとばしった。達也斎は得々として小太刀の先についた血をながめ、
 「いい記念だ」
 とほざいたという。
 家光が死に、由比正雪の乱が起こったものの、世は再び平穏になった。しかし、尾張柳生家では時折り江戸柳生家を破った小太刀の血をみて、喜びの声を揚げているという。
 「尾張柳生家との争いは、これからも根強く続く」
 折られた措から発する劇痛に演をしかめながら、宗冬はつくづくそう思うのであった。

■吉宗と宗春の争い

<本文から>
 吉宗と宗春の争いは、一つの見方は青宗の法治主義と宗春の文治主義の争いである。そしてそれは同時に、青宗の徳川家康信奉と宗春の徳川義直信奉の差でもある。宗春ももちろん家康を信奉している。しかし同時に藩祖義直も信奉していた。
ということは義直が自分の方針とした、
○尾張徳川家は徳川本家と同格である。
〇王臣という立場を取れば、徳川家も天皇の下では一大名にすぎない。
○尾張の国は、中国古来から求められた"神仙の国"である。
 これらのことを信じ切っていた。だから、徳川本家と同格の立場で、尾張の国をさらに"神仙の国"というユートピアに仕立て上げようと考えていたのである。が、所詮こんな考え方は書宗の入れるところとはならなかった。
 宗春は罰された。しかも死んだ後も罪を許されず、その墓に長く金網をかぶせられたという。
 反逆はなぜ失敗したのか
 しかし宗春のこの遠大な計画が、なぜうまくいかなかったのだろうか。その理由は二つある。一つは、宗春自身が青宗への抵抗や反逆打二種の後ろめたさを感じていたことである。後ろめたさというのは、宗春の胸の底にある考えが、
 「将軍吉宗公への俺の抵抗や反逆を、世の中では、結局尾張家が将軍の座に就くことができなかった報復をしているのではないかとみてはいないか」
 ということである。そういう動機で宗春の抵抗や反逆が行われたとすれば、それは"嫌がらせ"としかみられない。抵抗と反逆の理念を理解されない。宗春がいくら、
 「尾張は昔から蓬莱の地といわれて、日本における理想郷を目指していた。藩祖義直公の理想を俺が実現するのだ」
 といい張ってみたところで、だれも信用しない。
 「今時、そんな馬鹿なことができるものか」
と嘲笑われる。このいってみれば反逆理念の説明が、やはり行き届いていなかったことも、大きな失敗の原因だ。理念というのはなかなか理解されにくい。

■西郷が西南戦争で一度だけ指揮をとる

<本文から>
 西郷、一度だけ指揮をとる
 西南戦争で、薩軍の指揮はほとんど網野利秋(四十歳)がとった。西郷隆盛は黙って将兵と行を共にした。
 鹿児島を出た二月十五日から、再び鹿児島に戻った九月一日までの古九十九日間、西郷は網野のいうがままに従った。
 その西郷が、たった一度だけ、すすんで戦闘の指揮をとったことがある。延岡ちかくの和田越の戦いの時だ。当時、延岡北方の一寒村長井村に追いつめられた薩軍は、つぎにくるのが、官軍の薩軍妄丁報滅作戦だということを知っていた。和田越は、可愛嶽に発する連峰のひとつで、わずか四十メートルほどの丘だが、低いだけに越えやすい。おそらく官軍はここから殺到する。それを防ぐ戦いの指揮を西郷が自らとると
 桐野は妙な顔をしたが、反対はしなかった。ほかの将も黙っていた。ほかの将というのは、村田新入・別府晋介・池上四郎・辺見十郎太・野村忍介らだ。
 和田越の戦闘がおこなわれたのは、八月十五日のことだが、この日は未明から霧が濃く、彼我の視界を妨げていたが、午前入時ごろ、突然はれた。
 午前七時、西郷はすでに和田越の頂上にいた。象皮病がすすみ、加えて肥満体なので低い丘でも登るのはつらい。山駕籠ではこんでもらった。頂上に着くと、西郷は白地の浴衣の簡紬に兵児帯、山がけ脚絆にわらじという姿で、そこに立っていた。腰に和泉守兼定の刀を差していた。そオ姿でずっと立っていた。
 その西郷の姿は、官軍のほうからもよく見えた。官軍の総指揮をとっていたのは、征討軍参軍の陸軍卿・陸軍中将の山県有朋(四十歳)だ。脇に別働第二族団長の陸軍少将山田顕義(四十三歳)がいる。
 そして、さらに西郷従道と大山巌がいた。従道は西郷の実弟であり、大山は従弟だ。征討軍が編まれた時、立場上、その心情を察されて二人は司令官からはずされていた。が、ついに二人は参戦した。自らすすんでである。
 この報はすぐ西郷に伝わった。西郷が、
 「今日の戦さはおいが指揮をとる」
 といい出したのは、このことを知ってからだ。桐野たち薩軍の諸将が、無言で西郷の言に従ったのは、西郷の心理をはかりかねたからである。従道や蔽までおいを討つのか、という憤りからそういう気持になったのか、それとも、もっと別なことからなのか。
 しかし、山頂に立つ西郷の姿勢を見た瞬間、桐野は西郷の真意を覚った。
 (吉っつあんは死ぬ気だ)と直感した。西郷は、死に場所として和田越の山頂に身をさらしているので、指揮などとっているのではないのだ。
 同じことは、官軍から凝視している従道や蔽も感じた。もちろん山県も感じていた。
 山県は山田に厳命した。
 「西郷さんを射ってはならぬ」
 西郷は五時間、そこに立っていた。しかし正午ごろ、官軍は猛攻に猛攻を加え、和田越を占領した。その直前、西郷は部下に抱えられて、山預から姿を消した。

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