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<本文から>
「頼朝なんて大したことはない」
と、頼朝の出自に対抗心を持ったのだ。しかし"貴種等量"の念がつよい当時の武士たちの常識として、これは通用しない。いくち新田氏が、
「おれは頼朝と同じだ」
といっても皆はそうは思わない。「バーカ」ということになる。それどころか、世間では、
「新田は足利宗家の分家だ」とまでみている。その足利家のほうは、まったくナリフリかまわないといってもいいような生き方をしていた。
源頼朝がいきおいづいてからは、足利義康は頼朝の縁者を妻にして姻戚になった。その子義兼の妻には頼朝の妻北条政子の妹をもらった。鎌倉べッタリだった。この義兼が足利学校と鍵阿寺の創建者だ。
義兼の子の義氏も、北条奉時の女を妻にした。だから源家将軍時代も、その後の北条氏執権時代も、いってみれば足利氏は「時の権力」と確実に密着していた。足利家生存の力学の原理をそこにおいたのだ。
そういう足利家を新田家は冷ややかにみていた。始祖以来、新田家のバックグラウンドは"誇りの高さ"だ。
「貧しても貪さない」あるいは、
「武士は食わねど高楊枝」の精神である。このモノサシをあてると、足利家の生き方は低俗きわまる。節操がない。だから新田側では、
(大体、北条氏など源家の家来筋の家ではないか?それを、源氏町流れである足利家が逆にイヌのようにシッポをふるとは何ごとか!)とみていた。
が、現実というのは面白い。天は人間の生き方に報酬を与える。そしてこの報酬は何も美しい行為だけに与えるわけではない。醜いとされる行為にも与える。つまり、醜い行為には屈辱がともなう。天はこの屈辱に耐える者に実益をもたらす。このころ足利氏が得ていたのは、まさしく、
「屈辱への報酬」
であったろう。新田氏は、
「誇りへの報酬」を受けた。
が、それはいわば"自己満足"ともいうべき"花"であって、何等社会的な実益とはならなかった。そのことは新田義貞の鎌倉攻略成功時に、はっきり表れた。 |
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