|
<本文から>
蒲生氏郷は戦団時代の武将だ。経営感覚がすぐれていた。織田信長の娘をもらって婿になった。信長も、氏郷の能力を高くかっていた。初めは近江(滋賀県)日野の城主だった。やがて、伊勢(三重県)松坂の城主になった。当時、この地域は四五百と呼ばれていたが、氏郷はここを松坂と名を変えた。一二万石だった。その後彼は豊臣秀吉によって会津(福島県)の黒川に移された。一〇〇万石である。氏郷はすぐ黒川という地名を若松というめでたい名前に変えた。説によっては、福島という現在の県名を考え出したのも氏郷だといわれる。
氏郷の特性は、行った先、行った先で商人を育てたことだ。日野商人、伊勢松坂商人、そして会津商人の育成はすべて氏郷だった。
会津に行った時、部下たちが騒いだ。それは、
「今までの一二万右に比べると、ここは一〇〇万石で殿様の収入は一〇倍になった。おれたちの給与もさぞかし引き上げてくれることだろう」
という期待を持ったのだ。これが氏郷の耳に入った。そこで氏郷は重役に命じた。
「部下の給与を引き上げてやりたい。自分で自分の功績に見合う給与領はいったいいくらがいいのか、各自申告させろ」
重役は日を剥いた。
「そんなことをしたら、際限がありません。いくら収入があっても足りなくなりますぞ」
「いいから申告させろ」
つまり、自己評価によって自己の給与を決めろということだ。我も我もとみんなが勝手な額を請求した。集計してみると、ゆうに一〇〇万石を超えていた。重役は、
「だからいわないことじゃありません」
と文句をいった。氏郷は笑った。そして、
「みんなに差し戻せ。そして、お互いに議論をして、互いの功績が本当にその給与額に相当するかどうかを話し合わせろ。妥当な額が出るはずだ」
重役は武士たちに氏郷の言菜を伝えた。大会議が開かれた。
「誰がいくら申告したか」
ということが全部ガラス張りになった。そうなると、文句をいう者もいた。
「おまえの功績はおれの功績に比べたらはるかに低い。にもかかわらずそんなに高額の要求をするとは何事だ」
そういう声があちこちに起こった。いわれた方も、
「そういわれれば、そんな気がしないでもない」
ということになって、それぞれ修正した。武士たちは、互いに互いの額に牽制球を加えながら、自分の額も良心的なものに直した。推定してみると額はぐっと減り新しい領地での収入の三分の一程度に納まった。この報告を受けた氏郷は、重役にいった。
「ほらみろ。おれの部下たちは決して良心がないわけではない。話せばきちんと額を修正するのだ」
前に書いたように明治維新後の新政府になってからでさえ、政府高官の予算ぶんどり合戦はすさまじかった。まして、財政の観念のない戦国時代ではめちゃくちゃだ。にもかかわらず、蒲生氏郷はそのへんをきちんと心得ていた。
「入るをはかって出ずるを刺す」
という財政運営の原則を踏まえていたのである。このへんが織田信長に気にいられ、部下になったゆえんだろう。しかし、この蒲生氏郷は金津在任中に死んだ。心の中では、
「もう一度中央に戻りたい」
と思っていたようだが、豊臣秀吉が警戒した。
「蒲生氏郷は人望がある。おれをしのぐかもしれない」
と思っていた。秀吉が恐れていたのは単に人望だけではなく、蒲生氏郷の経営才覚であったかもしれない。 |
|