童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          江戸商人の経済学

■蒲生氏郷の優れた経営才覚

<本文から>
  蒲生氏郷は戦団時代の武将だ。経営感覚がすぐれていた。織田信長の娘をもらって婿になった。信長も、氏郷の能力を高くかっていた。初めは近江(滋賀県)日野の城主だった。やがて、伊勢(三重県)松坂の城主になった。当時、この地域は四五百と呼ばれていたが、氏郷はここを松坂と名を変えた。一二万石だった。その後彼は豊臣秀吉によって会津(福島県)の黒川に移された。一〇〇万石である。氏郷はすぐ黒川という地名を若松というめでたい名前に変えた。説によっては、福島という現在の県名を考え出したのも氏郷だといわれる。
 氏郷の特性は、行った先、行った先で商人を育てたことだ。日野商人、伊勢松坂商人、そして会津商人の育成はすべて氏郷だった。
 会津に行った時、部下たちが騒いだ。それは、
  「今までの一二万右に比べると、ここは一〇〇万石で殿様の収入は一〇倍になった。おれたちの給与もさぞかし引き上げてくれることだろう」
 という期待を持ったのだ。これが氏郷の耳に入った。そこで氏郷は重役に命じた。
 「部下の給与を引き上げてやりたい。自分で自分の功績に見合う給与領はいったいいくらがいいのか、各自申告させろ」
 重役は日を剥いた。
 「そんなことをしたら、際限がありません。いくら収入があっても足りなくなりますぞ」
 「いいから申告させろ」
 つまり、自己評価によって自己の給与を決めろということだ。我も我もとみんなが勝手な額を請求した。集計してみると、ゆうに一〇〇万石を超えていた。重役は、
 「だからいわないことじゃありません」
 と文句をいった。氏郷は笑った。そして、
 「みんなに差し戻せ。そして、お互いに議論をして、互いの功績が本当にその給与額に相当するかどうかを話し合わせろ。妥当な額が出るはずだ」
 重役は武士たちに氏郷の言菜を伝えた。大会議が開かれた。
 「誰がいくら申告したか」
 ということが全部ガラス張りになった。そうなると、文句をいう者もいた。
 「おまえの功績はおれの功績に比べたらはるかに低い。にもかかわらずそんなに高額の要求をするとは何事だ」
 そういう声があちこちに起こった。いわれた方も、
 「そういわれれば、そんな気がしないでもない」
 ということになって、それぞれ修正した。武士たちは、互いに互いの額に牽制球を加えながら、自分の額も良心的なものに直した。推定してみると額はぐっと減り新しい領地での収入の三分の一程度に納まった。この報告を受けた氏郷は、重役にいった。
 「ほらみろ。おれの部下たちは決して良心がないわけではない。話せばきちんと額を修正するのだ」
 前に書いたように明治維新後の新政府になってからでさえ、政府高官の予算ぶんどり合戦はすさまじかった。まして、財政の観念のない戦国時代ではめちゃくちゃだ。にもかかわらず、蒲生氏郷はそのへんをきちんと心得ていた。
 「入るをはかって出ずるを刺す」
 という財政運営の原則を踏まえていたのである。このへんが織田信長に気にいられ、部下になったゆえんだろう。しかし、この蒲生氏郷は金津在任中に死んだ。心の中では、
 「もう一度中央に戻りたい」
 と思っていたようだが、豊臣秀吉が警戒した。
 「蒲生氏郷は人望がある。おれをしのぐかもしれない」
 と思っていた。秀吉が恐れていたのは単に人望だけではなく、蒲生氏郷の経営才覚であったかもしれない。

■吉宗時代、金銭貸借の訴訟中止は滞貨を招く

<本文から>
 山下幸内がいう「本題」というのは、一言でいえば、
 「あなたの代におなりになってから、町奉行所では、金銭の貸借に関する訴訟を中止なさいました。しかし、これは間違いです」,
 というものである。これは吉宗にも大岡忠相にも覚えがあった。吉宗は、
 「すべて、民の要求に基づいて政治を行えばいいというものではない。民も、ただ要求するだけでなく、自分たちで何ができるかも考えなければダメだ」
 といった。ジョン・F・ケネディがいった、
 「国民は国家が何を為し得るかだけでなく、国家に対して何が為し得るかも考えてもらいたい」
 と同じ発想だ。国民に、
 「権利だけを主張するのではなく、義務も果たしてほしい」
 ということである。クリントンはこれを、増税の即時実施と、減税の延期によって示したが、ケネディにはもう少しポリシーがあった。吉宗がいうのも同じことである。江戸市中における、たとえば消防だとか、いろいろな市民サイドの仕事も、ほとんど武士が分担していた。吉宗はこれを、
 「市民にも責務を果たさせろ」
 と大岡に命じた。大岡は"市民消防"、いろは四十入組を新しく作らせた。吉宗はこの時、
 「裁判所に持ちこまれる金銭の訴訟が多すぎる。金の貸し借りなど、借り手と貸し手の間で処理するようにさせろ」
 と命じた。大岡はその通りにした。ところが山下幸内は、
 「それが、不況をさらに長期化する原因になっております」
 というのである。
 「今後、奉行所に持ち込まれる金銭の訴訟は取り扱わない。金の貸し借りは、すべて借り手と貸し手の間で解決するように」
 と、江戸町奉行大岡越前守忠相に触れさせた徳川吉宗の改革方針に対し、山下幸内は、
 「それは間違いです」
という意見書を差し出した。幸内によれば、
 「金銭の貸借の関係の訴訟を取り扱わないことは、不況をさらに長期化する原因になります」
 と書いてきた。

■三岡八郎は小楠の王道理念を経営で取り入れる

<本文から>
 「武士が商人になること」であり、同時に「藩(大名家)が商会化した」ということである。つまり商人のお株を取って、武士と武士によって組織されている大名家が前垂れ精神を持って商売をはじめたということだ。だからこそ、三岡八郎がいままで、
 「あいつは銭勘定ばかり堪能で、武士にあるまじき振舞いをしている」
 とバカにされてきたのである。
 ところが横井小楠の出現によって、そういう考えが間違いであるということを指摘された。横井小楠は単に、
 「武士よ、商人になれ」
 といったのではない。横井は、
 「いまの商人は、王道を忘れている。自分の利益だけを追求して、他人に対する迷惑をかえりみない。これはいってみれば、覇道といっていい。王道というのは、仁と徳によって行う政治や経済のことだ。覇道というのは、自己の権力や利益を増大させるために、権謀術策によって行う諸々の行為である」
 横井小楠はこういった。
 「いま、日本には列強が迫っているが、すべて覇道の団々だ。その一番悪い例が、イギリスである。イギリスは、自国の産業革命以来生産過剰になった物品を売りつけるために、アジアをマーケットにしようとした。しかし、いうことをきかない中国にはアヘン戦争を起こして、無理矢理自国の品物を買わせている。あんなやり方は、王道ではない。覇道だ。いまの世界で、王道を貫けるのは日本以外ない。そうすれば、日本の国際的信用が高まり、多くの国々が日本の真似をするようになるだろう。日本は、世界の模範にならなければならない」
 と唱え続けた。その日本国内における実験を、越前藩で実行しようということである。
 三岡八郎は、この横井小楠の教えをなるほどと思った。そこでかれも、
 「越前藩の藩内生産品に付加価値を与えて、高く売るといっても、おれは覇道を行うわけではない。商業を通じて、王道を実践するのだ」
 という自信を持っていた。
 しかし、三岡八郎が立てた方針の中に、
 「藩生産品は藩の物産総会所が買い上げるが、その支払いは藩札で行う」
 ということは、やはり生産者や商人たちの反発を買った。
 「われわれには藩札で支払いをし、売り払った収入は正貨で行うというのは、あまりにも藩庁が虫が良すぎるのではないか」
 と文句をいわれた。これには道理がある。しかし三岡八郎は、
 「当面、そうしなければ国そのものが豊かにならないのだ。どうかききわけてくれ」
 と、説得して歩いた。ワラジ履で、各柑から村を歩き回る三岡の熱意に、ついに生産者も商人たちも胸を打たれた。
 「三岡さんのいうことには一理ある。協力しようではないか」
 という気運が盛り上がってきた。この時、横井小楠が三岡に知恵をつけた。
 「藩内産品を、この日本の団の中だけで売り買いしようとするから、そういう反対意見が出るのだと思う。一層のこと、外国に売りつけたらどうだ?」
 「外国に?」
 三岡八郎はびっくりした。横井はうなずいた。
 「日本はすでにアメリカやイギリス、フランス、オランダなどと開国条約を結び、さらに通商条約を結んだ。物の流通が可能になっている。国内だけでなく、国外にもわが越前藩の産品を輸出して、流出した日本の金銀鋼を取り戻せば、藩内の生産者や商人も納得してくれるだろう」
 この説は、三岡八郎の眼を大きく開かせた。横井小楠の教えにそのまま従うとすれば、
 「国内貿易も、単なる売り買いではいけない。やはり、欲しくてもその品物が得られない地域に、欲しい品物を届けるのがすなわち商売における王道ではないのか」
 と小楠は考えたのである。その意味では、三岡八郎が展開した越前蒲の物産総会所における貿易は、
 「王道という理念」
 があったといっていい。単に藩が儲けるために、てんでんばらばらなことをやったわけではなかった。三岡八郎は、
 「商売にも、横井先生のいう王道を貫かなければならない」という経営理念があったのである。

■長州藩は改革を初心・原点に戻って行う

<本文から>
 長州藩の老経営学者坂時存が提出した意見書は、藩主毛利重就の目からうろこを落とした。
 「あの老人が、よくここまで考えてくれた」
 という思いがした。重就がとくに坂の意見の中で目をつけたのは、
・長州藩の実収を過去に遡って冷静に調査すること。
・毛利本家は、馬開港(下開港)や柳井港などの良港を、分家に与えてしまっているので、本家として港を持っていないこと。
・本家の収入と支出が全くみあわず、収入に比べ支出が非常に多いこと。
・収入不足を補うためには、新田開発と、すでに開発された新田の実態を調査し、これを収入源に繰り入れること。
・そのためには、新しい役所が必要なこと。同時に、有能な人材の登用が必要なこと。
 などということであった。別に奇を衒った発想ではない。考えようによっては、
 「当り前のことではないか」
 という点もたくさんある。しかしその当り前なことが当り前のこととして誰も問題にしなかった。坂という老人にいわれてはじめて、
 「ああ、そういわれればそうだな」
 と思うようなことがたくさんあった。つまりこのことは、
 「初心・原点に戻って、問題を考える」
 ということを、坂が指摘したのだZそこで毛利重就は、方針を立てた。
・長州藩の収入実態を徹底的に調べること。そしてそれは徳川幕府が決めた収入額が妥当であるかどうかの検証にもなる。
・再建のために新しい役所を設けること。有能な人材をこの役所に集めること。
・新田を開発し、すでに開発された新田の実態を調査すること。さらに、長州藩の産品にさらに付加価値を加えるように奨励すること。
・藩全体が一層厳しい倹約生活を送ること。
・新田開発その他の新規事業興しの資金として、「撫育方」を設ける。撫育方に投ぜられた資金は、絶対に一般会計の赤字には充てないこと。

■藩政時代に金銭感覚が鈍ければ倒幕事業に参加できなかった

<本文から>
 これは長州藩だけではなく薩摩藩も同じことだ。薩摩藩でも維新後に明治新政府に参画した閣僚級は、すべて西郷隆盛や大久保利通のような下級武士である。しかしかれらも藩内の凄まじい経済闘争を経験していた。つまり藩政改革をめぐる政策の争いを、それこそ血で血を洗うような凄まじい戦いを経験した後に新政府に乗り込んでいったのだ。このことがかれらを政治官僚・政策官僚であると同時に、経済官僚としても十分機能させたということができるだろう。明治維新の不思議のひとつは、
 「外様大名の家来でせいぜい係長級だった連中が、どうして一団の大臣になって仕事が勤まったのだろうか」
 ということである。その疑問を好くカギは挙げてかれらがそれぞれの藩に属していた時に、凄まじい財政改革を経験したところにある。そしてその目標が、
 「経済」
 という言葉を、
 「経世済民」
 と考えて、
 「何よりも民をすくうための政治を行う。そのための資金を調達する」
 という金銭感覚が鋭く研ぎ澄まされていたからに他ならない。逆ないい方をすれば、
 「藩政時代に金銭感覚が鈍かった者は、倒幕事業に参加できなかった」
 といっていいだろう。そしてこのことは、長州藩や薩摩藩のように多くの維新政府へ閣僚を出した藩内においても、上層部と下級武士との間では大きな差があったといっていい。そのひとつの証拠が、明治新政府出現と同時に、日本中の大名があまりにもあっさりと自分の持っていた権限を投げ出してしまったことである。すなわち、
 「版籍奉還」
 である。
 版というのは土地のことだ。籍というのは人民のことである。江戸時代は米をはじめ第一次産業が重視され、年貫として大名が徴収した。したがって、大名の収入源はすべて農民と土地だ。これを返すということは、大名が自分の国の経営権を放棄したということになる。形の上では、
 「天皇をいただく新しい政府ができたのだから、自分の持っている土地と人民をお返しする」
 ということだが、これは自発的な奉還という形をとつてはいるが、実際は新政府側からの裏工作による命令である。ほんとうだったら怒るはずだ。

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