童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          江戸の都市計画

■強かった平和志向

<本文から>
  徳川家康は、大坂の陣で豊臣氏を騙し討ちにしたので、後世、
 「タヌキおやじ」
 という汚名を張り付けられてしまったが、彼自身は必ずしもタヌキおやじではない。特に、
 「平和」
 の問題については、先輩の豊臣秀吉や織田信長よりも熱心だった。というよりも、家康は、
 「信長公の時代には、まだ全国を平定することが不可能で、引き継いだ豊臣秀吉殿や自分によって、これが完成される。であれば、信長公が岐阜と命名した時に抱いた、日本の周の武王になろうという志は、そのまま引き継がなければならない」
 と考えていた。
 大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした時に家康は有名な、
 「元和値武の宣言」
 を行う。元和というのは、家康が豊臣家を滅ぼした慶長二十年(一六一五)の五月の直後に、朝廷に奏請して改元してもらった年号である。「値武」というのは、
 「武器を倉庫に納めて鍵を掛け、二度と開けない」
 という意味だそうだ。家康の平和志向はそれほど強かった。
 現在家康の廟(墓所)が、久能山と日光東照宮にある。日光東照宮には、全体に空想上の動物が彫られているが、中でも家康の廟にはこの空想上の動物の彫刻が多い。そしてその空想上の動物の中で最も多いのがバクだ。バクというのはもともと夢を食うといわれている。
 かつてこの廟を拝観した私は、東照宮の神官にこんなことを聞いた。
「なぜこの廟にバクの彫り物が多いのですか?」
 神官は、
「バクは、平和を好む動物だからですよ」
「バクというのは、夢を食う動物でしょう?」
「そうですが、夢の他にも武器を食うのが好きだといわれています。家康公は、亡くなった後も、自分の廟所にバタの彫刻を沢山集めて、この東照宮から日本全体が平和であるようにと祈っておられたのではないでしようか」
 この説明に私の眼から鱗が落ちた。改めて、
「徳川家康は、それほどまで平和愛好者だったのか」
 と感を新たにした記憶がある。
 徳川家康がいかにまちづくりを急いだといっても、まだまだ江戸地帯は不穏だ。東北の伊達政宗をはじめ、上野、越後、信州方面もいつ背くか分からない実力者が沢山いる。長年地域に根を植え付けていた旧北条氏や、旧武田氏、旧上杉氏などの勢力はまだまだ根強い。
 家康がまず行ったのは、自分の部下を諸方面に配置して、これらの外敵が事を起こした時に備えることであった。彼は、北条氏の本拠であった小田原には大久保忠世に四万石を与え、ここを守らせた。大久保忠世は、後に、「三河物語」を書いて、当時の武功派旗本の不平不満の代表であった大久保彦左衛門の兄だ。家康は上杉家の残存勢力のつよい越後や信州方面に備えるため、上州箕輪城には、井伊直政に十二万石を与えて置いた。常陸の佐竹氏に対しては、上州館林に榊原康政に十万石を与えて警戒させた。下総矢作方面の備えとしては、鳥居元忠に四万石を与えて置いた。安房の里見氏に対しては、上総大多喜に本多忠勝に十万石を与えて監視させた。久留里には大須賀忠政に三万石を与えて配置した。
 これらの大名の城は、現在の埼玉県、群馬県、千葉県に多い。東京都内には一人もいない。
 これは家康が、
 「江戸直轄地には別な構想がある」
 と考えていたからである。東京都内でわずかに家康が力を注いだのは八王子地域であるこには、
 「千人同心」
 と呼ばれる隊を編成した。その束ねには代官を置いた。そして千人同心には、旧武田家の家臣も半数程度採用した。これは、旧武田の遺臣に対する慰撫策でもあった。

■八王子千人同心

<本文から>
 江戸時代の幹線道路ともいうべき主な街道の出発点は、日本橋だとされた。が、甲州街道だけは江戸城の半蔵門がその起点だという。これは、
 ●江戸城の南面すなわち海側から敵に攻撃され、江戸城が落城のおそれを生じた時は、将軍は半蔵門からまっしぐらに甲州街道を辿って甲府城へ逃げる。
 ●この時、第一次的に敵を食い止めるのは八王子である。
 ●また、中山道から敵が甲府城を攻め落とし江戸城に迫ろうとしたときは、八王子でこれを食い止める。
 ●したがって、八王子には精兵を置く。これを「千人同心」と名付ける。
 ●千人同心には、在地の農民と、旧武田家の遺臣をもって当てるJ
 ●それぞれ、五百人ずつ採用する。
 こんなことから、俗に、
 「八王子千人隊」
 と呼ばれる、特別な武士団が編成された。これらの武士は、何もない時は農耕に従事し、一大事ある時は、武器を取って立ち上がる。戦国時代、土佐にあった"一領具足"のようなものだ。しかん八王子千人隊が、この設置目的を適用されて立ち上がった例は一度もない。そうでなければおかしい。家康自身が、
 「元和儒武」
 の宣言を行って以来、日本は完全に平和の道を辿ったので、大名が反乱を起こすことなど全くなかった。したがってこの八王子千人隊の設置目的は、むしろ、
 「旧武田家の遺臣を登用することによって、武田遺臣団の反抗を食い止めよう」
 という政策的な色合いが濃い。

■運河を整備して水の道をつくる

<本文から>
 徳川家康の江戸のまちづくりでよく、
 「彼は神田山を崩して、大規模な埋立て地を造った」
 といわれる。しかし、埋立ては何も神田山だけを崩したわけではない。濠を掘った時の土も埋立て用に使ったという。
 現在は、道を軸にしてその両脇に住宅が建てられる。道の下に、生活に必要な水道、下水道、あるいはガス、電線などが埋設されている。しかし、江戸時代は、大雑把に、
 「物は水の道、人は土の道」
 といわれた。物流は水路による方が大量に運べる。舟便が盛んだった。大坂は、「八百八橋」といわれて、"水の都"と称され、そこに架かった橋が八百八もあったという誇大な表現がとられている。しかし江戸も同じだった。何といっても、この湿地帯を整備し、
 「物を運ぶ水の道」
 を整備することが急務だった。運河がその水の道だった。
 道三濠が掘られると、その土で埋められた両側の土地に次々と武家屋敷や町人の家が建った。
 日比谷の入江は、道藩時代はにぎわいを極めた港である。家康はこれを復活した。入江の西側には、町人物揚げ所が設けられた。船役所も建てた。いまの税関や検疫所だ。そうなると当然、周りに商人の住まいができる。魚屋、網屋などが次々と商売を始めた。したがって、江戸の開発当時は、
 「武士と町人の混住」
 が行われていた。これが次第に整備されるのは、ずっと後のことである。

■外国人が見た江戸

<本文から>
 『東京の歴史』によれば、慶長十四年(一六〇九)に、前ルソン総督、ドン・ロドリゴが江戸にやって来た。彼は、日本との貿易交渉を行うためにやって来たのだが、この時江戸の町を見て次のような印象記を書いたという。
「この市は住民十五万人を有し、海水がその岸をうち、また市の中央に水の多い川が流れ、相当な大きい船がこの川に入る。しかし水が深くないので、帆船は入ることができない。市街はたがいに優劣なく、みな一様に幅広く、また長く直線であるのはイスパニア(スペイン)の市街にまさっている。
 家は木造で二階建てもあり、外観ではイスパニアの家屋が優れているが、内部の実は日本がはるかにすぐれている。
 また街路は清潔で、だれも踏まないのではないかと思うほどである。市街はみな木戸があり、一街には大工が居住して他職の者は一人も雑居しない。他の街には靴工、鉄工、縫工、商家がある。
 商家もまた同様で、銀商は一区を専有し、金商、絹商、その他みな同じで、他商と同街に雑居することがない。
 また魚市場という一区があり、珍しいというので特に案内されたが、そこには海と川との各種の魚の新鮮なものと、干したものと、塩にしたものとがある。
 また数個の水を満たした大釜には、生きた魚が多数あって、買う人の望みにまかせて売る。

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