童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          江戸のリストラ仕掛人

■政敵・田沼意次に接近する松平定信の策謀

<本文から>
  老中田沼意次は江戸神田橋に屋敷を持っていた。毎日朝早くから多くの人が押しかけた。みんな金品を持ってきた。いまの言葉を使えば請託を行うためだ。金品を贈って、なんらかの役職にありつくか、仕事にありつこうとする連中だ。
 田沼沼意次はこういう連中の訪問を拒まなかった。
 かれが朝、
「庭の池に錦鯉が泳いでいると引き立つのだがな」
 とつぶやいて江戸城へ出ていくと、戻ってきたときには池の中は、おびただしい錦鯉がバシャバシヤ波を立てて泳ぎ回っていたという。それほどかれの権勢は凄まじかった。
 平戸の藩主に松浦静山という人物がいた。なかなかの風流人で「甲子夜話」という本を残している(平凡社の東洋文庫)。この本の中に、田沼邸に訪れる人々の描写がある。
 それによれば、
 「田沼邸では、広間といわず廊下といわず訪問者がひしめいていた。廊下にはそれらの連中が持ってきた金品が山と積まれていた。田沼と直接話すことは容易ではなかった。が、田沼意次は江戸城から戻ってくると、訪問客の間を爽やかに渡りながら、一人ひとりに声を掛けた。掛けられた方は感動して、顔を真っ赤にしてしまう。田沼は、こういう連中を喜ばせることが非常にうまかった・・・」
 正確ではないが、今の文章に直すとそういうことが書いてある。
 そして面白いのは、
 「その訪問客の中に、白河藩主松平定信もいた・・・」
 ということだ。これは一体どういうことなのだろうか。
 「中央に出て国政を運営する幕府老中になりたい」
 という青雲の志を抱いた松平定信は、その手段として明らかに時の実力者田沼意次への接近を図っていたのである。このへんは、なまじっかな士やではできない。後に、九州唐津藩主だった水野忠邦が、かれもまた何とかし幕閣中枢部へ乗り出したいという悲願を持ち、賄賂作戦を展開する。松平定信が果たして金品を携えて田沼邸を訪れたかどうかまでは明らかではない。しかし、こういう姿勢は普通の人間にはできない。田沼邸を訪れればもうそれだけですぐ噂になるからだ。
 「白河藩主松平走信殿が、田沼邸にみえた」
 「かれは、田沼によって奥州に追われたのではなかったのか?一体どのツラ下げて田沼邸を訪問しているのか?」
 などといわれることは当然だ。定信もそれは承知していた。しかしあえてこういう行動をとったのは、たとえ世間の目にさらされても田沼邸を訪れた方が、今後の自分にとって得策だと考えたからだ。
 もう一つある。こういう時の松平定信の胸には当然すさまじい屈辱感が湧くはずだ。が、屈辱感を感ずれば感ずるほど胸の中では逆に、
「いつかみておれ」
 という闘士心が湧いてくる。屈辱感が積み重なるに従って、それが発酵し熱を持ったパワーを生む。いってみれば、人間にとって屈辱感というのはある行動を起こきせるバネになるのだ。つまり行動のモチベーション(動機)である。
 松平定信は田沼邸を訪問するたびに味わう屈辱感を、自分の青雲の志を実現するバネに使った。胸の中では、
(田沼め。老中になった威きにはかならず追放してやるぞ)
 と思っていた。
 田沼の方にすれば、松平定信に対してはやはり一種の後ろめたさがある。恨まれても当然だ。にも拘わらず定信の方から訪ねてきた。これは悦しい。そうなると田沼も定信のために、何かと便宜を図る。幕府のいいポストに就けるように周旋もする。このへんは田沼は人が好い。

■松平定信は政敵黒幕・一橋治済へ接近し目的を成就させる

<本文から>
 定信がいい出したことは、政敵の田沼意次の家を訪問しておべんちゃらをいっているという程度のことではない。こともあろうに、自分を追放した張本人の家から、その一族を自分が追い出された家の相続人に迎えたいというのだ。まさにウルトラCの戦略である。しかし松平定信はそこまで腹を決めていた。そのくらいのことをやらなければ自分は老中になれないと考えていた。この執念はすさまじかった。
 有能なために、親会社から追い出された子会社のトップが、再び親会社へ返り咲くのにはどうしたらいいか、ということを定信はずっと考え抜いてきた。その結果こういう方法を思い立ったのである。
●恥をこらえて政敵田沼にも接近する。いまの幕府で田沼を敵に回しては、あらゆる立身出世が実現しない。
●田沼の黒幕は一橋治済だ。従って、この治済にも接近する。
●しかし田沼への接近と、一橋治済への接近とは目的が違う。田沼への接近は、目前の利益追求であり、一橋治済への接近はスパンの長い利益接近といっていい。
●さらに両者への接近の目的が根本的に違うのは、田沼に接近するのは田沼の力によって江戸城内にしかるべきポストを得、今度はそのポストを逆手に取って世話になった田沼を追放するという考えを持っていた。が、一橋治済に対してはそういう考えを持っていない。
 逆に、一橋治済と手を組んで田沼追放に力を尽くそうということだ。
一橋治済は松平定信と話しているうちに、このへんのことをはっきり知ったに違いない。

■定年前を控えた時期の過ごした方の変化

<本文から>
 そうなると、もう"起承転結"の"結"の設定が危くなってく官る。つまり"結"というのは、「これが自分の人生の終着点であって、これ以上ない」という考え方だ。じかし、いまは違う。生涯学習を続けるなら、死ぬ直前、いや死の瞬間まで、人間は向上の勉学を続けなければならない.
●したがって、現在あるのは"起承転結"ではなくて、"起承転々"だとばくは唱える。
●そうなると、定年前を控えた現在、いままでのことを振返って、「定年まで、いま自分にできることをどう実現すればいいか」ということが大きな問題になってくるのではなかろうか。
●どうせ、それほど勤務年月がないのならば、「いままでやりたくてもできなかったこと」や「いままで付和雷同して正しいことでもじっと言わずに我慢してきたこと」などを、後に続いている世代のためにもやって行くことが必要ではないかと思う、と語る。
●そして、何よりも「その人らしさ」を生むことが大事だと唱える。″らしさ″とは、他人に対する度量であり、器量であり、包容力であり、愛であり、優しさであり、思いやりのことだ。その人でなければ生めない魅力のことである。

■徳川秀忠は自身の特性である徳望で王道を歩む

<本文から>
 覇者になるという、ことは、戦国から平和な時代に移行するということだ。そして、二度と国内で戦争を起こしてはならないということだ。人の道でいえば「覇道」から「王道」に移ることである。そのために必要なのが、「帝王学」だ。帝王学というのは、つまり、
 「徳のある王者」
 としての心構えである。そう考えると、秀忠は、
 「覇者から王者に移行しょうとして途中で倒れた父家康の志を継いで、オレは徹底して帝王学を学ぼう」
 と考えた。同時にまた、
 「王者らしく振る舞おう」
 と志した。王者らしく振る舞うというのは、王者としての条件を自ら実行することだ。
 幸いひとつの基準があった。それは、かれを父に推薦した重役たちの意見が、
 「秀忠さまは御性格が温和であられる。これからの世の中は、いたずらに武力を誇るような人物ではなく、徳望によって人々を魅きつける資質が必要です」
 という項目があった。秀忠はこれを利用しようと考えた。ということは、
 「自分が生まれつき持っているといわれる徳量を、さらに増やして発揮することだ」
 ということである。かれは自分の生き方をこの一点に集中した。
 「それが、二代目としてのオレの生き方なのだ」
 そう決めてしまうと、大きく通が開けた気がした。
 以下は、徳量を再生産し付加価値を生ずることによって、持ち前の徳望を人々に印象づけようとした、秀忠の努力のエピソードである。

■胸中の家康と対話することで徳川家光は赤面恐怖症を治した

<本文から>
 信じていた春日局に心をズタズタに切られて、家光はヤケを起こし、そういうダダをこねた。いままでの春日局なら、こういう家光をみたら、
 「ああ、ごめんなさい。いいすぎましたね」
 といって、家光を抱きしめたことだろう。しかし、今日は考えがあるので、そんなことはしなかった。彼女は冷静に語りつづけた。
 「ご病気と思ったらいかがでしょう?」
 「何?」
 「いまのご性格を病気と思うのです」
 「病気じゃない、性格だ。性格は直らない」
「ですから病気と思うのです。病気なら癒ります」
 「たとえ病気だと思っても、癒せる医者なんかいない。医者の手にも負えない病気だ」
 「いい、え」
 春日局は微笑んだ。
「お医者様はおります」
「どこに?」
「あなたのお心の中に」
「私の心の中に? 誰だ?」
「おじいさまです」
「おじいさま?」
「え、え、あなたを、はっきりつぎの将軍様になさった方です。あなたは、そのことがなくでも、普段からおじいさまをご尊故になっておられるでしょう?」
「うん、私もおじいさまのようになりたいとねがっている」
「ならば、これからはいつもおじいさまに診ておもらいあそばせ。人の前に出て顔が赤くなった時はすぐ、おじいきまのお顔を思い出されて、どうしたらいいでよう? とおたずねあそばせ。ご自分のお考えを人にお話しになりたくても、思うようにことばが出ない時は、おじいさま、どうすればスラスラ話せるようになりますか? とおたずねあそばせ。おじいさまは、きっとお答えになって下さいますよ。そうすれば、きっとあなたのご病気も癒ります」
「……」
 唐突な春日局の提案は家光をとまどわせた。が、その考えは家光の胸に光を与えた。かれはやがて、
「そううまく行くかな?」
 ときいた。春日局はうなずいた。
「行きます。あなたがおじいさまをお信じになるかぎり」
 「うん」
 家光にも少しずつ春日局のいうことがわかった。春日局のいうことは、
 「胸の中に、いつも一番信じている人のおもかげを抱いていなさい。そうすれば必ずその方が、困った時に勇気づけてくれるでしょう」
 ということだ。いわば自己暗示的精神管理なのだろうが、家光にはこれが効いた。それは春日局自身が、自分も胸の中に徳川家康のおもかげを抱いていたからである。そうなると家光との間で交流ができた。家光が、
 「このことについて、おじいさまがこう申された」
 というと、春日局は、
 「うそでしょう。私にはこう申されましたよ」
 と応ずる。そこで議論がはじまる。これがいい帝王学になる。家光はどんどん変わって行った。やがて人前に出ても顔を赤くしなくなった。ハキハキものをいうようになった。
 そして面白いのは、かれが家康を利用しはじめたことだ。それは、むずかしい問題を、
 「昨夜、夢の中でおじいさまがこう仰せられた」
 といって、強引に納得きせてしまう技術までおぼえたことである。家光は、歴代の中でも、もっとも英明で決断力のある将軍といわれた。春日局の、家光の赤面恐怖症退治方法には、今日でもまなぶところがあると思う。

■西郷隆盛と橋本左内

<本文から>
 その意味では、西郷が終生、
 「橋本左内は、オレの親友だった」
 といい続けた言葉の底には、ちょっと別なものを感じないわけにはいかない。はっきりいえば、橋本左内は西郷にとって、単なる親友ではなく、ライバルでもあった。これは、親友論として、今でも通用することではなかろうか。つまり、
 「親友とは、半分はライバルだ」
 といえる。自分にない物を持っているからこそ、その人間を信頼するのであり、時には師として学びとろうという態度をもつ。それがなければ、親友ではない。
 西郷は、心を改めて自分より年下の橋本左内から、多くを学びとろうとした。学びとろうとした最大の物は、橋本左内における、
 「老成主義」
 である。老成主義とは、こどもっぽさを捨て去って、大人の心になって、物事に対処するということだ。従って、合理主義、あるいはクールな判断などがその主体になる。ところがその頃の西郷には、そんなものがまったくなかった。橋本左内が、

 「あなたは感激オンチだ」
 といったように、すべて″情″によって判断していた。情というのは心だ。すなわちハートのことである。西郷は、頭を大切にしない。胸で感じたことをモノサシにして生き抜いてゆく。単なる勘ではなく、西郷が感じとるインバタトの底には、必ず"感動"があった。西郷は、この感動を大切にしていた。

■再雇用を願った西村は主君・蒲生氏郷を投げ飛ばす

<本文から>
一数年たった。重役が、
 「いかがですか? そろそろ西村をよびもどしては」
 といった。氏郷は、
 「そうだな」
 と考え、
 「そうしよう」
 とうなずいた。氏郷もずっと気にしていたのだ。
 西村は戻ってきた。苦労したのだろう。痩せていたが、明るい目で、
 「ごぶさたしました」
 と笑った。
 「元気か?」
 「はい」
 「よし。元のポスト(現代のことばでいえば)に戻れ」
 「ありがとうごぎいます」
 礼をいう西村に氏郷がいった。
 「おい、久しぶりにスモウをとろうか?」
「は?」
「庭におりろ」
 氏郷は先に庭におりた。西村に重役が注意した。
「おい、西村。今日は負けろよ、決して勝つんじゃないぞ」
「……?」
 西村は重役をみかえし、その心づかいを知ってうなずいた。が、庭におりて、まわりをグルリとかこんでいる若い侍たちの顔をみると気が変わった。若者たちは西村を、
「スジを通す人」
 としてあこがれていた。おベッカ使いの多くなったこのごろ、西村は伝説の人だった。
一方、氏郷は西村が失業生活で痩せてしまったので、
(今日は勝てる)
 と思った。
 スモウがはじまった。やがて西村は氏郷を投げとばした。声があがった。重役たちは絶望と不安の、若侍たちは大変なよろこびのそれだった。
 氏郷はくやしがった。そして、
「もう一度だ!」
 と叫んだ。西村に重役がささやいた。
「こんどは負けろよ。もし、こんども殿さまを投げとばしたら、おまえはまたタビになってしまうぞ」
 といった。
 西村は迷った。
 (そうかも知れないな)
 と不安になった。そして、
 (負けたほうがいいかも知れない)
 と思って氏郷に組みついた。そしてワザと負けかけた。が、その西村を若者たちがひたむきな目で見ていた。それをみると西村は、
 (こいつらを失望させたくない!)
 と感じた。そこで押しかえし、また、氏郷を投げとばしてしまった。重役たちは、
 「ああ」
 と声をあげ、このバカ! という顔で西村をみた。若者たちは手をたたいてよろこんだ。
 ころがった氏郷が立ち上がっていった。
 「えらいぞ、西村」
 「は?」
 「貧すれば鈍す、ということばがある。失業して生活が苦しくなると、人間の心はイヤしくなる。勝てるスモウにもワザと負けるようになる」
 「はい」
 「が、おまえはそうしなかった。西村」
 「はい」
 「もし、今日おまえがワザと負けたら、おれはおまえをもう一度クビにするつもりだった。しかしおまえはおれを投げとばした。昔どおりのおまえで、うれしいぞ」
 「はい!」
 氏郷も人物だった。

■罰を自分で体験してからムチの刑を設けた堀直政

<本文から>
 若侍はムチをもった。しかし、手がふるえて叩けない。早く殴れ、と催促する堀に促され
て、若侍はそっとムチをふった。堀は怒った。
 「バカやろう。そんなくすぐるような叩き方で、犯罪人が罪を反省するか。もっと強くなぐ れ!」
 若侍は、前よりももう少しカを入れて叩いた。が、堀は首を振る。
 「まだタメだ!」
 若侍は次第に力を込めて叩いた。堀の背中の肉は、真っ赤になり、やがて破れて血がにじんできた。
 「うむ、そうだ。そうだ」
 首を振りながら大きくうなずく堀は、かみしめるように背中の痛さをこらえた。やがて、
 「もう、いいだろう。そのくらいが限度かも知れない」
 自分で納得した堀は、着物を着ると、座敷に上がってきた。そして、自分を叩いた若侍に、
「いやな役をよくやり遂げてくれた。ボーナスは奮発してやるからな。さあ、飲め」
 といって酒を勧めた。半泣きになった若侍は、
 「申しわけありません。どうぞご勘弁ください」
 と謝った。堀は、
「何をいうか。おまえは、いやな役をやってくれた。おかげで、おれも自信がついたよ。これから、このくらいのカを込めて、ムチの刑を設けることにしよう」
 と告げた。
 これは、何もムチで叩くという体罰だけでなく、今のビジネスマンの社会でも、十分活用できることだ。つまり、社員たちに何かの罰を与えるときは、与える人間が、
「その罰は、本人にとって、どれほどの痛みを覚えることなのか。我慢できる限度なのか、それともがまんできないものなのか」
 ということを考えるということだ。
 昔の人間は、罰ひとつ加えるのにも、なかなか人間味があったのである。

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