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<本文から>
老中田沼意次は江戸神田橋に屋敷を持っていた。毎日朝早くから多くの人が押しかけた。みんな金品を持ってきた。いまの言葉を使えば請託を行うためだ。金品を贈って、なんらかの役職にありつくか、仕事にありつこうとする連中だ。
田沼沼意次はこういう連中の訪問を拒まなかった。
かれが朝、
「庭の池に錦鯉が泳いでいると引き立つのだがな」
とつぶやいて江戸城へ出ていくと、戻ってきたときには池の中は、おびただしい錦鯉がバシャバシヤ波を立てて泳ぎ回っていたという。それほどかれの権勢は凄まじかった。
平戸の藩主に松浦静山という人物がいた。なかなかの風流人で「甲子夜話」という本を残している(平凡社の東洋文庫)。この本の中に、田沼邸に訪れる人々の描写がある。
それによれば、
「田沼邸では、広間といわず廊下といわず訪問者がひしめいていた。廊下にはそれらの連中が持ってきた金品が山と積まれていた。田沼と直接話すことは容易ではなかった。が、田沼意次は江戸城から戻ってくると、訪問客の間を爽やかに渡りながら、一人ひとりに声を掛けた。掛けられた方は感動して、顔を真っ赤にしてしまう。田沼は、こういう連中を喜ばせることが非常にうまかった・・・」
正確ではないが、今の文章に直すとそういうことが書いてある。
そして面白いのは、
「その訪問客の中に、白河藩主松平定信もいた・・・」
ということだ。これは一体どういうことなのだろうか。
「中央に出て国政を運営する幕府老中になりたい」
という青雲の志を抱いた松平定信は、その手段として明らかに時の実力者田沼意次への接近を図っていたのである。このへんは、なまじっかな士やではできない。後に、九州唐津藩主だった水野忠邦が、かれもまた何とかし幕閣中枢部へ乗り出したいという悲願を持ち、賄賂作戦を展開する。松平定信が果たして金品を携えて田沼邸を訪れたかどうかまでは明らかではない。しかし、こういう姿勢は普通の人間にはできない。田沼邸を訪れればもうそれだけですぐ噂になるからだ。
「白河藩主松平走信殿が、田沼邸にみえた」
「かれは、田沼によって奥州に追われたのではなかったのか?一体どのツラ下げて田沼邸を訪問しているのか?」
などといわれることは当然だ。定信もそれは承知していた。しかしあえてこういう行動をとったのは、たとえ世間の目にさらされても田沼邸を訪れた方が、今後の自分にとって得策だと考えたからだ。
もう一つある。こういう時の松平定信の胸には当然すさまじい屈辱感が湧くはずだ。が、屈辱感を感ずれば感ずるほど胸の中では逆に、
「いつかみておれ」
という闘士心が湧いてくる。屈辱感が積み重なるに従って、それが発酵し熱を持ったパワーを生む。いってみれば、人間にとって屈辱感というのはある行動を起こきせるバネになるのだ。つまり行動のモチベーション(動機)である。
松平定信は田沼邸を訪問するたびに味わう屈辱感を、自分の青雲の志を実現するバネに使った。胸の中では、
(田沼め。老中になった威きにはかならず追放してやるぞ)
と思っていた。
田沼の方にすれば、松平定信に対してはやはり一種の後ろめたさがある。恨まれても当然だ。にも拘わらず定信の方から訪ねてきた。これは悦しい。そうなると田沼も定信のために、何かと便宜を図る。幕府のいいポストに就けるように周旋もする。このへんは田沼は人が好い。 |
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