童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          江戸の経済改革

■享保改革は市民消防など公助、互助、自助の改革

<本文から>
 武士消防だけであって、
 「市民消防」
 というものがない。吉宗は、
 「自分の生命財産を守るためには、市民も自分たちの手で努力しなければだめだ」
 と告げた。大岡はその意を察して、江戸の町々に呼びかけた。江戸の町々も賛成し、
 「いろは四十人組」
 の市民消防組織をつくつた。これは吉宗の改革理念が、
 「バランスシートの貸方・借方の赤字だけを克服しても、真の財政再建は、日本人の心の赤字を克服することにある」
 と考えたことに発する。しかし吉宗は、
 「そうは言っても、"水は方円の器に従う"という言葉がある。方円の器というのは、四角い容器や丸い容器を言う。水は柔軟な存在だから、容器いかんによって自分の姿を変える。人間も同じだ。したがって人間の心を良質なものにするためには、町づくりも欠くことはできない」
 と考えた。しかし、町づくりといっても金がかかる。そこで吉宗は、
・年貢(税)によって考えるべき仕事。
・地域(町会)などで考えるべき仕事。
・国民個人が自分で努力すべき仕事。
 の三つに分けた。今の言葉を使えば、
 「公助、互助、自助」
 である。この、
 「ハード・ソフト両面にわたる改革」
 が、その後の革府の改革や、名産の改革の手本にされたゆえんだ。
 江戸時代の元禄バブル経済が崩壊した後、徳川吉宗が展開した、
 「享保の改革」
 は、もともとは、
 「少子化対策」
 から始まった。

■松平定信は最初の「敬老の日」設定と「公立公園の造成」を行う

<本文から>
松平定信は、日本最初の「敬老の日」設定と「公立公園の造成」の二つを、地方自治体の首長として白河藩政で成功させた。その精神を、老中になってから徳川幕政に持ち込んだのである。そして寛政の改革を展開中に経験したことを、老中を辞めた後に再び白河藩政に活用している。
 「敬老の日の設定」
 は、かれが拠点である白河城(小峰城)に、
 「七十歳以上の老人」
 を集めては、会食しながらいろいろな意見を開いたことである。この会を、
 「尚歯会」
 と名づけた。尚歯というのは、
 「高鈴者を敬う」
 ということだ。なぜ、かれが七十歳以上の高齢者を集めて意見を開いたかと言えば、かれ自身は次のように語っている。
・人間にはそれぞれ育ちや個性がある。同じように国にも歴史やあり方がある。それを一番よく知っているのは高鈴者であるあなた方だ。
・また、非常のとき、過去の体験からどう対処すればいいかを知っているのもあなた方高齢者だ。これは、あなた方の皺と皺との間に経験という貴い宝石が挟まっているからだ。
 「どうか、その宝石を未熟なわたしのために差し出して欲しい」
 という謙虚な申し出であった。高齢者たちは感動した。思い思いに、自分たちが考えている、
 「よりよき藩政のための意見」
 を提供した。特に老人たちが心配したのは、藩主である松平定信が若年にもかかわらず、非常に質素な暮らし方をしていたことである。老人たちがあるとき開いたことがある。
 「殿にとって、この世の中で一番の楽しみは何でございますか」
 すると定信は、ちょっと顔を赤くしてはにかんだ。しかし、目を輝かせてこう言った。
 「わたくしにとって、一番のよろこびは、あなた方のような高齢者が幸福だと感ずるような政治を行うことです」

■安藤直次は中間管理職のモラールアップに成功

<本文から>
安藤直次が心配していたのは、こういう、
 「中間管理職層のモラールダウン (やる気のなさ)」
 である。したがってかれが、
 「座りの悪いところを、直属上司に開いてこい」
 と言って下級武士を自分の戦場に差し戻したのは、言ってみれば、
 「やる気のない中間管理戦への批判」
 もあった。しかし、直次のやり方には温かい愛情がある。
 「おまえの部下が書いてきた意見書の中で、この座りの悪いところをしっかりと書き直させろ」
 ということは、
 「中間管理職よ、もう少ししっかりしろ」
 という家老としての励ましであった。総務部長として、城全体の管理職に対して、かれは警告を発したのである。裏返せば、
 「おまえたちがボヤボヤしているから、部下が殿と直結してしまうのだ」
 ということだ。そしてもう一つ、座りの悪い一方所を直すということは、全体をしっかりとらえていなければならない。つまり、
 「この意見の中で、なぜこの一カ所の座りが悪いのか?」
 ということを確かめるためには、その意見書をしっかりと読み抜いて、部下が、
 「何をメッセージとして送りたいのか、提案したいのか」
 ということを把握しなければならない。同時に、
 「この提案が、紀州徳川家の将来にどういう貢献度があるのか」
 ということも考えなければならない。中間管理職たちの城下町での居酒屋で話す話題が変わった。それは互いに、
 「今日は部下からこういうことを汚かれた。オレはこう答えておいたが、はたして正しかったのだろうか」
 という確認が主になったことである。これに対し、
 「それは正しい」
 とか、
 「いや、もう少しこうしたほうが良かったのではないか」
 というような建設的な意見も次々に出てきた。つまり、中間管理職もかれらなりに、
「安藤ご家老が差し戻してきたときには、すぐその座りの悪い一方所を直せるようなカをわれわれも養わなければならない」
 と考えたのである。
 そしてやがて、若い武士が直凍安藤直次のところへ行こうとするときに、
 「オレもいっしょに行く」
 と言い出すようになった。
 「でも」
 ためらう若い武士に中間管理職はこう言う。
 「オレがいっしょに行けば、座りの悪いところをその場で直すことができる。そうすれば時間を短縮して、おまえもすぐ殿のところへ行けるではないか」
 言われてみればそのとおりだ。こういう方法がはやり出した。直次は満足した。頼宣も自分の気の短さに気が付いた。やがて頼宣は、若い武士たちとの直結主義をやめた。
 「城内の運営は組織によって行われている。組織には秩序が大切だ。おまえたちも、雨降って地固まる的にその秩序を取り戻した。今後は、安藤の命令によって、城の仕事を行うようにせよ」
 と言った。しかしこの場合考えなければいけないのは、安藤直次の、
 「この座りの悪いところを、直属上司の意見を開いてこい」
 ということは、安藤のほうでもその直属上司のことをよく知っていて、
 「あいつならこう言うだろう」
 という見通しを持っていたからである。ただやみくもに、若い武士を上司のところに戻したわけではない。そうなると総務部長として、安藤直次は、
 「和歌山城内の中間管理職の性格や能力を全部把握していた」
 ということになる。これが安藤のすぐれたゆえんであった。
 安藤直次がえらかったところは、
 「だれも傷つけなかった」
 ということだ。

■梅田雲浜は倒幕のために産業振興を促す

<本文から>
「政治活動を行うにも何といっても資金が必要だ。今の長州藩は、必ずしも資金が潤沢ではない。それを増やすような方策に自分がチエを貸そう」
 ということだ。だから、梅田雲浜の考えは、
・最後の目標はあくまでも徳川幕府を倒すことである。
・そのパワーの主力になるのは長州藩だ。
・倒幕のパワーになるためには、何といっても資金が必要だ。
・長州藩はその資金が目下潤沢とは言えない。
・だから自分がチエを貸して、長州藩の産業振興を行い、産品を他国に輸出しておおいに利益を得るように仕向ける。
・そのために長州藩に第三セクターをつくり、自分も上方に第三セクターをつくる。
・この第三セクター同士の交流によって、長州藩も富み、同時に自分も富む。
・そのためには、今から第三セクターを運営するパワーを養っていたのでは間に合わない。
・すぐ間に合うような既成のパワーを活用する。
 ということであった。

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