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<本文から>
武士消防だけであって、
「市民消防」
というものがない。吉宗は、
「自分の生命財産を守るためには、市民も自分たちの手で努力しなければだめだ」
と告げた。大岡はその意を察して、江戸の町々に呼びかけた。江戸の町々も賛成し、
「いろは四十人組」
の市民消防組織をつくつた。これは吉宗の改革理念が、
「バランスシートの貸方・借方の赤字だけを克服しても、真の財政再建は、日本人の心の赤字を克服することにある」
と考えたことに発する。しかし吉宗は、
「そうは言っても、"水は方円の器に従う"という言葉がある。方円の器というのは、四角い容器や丸い容器を言う。水は柔軟な存在だから、容器いかんによって自分の姿を変える。人間も同じだ。したがって人間の心を良質なものにするためには、町づくりも欠くことはできない」
と考えた。しかし、町づくりといっても金がかかる。そこで吉宗は、
・年貢(税)によって考えるべき仕事。
・地域(町会)などで考えるべき仕事。
・国民個人が自分で努力すべき仕事。
の三つに分けた。今の言葉を使えば、
「公助、互助、自助」
である。この、
「ハード・ソフト両面にわたる改革」
が、その後の革府の改革や、名産の改革の手本にされたゆえんだ。
江戸時代の元禄バブル経済が崩壊した後、徳川吉宗が展開した、
「享保の改革」
は、もともとは、
「少子化対策」
から始まった。 |
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