童門冬二著書
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          江戸の大名 人物列伝

■前田利常 お家の基礎固めのため鼻毛伸ばしを演出した大名芸

<本文から>
 守ることの難しさは、戦いでも財産でも同じである。とくに、先代から大きな遺産を渡されたとなるとなおさらだろう。戦争がないというのは後継者には好都合でも、財産をふやす機会も少ないということである。加賀百万石の前田氏は大変だった。旧封地の八三万五〇〇〇石を三六万石加増され、一一九万五〇〇〇石として次代に引き継がれたのである。関ケ原合戦以来の初代利家の力の証だろうが、次世代の責任者が素直に喜んだかどうか。三代目はつらさが先に立つ。利常はいろいろな策を弄した。
 江戸域のなかの「小便禁止、罰金黄金一枚」の立札の横で、平然と放尿をやった。
「大名ほどの者が、黄金を惜しんで、小便をこらえることができるかっ!」
 と言い放った。もちろん利常は黄金一枚をその場に放り投げて、悠然と立ち去った。幕間の実力者たちは「バカ殿め、どうにもならぬ」とその卑俗な行動を嘆き、家臣たちは、さすがわが殿、将軍の威光をも恐れぬ稚気満々の抵抗と、わが田に水を引く。すべて利常には計算済みだった。
 また、利常はいつも鼻毛を伸ばしていた。近習の者があるとき、入浴時用の毛抜きを買って来て、利常に上皇した。利常は翌日老臣たちを一堂に集めて言った。
 「わしの鼻毛が伸びているのを、笑止に思ったり不思議に存じておる者もあろう。世間が鼻毛を伸ばしている者をうつけ者と申しておることなど百も承知じゃ。いつだったか安房守(本多氏)が鏡をくれた。また、こんどは坊主が鼻毛をぬけとでもいいたいのだろうが、道具をわしにくれた。お前たちが裏で指図をしたのであろう。お前たちの思いは、おおよそ察しがついておったが、わしは鼻毛を伸ばしたままにしてきた。その理由はな…」
 老臣たちは、ばつが悪そうにしていたが、いっせいに首を伸ばした。
 「今や、わが藩は大名中の上座にある。最高の石高と日本中に知れ渡っておる。もし、わしが利発ぶってそれを鼻にかけたら、幕閣はわしの心中を探ろうとし、みなの者も難儀をうけることになろう。前田はうつけ者よと思わせておけば三か団(加賀、能登、越中)も安泰、みなも万々歳で暮らせるというわけじゃ」
 生まれながらにして大名の風格を備えた利常は、鼻毛で家格を守り通したわけだ。

■島津家久 硬軟の姿勢を使い分けて本領安堵を勝ちとった外交手腕

<本文から>
関ケ原の合戦は徳川家康の東軍の圧勝に終わった。心ならずも石田三成らの西軍に加担した島津義弘は、大胆不敵にも東軍の中央を突破して戦場を離脱し薩摩に帰国した。戦後、西軍に加担した諸大名は改易あるいは大幅な減封処分にあった。毛利輝元などは中国路八カ国を召し上げられ、長門・周防の二カ国に押しこまれた。いっぽう、敵中突破した島津氏のほうは無事に薩摩と大隅の本領を安堵されている。そのちがいはどこからきたのだろうか。
 関ケ原の合戦後、父義弘のあとをついで当主となっていた家久は国内の要地に兵を配して家康の出方をうかがった。いぎとなれば徹底抗戦の構えだった。そこへ山口勘左衛門という者が家康からの問責使として薩摩におもむいた。家久と会見した勘左衛門はやおら虫籠を取り出し、「進呈いたしましょう」と家久の前に置いた。籠の中には蛸榔(カマキリ)がいる。家久はすぐにピンときた。これ以上家康に対抗するのは蛸榔の斧と同じこと。無駄な抵抗はするなと勘左衛門は言っているのだ。
 「これは返上つかまつろう」
と家久は斧を振り上げている蛸郷の籠を勘左衛門に差しもどした。いざとなれば敵わぬまでも一戦を辞さぬという気構えを見せたのである。
 家久その後の交渉は家臣の鎌田政近に任せた。政近は勘左衛門に咳呵を切った。
 「わが薩摩が関ケ原で西軍に加担したのは、ひとえに豊臣家の御恩に報いるためである。家康公ならそのあたりの道理はお分かりのことであろう。もし不承知なら、いつでも攻めて来られればよろしい。薩摩隼人は最後の一兵まで戦い抜く所存である」
 そうした強硬な姿勢を示すかたわら、家久は家康側近の井伊直政らを通じて謝罪嘆願を続けていた。こうなると家康としても考えざるをえない。薩摩隼人の勇猛さは、先年の朝鮮遠征での奮戦ぶりや、今回の関ケ原での敵中突破で実証ずみだ。豊臣氏を倒して徳川氏の天下を磐石なものにするという大事を控えているいま、島津氏と事を構えるのは得策ではない。もし島津氏が捨身で抵抗してくれば諸大名が一斉蜂起する危険性がある。
 そうした事情を勘案し、ついに家康は島津氏の本領を安堵したのだった。硬軟を巧みに使い分けた家久の外交の勝利だ。

■小堀遠州 茶道の創始者となった文化人

<本文から>
遠州の名の通り、遠江の大名で、遠州流茶道の祖となったこの人物には、おもしろい逸話が残っている。風流人としてのおかしさのなかに、江戸初期の文化人らしい奇骨が感じられる。小堀遠州(名は政一)が二〇年余り伏見奉行職にあったころ、大坂の茶人・上林竹庵が京都の茶人を二人ほどつれてやって来た。
「やあ、よけところへおいでなさった。いま用事もすんだところですので、路次を通って茶室へお入り下さい」
と三人にすすめた。名高い遠州の手並みに接することができるものと、竹庵たちは大喜びで、表から裏路に進んだ。折りしも六月の夕立のころで、雨がさわがしく降ったあとは、からりと晴れて涼しい風がそよそよと吹き渡っていた。庭の樹木の葉も美しく輝いて見える。
 三人が案内人の導きにしたがって茶室に入ると、なにも花のない床の間の壁に、さっと打ち水をしたようなあとだけが見えた。竹庵たちは声を失った。
 どうしたことか、と不思議に思っているところへ遠州が微笑を浮かべつつやって来た。
「お待たせして痛み入る。今日は折からの夕立、道々の樹木がぬれそぼち、葉も花も洗われて目が覚めるみごとさです。だから今、床の間へどんな美しい花を活けたとこをで、その生き生きとした新鮮さは比較になりません。…それで、ご覧の通りです」
 「ああ」
 三人はみな感嘆このうえもなかった。
 その後、京中の茶人たちは雨さえ降れば床の間をぬらし、なにも花を活けなくなった。この風習はひとしきり続いたという。そのうわさを耳にして遠州が笑った、という後日諾があるが、宗匠の作意を知らない生茶人がなんと多いことかと、また世間では評判になったという。
 秀吉のあと、家康に仕えて遠江で一万石余をたまわる。
 のち秀忠・家光に出仕して作事奉行となり、名古屋城天守、伏見城本丸、大坂城本丸工事を担当した。千利休、古田織部と並ぶ三大茶人の一人、冷泉為満に学んだ歌人、定家流書家、遠江庭園など、いずれも一流の文化人である。

■島津斉彬 「日の丸」の提案者

<本文から>
幕末第一の明君といわれ、時代を明治維新に導く原動力となったのが薩摩藩(七二万九〇〇〇石)の二代藩主の島津斉彬である。
 嘉永六(一八五三)年一一月、幕府はこれまでにない大船を製造することになった。蒸気船である。そこで試作をだれに依頼したらよいものか、閣老の阿部正弘は考えた。その結果、江川英竜と知り合いの島津斉彬にきめた。英竜は本名だが、通称は太郎左衛門の名で知られる。蘭学を修め、砲術を学び、練兵・測量・洋算などにすぐれ、反射炉の建設までした伊豆の代官であるまさに適役だった。
 翌安政元(一八五四)年六月、正弘に会ったとき、斉彬がたずねた。
 「目下製造中ですが、大型船完成のうえはいずれ外海に出なくてはなりません。琉球とも往来いたしましょう。もし大風波にあって、いずれの団かに漂流することも考えられます。そんなときにわが国の船舶の総印というものがなくてはなりません。つまり、わが国の旗の制定ということになりましょうか。もはやお考えのこととは思いますが、この点いかがですか」
 これには老中主座をつとめるほどの阿部正弘も顔色を失った。
 「いや、用務多忙のためもあって、まだ定めてはいない」
 斉彬が黙ったままでいると、正弘はたたみかけるように早口でこう付け足した。
 「どうであろうか。もし貴殿にお考えがあるならば、そっと内示してもらいたいのだが」
 そこで、はばかり多いことながら、と前置きをして斉彬が口を開いた。
 「実はほぼ見込みがついております。つまり、日本の名義に対しましても日の丸がよろしかろうと思います」
 「なるほど、それはもっともな案」
 と阿部正弘が答えたとき、日の丸が単なる戦国武将の族印からわが国の国旗として制定の方向へむかったのである。
 翌七月、阿部正弘の書付けをもって、「大船製造については異国船にまぎれざるよう、日本船の印は白地に日の丸の旗を相い用いるよう」と通達された。
 その二年後、注文通りの蒸気船・昇平丸が日の丸の旗をなびかせて品川沖へ回航された。
 こうして斉彬の発案になる「日の丸」は今や国旗として日本全土にゆきわたり、船舶に限らず国際交流・文化活動・スポーツなどを通して、世界中に展開しているのである。

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