童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          江戸の怪人たち

■五兵衛は生きているというだけでまわりの人間に温もりを与える

<本文から>
  「弁舌さんは、この世の中で動いているのは、天ではなくて、地面だというのです」そして、五兵衛に、「そんなバカなことはありませんよね?動いているのは、天の方ですよね?地面は決して動きませんよね?」といった。五兵衛は苦笑して弁舌を見た。弁舌はニヤニヤ笑っていたが、自説を引っ込めようとはしない。五兵衛の顔を見て、
「コペルニクスという外国人がいっていますよ。動いているのは、地べたの方です。天じゃありません」
 大野弁舌は、すでに地動説を知っていた。だから、科学的知識として、五兵衝の息子にそのことを話していたのだ。が、息子の方は納得しなかった。たちまちくってかかった。
「それなら、地べたが逆さになった時、なぜ海の水が、空にこぼれないのですか?」
 弁舌は、息子の方に向き直りこういった。
「それは、この地べたの真ん中に、海を引っぱる力があるからだよ。引力といっているけどね」
「インリョク?」聞き返す息子には、何のことかわからない。五兵衛は、ひとりでクスクスと笑った。ムキになって、そういう論争をしている弁舌と息子の姿がおかしかったからである。そして同時にまた、五兵衛は弁舌のそういうところに、この男の人間の質の良さを感じた。何ともいえない膨らみのある温か味を感ずるのだ。そう考えると、五兵衛は、
(何か事が起こった時に、絶対こいつを巻き添えにすることはできない)と思うのだ。
(この男は、ただ生きているというだけで、まわりの人間に温もりを与える)と思っていた。

■豪商「浜口梧陵」

<本文から>
「海に国境はない」
 といったのは、江戸末期の経済学者本多利明である。この説には、多くの海の商人が共鳴した。その代表が、加賀の銭屋五兵衝である。しかし、銭屋は、本多利明のこの説を、鎖国という当時の伽を破って、無定限、無定量に活用したため、その行動範囲が遠くオーストラリアからアメリカにまで及び、やがて″密貿易者″の汚名のもとに、処刑されてしまった。そこへ行くと、海に国壌がないということを底流に置きながらも、徳川幕府の権力の枠の中で、海の活動に努力した海商が沢山いる。高田屋嘉兵衛もそうだし、高田屋嘉兵衝の強い支持者になった楢原角兵衛もそうだ。箱館の渋田利右衛門もそうだし、また今回書く紀州湯浅の浜口梧陵もそうだ。浜口梧陵は、紀州では″広の浜口、栖原の角兵衝″といわれた。共に紀州湯浅の海南だ。
 浜口梧陵は″稲むらの火″という話でよく知られている。浜口家は醤油の製造業者で、黒潮を伝わって、関東の房総半島にも拠点を設けていた。銚子や野田のヤマサやヒゲタなどはその流れだ。もちろん浜口家だけでなく、岩崎、古田らの豪商も、この地域に乗り出している。つまり、銚子醤油の基礎をつくったのは、紀州湯浅の醤油製造業者たちであった。
 ″稲むらの火″というのは、安政元年(一八五四)に、この地域を襲った大地震による津波の時に浜口梧陵がとった対応策の話だ。丁度、その年の稲の取り入れが済んで、刈られた稲が稲むらとなって田に積まれていた。村人は、豊年を祝って酒を飲んでいた。浜口梧陵もその席にいた。突然、梧陵は家が大きく揺れるのを感じた.
 「地震だ」
 梧陵は呟いた。しかし、酒に酔った脇の農民たちは気付かない.
 「地震だぞ」
 梧陵がそういったが、農民たちは笑って相手にしない。
 「浜口さんは、酒に酔っておいでだ。体が揺れたのを、地震だと勘違いされたのでしょう」
 と笑った。みんな、同調して手を打った。
 「そうかな」
 呟いた梧陵は外に出た。そして、海を見た。しばらく経つと、海の上に大きな黒い山ができた。こっちへ向かっている。梧陵にはそれが何だかすぐわかった。
 「津波だ!」
 しかし、酔って騒いでいる農民たちに、そのことを告げてもすぐには対応できまい。急を町知らせるにはどうしたらいいか。非常手段がいる。梧陵は、田の中に走り込むと、積んであった稲むらに火をつけた。稲むらはたちまち燃えあがった。やがて、天に吹き立つ炎を見て農民たちも騒ぎはじめた。
 「浜口さんが稲穂を焼いている! 浜口さんは気が触れた!」
 しかし、梧陵は、
 「沖を見ろ! 津波が来るぞ」
 と叫び続けた。農民たちもようやく気がついた。それまで、
「せっかく刈ったばかりの稲に火をつけるなんて、何ということをする人だ!」
 と怒っていた農民たちも、今は押し寄せる津波の恐ろしさに呆然とした。梧陵は、
「とりあえずの財産を持って、家族を連れ、山の上に逃げろ!」
 と追いたてた。この浜口梧陵の思いきった手段によって、村人たちは全員救われた。梧陵は、この時の経験を基に、広村一帯に大堤防をつくった高さ四・五メートル、根幅二十メートル、上幅七メートル、さらに全長六首七十三メートルもある大境防である。しかも二段構えになっていて、津波が前面の低い壕防を乗り越えて来ても、この大堤防で食い止めようという段取りだ。しかも、前の堤防と新しく築いた堤防の間には、黒松を二列に植えるという念を入れた。この堤防は、昭和二十一年(一九四六)の南海大地震の時、津波を、見事に食い止めた。
″稲むらの火″の話は、ラフカディオ・ハーン(小泉八裏)が、″ア・リング・ゴッド″として、世界に紹介している。

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