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<本文から>
「弁舌さんは、この世の中で動いているのは、天ではなくて、地面だというのです」そして、五兵衛に、「そんなバカなことはありませんよね?動いているのは、天の方ですよね?地面は決して動きませんよね?」といった。五兵衛は苦笑して弁舌を見た。弁舌はニヤニヤ笑っていたが、自説を引っ込めようとはしない。五兵衛の顔を見て、
「コペルニクスという外国人がいっていますよ。動いているのは、地べたの方です。天じゃありません」
大野弁舌は、すでに地動説を知っていた。だから、科学的知識として、五兵衝の息子にそのことを話していたのだ。が、息子の方は納得しなかった。たちまちくってかかった。
「それなら、地べたが逆さになった時、なぜ海の水が、空にこぼれないのですか?」
弁舌は、息子の方に向き直りこういった。
「それは、この地べたの真ん中に、海を引っぱる力があるからだよ。引力といっているけどね」
「インリョク?」聞き返す息子には、何のことかわからない。五兵衛は、ひとりでクスクスと笑った。ムキになって、そういう論争をしている弁舌と息子の姿がおかしかったからである。そして同時にまた、五兵衛は弁舌のそういうところに、この男の人間の質の良さを感じた。何ともいえない膨らみのある温か味を感ずるのだ。そう考えると、五兵衛は、
(何か事が起こった時に、絶対こいつを巻き添えにすることはできない)と思うのだ。
(この男は、ただ生きているというだけで、まわりの人間に温もりを与える)と思っていた。 |
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