童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          江戸 人遣い達人伝

■二番手主義で自らの時代の到来を待つ藤堂高虎

<本文から>
 高虎には気質的に、一番手を選ばないという考え方が、ずっと根差していた。しかし、それはたんに処世術だけのものではない。もつと大きな理念があった。その理念とは、
 「戦国を終わらせ、日本を早く平和にしたい。同時に、その平和を維持したい」
という考えである。豊臣秀長も、徳川家康も、この日本の平和化と、その維持については、並並ならぬ意欲をもつていた。戦争をしたからといって、二人を戦争好きだと考えるのは間違いだ。織田信長にしても、その理念の根底にあったのは、
 「戦国の終了」
である。藤堂高虎は、合戦巧者ではあったが、その合戦の多くは調略(策略)におかれている。同時にまたかれには特別の技術があった。それは、築城と都市設計、並びに城下町の管理運営の知識と技術だ。高虎が、日本各地に造った城や建造物はおびただしい。
 最初にかれが造ったのは、宇和島城である。次が伏見城、今治城である。さらに、伊賀上野城、駿府城、丹波篠山城、丹波亀山城、京都御所、淀城、そして江戸城、さらに東叡山上野寛永寺などだ。あるいは、日光東照宮もその範疇にはいる。
 とくに、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍したときに、かれは現地で朝鮮と明(その頃の中国の国名)の城の遣り方を学んだ。その結構をもち帰った高虎は、日本古来の城の遣り方とうまくミックスさせて、輪郭式の独特な築城方法を展開した。全体に、かれの造った城は白亜の壁が輝いて美しい。
 これらの工事を行うために、かれは生まれ故郷の甲良町出身の″甲良大工″と、穴生の石工の集団を抱えていた。また、伊賀上野城に拠点を構えたときに、伊賀忍者と呼ばれる特別な集団を心服させ、その長である服部半歳が臣従を誓ったのも有名だ。高虎は、服部半歳の一族である保田采女という人物に藤堂という姓を与え、後には、家老職にまで重用した。
 かれは、特別な技術をもっていても、社会から正当な光を向けられることなく、どちらかといえば縁の下の力もち的存在であった人々を、明るい日向に出して正当な市民権を与えようとする「技術者重視」の姿勢をもっていた。が、同時に、日本が平和になったときの城や町のあり方を、つねに頭の中に思い描いていた。ということは、かれの″二番手主義″は、
 「平和になるまでの戦争期間は、なるべく目立たないほうがいい」
ということにつながるだろう。一番手に立って、つねに合戦で名を上げていると、
 「藤堂高虎は戦争上手だ」
というレッテルを貼られてしまう。しかし高虎にとって本当にやりたいのは、平和になったときの建造物の建築や、あるいは町の設計やその運営管理だ。その日がくるまでに、自分の能力や力を濫費してしまうと、後に何も残らない。そういうときに自分を完全に使い果たしてしまっていては、肝心なときに役に立たない。それではつまらない。そうなると、やはりモラトリアム(猶予)の期間をもつことが大事だ。そういう考えが、あるいはかれに二番手主義をとらせ、絶対に先頭集団に立たない習性を身につけさせたのかもしれない。言葉を換えれば、
 「自分にとって何が一番大切か」
 その大切なものを有効に生かすためには、どういう状況を選ぶべきか、ということをきちんとみ抜いていたといえるだろう。
 だから、藤堂高虎の場合は、戦国時代を生き抜いてはきたが、かならずしも合戦だけに目を向けて生きてきたわけではない。かれの生き残りとしての特性は、あくまでも、
 「自分の特別技能を発揮できる時代を待つ」
ということであった。だからしいってその時代がくるまで傍観しているわけではない。
 「その時代がきたときに、こういうことは藤堂にやらせればいい」
という声を上から掛けてもらうためには、それなりの実績を積んでおかなければならない。実績を積むとは、そういう技術面での強味が高虎にあるということを折に触れてPRすることと、
 同時に、
 「あの男なら間違いない」
という信用を確立しておくことである。
 藤堂高虎は、合戦の都度大きな功績を挙げた。しかしそれはほとんど一番槍とかではなく、調略によることが多かった。つまり、相手方に血を流させないで、こっち側に寝返らせたり、あるいは、本来なら死罪に相当するような敵の大将も、降伏するとその生命を助けたりしたことなどである。いわば″根回し″である。
 日本平定の功績は、ほとんどが豊臣秀吉に帰一しているが、実際に、中国方面や四国方面、さらに九州方面で活躍し、軍勢の総指揮をとったのは豊臣秀長である。そして、兄秀吉につき従った秀長の赴く所にはかならず藤堂高虎がピタリと脇についていた。 
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■陶山訥庵は優れた農業改革の実践者

<本文から>
 訥庵は、自分のイノシシ退治の計画嘉した。
□対馬藩内を九つの地域に区分する。
□九つの地域には、それぞれ柵を作って区画を作る。
□イノシシは、一区画ずつ全滅させてゆく。
□イノシシ退治はまず北部の豊崎郡からはじめる。次第に南下し、南端のつつ郷に至らせる。
□簡単にはいかないと思う。年月もかかろう。また、動員数も相当なものになると思うが、協力してもらいたい。
 農民たちは、しかし勇んでこの計画に従った。イノシシ退治が開始されたのは、元禄十三年(一七〇〇)のことであった。
 全島を九区画に分けて、一区画ずつ北から南へ次第にイノシシを柵の中に追い込み、退治していった。動員された人の数は、延べ二十二万人に上ったという。そして、南端のつつ郷までイノシシを撲滅しえたのは、じつに宝永六年(一七〇九)のことであった。足掛け十年かかっている。
 その間、郡奉行の陶山訥庵は、陣頭指揮をとり、ときにけがをしながらも最後までイノシシ退治に専念し続けた。
 幕府の隠密も潜入していたらしいが、何も報告しなかった。狭い島で猛威を振るうイノシシをみていては、
「これは殺すほうが正しい」
 と感じたのだろデ。だから、
「対馬藩内で、大掛かりなイノシシ退治が行われている」
 という報告は、ついに幕府首脳部には届かなかった。勇気ある陶山訥庵の行動に、農民たちは絶対的な信頼をおいた。
「陶山お奉行さまは、命懸けでイノシシ退治をしてくださった。これで安心して農業に励める」
 と笑顔を交わし合った。
 訥庵はいろいろ考えた。
「イノシシ退治は、島の農業にとつて根本的な解決ではない。たとえイノシシがいなくなっても、しょせん国土の狭いこの島では十分な農作物は積れない。とくに米が積れない。災害があったり飢饉になったりしたときはどうするか。それを思うとゾツとする。何かほかの代替食糧を考えなければダメだ」
 と感じた。
 そこでかれが目をつけたのが、たまたま九州のほうからきこえてきた甘藷のことだ。見本を取ってみると、甘味があってなかなかうまい。
 (このイモがきっと米の代わりになる。島で栽培すれば、米の代わりにイモが人間に孝行してくれるだろう)
と思った。そこで取り入れた甘藷の種イモを、
「これを孝行イモといおう」
 といって、農民たちに栽培をすすめはじめた。
 陶山訥庵が対馬で甘藷栽培を奨励しはじめたのは正徳五年(一七一五)のことだったという。
 この栽培は成功した。かれはこの経験を基に、享保九年(一七二四)に、「孝行イモ」に関する書物を書いた。これは訥庵の特性だ。何かをけっしてやり放しにはしない。自分がいい出しっペで何かすすめると、かならずその経過を書物にする。
 「こうしておけば、後の世の人が参考にできる」
と思うからだ。
 この頃は江戸でも将軍が第八代徳川吉宗に代わっていた。吉宗は″米将軍″と呼ばれた。
 米将軍と呼ばれるだけあって、吉宗は農業にも深い関心をもつていた。米の増産だけではなく
 「災害時には、米の代わりになる食糧を作っておくべきだ」
と部下に命じていた。この命令に従って、
 「甘藷が米の代わりになるという学者がおります」
 といって、青木昆陽という学者を推薦したのが江戸町奉行大岡忠相である。吉宗は早速、
 「甘藷の試作をさせてみろ」
と命じた。青木昆陽は、いまの千葉県の一地域で甘藷の栽培をはじめた。そしてかれ自身もこの経験から『蕃薯考』という本を書いた。
 しかし、陶山納庵が″孝行イモ″の本を著わしたほうが、十年も前のことである。
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■まず鳥を射た大岡忠相

<本文から>
 年の功を嫌味なく表わして、まるで仏さまのような態度だ。
 (この謙虚な態度が、おそらく江戸市民から絶大な信頼を受け、十九年の長きにわたって町奉行という難しいポストを務めえたのだ)
 と、相手をした用人たちは一様に感じた。
 寺社奉行と奏者番を兼ねている若い大名たちの家を歴訪した大岡は、直接大名に面会しないで、用人に合った。これは計算したわけではかい。大岡の性格がそうさせたのだ。その意味で
 は、人によっては、
 「大岡という人物は、少しグズではないのか」
 という印象をもつたかもしれない。
 ところがこれが効果を表わした。訪ねられた用人たちはビックリした。
 (大岡さまは、何という謙虚な方だろう)
 用人たちは集まった。それぞれ大岡忠相が訪ねてきたことを報告し合い、
 「どうするか」
 と額を集めた。
 「もし大岡さまを粗略に扱ったら、うちの主人にも悪い影響が出ると思う」
 ある用人がそういった。他の用人たちもうなずいた。用人たちは結論を出した。
 「それぞれ、主人に意見をしよう」
 ということになった。
 いっぼう、将軍徳川吉宗の耳にも、
 「若い大名たちが大岡忠相に、おまえの控え室はないといって意地悪をしている」
 ということが耳に入った。吉宗は大岡を呼んだ。
 「こんな噂があるが、事実か?」
 「さあ」
 大岡はとぼけた。吉宗は怒っていた。
 「若い大名たちがもしそんなことをしたのなら、きつく叱る。おまえ用の控え室を新しく作る。おまえが旗本で大名でないというのならば、俸禄を増して大名に取り立てる。いいな?」
 大岡忠相は笑い出した。
 「上さまのお気持ちはよくわかりますが、それではまるでいじめられた子供が親にそのことをいいつけたように思われます。大名たちに悪気があるわけではございません。わたくしのほうが長く人間をやってきております。大丈夫でございます。上さまはどうか黙ってご覧になっていただきとうございます」
 「本当に大丈夫か?」
 大岡思いの吉宗は念を押した。大岡はうなずいた。
 大岡は別に自信があったわけではない。しかし、
 (少なくとも苦労人である用人たちはわたしの気持ちをわかってくれたはずだ)
 と感じていた。そのとおりだった。
 どこの家も同じように、用人は自分たちの若い主人に苦言した。
 「大岡さまは、上さまのお覚えが非常におめでたい方でいらっしゃいます。ご大切になさらないと、あなたさまのお仕事にも差しさわりが出ると思います」
 半ば脅しだ。しかしこんこんと諭されているうちに、自分たちがやりすぎたと感じた。確かに用人たちのいうように大岡は謙虚だった。
 あのときの大岡の落着いた態度を、寺社奉行・奏者番を兼務している若い大名たちはみんな覚えていた。かれらもけっして後味のいい思いをしていたわけではない。
 それが大岡のほうから訪ねてきて用人たちに
 「ご主人によろしくおとりなし下さい」
 と頼んで歩いたという。
 (ああ、おれたちは何という思い上がったことをしたのだ)
 と若い大名たちは一様に反省した。
 翌朝、大岡が江戸城にいくと、若い大名たちが控え室の前に並んで待っていた。そして大岡の姿をみると、
 「大岡殿、あなたの控え室はこちらです」
 と呼び込んだ。そしていっせいに頭を下げ、
「心ないことをいたし本当に申し訳ありませんでした。今後よろしくご指導をお願い致します」
 といった。大岡は笑って手を振り、下座に下がって、
「どうぞお頭をお上げ下さい。年は上でも、あなた方のほうが役職者としては先輩です。どうぞわたくしのほうこそご指導をお願い致します」
 とあくまでも謙虚さを失わずにいった。若い大名たちは以後大岡を、
 「師」
 と呼んだという。昔の言葉に、
 「将を射んとするときは、まず馬を射よ」
 というのがある。大岡はまさに、用人という馬を射たのであった。が、射たといっても殺したわけではない。逆に馬の理解と協力を引き出したのであった。
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■川崎平右衛門は愛のある復興作業で武蔵野新田を見事に回復

<本文から>
「自分たちの土地を元に戻すのに、本当に銭がもらえるんですか?」
 とききにきた。平右衛門は、
「本当に賃金を払う」
と答えた。次第に人が集まってきた。平右衛門は面接した。
「身体は丈夫か?」
 「丈夫です。どんな力仕事にも耐えられます」
 「そうか。ではこの札をもつていけ」
 といって、平右衛門はその丈夫な若者に木の札を渡した。札には「仁」と書いてあった。若者は変な顔をした。
 「これは何ですか?」
「人間が守らなければならない道の一つだ。夕方、金に換えてやる。なくすなよ」
 次に平右衛門の前に立ったのは女性だった。
 「力仕事はできるか?」
「できます。でも若くて丈夫な男の人のようにはいきません。女ですから」
 「よし。ではこの札をもつていきなさい」
 平右衛門が渡した札には「義」という字が書かれてあった。女も変な顔をした。
 「何ですか?これは」
 「義というのも、人間が守らなければいけない道の一つだ。夕方まで大事にもっていなさい。その札と賃金を換えかから」
 「はい」
 こうして平右衛門は一人ひとり面接して、自分の得意な技術はこれだ、とか、あるいは、
 「何もできませんけど、雑用ならできます」
 と答えた者には「礼」と書いた木札を渡した。
 「赤ん坊の世話ぐらいできます」
 と応ずる少年、少女、あるいは年寄りには、「智」と書いた木札を渡した。
 そして、まだ何もできない子供たちには「信」という札を渡した。それぞれ自分が与えられた札の字をみて、互いにみくらべながら、
 「この札が金に換わるというのは、いったいどういうことだろう」
と話し合った。
 この疑問は夕方になったときに解けた。一日一所懸命働いた人々に、平右衛門は、
 「ご苦労だった。これから賃金を渡すから代官所に寄ってほしい」
 そう告げて歩いた。小さな子供たちにも、
 「ご苦労さん」
と声を掛けた。みんなやってきた。
 このとき平右衛門が、
 「仁・義・礼・智・信」
の五とおりの木札に応じて与えた米や麦は、次のような基準だったという。
 仁 三升
 義 二升
 礼 一升五合
 智 一升
 信 五合
 それぞれ米や麦をもらった農民たちは、いっせいに、
 「なるほど」
 と感心した。つまり、労働能力に応じて平右衛門は札の高を区分していたのだ。が、何もできない子供たちにも五合与えたということが評判になった。これが市中にも伝わって、出稼ぎに出ていた若者もドンドンUターンしてきた。労働力が一度に充実した。復興作業は日にみえて効果を発揮した。疲れ果てた農村がふたたび活力を取り戻した。
 村がふたたび活気を取り戻すと、平右衛門は地方の産物の他に、金になる薬用植物や、名物の大根などを作らせた。また、杉、櫓、松、栗などを植えさせ、これを材木やあるいは食用のものとして江戸市中に売らせた。
 それだけではない。かれは遠く大和(奈良県)の吉野山や、常陸(茨城県)の桜川のほとりから、桜の苗木を大量に取り寄せた。そしてこれを玉川上水の堤に植えた。現在の小金井の桜堤である。かれは、
 「人間味働くだけではダメだ。楽しみがなければならない」
 そう考えた。レクリエーション用に桜の名木を大量に植えたのである。農民たちが喜んだだけではない。江戸城からも武士が、この名物の桜をみるためにやってくるようになった。
 こうして武蔵野新田世話役川崎平右衛門は、愛のある復興作業によって、武蔵野新田を見事に回復させた。
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■若い娘たちの向上心を生かして危機脱出した吉田清助

<本文から>
 勢いに乗った娘の言葉を、清助は次第に顔を笑みで崩してきいた。そして大きく手を上げて娘の話を途中でさえぎった。
「わかった。今日からはそういう仕事の仕方に変えよう。おまえたちがそれぞれの場所で、もし自分がこの着物を着るとしたら、という思いを込めて、さらに工夫をしてくれ」
 ワァ! と娘たちは若い声を上げた。
 清助の工場はにわかに活性化した。それぞれの分業過程で、娘たちはああでもない、こうでもないと黄色い声を張り上げて議論した。そのために、機械が止まることもあった。しかし娘たちはお構いなしだった。合意に達するまで口をとがらせて話し合った。
 清助はこういう光景を黙ってみていた。かれは後ろへ下がったのだ。何もかも自分が決め、指示していたやり方を改めた。ほとんどを娘たちに任せた。
「おれは、一段高い所から様子をみていればいい。現場のことは、娘たちに任せたほうがいい」
 全体の管理だけに徹しようと考えた。事実、娘たちが黄色い声を張り上げて議論している光景は楽しかった。それぞれが、
 「わたしが着るとしたら、そんな色は使わないわよ」
とか、
「わたしが着るとしたら、こんな織り方はしないわよ」
 と互に互いの仕事を批判し、自説をいい合う光景が展開され、その熱気が工場内に充満した。娘たちは無私だ。あくまでも客の立場に立っていた。
「もし、わたしが着たら」
 というわたしは、織工としてのわたしではない。それを買って身に着ける客の立場のわたしだ。だからお互いに説待力があった。しかし、それだけに他人と違ったものを織物に加えようとする熱気が、娘たちを雄弁にした。
 娘たちは仕事が楽しくて仕方がなくなった。いままでとは違った。そのために目をみはるような紋様(デザイン)の織物が次々と作られた。飛ぶように売れ出した。
 不景気風に打ちひしがれていた同業者たちが目をみはった。
「吉田清助の所で作る織物は、いままでとはまったく違うぞ」
 これがきっかけになって、周囲の工場でも次々と工夫をはじめた。
「吉田の所とは一味違った織物を作ってやろう」
 そういう熱気が漂いはじめた。吉田清肋の所で働く娘たちも負けてはいなかった。
「あそこではうちの真似をしているわよ。あれは、たしかわたしが考えた紋様じゃない」
 パテントのない時代だから、真似をされても文句はいえない。別に特許を申請して設定しているわけではなかった。
 娘たちは、よそで真似をされたとみると、もっと違った紋様を考えはじめた。清助も、京都の西陣その他へ出掛けていって、積極的に新しい技術を仕入れてきた。そして娘たちにどんどん教えた。
 いままで問題にもされてこなかった、女性の生き生きした感覚が、吉田清助の工場ではそのまま織物の中に注がれていった。
 吉田清助の工場は危機を乗り切った。危機を乗り切らせたのは、かれの工場で働く若い娘たちの感覚だった。
 (こんな素晴らしい力をもつていたのに、おれはなぜいままでそれに気づかなかったのだろう)
 吉田清助はそう思って苦笑した。
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■不遇な有能考を発掘した阿部正弘

<本文から>
 阿部正弘が、情報公開し国民の国政参加を哀めたのは、他に意図があった。それは、
「この際思い切って幕府を活性化する」
 ということである。それには、
□腐り切った幕府の組織を改善する。
□思い切って人材を登用する。
ということであった。
 徳川幕府には定めがあって、幕府のいろいろなポストに就けるのは、譜代大名と直参に限った。外様大名と陪臣と呼ばれるその家臣は、絶対に幕府の役職には就けなかった。直参にも旗本と御家人という二種類があったが、旗本は登用されたが御家人のほとんどは無役で生涯を終わった。
 阿部正弘はこの発想を変えた。
 「現在幕府の役職に就けない人々の中で、優秀な人物を発見して幕府の組織を強化する」
 ということであった。かれが目をつけたのは、
□直参の中でも御家人であるために、能力をもちながらも最後まで埋もれてしまう者。
□外様大名のため、優秀な見識と実行力をもっているにもかかわらず、幕府の役職に就けない大名、あるいはその家臣。
 であった。
 だからかれが、
 「このたびアメリカ国から大統領がこういう国書をよこした。翻訳すると次のような文章になった。読んで意見がある者はぜひ申し出てもらいたい」
 と情報公開と国民の国政参加を促したのは、その中から優秀な人物を探し出そうという意図があったからである。
 阿部正弘にすれば、いくらアメリカから、
 「早く日本の港を開いてもらいたい」
という開国を求める圧力が加わったとしても、その内容を詳しく伝えないで、
 「どうすればいいか」
ときいても、問題は解決しない。これが一つ。
 もう一つは、こういう際だから思い切った意見を出して、それが徳川幕府の外交方針に役立つのならば、その人物はいままで幕府が役職に就けなかった御家人であろうと、外様大名であろうと、陪臣であろうと構わないのではないかという新しい人事方針を打ち出そうとしたことである。
 阿部正弘は、
 「幕府は積年の悪習慣で腐り切っている。このままだと倒れてしまう」と考えた。
 したがって、彼がめざしたのはトップレベルでは「挙国一致内閣」の編成であり、同時にその下で仕事をする政府省庁の人心の変革であった。
 が、このことはいうは易い。行うのはたいへんにむずかしい。何しろ二百六十年近く守られてきた掟を、この際一挙に覆そうというのだ。
 しかも外交政策としては、徳川幕府は、長年、
 「鎖国」
 を保ってきた。阿部は、
 「開国」
 に踏み切る気でいる。
 阿部が長屋の八さんや熊さんにまで意見を求めたのは、つまり、
 「徳川幕府としては、このたびの問題に対し、国民すべてに意見を求めた」
 という実績をつくるためだ。そのためにはどんなくだらない意見だろうと、それが長屋の八さんや熊さんの意見であろうと構わなかった。くだらない意見は採用しない。ただ、
 「言論を自由にする回路を開いた」
 という実績だけは残る。
▲UP

■島津久光は反対派を相手にせず、やりたいことを実行した

<本文から>
 現在でも、組織に政変が起こってトップが代わったとき、旧トップに心を寄せる面々が新トップに反対の気運を示すことがある。そういうときに、新トップの中でも事なかれ主義者は、自分のほうから反対派に近づいていって、顔色を窺ったりお世辞を使ったりする。あるいは人事で抱き込みなど行う。腹の底は違うのだが、そうすることが、
 「組織内をうまく運営する」
 ことだと思い込んでいる。
 島津久光はそんなことはしなかった。
 「おれにはやりたいことがある。そのやりたいことをやってみせて、その上で反対するか協力するかこっちがみきわめてやる。そうなってもあくまで反対するような場合は、断固処断する」
 という強い気持ちをもっていた。
 これは、精忠組の面々にするとちょっと予想をはずれたことだった。久光の性格を考えると、いきなり自分たちを弾圧するか、あるいは抱き込むか、どっちかだろうと思っていた。ところが、久光はそんなことはしない。早くいえば無視している。知らん顔して、自分のやりたいことをどんどんすすめはじめたのだ。
 精忠組の連中は、顔をみ合わせた。
「久光さまは、いったい何をしでかす気なのだろうか?」
 こういうときの反対派の心理というのは微妙なものになる。作家の太宰治がこういうことをいっている。
「黙っていれば名を呼び、追えば逃げる」
 太宰治がいったのは、女性についての感想である。しかし、こういうときの反対派の面々の心理も、女性的なものだといっていいだろう。こういう状況が続いて、かれらは次第に不安になってきた。
 久光は、そんな精忠組の面々の心理などに関わることなく、自分なりの行動を開始した。
 島津久光は、千に上る軍勢を率いて京都にいった。日本中ビックリした。
 一部には、
 「島津久光は、天皇の許可を得て江戸城を攻める気ではないのか?」
などともいわれた。これが世間に伝わって、
 「久光公こそ、倒幕軍の大将だ。久光公に続け」
 などと、大きな勘違いをする過激派も出てきた。久光はそんな連中には目もくれなかった。彼は浪士が嫌いだった。鹿児島を出るとき、部下にこう宣告した。
 「いま、志士と呼ばれる連中が過激な行為に走っている。志士との交際はいっさいしてはならない。もし、おれの部下で過激な志士とつき合うような者がいたら、即刻断固処分する」
 薩摩藩士であるかぎり、志士とつき合ってはならないと交流を禁じたのである。
 が、いうことをきかない者もいた。尊攘運動に命を懸ける過激派の藩士の中には、京都や大坂で浪人志士たちと連合し、一挙にことをとげようとする者もいた。この連中が、京都伏見の寺田屋に集まった。怒った久光は、
「自分の命令に背く者は斬れ」
 と命じて、同じ薩摩藩士によって薩摩藩士を殺させるという事件を起こした。有名な寺田屋騒動″である。人々はまた驚いた。過激派志士たちもさすがに悟った。
 「島津久光さまは、世間で噂されているような人物ではない」
と、初めて良分たちの勘違いに気がついた。
 ときの帝、孝明天皇は島津久光の願いを許した。江戸城に勅使が派遣されることになった。勅使になったのは公家の大原重徳である。久光は差副として、勅使の護衛軍の隊長として供をすることになった。が、江戸に着いてからの交渉は主として久光が行った。
 島津久光が要求したのは、
□今後外様大名も幕政に参加させること。
□幕府に新しく将軍後見職と政治総裁職を設けること。
□将軍後見職には一橋慶喜を、そして政治総裁職には越前の松平慶永を任命すること。
 これらの要求は、久光の兄で死んだ先代の薩摩藩主島津斉彬が、これも若死にした、ときの老中筆頭阿部正弘とともに考えた、いわゆる藷代大名と外様大名の連合政権構想をそのまま蘇らせたものである。この構想は、阿部が死に斉彬が死ぬと、代わって大老になった井伊直弼が徹底的に叩きつぶした。いわゆる「安政の大獄」である。
 島津久光はそれを再現させようとしたのだ。当然、幕府首脳部は渋面をつくり怒った。しかしこの頃の世論の後ろ楯は強く、無位無冠の久光のいうことを幕府は退けることができなかった。それほど幕府の威力は落ちていた。幕府は渋々承認した。
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