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<本文から> 高虎には気質的に、一番手を選ばないという考え方が、ずっと根差していた。しかし、それはたんに処世術だけのものではない。もつと大きな理念があった。その理念とは、
「戦国を終わらせ、日本を早く平和にしたい。同時に、その平和を維持したい」
という考えである。豊臣秀長も、徳川家康も、この日本の平和化と、その維持については、並並ならぬ意欲をもつていた。戦争をしたからといって、二人を戦争好きだと考えるのは間違いだ。織田信長にしても、その理念の根底にあったのは、
「戦国の終了」
である。藤堂高虎は、合戦巧者ではあったが、その合戦の多くは調略(策略)におかれている。同時にまたかれには特別の技術があった。それは、築城と都市設計、並びに城下町の管理運営の知識と技術だ。高虎が、日本各地に造った城や建造物はおびただしい。
最初にかれが造ったのは、宇和島城である。次が伏見城、今治城である。さらに、伊賀上野城、駿府城、丹波篠山城、丹波亀山城、京都御所、淀城、そして江戸城、さらに東叡山上野寛永寺などだ。あるいは、日光東照宮もその範疇にはいる。
とくに、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍したときに、かれは現地で朝鮮と明(その頃の中国の国名)の城の遣り方を学んだ。その結構をもち帰った高虎は、日本古来の城の遣り方とうまくミックスさせて、輪郭式の独特な築城方法を展開した。全体に、かれの造った城は白亜の壁が輝いて美しい。
これらの工事を行うために、かれは生まれ故郷の甲良町出身の″甲良大工″と、穴生の石工の集団を抱えていた。また、伊賀上野城に拠点を構えたときに、伊賀忍者と呼ばれる特別な集団を心服させ、その長である服部半歳が臣従を誓ったのも有名だ。高虎は、服部半歳の一族である保田采女という人物に藤堂という姓を与え、後には、家老職にまで重用した。
かれは、特別な技術をもっていても、社会から正当な光を向けられることなく、どちらかといえば縁の下の力もち的存在であった人々を、明るい日向に出して正当な市民権を与えようとする「技術者重視」の姿勢をもっていた。が、同時に、日本が平和になったときの城や町のあり方を、つねに頭の中に思い描いていた。ということは、かれの″二番手主義″は、
「平和になるまでの戦争期間は、なるべく目立たないほうがいい」
ということにつながるだろう。一番手に立って、つねに合戦で名を上げていると、
「藤堂高虎は戦争上手だ」
というレッテルを貼られてしまう。しかし高虎にとって本当にやりたいのは、平和になったときの建造物の建築や、あるいは町の設計やその運営管理だ。その日がくるまでに、自分の能力や力を濫費してしまうと、後に何も残らない。そういうときに自分を完全に使い果たしてしまっていては、肝心なときに役に立たない。それではつまらない。そうなると、やはりモラトリアム(猶予)の期間をもつことが大事だ。そういう考えが、あるいはかれに二番手主義をとらせ、絶対に先頭集団に立たない習性を身につけさせたのかもしれない。言葉を換えれば、
「自分にとって何が一番大切か」
その大切なものを有効に生かすためには、どういう状況を選ぶべきか、ということをきちんとみ抜いていたといえるだろう。
だから、藤堂高虎の場合は、戦国時代を生き抜いてはきたが、かならずしも合戦だけに目を向けて生きてきたわけではない。かれの生き残りとしての特性は、あくまでも、
「自分の特別技能を発揮できる時代を待つ」
ということであった。だからしいってその時代がくるまで傍観しているわけではない。
「その時代がきたときに、こういうことは藤堂にやらせればいい」
という声を上から掛けてもらうためには、それなりの実績を積んでおかなければならない。実績を積むとは、そういう技術面での強味が高虎にあるということを折に触れてPRすることと、
同時に、
「あの男なら間違いない」
という信用を確立しておくことである。
藤堂高虎は、合戦の都度大きな功績を挙げた。しかしそれはほとんど一番槍とかではなく、調略によることが多かった。つまり、相手方に血を流させないで、こっち側に寝返らせたり、あるいは、本来なら死罪に相当するような敵の大将も、降伏するとその生命を助けたりしたことなどである。いわば″根回し″である。
日本平定の功績は、ほとんどが豊臣秀吉に帰一しているが、実際に、中国方面や四国方面、さらに九州方面で活躍し、軍勢の総指揮をとったのは豊臣秀長である。そして、兄秀吉につき従った秀長の赴く所にはかならず藤堂高虎がピタリと脇についていた。 |
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