童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          江戸300年大商人の知恵

■淀屋常安は遺体処理、そして米相場で儲ける

<本文から>
 家康はまだ疑いの念を解かない。
 「本陣の建物を無料で寄付してくれるといっても、それでは業者としてのおまえの儲けがないではないか」
 家康が、誰もが考えることをロにすると、常安はうなずいてこういった。
 「そこでお願いがございます」
 「なんだ?」
 家康は警戒した。常安は続けた。
 「合戦が、大御所様のご勝利に終わったあかつきには、おそらく豊臣方で討ち死にした者が、城の近辺に遺棄されることでございましょう。この始末をきせていただきとうございます」
 「なに」
 家康は目をかっと見開いた。常安をにらみつけた。常安が願い出たのは、「合戦時に生じた遺体の処理」である。家康は胸の中で、(こいつはよほど物好きだな)と思ったが、油断はしない。(ウラがある)と思った。
 たしかにそのとおりだった。ウラがあった。常安が、「戦場の遭体処理」を願い出たのは、単に遺体の処理だけではない。「遺体が身に付けている武具や、いろいろな小道具の処分」も含んでいた。遺体を処理する代わりに、鎧・兜・刀・槍などの武器や、また細かい金目の品物も全部自分の手によって処理させてもらいたいということである。
 家康はそこまで見抜いたわけではなかったが、とにかくこの常安の申し出を承知した。
 常安は茶白山に立泳な本陣の建物をつくつた。家康は喜んだ。
 「ただでは悪い。褒美をやろう」
 そういって、八幡の山林地三百石と、その永久所有を保証する朱印とをあたえた。そして、「帯刀も許す」と刀を差すことも認めた。
 大坂の陣は、徳川家康の大勝に終わった。常安は、働き手を動員して、大坂城の内部に遺棄された遺体の処理におおわらわになった。もちろん、彼の本当の目的は、武具や調度品であった。
 これによって、彼は大きな利益を得た。
 しかし、このときの彼は、すでに先を見ていた。それは、「平和な時代になれば、必ず国民生活が大切になる。その国民生活を支えるもっとも大きな品物はなんだろう」ということだった。常安はたちまち、「それは米だ」と判断した。
 ところが当時の米の相場はめちゃめちゃで、それだけに質も悪い。「これは良米だ」と売られている米の中にも、悪質の米がたくさん混入されていた。相場が一定しないからである。常安はここに目をつけた。

■商業の大坂の基盤をつくった淀屋常安

<本文から>
 自分よし、相手よし、世間よし
 幕府は許可した。これによって、淀屋橋近辺に今度は、青物市場や魚市場が設けられた。いよいよ一帯はにぎやかになっていった。こうなると、米・魚・野菜など、いわゆる国民に必要な食糧や食材のほとんどを、常安が一手に相場を立てることになった。
 しかし、これは常安に利益をもたらしただけではない。魚市場・青物市場が次々とできた。米市場はすでにできている。そういう関係の業者も集まった。家がどんどん建つ。基盤整備も進む。こうなると、淀屋橋近辺は完全な、「商業の町」の性格をあきらかにした。これもまた、現在の淀屋橋近辺を、「大阪のビジネスセンター」にした大きなゆえんだ。
 そう考えると、淀屋常安の、「先を見る力」は、じつにすばらしいものであったといわなければならない。
 明治維新後、薩摩藩士の五代才助(友厚)が、「大阪商工会議所」の前身をつくつて、大阪を経済都市として再発展きせる。しかし、大阪にはすでに三百年近く栄えてきた、「商人の町」としての実績があった。基盤もあった。そしてその基礎を築いたのは、あきらかに淀屋常安である。
 米・魚・野菜などの相場を立てることによって、多額の利益を得た常安は、今度は、「得た利益を、大坂発展のために還元したい」と願って、今でいうインフラストラクチヤー(基盤整備)の公共事業の資金として投げ出した。この資金によって、大坂の町は次々と開発きれていった。今日でも、淀屋常安にちなむ地名や施設名が残きれている。
 後に、「淀屋のぜいたくな暮らし」として、淀屋辰五郎という人物が有名になる。しかし、研究者によれば、「淀屋に、辰五郎という人物は存在しない」ということらしい。ただ、淀屋が、「生活のぜいたくさは見るにたえない。よって、家財を没収し、当主は追放する」という罰を受けたことは事実だ。
 淀屋は、五代か六代続いた。したがって、常安から二代目、三代目と続くにしたがって、当主がぜいたく三昧に暮らしたことは事実なのだろう。伝えられる淀屋辰五郎は、家を大名の建築棟式である書院造にし、部屋の四面にギヤマン(ガラス)をはめ込んだ。それだけではない。ガラスの向こうに水を湛え、大きな鮭を泳がせていたという。夏の日など、寝ころがって天井を見ながら、泳ぐ鮭を見て涼をとったという。呆れた役人たちが踏み込んで、この家を叩き壊し、当主を追放したのだ。

■助左衝門は嘘の名器・ルソン壺で秀吉らを騙し大もうけ

<本文から>
助左衛門は、「ルソンの壷と申しまして、あの国では大変な名品でございます」とシヤアシヤアと嘘をついた。
 秀吉は感心して、「これが有名なルソンの壷か」とつぶやいた。助左衛門のいうルソンの壷を知らないとあっては、天下人の沽券にかかわるからだ。だから知ったふりをした。
 助左衛門は、胸の中で、(この馬鹿め)とペロリと舌を出した。
 ルソンの壷などというものがあるはずがない。でまかせにいっただけだ。しかもこの茶壷は、中国の南方でつくられた値の安い土器だ。それをちょっと、「ルソンの壷という名品でございます」といったら、負け惜しみの強い秀吉は、それをそのまま信用した。
 (この男はたいしたことはない)
 助左衛門はそう思った。これが間違いのもとだった。
 ずっと前から秀吉は助左衛門に目をつけていた。「おれに従わずに自分勝手な商売をしている生意気な奴だ」と思っていた。
 千利休に対しては、「自分が茶の達人だというだけで、天下人のおれに盾ついている生意気な奴だ」と思っていた。
 つまり、千利休に対しては精神上の反抗者と見ていた。そしてルソン助左衛門に対しては、「金のカで、政治のカを超えようとする生意気な奴」と考えていたのである。事実そのとおりだった。
 千利休は、「芸術の権威を政治の力によって押しつぶされてはならない」と考えていたし、ルソン助左衛門のほうも、「経済のカは、政治のカによって押しつぶされてはならない」と考えていた。
すべて自分の支配下に組み伏せなければ気の済まない秀吉にとって、千利休もルソン助左衛門も、ともに邪魔な存在であった。ところが、そのルソン助左衛門がはじめて秀吉に屈服したのである。秀吉は大満足だった。
き上うばい
そこで助左衛門に、「このルソンの壷を、大名たちに競売で売ったらどうだ?おれが競売会を開いてやろう」といった。
助左衛門は感動した。顔をしわくちゃにして、よろこびをあらわしながら、「ぜひ、お願いいたします」と告げた。腹の中ではもちろんベロリと大きな舌を出していた。
 そして、(これは今までにない大儲けになるぞ)と感じた。
 そこで秀吉が肝煎りになって、大坂城の西の丸の大広間でルソンの壷の競売会が開かれた。助左衛門が出品したのは、ルソンの壷五十個である。
 「秀吉公のお声がかりでめずらしいルソンの壷の競売会がある」
 そう開いた大名たちは、我も我もと先を争って西の丸の大広間にやってきた。
 そのころの大名たちの間には、名器の収集ブームが起こっていた。これは織田信長が火をつけ、豊臣秀吉がさらに燃え立たせたものだ。名のある茶道具を集めることが流行になっていた。
 しかし、国内産品はほぼ底をつきかけていたので、助左衛門が持ってきた"ルソンの壷"といわれる品物は、想像できないようなバカ高値がつけられていた。
 助左衛門にすれば、南方の単なる生活土器にすぎない品物に、「何百両いや千両」などという声が飛びかいはじめたのである。助左衛門はびっくりした。
 しかし、彼はしたたかな人間だから、思わず胸の中で舌をペロリと出した。並べた五十個の壷は、たちまち飛ぶように売れてしまった。
 秀吉もさすがに驚き、「ちょっと待て。わしのぶんがなくなる」といって自分で壷を見て歩き、「これとこれは残せ」と、三個の壷を指定した。
 助左衛門は、秀吾が指定した三個の壷を別に取り分け、「これは殿下に献上いたします」と告げた。
 秀吉は、「そうか。それはすまぬな」とよろこんだ。大名たちは顔を見合わせてうらやましそうな顔をした。
 この競売会が世間に知れて"ルソンの壷"は、たちまち有名になった。壷を落札した大名は、それぞれ壷に名をつけた。松島、松花、三日月、四十石、捨子、なでし子などの名がつけられた。その中で、「松島、松花、三日月」は、壷の「天下の三名物」と呼ばれるようになった。
 助左衝門は呆れた。(いかに名器収集ブームが起こっているといっても、こんな二束三文の生活土器に名をつけて、よろこんでいる大名の頭の中身は、いったいどうなっているのだ?)と思った。
 しかし、彼はそんなことは口には出さない。次々に大名たちが助左衛門のところにやってきて、「今度南海にいったら、わしのためにルソンの壷を五つばかり買ってきてくれ」と申し込む者が何人もいた。助左衛門は、「はい、かしこまりました」と応じた。

■甚五郎は庶民を相手に商売を、銭湯でマーケティング

<本文から>
甚五郎の胸の中では自分が口にした、「武士だけに限った商売を改めたい。これからのお客様は一般の庶民にしたい」という願いが強く固まりつつあった。
 この考えは、今まで西川家が続けてきた経営の百八十度の大転換である。同時に、「経営方法の根幹的変革」になる。土台をひっくり返して、すべてつくり変えるということになる。そんな冒険をしたことはないから、番頭や手代たちはロをそろえて反対する。それでも甚五郎は、(いや、おれは正しい)と思っていた。
 しかし、客を武士から町人に替えるといっても、「その庶民は、いったい何を欲しがっているのか」というニーズを把握しなければならない。マーケティングだ。
 甚五郎がマーケティングに出かけていったのは、銭湯だった。ここは庶民の広場であって、いろいろ率直な意見が開ける。はじめての経験なので、ちょっとよそ者意識もあったが、とにかく甚五郎は銭湯に入って、そこで交わされる八つぁん熊きんのいつわりのない意見に耳を傾けた。
 ちょうど夏のころで、江戸の町は暑い。だから、一日の労働で疲れた江戸っ子たちは、「風呂に入って、汗を涼した後、キューツと一杯酒を飲もう」という、いわば「一日のしめくくりをするよろこび」の一つとして、銭湯にやってくるのだった。
 話のほとんどが、「裏長屋の家屋の構造からくる暑さ」のことだった。
 当時の長屋は、俗に"九尺二間"といった。一間というのは六尺のことだ。九尺というのは一・五間ということになる。一間は約二メートルである。したがって一般の庶民が住んでいた裏長屋の構造は、幅が一・五間で、奥行が二間だということになる。現在のメートルに直せば、幅が三メートル弱、奥行が四メートル程度ということになる。だいたい、畳数にして六畳と三豊の二間、それに台所と入り口の土間というような構造だった。
 もちろん、冷暖房などない。また、水道もない。長屋の敷地内に共同で使う井戸があるだけだ。この井戸が、いわば長屋の住人の広場になっている。洗潅や、野菜などを洗いながら、いろいろな話をする。主に噂話が多い。しかし、これらのいわば"ロコミ"は、一つの世論。

■家訓作りに励んだ享保年間、下村彦右衛門の「大丸」の家訓

<本文から>
享保年間というのは、八代将軍・徳川吉宗時代だ。吉宗は享保の改革をおこなった。この改革の時代に、大きな店がいっせいに、「家訓づくり」に励んだ傾向は面白い。時代をよく反映している。その意味でも、吉宗の享保の改革は、違う角度から見直されていい。
 つまり、「商人に、経営理念を確立させるような政治」をおこなったということである。
 吉宗については、「米将軍」という俗称を奉って、新田開発や大増反をおこなった将軍だという位置づけをしている。それもあったかもしれないが、同時に彼は、「正しい経営者の育成」にも励んでいたのである。だからこそ、大きな商人たちが先を争って、「我が家の経営理念・経営哲学」として、「家訓」を定めたのだ。
 享保年間はその意味では、「商人の家訓競争の時代」といってもいい。
 下村彦右衛門の「大丸」にもこの家訓がある。今ふうに改めて次に掲げる。
一 御公儀(幕府)の法度は固く守ること。
一 天下のご法度とはいっても、これくらいの悪事は世間では誰もしていることだからかまわないとか、あるいは自分のやったことは絶対にわからない、今べつに調べられていないのだからなどという者がいる。こういう連中をわたしはもっとも嫌う。法度は絶対に守らなくてはだめだ。
一 家をよく治める根本は、すべて国の法度や規則をよく守ることからはじまる。これを、自分の才覚で勝手に改めたり変えたりしてはならない。
一 自分が法に背いていながら、下の者に法に従えといっても、誰もついてこない。そういうことは絶対にできない。
一 第一には心をまっすぐ正しくして、何が正しくて何が正しくないかをつねに分別して人に勤め、余計なことを考えないようにすること。店の仕事によく努めても、功績は絶対に自分からひけらかさないこと。よくやれば、必ず知れることであって、それは自然の評価に任せること。
一 本家の主人なる者は、一家一族の惣領になる者である。しかし万一、人物人柄が悪く、身持ちも悪く、誰もがそれを認めるようなときには、本人に何度も意見をすること。それでも直らないときは、この家訓を読み聞かせて、本家相続人の立場から退かせることが大事だ。
一 子孫の中で、家業を覚えようとせず、遊興にばかりふけつている者が出ると、家が滅びる。相続人になろうとする者は、十歳まで字を習わせ、十一歳からはソロバンを教えて本店に務めさせて、十五歳になったら田舎へ出すことが望ましい。奈良、近江からはじめて、江戸、上州(群馬)、越後(新潟)へ出して、二十一歳になったころに京都の本店に呼び戻して、仕入れなどを覚えさせるのがよい。

■松井遊見は自利・利他の精神を発揮し相手藩でも買い付ける

<本文から>
松井遊見は、こういういわば、「江戸時代における、藩軽済の実態」を正確に見抜いた。そうなると、「こちらの利益をはかりながらも、相手側の利益も考える」という、自利・利他の精神が頭をもたげる。
 つまり、「利益を得るのは自分だけではなく、相手側も利益を得なければならない」という近江商人の哲学である"三方よし"のヒューマニズムだ。遊見にはとくにこの精神が強かった。
そこで彼が考えたのは、「こちらの品物を買ってはもらうが、しかしそこで得た利益を相手方の地域に還元する」ということである。そしてこちらから持っていく品物も、「向こうの地域で極力不足しているものに限る」と決めた。
 そして遊見の、「自利・利他の精神の発揮」は、藩当局が苦心して地域の産業を振興し、「これがうちの藩の名産品だ」というものを積極的に買いつけたことである。自分が持ってきた品物を売って得た代金のほとんどを使って、その国の産品を買い入れた。場合によっては、持ち出しもあった。つまり、相手側の製品のほうが高い場合があるからだ。しかし遊見は考えるところがあって、平気だった。ほかの商人に知られると、「松井さんは人がよすぎる」と笑われた。しかし遊見は、「そんなことはない」と言い返した。
 ほかの商人たちは、「タサイ東北地方に、そんな名産品があるわけがない」と頭から決めつけている。逓見はこれに対しても反発心を持った。彼は実際に歩いてみて、「東北地方にも、たくさんの名産品がある。上方の技術者もおよばないような技術を凝らした工芸品もある」と自分なりに発見したものがたくさんあった。
 これには、もう一つ事情がある。それは、当時の大名はすべて参勤交代を命ぜられている。一年ごとに江戸に出てきて江戸城で勤務する。一年たつと交代といって今度は藩に戻り、自藩の行政に励む。そして江戸に出てくるときは必ず、「将軍への献上物(おみやげ)」を差し出す。

■松井遊見は遠い大津宿の道路費用まで出し全体を考えた

<本文から>
そうなると、遊見と取り引きする生産者や商人だけではなく、このことが耳に入るから、藩の役人も遊見に好感を持つ。ということは、遊見がその地域に滞在中、非常に手厚く対応してくれるということである。宿の準備や接待や、その他のことについてもいろいろ便宜をはかってくれる。しかも遊見は、「地域の恩人」として尊敬される。
 これが遊見の、「自利・利他」の精神だ。遊見の場合には、自分から持ち出す場合もあるから、そうなると、これは、「自損・利他」になる。現地がもっとも歓迎する商法だ。
 しかし遊見にすれば、ここで持ち出しをしても、「上方に戻って、この名産品を売れば、きっと儲かる」という計算がある。彼も商人だから、損ばかりして帰るわけにはいかない。ちゃんと先の見とおしを立てていた。
 遊見は、「商人は、目先の利益追求だけに狂奔すべきではない。もっと遠くを見つめるべきだ」と考えていた。目の前の木だけを相手にするのではなく、「遠くのほうに苗木を植えて林をつくり森をつくろう」ということだ。それには年月がかかる。スパン(間隔)を長く取らなければならない。遊見はこれを実行しつづけた。
 似たような話で、遊見にはこんなエピソードがある。
 彼は五箇荘の近江商人だが、あるとき、大津宿のほうで道路がひどく破損した。遊見はすぐ出かけていって関係者に、「道路を早く修復していただきたい。費用の一部を差し出します」といって献金した。関係者は驚いた。五箇荘の人々は呆れた。そして、「大津はこの五箇荘から遠い。あんなところの道路を直して、何の得になるのか。金をドブに捨てるようなものだ」といった。
 ところが遊見は首を横に振った。
 「そんなことはない。大津は、この近江国にとっても、交通の要所だ。大津の道路を直せば、こっちのほうへくる人の便利にもなる。ものごとは、自分の地域だけで考えてはだめだ。日本全体のことを考えるべきだ」
 とくに険しい中山道を中心に東北へ向かっていった遊見のことだから、道路の大切さは身にしみて知っていた。道路が悪いと、旋ではさんざん苦労する。
 「もっといい道路が欲しい」ということは、行商の間ずっと遊見が考えつづけたことだ。だから、「あそこの道路が壊れた」と開けば、すぐ彼はそこの修理費を差し出しに飛んでいくのである。今でいえば、「グローカリズム(世界全体のことを考えながら地域の改善をはかる)」の実行だ。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ