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<本文から>
「実はお願いの筋があって参りました」
「なんでしょうか」
「先生のお名はかねてからうけたまわっております」
「ありがとうございます。で?」
白石はいぶかしげな表情で瑞警見た。瑞賢はニコニコ笑いながらこんなことをいい出した。
「わたくしに孫娘が一人おります。そろそろ年ごろでございます。よい婿を迎えてやりたいと存じております。それも、商人ではなく一筋に自分の志に打ち込むような人物がふさわしいかと存じております」
「‥‥‥?」
白石にはまだ瑞賢の話が読めない。無言のまま眉を寄せて瑞賢の顔を凝視した。瑞賢はいった。
「ついては、先生に孫娘をもらってはいただけないかと存じ、ぶしっけにもこんなお願いにあがりました」
「え?」
白石はびっくりした。このとき瑞賢は次のような条件を出した。
・白石を婿としては扱わない。独立した学者として尊重し、孫娘は嫁入らせる。
・しかし、孫娘のために新居を一軒建てる。それをお使い願いたい。
・今後白石に対し、研究費として書籍代月々百両を差し上げたい。孫娘が嫁入るときは、千両の持参金を持たせるので、大いに学術研究に役立てていただきたい。
・河村瑞賢家に対するみかえりはいっさいご無用に願いたい。
というものである。今でもこんな好条件を示されれば、貧しさに苦しむ研究者ならとびつく者もいるだろう。白石の時代も同じだ。あとでこの話を聞いた仲間は、
「おまえはまったくバカだな。黙ってもらっておけばいいものを」
と笑った。しかし白石は違った。このとき河村瑞賢に対し白石はこう答えた。
「わたくしは中国の学問をいささか修めております。中国にこんな話があります」
そう前置きして、白石は自分が知っている中国の古い話を披露した。
・中国のある地方で、子どもが小さなヘビをみつけ、これを傷つけた。
・小さなヘビはやがて大きくなり、さらに巨大なヘビになった。
・しかし、小さなヘビのときに受けた傷も一緒にそのまま大きくなり、巨大なヘビを目にする者は、その傷も一緒に目にした。
「今、河村さまがおっしゃったお話は、わたしという小さなヘビに傷を与えるようなものです。わたくしも今のままで生涯を送る気はありません。いつか志を天下に遂げたいと思っております。しかし、もし河村さまのお話を受ければ、それはそのまま小さなヘビが受けた傷と同じことになります。わたくしが志を遂げたときに、その傷も大きくなり世間の人びとは、その傷も問題にするでしょう。ご好意はよくわかりますが、どうかこのお話はなかったことにしていただきたい」
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