童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説 新井白石 幕政改革の鬼

■好条件の嫁取りを断る、小さなヘビの傷の故事をひく

<本文から>
「実はお願いの筋があって参りました」
「なんでしょうか」
「先生のお名はかねてからうけたまわっております」
「ありがとうございます。で?」
白石はいぶかしげな表情で瑞警見た。瑞賢はニコニコ笑いながらこんなことをいい出した。
「わたくしに孫娘が一人おります。そろそろ年ごろでございます。よい婿を迎えてやりたいと存じております。それも、商人ではなく一筋に自分の志に打ち込むような人物がふさわしいかと存じております」
「‥‥‥?」
 白石にはまだ瑞賢の話が読めない。無言のまま眉を寄せて瑞賢の顔を凝視した。瑞賢はいった。
「ついては、先生に孫娘をもらってはいただけないかと存じ、ぶしっけにもこんなお願いにあがりました」
「え?」
 白石はびっくりした。このとき瑞賢は次のような条件を出した。
・白石を婿としては扱わない。独立した学者として尊重し、孫娘は嫁入らせる。
・しかし、孫娘のために新居を一軒建てる。それをお使い願いたい。
・今後白石に対し、研究費として書籍代月々百両を差し上げたい。孫娘が嫁入るときは、千両の持参金を持たせるので、大いに学術研究に役立てていただきたい。
・河村瑞賢家に対するみかえりはいっさいご無用に願いたい。
 というものである。今でもこんな好条件を示されれば、貧しさに苦しむ研究者ならとびつく者もいるだろう。白石の時代も同じだ。あとでこの話を聞いた仲間は、
「おまえはまったくバカだな。黙ってもらっておけばいいものを」
と笑った。しかし白石は違った。このとき河村瑞賢に対し白石はこう答えた。
「わたくしは中国の学問をいささか修めております。中国にこんな話があります」
 そう前置きして、白石は自分が知っている中国の古い話を披露した。
・中国のある地方で、子どもが小さなヘビをみつけ、これを傷つけた。
・小さなヘビはやがて大きくなり、さらに巨大なヘビになった。
・しかし、小さなヘビのときに受けた傷も一緒にそのまま大きくなり、巨大なヘビを目にする者は、その傷も一緒に目にした。
 「今、河村さまがおっしゃったお話は、わたしという小さなヘビに傷を与えるようなものです。わたくしも今のままで生涯を送る気はありません。いつか志を天下に遂げたいと思っております。しかし、もし河村さまのお話を受ければ、それはそのまま小さなヘビが受けた傷と同じことになります。わたくしが志を遂げたときに、その傷も大きくなり世間の人びとは、その傷も問題にするでしょう。ご好意はよくわかりますが、どうかこのお話はなかったことにしていただきたい」
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■老中の堀田によって拾われたが、その堀田が刺殺され再び苦難の状況に

<本文から>
 そして、そういう白石の潔癖な気概が伝わったのか、また新しい拾う神″があらわれた。幕府の老中堀田正俊(佐倉〔千葉県〕藩主)である。
 一説によると給与は五百石だったという。このとき白石は二十六歳だ。彼が「折りたく柴の記」に書いたところによれば、
 「主家の土屋家は、延宝七(一六七九)年八月に改易処分」
 になったという。家中におけるゴタゴタが幕府の耳に達し、
 「とてもこれはダメだ」
 という判断が下されたのだろう。当時、新井父子はまだ土屋家から謹慎を命ぜられていた。浅草の寺から一歩も動けなかった。いわゆる軟禁状態におかれていたのである。これが解放された。そして白石自身の記述によれば、
 「これによって、また仕官の道が新しく開かれることになった」
 と喜んでいる。堀田老中が新井白石に眼を付けたのはおそらく大家商であった河村瑞賢が小さなヘビの話を吹聴して歩いたからではなかろうか。瑞賢クラスになれば、老中とも親しく話ができる。聞いた堀田が、
 「今どき珍しい学者がいる。ぜひ召し抱えたい」
 といい出したのだろう。堀田老中に仕えたのは天和二(一六八二)年三月のことで、その年の六月に父が死んだ。八十二歳だった。
 また九月には、日本にやってきた朝鮮の使節をその宿所である東本願寺に訪ね、会見している。そして白石は自作の詩集『陶情集』の序文を堀田に書いてもらった。
 堀田正俊は新井白石をひどく気に入り、家臣の朝倉長治という武士の娘と結婚させた。五百石の収入といえば、中から上のクラスになる。そして主人のお声がかりで重役の娘を嫁にすることもできた。おそらく白石にとってホッと一息つく幸福な時期であったに違いない。ところが、天はまたいたずらをした。大事件が起こった。
 新井白石にとっての大事件というのは、せっかく拾ってくれた大老・堀田正俊が、江戸城内で若年寄の稲葉正休に突然、刺殺されたことである。
▲UP

■堀田家からの引き続きの俸禄を辞退

<本文から>
 堀田家では、息子の正伸があとを継いだ。
 正伸も学問好きだったので、
 「こういう不幸があったので、さぞかし当家を不甲斐ないと思い仕えづらかろうが、わたしは学問を尊重している。いっさいを忘れてそのままつとめてはもらえぬか」
 と温かい言葉をかけてくれた。しかし白石は辞退した。というのは、今度の事件によって堀田家も家内を厳しくせざるを得なくなり、経費削減も兼ねて仕えている武士を大量解雇しなければならなかったからである。それなのに、白石だけがのうのうとそのまま居つづけるわけにはいかなかった。しかし正伸はたってというので、白石はやむを得ず出仕をつづけた。この間の事情について、彼自身、「折りたく柴の記」(中公クラシックス・桑原武夫訳)で大旨次のように書いている。
 「私も出仕して以来、主君の父子に知られたわけではないが、いやしくも主従となった者が、こういう不幸なときに離れるべきではないと思ったので、わずかに妻子を飢えさせぬだけで、心ならずも出仕をつづけていた。
 しかし、ひまの多いからだであったから、このときにこそ経書・歴史のたぐいを読みあさることもできた。貧乏は侍の常などといわれており、私生活においては、なんとしてでもしんぼうしたが、仕官の身としては、その身分に応じてなすべきことも多いので、ついに蓄えもなくなり、力もつきはて、三十五歳の春になって、その間の事情を書き記して、辞職願いを出した。
 親しくしていた人々には、前々からこのように決心したことを話していた。
 しかしまわりの人々から、
 『禄米があれば、飢え死にすることはなかろう。ところが、こんなに蓄えがなくなった者が俸禄まで辞退したならば、一日の飢えを切り抜けることすらできない。自分自身のことは、そう決心したのだから、なんとでもしようが、若い妻、幼い子供のことをどうなされるおつもりか』
 といわれた。そこで私は、
 『主君としてお仕えした人の御不幸がなかったならば、私も今までこうしてはいなかったろう。年来、堪えがたいことも堪え、忍びがたいことも忍んだのは、主従の因縁があったからである。きょう俸禄を辞退すれば、あすは妻子みなちりぢりになるかも知らぬことを考えても、私の決意のほどはおわかりになるはずです。もし天がお見通しであるのなら、それほどのことにはならないだろう』
▲UP

■復古改革で、貨幣改良と長崎貿易を改善

<本文から>
 白石はこのヒントを自ら得ると心を躍らせた。そして思わず、
 「そうだ、これはよい考えだ」
 と自分の着想を褒めた。この基準設定によって、
・貨幣改鋳を、家康公が行った慶長の貨幣鋳造に戻す。
・長崎貿易を家康公の時代のバランスある輸出入に戻す。
・朝鮮通信使接待を、家康公の時代に戻す。
 ということである。白石はこの考えを自ら、
 「復古改革」
 と呼んだ。復古といえば古めかしいがこの考えは決してそうではない。
 「神君家康公の時代には、すべてがこと細かく配慮され、逸脱はなかった。そのために征夷大将軍家とその管理する徳川幕府に対し、国民は大きな信頼感を持っていた」
 と思える。白石はこういう基準を生み得たことで満足した。そこで、この方針に基づいて具体的な改革案を書きはじめた。
 第一 貨幣の品位改良
・何よりも、金貨・銀貨・銅貨の信用を取り戻すこと。それには神君家康公時代の良質な慶長金貨・銀貨を見本にして改鋳を行うこと。
・この改鋳を金銀復古″と称する。
・当然、品位回復は貨幣の数量を減少させることになり、あるいは幕府の損失を招くかもしれない。しかしこの幕府の損失をあえてすることによって、国民の貨幣に対する信頼が取り戻せることなので、ぜひとも実行したい。
・また、元禄以来の貨幣経済の発展に逆行する、という非難も起こる。しかし非難に耐えることも幕府の発行する貨幣に対する国民の信頼が回復できる一助になる。
・貨幣に対する信頼が回復できれば、幕府が行う政治全般に対する国民の信頼を取り戻すことができる。
 このように貨幣改鋳を家康の時代に戻す案を立てた白石は、ここでも改めて、
 「それにつけても、今日の混乱を招いた責任は勘定奉行荻原重秀にあるので、この案ご採用と同時に荻原重秀を罷免すること」
 と書き加えた。荻原の罷免は白石にとってもはや執念になっていた。周囲では、
 「新井先生の荻原奉行に対する憎しみの念は、私的感情に走りすぎるのではないか」
 という非難があったが、白石は十分に承知していた。白石自身も儒教を重んずる学者だから、
 「幕府内の人事は公正無比でなければならない。かりそめにも私情をはさんではならない」
 ということは十二分にわきまえている。したがって白石は荻原罷免を強く唱えることを、
 「公的な動機によるものであって、決して私的な感情を吐露するものではない」
 と自信を持っていた。将軍家軍も今までの考えを改め、この頃では白石や勘定吟味役の上申する情報提供によって、荻原重秀の貨幣改鋳がかなり私益を得るための悪い行為であるということを知りはじめていた。荻原重秀を留任させたのは、
「現在の幕府に、財政運営ができる武士がいない」
 という一占…に尽きる。しかしその後の経過によって、家宣も新井白石が、
「学者に似ない算勘の術を心得ている」
 と認識を改めた。したがって、
「新井顧問のいう財政運営をそのまま実行しても、支障はない」
 という判断を持ちはじめていた。この家宣の心境の変化は白石にとってありがたかった。つまり、
「新井先生は学問ではすぐれているが、算盤勘定は得意であるまい」
 という先入観が改めはじめられたからである。
 第二 長崎貿易の改善
・この改善も神君家康公のむかしに戻す。
・ということは、国力に応じ輸入と輸出の均等化をはかること。
・現在の貿易状況は、あきらかに輸入超過であって、このことが幕府の正貨を限りなく海外へ流出させている。
・まずこの流出を止めること。同時に、洗出した幕府の正貨をふたたび日本に回収すること。
・それには、輸入と輸出の均衡をはかる策を急速講ずること。
・また、長崎の住人に対しては、幕府が行う公的貿易のほかに、私貿易を認めている。しかし、その私貿易に使われる貨幣が不足し、そのためにこの公益で生活している住人がかなり困窮していること。この救済策が必要なこと。
▲UP

■林信篤らの、生かさず殺さずのいじめ作戟

<本文から>
 ″坊っちゃん大名″の群れである老中連を、林信篤は逆用した。つまり、お坊っちゃん大名たちのモノの知らなさにつけこんで、煽り立てたのである。それは、
・間部詮房と新井白石をすぐ罷免しない。そのままのポストに置く。
・しかし、ふたりの扱いは今までとは変える。
・たとえば、間部詮房は幕府最高の裁判所である評定所のメンバーのひとりだが、今後間部が出席する評定所においては、いたって軽易な事件のみを扱うこととし、重要な事件の評定には加えない。
・新井白石が出す意見書はすべて却下する。あるいは握り潰す。
 などの方策の進言だ。老中たちは受け入れた。それは、そろって間部と白石に対し悪感情を持っていたからである。その悪感情の要因にはかなり誤解の面もあったが、彼らはそれを反省して改める、などということはしなかった。こういう局面に際して、憎まれる者と憎む者の対置に変化が起こる場合もある。それは、憎む側が憎まれる側の説明を聞いて、納得したり理解したりする場合があるからだ。しかし、間部と白石の場合にはそれがない。
 というのは、すでに林信篤の煽動によったからだけでなく、老中連たちの間にも固定観念があったからである。そしてその固定観念を組み立てているのは先入観であった。先入観というのは頭から、
「ふたりはけしからん」
 という断定である。ふたりがけしからんというのは、ふたりの身分がもともと低かったためだ。間部詮房は能役者の出身だといわれ、新井白石は牢入学者だ。氏素性からいえば卑しい。
 したがって″大名の子″である坊っちゃん大名たちには、間部や白石がたどってきた汗みどろな苦労の道がまったく理解できない。理解できないだけでなく、立身したふたりに対し、
 「成り上がり者だ」
というレッテルを貼りつけてしまう。成り上がり者だというのは、
 「身分不相応なポストに就いている」
 ということであり、
 「ふたりを重用された先代家宣様がお亡くなりになった後は、ふたりの地位を引き下げるべきだ。元に戻すべきだ」
 ということになる。新井白石から辞職願が出たとき、老中たちがニタリとほくそ笑んだのは、「自分たちがクビを申し渡したら、白石は抵抗するにちがいない。そのときは悶着が起こる。面倒だ」
 という煩わしい思いがいずれにもあったからだ。しかし白石のほうから辞職を申し出てくれたのだからこんなうれしいことはない。嫌な役を誰もが引き受けなくてすむ。老中たちはそう判断した。ところが林信篤は違う。
「今のポストにそのまま置いておいて、恥をかかせ続けてほしい」
 というのである。つまり、
「生かさず殺さず、いじめ抜いてほしい」
 ということである。老中たちは信篤の執拗さに呆れたが、しかしそれも今までの白石の専横ぶりを考えれば、一種の懲罰刑としては非常に効果があるかもしれないと思った。そこで信篤の進言に従った。白石は老中の御用部屋に呼び出された。老中たちはこもごもいった。
・先君(家宣)公のご遺志は、ふたりにご当代(家継)様のお世話をしてほしいということだ。
・とくに間部殿はご先代のご遺志によって、ご当代様の親代わりになっておられる。
・だとすれば、ご幼君であられるご当代様の補佐は、新井殿にも課された義務だと思える。
・辞任の理由に老齢とあるが、あなたはまだ老齢ではない。十分に働ける。したがって、ご先代に尽くしたとおなじようなご努力を、ご当代様にも行ってほしい。
 「したがって、この辞職願はお返しする」
 と告げられた。白石はげんなりした。それは人間巧者である彼には、老中たちの下心がはっきりと見えたからである。白石は、
 (わたしを生殺しにする気だ)
 と感じた。毎日の詰所の畳が今までは温かかったが、きょうからは針のムシロに変わる。座ればチクチクと刺されて痛い。しかし耐えなければならない。白石は、
 (その痛さに耐えることが、ご先代に対するご恩返しなのだ)
とあきらめた。そこで間部詮房と会い、
 「こういう次第なので、しばらく今までどおり務めさせていただきます」
 と告げた。間部はうなずいた。間部もひどい目にあっている。せっかく、家にも戻らず江戸城の詰所で寝起きしているのに、評判はいたって悪い。
 「そのほうが月光院様と会いやすいからだろう」
 などという卑しい陰口をきかれている。しかし間部も耐えていた。間部は白石の手を握っていった。
 「お互いに孤立した身です。支え合いましょう。われわれの努力は、必ずご先代様が天からご覧になっておられるはずです」
 この力強い言葉に白石もうなずいた。
 「間部棟のおっしゃるとおりです。今、江戸城を去ったら、幼いご当代稼がお困りになります。ふたりでしっかりとお守りいたしましょう」
 と誓い合った。しかし健気なこのふたりを取り巻く環境はいたって悪く、白石の感じた、
 「生かさず殺さずのいじめ作戟」
は日を追って激しくなった。
▲UP

■吉宗公の見事な改革から自身の限界を知った

<本文から>
 大岡がいった。白石は耳をそばだてた。
 「それはどういうことですか」
 「新田開発による米の増産を主務とするためです。勘定所を二組に分け、一組は勝手方と称して民生と財政を担当します。もう一組は司法担当とし公事方と称します。勘定所の束ねは勝手掛老中である水野様が行い、その下に勘定奉行や代官を置きます。しかし今後年貢については、検見取法を廃止し、定免法に切り替えます。したがって地方における年貢査定権を持っていた代官の権能は大幅に削減されます。これによって二度と不正は行われないでしょう」
「……」
 新井白石は沈黙した。これも実に爽やかで新しい手法だ。
(そうか、そうだったのだ)
 改めて気がついた。新井白石のやり方は個人攻撃に始まって、
「人間さえ取り替えれば、仕事のやり方も変わる」
と考えてきた。ところが吉宗は違う。
「まず入れものを変える。そうすれば中に入る液体の形も変わる」
というやり方だ。だからこそ彼は組織の大幅改正はせず人事異動も行わずに、しかも、
「古い酒は新しく変われ、古い革袋も新しく変われ」
と体質転換を求めることによってそれを実行している。
 (吉宗公は、やはり大政治家だ、名君だ)
 白石は改めてそう感じた。そこへいくとやはり自分は学者だった。限界があった。しかも器量が小さい。個人的に荻原重秀を憎んだ感情の中には、かなり私的なものも混じっていた。すべてが公的だったとはいい切れない。その日、大岡が去った後白石はひとりで考えた。しかし自責の念よりもむしろ胸の中に新しい希望が湧いてきたのを感じた。
 (自分の幕政はいってみれば北風のようなものだった。その北風が過ぎ、今は日輪の暖かい陽光がこの国にさし始めている)
 という気がした。将軍徳川吉宗の政治は、人間を大事にする日輪の暖かさで包まれている。しかし新井白石の北風に等しい厳しく冷たい時期があったからこそ、日輪の暖かさを素直に受けとめ得るのだ。
 (今日の新将軍の改革の前には、自分の北風政治がどうしても必要だったのだ)
 白石はそう思った。自責の念が次第にうすれていった。そして、吉宗の展開する享保の改革に、大いなる期待を持ち始めた。そして、
 (大岡殿を通じて、吉宗公から乞われれば一学者として協力を惜しむまい)
と心に決めるのであった。
▲UP

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