童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          尼将軍 北条政子 日本史初の女性リーダー

■東国武士の政権を守った尼将軍

<本文から>
 政子は正直にいって一夫の源頼朝に不満なところがあった。
それは、政子には次のような政治理念があったからだ。
●鎌倉に新しい幕府を開いたのは、あくまでも″武士の・武士による・武士のための政権〃を確立したということだ。
●それを支えるのは東国武士であって、西国の武士ではない。とくに都の人間ではない。
●政子は、武士が京都に入ると必ず生活が貴族化して堕落する、と思っていた。だから、京都に生まれ育った夫の頼朝がときに京都を恋しがり、またとくに京都の女性に色目を使うのを好ましからず思っていた。
●東国の伊豆に生まれた政子には、女性でありながら東国武士の初心・原点の思想が脈々と流れていた。
●したがって、政子が鎌倉政権に託したのは、この「東国武士の初心・原点をあくまでも失わない」というものだ。
●東国武士の初心・原点というのは、質実剛健・不言実行・潔い身の処し方・家族や部下に対する限りない愛情などである。
●同じ源氏の一族でも、木曾義仲・源義経などの武士が京都に入ると必ずフニヤフニヤになり、結果的には身をほろぼしてしまう。こういう状況を見ていて、政子はいよいよ「武士が都に入ると必ず骨抜きになる」と感じた。
●したがって、せっかく夫が鎌倉に樹立した武士の政権は、あくまでもバックボーンをきちんと持った、東国武士の初心・原点を守りつづけるものでなくてはならないと感じた。
●そして、そのためには「たとえ女性であっても、自分が実質的な将軍になって鎌倉幕府を守り抜かなければならない」と心を決した。
●政子はこれを実行した。そのため、彼女は尼将軍″と呼ばれた。
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■頼朝の挙兵

<本文から>
 頼朝が後白河法皇の皇子以仁王の令旨を受けて兵をあげたのは、治承四(一一八○)年八月のことである。以仁王は源頼政を味方にしたが、二人はまもなく平家側の大軍に囲まれた。頼政は戦死し、以仁王は逃れた。この以仁王決起の原因として、
 「平家万能の世の中では、資格があるにもかかわらず、以仁王は皇太子になれなかったからだ」
 という説がある。
 そうなると、この挙兵の動機は、
 「以仁王の私的な事情によるもの」
 ということになるが、全国の状況はそんな程度のものではなかった。
 「平家にあらずんば人にあらず」
 と豪語する平家一門は、平清盛の采配によって全国の国々のほとんどの管理者ポストを占めていた。平家でない武士たちの不満がいっせいに爆発する寸前にあったのである。
 以仁王の令旨を携えてやってきた使者を迎えて、頼朝はついに挙兵に踏みきった。この挙兵を支えたのが、政子の父北条時政であった。時政は都での大番役を務め終えたばかりであり、武士のつらさを骨身にしみて知っていた。したがって、
(一丁やってみるか。だめでもともとだ)
 というダメモトの覚悟を決め、頼朝を煽った。頼朝はこれに乗り、まず伊豆国の目代だった山木兼隆を殺させた。
 前述したように、山木兼隆は、一時、北条時政が、
 (流人の頼朝の妻になるよりも、正式な役人である山木殿に嫁入りさせたほうがいい)
 と考えて、政子を嫁入りさせた相手である。これを真っ先に殺したのは、やはり
 (嫉妬からきた頼朝の報復か)
 と考えがちだが、そうではない。山木兼隆はれっきとした中央政府の派遣した役人であり、同時に平家一門であった。したがって、山木を討つことはそのまま、
 「平家に対し、真っ向から挑戦する」
 という頼朝の姿勢を示すものであった。
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■父の北条時政や、夫の源頼朝から学んだ名補佐役ぶり

<本文から>
 補佐役の重要な職務の一つは、組織目的達成の過程における進行管理である。鎌倉執権政府がその後、曲がりなりにも続いていくのは、幕府創立初期における政子の、
 「名補佐役ぶり」
 に負うところが大きい。しかし、その政子も、先天的にそういう能力を身についていたわけではない。やはり、父の北条時政や、夫の源頼朝から学んだところが多い。さらに、頼朝が京都から招いた下級公家の大江広元からも学んだ。学んだことの最大のものは、
 「トップリーダーならびにその補佐役は、バトルだけに目を向けてはならない。ウォーを見渡さなければだめだ」
 ということである。
 源頼朝は源平騒乱の過程において、実戦にはまったく参加していない。彼がみずから合戦で指揮をとったのは、伊豆で蜂起したときだけだ。その後の平家との重大な戦いは、すべて弟の義経や範頼に任せている。当時の、
「親が殺されれば子はその遺体を乗り越えて突き進み、子が殺されればさらに孫がその遺体を越えて突き進む」
 という東国武士の風潮からいえば、頼朝の態度は必ずしも褒められたものではない。勇猛一途で合戟のことしか考えない東国武士の中には、
「鎌倉の御大将は卑怯者だ」
と見る者もいただろう。気の強い政子自身、
(わが夫は腑甲斐ない)
と感じたこともある。
 が、次第に、頼朝がなぜ鎌倉から動かないかという理由がわかってきた。それは
「源平騒乱の全体像を客観的に凝視する」
という考えがあったからである。
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■父娘の野望は一致

<本文から>
「おまえも相当なしたたか者に育ったな」
「すべて父上のご薫陶でございます」
「嘘をつけ」
 時政は笑った。そして、
「頼朝殿の都の女子好きが、結局はおまえをそういう女に仕立てたのだ」
と笑った。政子は一瞬バッと顔を赤くしたが、すぐうなずいた。
「そのとおりでございます。ですから、今後そういう心配がいっさいなく鎌倉政権を持続するためには、このたびの父上のお役目は重大です。成果如何によってそれがかないましょう」
 そう告げた。時政はうなずいた。ここで父娘の気持ちは一致した。
●鎌倉政権はあくまでも、東国武士の・東国武士による・東国武士のための政権である。
●そして、その鎌倉政権によるイニシアチブを握るのは、北条家とその子孫である。
●その限りにおいては、政子は単なる頼朝の妻ではない。実質的に鎌倉政権を主導する北条家の一員の立場を貫く。
●鎌倉政権の「補佐役」のポストは、あくまでも北条一族がこれを引き継ぐ。
●このたびの北条時政の上京は、その礎石を築く目的もあわせ持っている。
 だからこそ、父の時政は娘政子の眼の底にそういう野望を見抜き、
 (わが娘ながら、男性に負けない政治性を持っている)
と感じたのである。そうなると、時政の娘に対する見方も変わる。時政はこの夜はっきりと、
 (この娘と俺の野望は一致している。政子がいることは北条家のために大いに頼もしい)
と感じた。
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■父以上の補佐役

<本文から>
(直接収入源を持たなければ、将軍の勢威が保てない)
と考えたからである。そこへいくと頼朝にはまだそんなものがない。だから、政子はやきもきしていた。政子自身にすれば、
(征夷大将軍としての夫が直接管理できる土地と農民を持ちたい)
と願う。軍勢にしても同じだ。確かに直臣は増えてはきたが、大した勢力ではない。一朝事あるときはすべて御家人群の世話にならなければならない。誇り高い政子にすれば、それもやりきれない思いだ。政子は収入とともに、直接の軍勢ももっと多く持ちたいと願いつづけていた。そして、
(そうさせるのが私の役割なのだ)
と現代でいう「補佐役的責務」を痛感していた。今まではとにかくその線に沿って努力してきた。父の時政も協力してきた。立場からいえば、父の時政が鎌倉幕府頼朝政権の補佐役なのだ。政子は将軍の妻だから、父の上位者になる。ただ、実質的な心配や、いろいろな策を立てるのは政子のほうが多い。それに、父の時政も、
「わが娘ながら、なかなかおまえはよくやるよ」
といって協力してくれた。
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■我が子・頼家の裁を止めた御家人会議の設置

<本文から>
 政子の胸の中に、今までなかった冷たい氷の柱が立った。それは、
(場合によっては、たとえわが子であっても頼家を処断しなければならない)
ということであった。この段階において、政子は公人頼家と私人頼家とに分断した。つまり、将軍である頼家は公人だ。しかし、息子である頼家は私人だ。が、頼家にすれば、二つながら自分一人のものだ。したがって、政子が決断し、
「公人である頼家を処分する」
と決定したときは、私人である頼家も同時に処分されてしまう。これは切り離すことができない。今までの政子は、
(私にそれができるだろうか)
と悩んだ。しかし、ここまできた以上、もう心を決めざるをえない。
 父時政のいう、
「御家人会議」
は、合議機関ではあるが、決定機関でもある。つまり、
「鎌倉幕府の意思を決定する機関」
だ。御家人会議そのものが決定権を持つ執行機関でもあるのだ。そうでなければ、頼家の親裁を止めることはできない。おそらく頼家は文句をいうだろう。承知もすまい。それでは明らかに鎌倉幕府の決定機関が真っ二つに割れてしまうからだ。今でいえば、トップマネジントが分裂してしまう。言葉を換えれば、
「鎌倉幕府の二元政治」
が行なわれることになる。が、その混乱もやむをえないと政子は覚悟した。
 そこで、父の時政から聞いた御家人会議の機能について弟に話した。義時は眼を輝かせて話を聞いた。そして、聞き終わると大きくうなずいた。
 「賛成です」
 「では早速、人選に入りましょう」
 新しく設ける御家人の会議は、定員を一三人とすることにした。
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■実朝を征夷大将軍に、頼家を見捨てる

<本文から>
「二代将軍頼家卿死去」
の報が、京都朝廷にもたらされていたということだ。
 したがって、京都朝廷は、
「急ぎ、三代将軍の決定を行なうように」
と命じ、それに対し、北条側では、
「旧将軍の弟実朝をもってこれにあてたい」
と奉答した。この辺の運びはおそらく大江広元あたりの手際によるものだろう。九月七日には、
「源実朝を征夷大将軍に任ずる」
という宣旨がもたらされた。このとき、政子は頼家のところに行った。そして、
「あなたのお気持ちはよくわかるけれど、実際事態はここまできてしまった。どうか観念して、仏門にお入りなさい」
と諭した。頼家は抵抗した。政子を睨み、
「母上は私に対し慈母であったことは一度もない。しかし、今はまったく鬼になられた」
と恨みの言葉を告げた。政子は甘受した。そういわれても仕方がないと思っていたからだ。
 同時にまた、
 (そうしなければならないつらさは、到底この頼家にはわからない)
と思った。
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■父をも政敵として倒す

<本文から>
 「さらに、父側に不利な情報を流す以外ない」
ということになった。もう政子・義時姉弟には、時政を父と思う気持ちはない。完全な政敵であった。
 「政敵はつぶさなければならない」
 という意志は一致している。その点においては、すでに親子の情を忘れた政略以外の何ものでもなかった。
 政子側はふたたびガセネタを噂として流した。それは義時が最初恐れた、
 「北条時政は娘婿を次期執権に指名する」
という段階からさらに飛躍させて、
 「時政・牧の方夫婦は、自分の娘婿である平賀朝雅を次期将軍に推し立てようとはかっている。そのため、邪魔になる実朝を殺害しょうと企てている」
という恐ろしいものであった。さすがに鎌倉は驚愕した。
 「内々噂には聞いていたが、現執権北条時政殿は、そこまで牧の方の尻に敷かれているのか」
と驚きの声を放った。そして、このときもまた、
 「十分ありえることだ」
と噂をさかしらに肯定する者がたくさんいた。この噂は前のようにすぐに消えなかった。それどころか、煙はいよいよ濃度を深め、鎌倉の空気は険悪になった。勇ましい連中からは、
 「たとえ鎌倉幕府創立の功労者であっても、そのように公私混同する北条時政は不届き者だ。この際、思いきって諌伐すべきだ」
などという物騒な意見まで出はじめた。政子と義時は、
「この機会はのがせぬ」
 と合意した。
 そこで、元久二 (一二〇五)閏七月十九日に、政子の命によって数人の有力御家人が、軍勢を率いて時政邸に押し入った。
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■承久の乱で武士の心を一つにした政子の訴え

<本文から>
「みなみな心を一つにして承れ。私の最後の言葉である。その昔、武士は大番役を三年務めるのが常であった。それが武士の責務だと思い、家来を連れて京へ上った。しかし、三年の任期満ちて故郷へ帰るときには、おのれの財産を使いつくし、馬も所持品もいっさい売り払って供の者もなく、蓑笠を首にかけ、みすぼらしい姿で戻ってくるのが常だった。大番役は京都に滞在中の費用をおのれで負担しなければならなかったからである。それを亡き殿(頼朝)はあわれに思われ、三年をわずか半年に縮められた。しかも、身代に応じて割りあて、諸人が助かるようになされた。こんなことはつい最近のことで、まだみなみなもよく覚えておいでのはずだ。これほど情け深くあられた故殿のご恩がどうして忘れられようか。みなみなよ、その殿に村して、忘恩の徒となって京都へ味方するならそれもよし。そういう考えを持つ者は、そのことを今はっきり申しきってこの場を去れ。敵味方を明らかにされよ」
 と血涙をふるって述べ立てた。政子の気持ちに外連味はない。本心でそう思っていた。彼女の頭の中には、死んだ頼朝の面影がはっきりした映像を持って座りこみ、
 「政子、しっかりやれ」
と励ましていた。頼朝の映像に肩を押され、政子は思いのたけを叫びつづけた。庭を埋めつくしていた御家人武士たちは圧倒された。このころの武士はまだそれほど教養がない。ろくに字も読めなければ、書くこともできない。おそらく自分の名を書ける者もそれほど多くはなかろう。したがって、早くいえば、これらの武士た ちは、
 「知よりも憎が先行する存在」
 だった。そして、これが東国武士の強さの核になっている。東国武士が強いのはあまり知的な思考をしないためだ。勘で動く。そして、直情径行だ。いったんこうと感じたら、すぐいけいけドンドン″で実行する。ほとんどの武士が政子の涙ながらの大演説に感動した。その空気をしっかりつかむと政子はつけたしとして自 分が見た夢の話をした。
 「したがって、このたびの上洛は、伊勢大神宮もお認めになり応援してくださる。みなみなよ、迷うところなく泰時殿に従え。泰時殿はすでに出発しておられるぞ!」
とひと際声を張りあげた。庭でたちまちウォーという開の声があがった。
 承久三(一二二一)年五月二十二日、御家人たちは先を争うように鎌倉を出立し、先発した泰時を追いはじめた。
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