童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          江戸商人が守り抜いた 商いの原点

■三井高房の商人道

<本文から>
  三井高房は、その著『町人考見録』の中で次のように述べている。
●政治には王道と覇道がある。王道というのは仁や徳によって行う政治であり、覇道というのは自分の欲望を満たすために、権力を得るための権謀や術策をめぐらすやり方だ
●同じことが商人にもいえる。商売にも王道と覇道がある。われわれは王道を目指すべきだ
●王道を目指す商業というのは、商人道を確立することである
  つまり、
 「武士に武士道があるように、商人にも商人道がなければならない」
 という提言であった。そして三井高房は武士(特に大名)を信用しなかった。したがって、
●三井家では、今後、武士への金融を中止すること
●すでに貸し付けた金については、たとえ返済がなくても損金として処理してしまうこと
●だからといって、武士権力とまったく関わりを持たずに商売はできない。したがって、おりおり「上納金」のような形で献金をすること
 という現実重視の経営法を示している。いずれにしても、今まで士農工商の身分制によって社会の最劣位に位置付けられ、周囲からは、
 「自らは何も生産せずに、他人を偏して金儲けをしている存在」
 と見られてきた商人が」一斉に、
 「商人道を確立しよう」
 と奮い立った時代であった。これは消極的ながらも、その底にあるのは、
●商人は決して社会の劣位に置かれるべき社会の付随物(おまけ)″ではないこと
●職業としては十分に独立した主体性を持った分野であること
●現に、社会全体の動きの中で「貨幣」がなくては世の中が回らないこと。すなわち貨幣は、卑しむべきものではなく、活用すべきものであること
●しかし、一方、商人側においても、単に今まで社会的劣位に置かれた卑屈感で変に屈折したり、社会への報復を考えてはいけないこと
●政治・行政における王道″を商業界においても実現すべきこと
●それにはやはり商人間におけるル−ル≠ェ必要であり、そのルールはまた「人間としての道を守るべきもの」であること
●すなわち、商人道を確立する必要があること
●その商人道を確立する上には、各商人(企業)それぞれが自発的に自己規制を行うべきこと
●それぞれの商人の規約が堆積して″商人道″を成立させること
 などである。そしてさらに三井高房の『町人考見録』を流れる、
 「武士(主として大名や旗本などの取引相手)不信」
 の表明は、明らかに身分社会への異議申し立てであったことは確かである。実際、三井家では大名貸しや旗本貸しをやめてしまう。そして貸した金は全部損金として決済してしまう。つまり、
 「いずれ返してもらえるだろう」
 などという甘い期待を持って、あくまでも貸付金として帳簿に載せておくことをやめてしまったのだ。
  このへんは、気骨ある商人の勇気ある行動だといっていい。その意味では、享保の改革推進において、「目安箱」を設け「市民の存在」を改めて世の中に認識させた八代将軍徳川吉宗の治績は、再評価されてもいい。
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■高利は庶民に切り替えた「越後屋商法」と呼ばれる画期的な方法を展開

<本文から>
 この段階で、すでに高利は、
 「同族による合同経営」
 の構想を持っていた。つまり後に「遺訓」で強調する、毛利元就の三本の失の教訓≠この段階できちんと胸に抱いていたのである。
 延宝元(一六七三)年に、長兄の俊次が病気で死んだ。高利はすでに五十歳を過ぎていた。しかし母の病気も治り、再び元気になっていたので、高利は、
 「お母さん、もう一度、江戸に行かせてください」
 と頼んだ。母は快諾した。しかし、かれが江戸に向かったのは、単に兄の店を引き継ごうとしたわけではない。兄の店にいたときから抱いていた、
 「高利店の独立」
を実現する気でいた。そのためにネットワークを張った。つまり、江戸店は「販売」を主とし、そのための「仕入れ」を反物の本場である京都に設ける。そして、
 「本店はあくまでも伊勢松阪に置く」
という三店主義をとった。京都の仕入れ店は長男の高平を店長とし、江戸店は二男の高富を店長にした。そして高利自身は主として本店である松阪に身を置き、金融業を営みながら三つの店を往来して調整した。店名を「三井越後屋」とし、本店の金融業がやがて後の三井銀行に、そして呉服部門が三越百貨店に発展していく。
 そしてこのとき、高利は呉服屋ののれんに自分の名を染め抜くことはせずに、長男の高平に「越後屋八郎右衛門」という名を名乗らせた。すでに、
「創業者は一歩退き、二代目を創業者的に育て、その名を社会にPRする」
 という姿勢を持ちはじめていたのである。江戸店では、高利の指示により、後に「越後屋商法」と呼ばれる画期的な方法を展開しはじめた。その根本は、
「客を武士から庶民に切り替える」
 というものであった。これには店の番頭たちが猛反対をした。
「庶民が金を持っているはずがありません」
 というのがその理由だ。が、高利は笑って首を横に振った。
「そうかな、とにかくやってみよう」
 と、この大転換を実行した。しかし単に大名・旗本などの武士から、長屋の八つぁん熊さんまで含めた庶民に、客としての相手を変えたわけではない。経営方法にも思い切った革新的な方法を取り込んだ。それはかつて江戸店で兄の商法である、
●訪問販売
●代金の年二回精算
 というやり方がいかに不合理であるかを身に染みて知ったからだ。もちろん高利の愛矯のいい対応によって焦げついた金は次々と集金できたが、しかし高利はそれで満足したわけではない。
 「このやり方そのものに問題がある」
 と感じた。そこで、かれが武士から庶民を相手にするように客を切り替えるのには、次のような方法を取り込んだ。
●訪問販売をやめ、店頭売りとする
●年二季の精算方法をやめ、現金取り引きとする。掛け売りは認めない
●半年ごとの利子を上乗せして品物の価格を高くしていたシステムをやめる。良い品物を安く売ることをモットーとする
●武士相手だと反物は反あたりで販売してきた。が、庶民相手では切り売りも行う
●もし急ぐ客があれば、仕立てもサービスする
 などである。しかし目玉は何といっても、
「掛け売りお断り、現金取り引き」
という点にあった。実施した直後から、この商法は爆発的に当たった。番頭たちの、
「庶民が金を持っているはずがない」
という認識は間違いだった。庶民も結構、金を持っていた。特に庶民の妻は、いわゆるたんす貯金″やへそくり″を持っていた。そしてかねがね、
 「七五三のときには、子供たちに椅麗な着物を着せたい」
という願望は一般的なニーズとして江戸中に広まっていたのである。しかし日本橋に集まっている大手の呉服店では自分たちを相手にしてくれないし、また切り売りをしてもくれないので到底手が出せなかった。いわば、子供たちに着せたい着物は、
「庶民には手の出ない高嶺の花」
 だったのである。
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■一項目の遵守で店内の空気を変えた幡桃の手法

<本文から>
 しかし幡桃はじっと主人を見返していた。やむを得ず主人も、
「では、おまえさんに任せよう。でも、おまえさんのいう一力条の禁止項目というのは一体何だね」
 と聞いた。蜂桃は、
「それはみんなが相談して決めることです」
 と告げた。主人は何のことかわからずに、眉を寄せて蜂桃を見詰めていた。その夜、幡桃は従業員を全部集めた。そして、
「これからは自分が目付役になる」
 と告げた上で、
「おまえさん方が守らなければならない従業員心得は、ただ一力条とする。そしてその一力条は、おまえさんたちがこれから相談して決めてほしい」
と丸投げをした。従業員たちは顔を見合わせた。幡桃の意図がよくつかめなかったから
 である。しかし、
 「守るべき心得は自分たちが相談して決める」
 という民主的な方法を与えられたことには好感を持った。がやがやと相談をした。やがて代表が幡桃のところにやって来た。
「番頭さん、一力条を決めました」
「それはご苦労だった。決めた一力条というのはどういうものかね」
「門限(帰宅限度時間)を守るということです。門限は午後十時としました。例外を認めないことにします」
 聞いた幡桃は満足した。そして、
「わかった。では明日からしっかりとその門限を守ってください」
と告げた。ところが一般の従業員たちは自分たちが決めた門限を守らなかった。相変わらず午後十時過ぎになって戻る者がいた。そして密かにトントンと外から戸を叩く。帳場には幡桃がしっかりと控えていた。幡桃は、
「従業員が全員帰宅するまでは絶対に眠らない」
と心を決めていた。しかし外から戸を叩く者があっても、
「だれだね」
と聞くだけで、戸を開けようとは絶対にしなかった。
「番頭さん、外は雨です。濡れてしまいます。これからは気をつけますから、どうか今晩だけは入れてください」
と懇願するが、幡桃は頑として入れなかった。こういった。
「門限を守るということは、おまえさんたちが相談して決めたことだ。自分たちが決めたことは大切にして、しつかり守り抜きなさい。どんなに頼まれても例外は認めません」
ときっぱり撥ねつけた。従業員たちは弱り切った。しかし、これが次第に浸透して、
「門限を守ること」
という一項目だけの遵守で、店内の気風はどんどん改まった。ピシッと緊張した。このことは主人にも知れた。主人は幡桃を呼んだ。
「番頭さん、店内の空気が変わったね」、
「変わりました。昔と違って、みんな一所懸命働いています」
「そのようだ。おまえさんのやり方が成功したわけだ」
 主人は多少いまいましかったが、しかし幡桃の手腕には敬意を表した。幡桃は笑った。
  つまり、この教訓は、幡桃が江戸時代きっての大学者であったにもかかわらず、そんな学問を鼻の先にちらつかせて、従業員たちを指導しなかったということである。むしろ従業員の立場に立って、
「最も守りやすい一項目の家訓」
を設定したことだ。しかもその設定を、
「守るのはおまえさん方なのだから、おまえさん方で決めなさい」
と、その合意による決定を承認したことである。これは、物事の、
「意思決定過程」
に従業員を参加させたということだ。合理主義者の山片幡桃は、やはりこういう民主的な手法を心得ていたのである。この事実は幡桃の言行が、
「番頭の分限を越えて、トップがやらなければいけない分野」
に入り込んでいたことを物語る。江戸時代の商家では、血の上でつながりがあっても、
「とても家を継ぐだけの能力がない」
と判断したときは、娘がいれば有能な番頭を娘の婿として家を継がせた。あるいは他家から養子を迎えた。このへんも、商店の経営が、
「個人から商店という組織そのものの存続」
に重要性が移行していったことを物語る。幕府や大名家の存続とまったく同じ手法を取り入れていたのである。
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