童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          赤穂落城 元禄の倒産とその始末

■吉良上野介は名君であった

<本文から>
 江戸時代に高家として指定されていたのは、足利一族である。吉良上野介の家も、足利の一族だった。名門で、
 「足利本家に相続人が絶えたときは、まず吉良家から養子が入る。吉良家にも候補者がいない場合は、今川家から入る」
 とされていた。
 吉良というのは、もともとは三河地域(愛知県東部)の一地域を言う。足利家の一族が、この地方に領地をもらった。地名をそれぞれ姓とした。吉良、一色、細川などはすべてこの地域の出身である。
 赤穂浪士の名かあまりにも高くなってしまったので、相対的に吉良上野介の評判は落ちた。しかし吉良地域では、
 「忠臣蔵の芝居は絶対にやらせない」
 という伝統がある。というのは、この地方では、
 「吉良上野介は名君であった」
 という言い伝えがあるからだ。上野介は民政に熱心で、領民を慈しんだ。よく赤い馬に乗っては、
 「どうだ! 元気にやっているか」
 と、働く人々に声をかけたという。従って現在でも吉良地域には、
 「赤馬」
 と銘打ったお菓子が売られている。
 高家筆頭の吉良上野介は、この年の、
 「勅使を接待する大名の指南役」
 でもあった。

■目標に到達するまでの道程をPRした大石

<本文から>
 さて、江戸の浅野家関係の人々たちに指示した、
「発行した藩札の償還を真っ先に行え」
 という件は、大石の才覚によって立派に成し遂げられた。藩民たちは初めのうちは疑っていたが、大石が、
「藩札は、六割の換金を行う」
 と告げ、これを実行したので、一挙に潰れた浅野家に対する信頼心が湧き、回復した。商人の中には、
 「さぞお困りでしょう。これをお使いください」
 と言って、自分の持っている正貨を差し出す者もいた。
 一段落したので、大石はこれから、
 「お家の再興あるいは新しいお家(大名家)を建てること」
 という活動にカを注いでいく。しかし、これまでの経過を見てみると、大石は単なる"昼行灯"
 ではない。かなり、
 「宣伝上手」
 と言っていい。つまり彼は、
 「慎重に、段階を済んで事を成し遂げていく」
 という、言ってみれば、
 「物事には、きっちりした脚本を書き、その段取りに従って行動する」
 というタイブであったことは筒違いない。しかし、そのやり方を見ていると、結構、
 「同時に宣伝もしている」
 と言える。彼は藩札の償還に対し、
 「赤穂には金がないから、浅野家の本家である安芸(広島県)本藩と、分家の三次(みよし)藩に、借金しよう」
 と言って、これを公にした。普通ならこんなことはロに出さない。
 借金するということは、やはり武士の面目からすれば恥ずかしいことだ。が、あえて大石がこれを行い、同時にいまだにこれが公の記録に残ったり、伝えられているところを見れば、大石は借金を申し込んだ段階で、
 「このことは公表する」
 と告げ、事実、公表した。これは現在で言えば、完全な、
 「PR」
である。つまり、大石のやり方は、
▼目標に到達するまでの道程を計算し、手順を一つひとつ定めていく
▼その手順を一つ踏むごとに、PRを行う
▼究極的には、目的達成のときには、手順ことのPRが全部積算きれる
 といラことになる。

■経普者が見習いたい大石の不祥事処理策

<本文から>
結果から言えば、大石内蔵助たち四十七人は、元禄十五年十二月十五日の未明、吉良邸に討ち入って目指す上野介の首を取る。しかし、いきなりこの仇討ちに向かって歩き出したわけではない。その前に、
 ▼藩札の交換
 ▼お家の再興に対する嘆額
 ▼それが受け入れられないときは、残った武士が全員赤穂の大手門の前で切腹する
 ▼それが徳川幕府に対する反逆行為と見なされるのならば、これを取りやめ、旧主人浅野内匠頭の弟大学の行く末を見定める
 ▼浅野大学にもし一万石でも二万石でも与えられて、新しい大名家が設立されれば、旧浅野家の遺臣たちはそっちに就職する
 ▼しかし、もし浅野大学が大名に取り立てられずに、罰を受けるようなことがあった場合には最終的な決意をする
 ▼最終的な決意というのは、言うまでもなく吉良上野介の首を取って、主人の怨みを晴らすということだ
こういう段取で、
 「元禄赤穂事件」
 あるいは、
 「忠臣蔵」
 という事件は成立する。
 しかし、ここに書いたような細かい段階ごとに、大石は巧みなPRを行った。彼の言いたいのは、
 「このときにこういうことを行ったが、結局は受け入れられなかった」
 ということを、その度にはっきりけじめをつけていくということだ。同時に公表するということである。大石は、
 「われわれは、ここまで手を尽くした。しかし、相手は全く応じてくれなかった。そのために、やむを得ず最終的な決意を実行したのだ」
 というふうに持っていったのだ。
 この大石の根気強さ、そして時間をかける慎重さは、現代の不祥事を起こしている企業の経営者たちにとっても、大きな参考になる。いまは、不祥事によって会社が倒産し、社員が全員失職し、退職金もろくにもらえないような状況に追い込まれても、踏みとどまって、
 「有終の美を飾ろう」
 などと考えるトップ層はあまりいない。
 その点、大石は見事だった。ガラガラと崩れる赤穂企業の責任者の一人として、既に社長が死んでしまっているにもかかわらず、専務取締役として、彼は最後まで踏みとどまった。しかも、
 「俺は退職金など要らない。ほかの困っている人間に回してくれ」
 と言い切る姿勢は立派だ。同時に、
 「株主が持っている株券に対しては、それなりの保証をしなければならない。株主に迷惑を掛けることはできない」
 と言って、現在で言えば、
 「額面価格の六割償還」
 を行ったことも立派だ。こういう面から大石内蔵助を見直すと、
 「現代にも通用する立派な経営者」
 の一人だったと言っていいだろう。

■大石たちは吉良を逆恨みしたことになる

<本文から>
ただ幕府側がいつまでたっても、
 「お家の再興を許す」
 という許可を与えずに、翌元禄十五年の七月になって、
 「浅野大学は、広島本家にお預けとする」
 という決定をしたから、大石たちはついに、
 「二度とお家は再興できない」
 という絶望状況に追い込まれたのだ。いわゆる、
 「窮鼠猫を噛む」
 という境地になったのだ。しかし、この猫は、決して幕府ではない。吉良上野介である。
 考えてみれば、これもおかしい。と言うのは、
 「主人の仇を討つ」
 と言っても、別に吉良上野介が浅野内匠頭に斬りつけたのではない。斬りつけたのは浅野のほうだ。吉良上野介か浅野に斬りつけ、まして殺しでもしていたら、
 「主人の仇を討つ」
 という大石たちの論理は成り立つ。ところが、大石たちは、
 「あくまでも主人の気持ちになって、恨みを晴らす」
 と言っている。いわば"逆恨み"である。
 そういうことが分かっているから、
 「吉良上野介を討つ理由を、どう立てればいいか」
 ということで、大石たちはこの一点で苦労した。だから、冷静に考えてみれば、四十七士の行動は、
 「吉良上野介に対し、逆恨みを実行した」
 ということになる。
 現代になぞらえて言えば、
 ▼ある会社の社長に、白身の会社の社長が意地悪をされた
 ▼そこで、公式の会議の席で、自分の会社の社長が意地悪をした社長に乱暴をした
 ▼暴力行為に及んだので、社長は罰されて全社は潰れた
 ▼こっちの社員は、全員、失業した
 ▼こっちの社員は、徒党を組んで、相手の会社に殴り込みをかけ、相手の社長を殺した
ということになる。
 こんなバカな理論が通用するわけかない。

■柳沢により取り締まりに手を加えていた

<本文から>
赤穂蒲の失業武士四十七人が、
 「義士」
 の名を高め、武士のかがみと言われるようになった、吉良邸討ち入り事件は、言ってみれば、倒産した浅野家の家老大石内蔵助と、五代将軍徳川網吉の側用人だった柳沢吉保との、
 「あ・うんの呼吸」
 によって実行きれたと言っていい。
 もちろん、大石と柳沢は会ったこともない。しかし、大石の考えと柳沢の考えとは、期せずして同じ流れの中にあった。
 警戒厳重な市中を、四十七人もの大集団が夜中に堂々と行進でき、同時に吉良上の首をも取ってから長い道をたどって現在の港区の泉岳寺まで行進できたのは、やはり時の側用人柳沢吉保が、江戸町奉行所に対して、
 「赤穂浪士を黙って通してやれ」
 と命じていたからだろう。
 将軍のお膝元である江戸の町の治安は厳重で、夜になれば各町の辻には木戸が引き出される。これが江戸の金町に渡って行われるから、言ってみれば、江戸の町々はそれぞれ"小さな檻"になる。
その木戸を出入りできるのは、病人のために医者を呼びに行くとか、親成が危篤に陥ったというようなとき以外不可能だ。それを、四十七人もの大集団が堂々としかも武装して行進して行ったのだから、これは明らかに、
 「取り締まり側に何らかの手か加えられていた」
 と見るのか普遍だ。
 場合によって、
 「赤穂浪士の吉良邸討ち入りを陰で繰ったのは柳沢吉保だ」
 などということか表面に出れば、これは大問題になる。従って、柳沢吉保がそういう画策をしたとしても、あくまでも隠密裡に行われたことであって、赤穂浪士の仇討ちへの直接の示唆があるような真似は柳沢もしない。柳沢は老巧な政治家である。

■柳沢は赤穂浪士を『君たらずとも、臣、臣たれ』の見本と考えた

<本文から>
柳沢吉保は、考える。
 「今、上きま(徳川綱吉のこと)かしきりに求めておられる、『君たらずとも、臣、臣たれ』ということは、そのまま赤穂浪人にも当てはまるのではないか」
 ということをだ。
 綱吉の求める考えが赤穂浪人に当てはまるということは、赤穂藩主の浅野長矩は、
 「江戸城内では、絶対に刀を抜いてはならない」
 という掟を破って、刀を抜き、吉良上野介に斬りつけた。
 そんなことをすれは、違法行為なのだから、当然、切腹、お家は断絶、全藩士は失職ということは見に見えている。それか分かっていながら、あえてそういうことを行ったというのは、
 「君、君たらず」
 ということになる。つまり、トップに立つ者の資格を欠いているということだ。
 どんな理由があれ、結果か分かっているのにそういうことをするのは、バカとしか言いようがない。
 従って、赤穂藩主浅野長姫は、あの段階においては完全に、
 「藩主の資格」
 を失っていた。しかし、そういう「君、君たらざる」藩主に対して、「臣が臣たる」ということはどういうことか。
 (それは、家来が主人の気持ちを引き継いで、その志を実現することだ)
 ということになる。そう考えると、
 「赤穂藩主浅野長矩は藩主としての資格を欠いていたが、遺恨は残った。その遺恨を自分たちの遺恨として、吉良上野介を討つことは、そのまま『君、君たらずとも、臣、臣たれ』の生きた実例になるのではないか」
 柳沢吉保は、そう考えたのである。そうなると、細井広沢から開いた堀部安兵衛たちの動向は、柳沢吉保にとっても深く関心の持てる課題になってきた。
 つまり、柳沢吉保にすれば、
 「もし赤穂浪士が主人の仇を討つ気があるなら、それを実行させてやろう。そうすることが、今、上きまがしきりに望んでおられる新しい武士のありようを、潰れた大名家の遺臣たちが身をもって示す好例になる」
 ということであった。そう思うと、柳沢吉保の胸は弾み出した。
 浅野長矩が刃傷に及んだ元禄十四年三月十四日当日は、将軍徳川綱吉は激怒した。怒りのあまり浅野に対して、
 「即日切腹・お家断絶」
 を命じた。そして、吉良上野介に対しては、
「浅野の暴挙に対しても、何ら手向かいをしなかったのは、神妙である。傷を大事にせよ」
 と言って、自分の侍医を差し向け、見舞いを行った。これが世の中に漏れたから、一斉に、
 「今度の処分はおかしい。不公平だ。喧嘩両成敗の原則に背く」
 という世論が起こってきたのである。
 自分に対する批判や噂などには綱吉も敏感だ。世論が高まるに従い、時折、柳沢に開く。
 「柳沢、浅野の処分は少し過酷過ぎたかな」
 柳沢吉保は利口な男だから、心の中ではそう思っていても、
 「そうでしたね」
 とは言わない。
 「いや、あの段階では正しゅうこざいました」
 と全面的に綱吉を支持する。しかし、
 「その後、世の中の空気も変わってまいりました。今、江戸では、赤穂浪人に対し、しきりに吉良を討て」と高まっております。これは新しい現象でごぎいます。従って、私どももそのへんは十分考慮しなけれはなりません」
 と、謎めいたことを言う。
 曖昧な柳沢の言い方に、綱吉は目をひそめ、
 「では、吉良にも切腹を命ぜよということか?」
 と向く。柳沢は首を横に振る。
 「そうではございません。世論の赴くところをもう少し確かめ、赤穂浪人たちにそれなりの動きが出てくれば、それはそれで改めて考えればよろしいかと存じます」
 いよいよ謎めいた言い方をする柳沢に、綱吉は、
 「赤穂浪人に、吉良を討てというのか?」
 と目をむく。柳沢はニッコリ笑う。

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