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<本文から>
江戸時代に高家として指定されていたのは、足利一族である。吉良上野介の家も、足利の一族だった。名門で、
「足利本家に相続人が絶えたときは、まず吉良家から養子が入る。吉良家にも候補者がいない場合は、今川家から入る」
とされていた。
吉良というのは、もともとは三河地域(愛知県東部)の一地域を言う。足利家の一族が、この地方に領地をもらった。地名をそれぞれ姓とした。吉良、一色、細川などはすべてこの地域の出身である。
赤穂浪士の名かあまりにも高くなってしまったので、相対的に吉良上野介の評判は落ちた。しかし吉良地域では、
「忠臣蔵の芝居は絶対にやらせない」
という伝統がある。というのは、この地方では、
「吉良上野介は名君であった」
という言い伝えがあるからだ。上野介は民政に熱心で、領民を慈しんだ。よく赤い馬に乗っては、
「どうだ! 元気にやっているか」
と、働く人々に声をかけたという。従って現在でも吉良地域には、
「赤馬」
と銘打ったお菓子が売られている。
高家筆頭の吉良上野介は、この年の、
「勅使を接待する大名の指南役」
でもあった。 |
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