童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          真説・赤穂事件

■赤穂事件の謎

<本文から>
  昔からよくいわれることだが、
「世の中の中が不景気になると、忠臣蔵ブームが起こる」
 といわれる。この因果関係はまだ解明されていない。いうなれば、この因果関係こそ、
「忠臣蔵最大の謎」
 といえるかもしれない。そして今また忠臣蔵ブームが起こったのは、やはりこの因果関係の底に潜む原則が頭をもたげたからだろうか。
 この大きな謎の他にも、たとえば江戸城中における浅野内匠頭の刃傷と、四十七(六)人の仇討ちだけを取り上げても、いまだに解明されない謎がある。それは、
●浅野内匠頭は、なぜ吉良上野介に斬り付けたのだろうか。
●当時の幕府の制度は行き届き、吉良邸を含む大名の町には辻帯所があり、庶民の町には自身番屋がある。同時に、町々には木戸がつくられて、午後十時になるとこの木戸が引き出され、江戸の町は全体が檻のように変わる。江戸市中は自由には歩けない。そういう中を、なぜ四十七(六)人もの浪人集団が、徒党を組んで嫉歩けたか。
●また、吉良邸に討ち入った時、まわりの大名や旗本たちは、何をしていたのだろうか。
●仇討ちの本懐を遂げて、浪人たちは芝高輪の泉岳寺に引き揚げて行くが、この行進をだれも止めてはいない。一体、幕府側の町奉行所や、大目付などは何をしていたのだろうか。
などというものだ。 

■大石の情報開示戦略

<本文から>
 しかし大石は、この嘆願を取り次いでもらうについても条件をつけた。条件というのは、
「われら浅野野家の遺臣の願いは、単に舎弟大学を立ててお家を再興してくれればよいということではない。その前提として、必ず吉良殿に対しなんらかの処分があるということを含めている。吉良殿の処分がなく、ただ浅野大学を立ててお家が再興されたとしても、これでは武士の面目が立たず、浅野家の遺臣としては世間に顔向けができない。どうか、大学ならびにわれわれ浅野家の適臣の面目が立つように、まず吉良殿を処分してほしい」
 というものだ。
 この点は不思議なくらい、大石は頑迷だった。しかしかれの本心は、
「吉良殿の首を取って、主人の恨みを晴らす」というところに擬結していたから、
「あらゆる手を打ったのちに、それが不可能だということが天下に表明された暁に、最終手段としでの吉良邸討ち入りを行う」
 と考えていた。というよりも、
「結論としては、すでに吉良邸討ち入りと決めているのだから、そこへ辿りつくまでの道筋を可能な限り細かく天下に告げる必要がある」
 と考えていた。大石のこの慎重さは、
「絶対に、この仇討ちが、徳川幕府に対する謀反だと受けとめられてはならない」
 ということである。したがって大石の考える報復行動は、
「あくまでも浅野家と吉良家における私闘である」
 という判断を下してもらいたかった。そのためには、幕閣はもちろんのこと、特に浅野内匠頭に対して過酷であった将軍綱吉の機嫌を損ずるようなことはできない。といって、屈辱的に浅野家の再興を行ったのでは、遺臣たちの面目は立たない。だから、大石がお家再興の嘆願の前提条件としてしきりに強調する、
「大学と浅野家自信の面が立つようにしていただきたい。それには浅野殿の処分が先だ」
 というのは、一見筋が通っているようだが、実をいうと、
「幕府に無理難題をふっかけている」
 ということにもなる。大石の目論見では、
「おそらく、幕府はこんな要求など受け入れるはずがない」
と思っている。むしろ大石は拒否を期待していた。
こうして、江戸の本舞台にお家再興の工作をはじめた大石は、この頃尾崎村を去って、船で大坂に出、そこですでに送り出していた家族と合流し、京都山科に向かった。山科にはすでに、同じ浅野家の遺臣で一族の進藤源四郎が、自分の所有している西野山村に、土地と家を用意してくれていた。しかしもともと大石家と、山科地方との関わりは深い。

■遊興費を流用していた、身を引きたいと思っていた

<本文から>
 大石は退職金(引き金)も受け収らなかった。また、京都山科の家も一族の進藤源四郎の世話によって得ている。それほど財産があるとは思えない。
「そんな大石に、なぜそんな遊興費があるのだ?」
 と、だれもが疑う。
 大石はおそらく、保管している、
「討ち入り準備金」
 を流用していたに適いない。悪意ではなく、
「いずれ返そう」と考え、わりあい軽い気持ちで遊興費に充てていたのではなかろうか。このへんは大石の人間性が大野九郎兵衛のように、経済感覚一辺倒でないからだ。つまり鷹揚なのである。
 そして、心理分析的な突っ込みをすれば、大石自身も決して気持ちが豊かで安泰だったわけではなかろう。
「この先どうなるのか?」
 という不安感は、いつも胸の片隅にこびりついていたはずだ。
 心では早くから仇討ちを決意していても、幕府要路や、綱吉の信奉する隆光周辺への工作をつづけている。お家再興問題にまったく気がないわけではない。
 城代家老というポストの責務感からすれば、
「お家再興」
 のほうを重んずべきだろう。だから初期は本気でそう考えた。そしてそうなった時、かれ自身は
「身を引きたい」                                     、
 という思いを募らせただろう。それは、
「宮仕えはもうコリゴリだ」                             .
 ということだ。
「お家再興の暁には完全に身を引いて、悠々自適の生活に入りたい」
 と、いわゆる″第二の人生″を楽しむ方向でものを考えていたことは確かだ。

■同志の色分けのための遊蕩にしだいにはまっていった

<本文から>
しかし、元禄十四年の暮れから十五年の春にかけて、これほどまで多くの同志が参加を希望するとは思わなかった。約百三十人にもおよんだ同志の色分けをするために、大石は加盟者の志の真否を確かめようと企てた。それが、かれがはじめた遊蕩なのである。
 しかし、、意外なことに大石のこの実験は失敗した。というのは、川志たちは大石の遊瀕をあまり非難しなかったからである。一部の者はたしかに、
「ご家老は一体なにをお考えなのですか?」
 と、大石のおかれた状況とやっていることのつながりのなさに呆れ声を上げ、非難する者もいた。しかしそういう者はごく一部で、大半の者はじっと大石の動きをみつめていた。
「ご家老は、お考えがあってご道楽をなさっているのだ」
 と察認した。
 この反応には正直にいって大石は当惑した。
(作戦は誤ったか)
 と思った。そして、
(このままだと、出口がなくなる)
 と感じた。そういう不安感が逆にかれを、遊湯の道に追い立てた。大石はあまり山科の家に戻らなくなった。外泊を続けた。金もかかる。大石は次第に保管金に手をつけはじめた。はじめのうちは、(いずれ返す)と思っていたが、遊興賛がどんどんかさんでしまいには、(この分だと、一部しか返せなくなる)と不安になってきた。
 人間行動の動機には、こういう不安感が大きくものをいうことが多い。おそらくこの時州の大石内蔵助遊蕩に沈面していたのは、すべて、
「見通しの立たない状況に対する不安」
が大きく作用していたはずだ。だから遊んでいても本心は楽しくない。

■行き届いた「人々心得の覚」

<本文から>
「人々心得の覚」と題して、次のような項目を並べた。
一、討ち入りの日が決まったら、かねて定めたとおり前日の夜中に内々きめた三箇所へ静かに集まること。
一、当日はあらかじめ決定し、申しわたす刻限を待って出発すること。
一、上野介の首を挙げたら、引き揚げの場所へ持参するつもりで、その場の都合で上野介の遺体の衣類をはいでつつむこと。検分の役人に出会った時は、「この首は亡君の墓へ持っていきたい。しかしおゆるしがなければいたしかたない。お歴々の首なのですてるわけにもいかないので、先方へお返しくださるか、ご指示願いたい」と挨拶すること。絶対に役人に刃向かってはならない。うまくいけば、泉岳寺へ持参し、亡君の墓にそなえたい。
一、上野介の息子左兵衛の首はとっても、持参するには及ばない。すてること。
一、味方の怪我人は、できるだけ力を尽くして一緒に引き揚げることが大切だが、肩にかけても運び出せないような重傷者は、介錯してとどめを刺すこと。
一、上野介父子を討ち取った特は、合図の小節を吹くこと。そしてだんだん吹きついで全同志に知らせること。
一、引き揚げの合図は鋼鈍を鳴らす。
一、引き揚げ先は本所回向院(無縁寺)にする。もし寺側が寺内に入ることをゆるさない場合は、両国橋の東詰広場に集合すること。
一、引き揚げの途中、近所の屋敷から軍勢が出てきてわれわれをとめる場合には、まずわれわれの趣旨を告げ「われわれは決して逃げかくれはしない。無縁寺へ引き揚げて、ご公偶のご検分使を迎えて委細を申しあげるつもりだ。ご懸念があるなら、寺までついてきていただきたい。ひとりたりとも逃げる者はおりません」と挨拶すること。
一、吉良家から追手が来たときは、総員でふみとどまり、これと戦うこと。
一、騒動を知って、本懐を遂げる前にご検使がみえたら、門をしめ、ひとりだけ同志が脇門(くぐり)から出て挨拶すること。そのときは「もう仇は討ちました」と嘘をつき、生き残った人数をまとめて御下知にしたがいます」と応ずること。また「開門しろ」という仰せがあっても、門はあけてはならない。「いま同志の者が庭内にちらばっているので、混雑のあまりいかなるご迷感をかけるかわかりません。すべて集めた上で、門をひらかせていただきます」と応ずること。絶対に門をひらいてはならない。
一、引き揚げの時の出口は裏門とする。
以上は、主として引き揚げの際についての心得を述べたものだが、討ち入りの際の覚悟はもちろん必死でなければならない。それゆえ引き揚げ時のことばかり考えて、肝腎の討ち入りのことを忘れていたのではやはり本懐は遂げられない。どうせ引き揚げたからといっても、われわれの生命の保証はない。討ち入りの党悟は、「必死」を旨として、十分に働いていただきたい。
 これもまた実に行き届いた指示だ。大石内蔵助という別は底がしれない。昼行灯と呼ばれた時も、
「一体なにを考えているのかわからない」
 といわれたが、この 「心得」 には、完全にその低深い考えが文章になっている。

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