童門冬二著書
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          阿部正弘のすべて

■阿部正弘の開いた点

<本文から>
 この中にいくつかの正弘の切り拓いた道がある。
・人材を抜擢して適任を授けたこと。これにはいまでいえば身分を問わず有能な人物を登用して、適材適所の人事をおこなったということだ。
・現場の人間に権限を委任し、大所では束ねるが細いことにはいちいちロを出さなかったこと。これは全職場に対し権限を大幅に委譲したということになる。また、合議制、あるいは集団指導制を重んじたということでもある。
・言論の自由を保証し、意見具申の道を拓いたこと。これはとくにペリーが四隻の黒船を率いて浦賀湾頭に現れた時に、ペリーが持ってさたアメリカのフィルモア大統領の国書を和訳し、日本の全大名、幕臣、大名の家臣、あるいは一般人に対してまで「対応策にいい考えがあったら遠慮なく申し述べるように」と、情報の公開と、国民の国政参加の道を拓いたことである。
 阿部正弘は、備後福山藩主という譜代大名だったが、二十五歳の時に老中に列し、さらに二十七歳の時に老中首座(総理大臣)のポストに就いている。
 非常に温和な性格だったが開明政策を取り続けた。
 かれの事蹟は、政治的なものとして、
・鎖国制度をうち破り、日本を国際社会の一員に押し出したこと。
・具体的には、まず、安政元年(一八五四)三月三日に、ペリーとのあいだに「日米和親条約」を調印したこと。
・アメリカに引き続き、イギリス、ロシア、オランダとのあいだに次々と和親条約を結んだこと。
 一般に、
 「開国」
といえば、阿部正弘が死んだ後に大老になった井伊直弼がおこなったものと理解されている。しかし開国には二段階あった。
・最初は和親という、いってみれば日本と外国が仲良くしましょうという条約蹄結
・第二段階は、「貿易をおこなう」という通商を主体にした条約締結
の差があった。阿部正弘が結んだのは「仲良くしましょう条約」であって「貿易しましょう」という条約ではない。

■幕政に外様大名や水戸斉昭まで参加させた

<本文から>
 徳川幕府の政治は、開府以来譜代大名の独占であって外様大名は絶対に参加することができなかった。いってみれば、譜代大名は万年与党であり外様大名は万年野党だった。それを幕末に至って阿部正弘は、
 「譜代大名だけでは、いまの国難に対応することができない。外様大名でも有能な人物はどんどん幕閣に迎えるべきだ」
 といままで設けられてきた境をはずした。
 阿部正弘がとくに注目したのは、
 「大海に面した地域を管理する大名」
である。具体的には太平洋や日本海の大海に面した地域に拠点を持つ大名であった。たとえば、水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬、伊予宇和島の伊達宗城、土佐の山内客室、肥前佐賀の鍋島直正などである。いずれも太平洋や日本海あるいは玄界灘などの外洋に面した地域に城を構えていた。
 肥前佐賀の鍋島直正とはそれほど懇意にはならなかったが、他の大名たちとは阿部はしきりに泥懇の度を深めた。
 水戸の徳川斉昭は、当時、
「尊皇攘夷の総本山」
といわれていた。だからペリーがきた時も、
「断固討ち払うべし」
と叫び続けた。しかし正弘は巧みな工作によって切り崩しをはかった。斉昭に会い、
「第七男の七郎麿様を一橋家の養子にご推薦申し上げましょう」
と告げた。斉昭は目を輝かせた。一橋家は御三郷のひとつであり、場合によっては将軍になれる家柄だ。斉昭は阿部正弘を探るように凝視し、
(おまえの真意はなんだ?)
というような目つきをした。正弘は温和にわらい返しただけである。しかし正弘自身、かねてから七郎麿の英明さを噂としてきいていた。かれが仕えている第十三代将軍家定は、かならずしも英明な将軍ではない。補佐する身として、
「こんなことで一体国難を乗り切れるのだろうか」
という疑問を持ち続けている。したがって正弘は心の底では、
「次の将軍は必ず英明な人物でなければだめだ」
と考えていた。斉昭の七男七郎麿は一橋家に養子に入り、一橋慶喜と名乗るようになった。
 こうして下工作をととのえた正弘は、徳川斉昭に、
「幕政参与をお願いしたい」
と申し出た。幕府の最高顧問に抱きこんで、斉昭が持ち前の過激論を多少セーブしてくれることを期待したのである。

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